J=Lゴダールの『気狂いピエロ』(1965)など

 相変わらずの体調の上、これだけ暑くては寝転がっているのが良さそうだが、なにかやれば、多少は体調も上向くのではという淡い期待から、これを書いている。前回映画について書いてから、おそらく10本以上は見ているはずだが、書く気が起らない状態が続いていたが、今回ケーブルのシネフィルで「ピエロ」ほかゴダール関係を数本やったので、仕方がないからこれについてでも書くかということになった。実はゴダール(1930-)はあまり好きではないから悪口になりそうなのは分かっているし、これだけのいわゆる大物と言われている人について書くには、あまり作品をたくさん見ていない。
 とは言うものの大学生のとき『勝手にしやがれ』(1959)を見てずいぶん感激した。ともかく映画の新しさにおどろいた(「即興演出」「同時録音」「ロケーションの多用」)。まさに「ヌ―ベル・ヴァーグ(新しい)波」の代表作だった。今では多くの監督がマネをするようになったから、あまり新鮮には見えないが。
 無軌道な若者が主人公(ジャン=ポール・ベルモンド)で、ひどいスピード違反をやり、バイクの警官に追いつめられるとあっけなくピストルで射殺してしまう。筆者流にいえば「ニヒリズム」の世界への入場である。政治ものの映画を作るまで、全部は見ていないから断言はできないが、これが「ヌーベル・バーグ」時代の基本的な思想だろう。そしてこの「ニヒリズムの世界」のなかで、以後の事件が起こる。ちょうどサルトルやカミュなどの実存系の思想家、作家が流行していた時代だから、余計観客に受けたのだろう。ニヒリストがなにも殺人とか盗みとかをしなければならないなどといった理由はないが。ゴダールはそちらの方向に傾いてしまう。そしてこの処女作以来、映画の物語性をどうも意図的に薄めようとする感じがあり、それは時代がたつにつれて強くなっていくようである。画面はいいのに、せりふが次第に面白くなくなっていく。それが見終わってからの印象を弱いものにしてしまうようだ。いちばんよく見た『勝手にしやがれ』にしてからが、ストーリーをかなりあいまいにしか記憶していなかった。
 警官殺しのあと、パリに戻り、新聞売りをしている大学生の昔の恋人(?)(ジーン・セバーク)とよりを戻すが、どうもあまりしっくり行っていないところへ、警官殺しの犯人が分かってしまうので、仕方なく女性は主人公の居場所を明かしてしまい。そのため主人公は命を落とすというのが、残酷なあらすじである。
 そして、『気狂いピエロ』にくるまでに13本の映画をつくっているが、うちたしか6本の映画を見ているが、ストーリーを記憶しているのは1本もない。それに「ピエロ」が最初のカラー映画だったように思うし、たしかかなり人気を呼んだので、この映画のことが強く記憶に残っていたから、タイトルに選んだのだが、見直してみると、ストーリーはまるで『勝手にしやがれ』焼き直しで、映画技術は進歩しているようだが、せりふは乱雑だから、話の運びも乱雑になり、少しも面白くない。フランスで見たらしいので、行ってそうそうだから、ベルモンドが首のまわりにダイナマイトを巻きつけ爆破させた後の締めくくりの最後の言葉、たしか、「われわれは永遠を持っている」。「それは太陽と海だ」というような意味だったが、物語とうまくかみ合つているかどうかは、よくわからなかった。だから今となれば当時なんである程度は感心したのかも、よくわからない。
 それ以後マオイスム(毛沢東主義)の時代に入るが、この人のせりふの論理は通常のものではない。論理としてだけ見ても面白くもなんともない。これは、以前の時代にも言えるが、なぜかと思っていたが、どうもかなりひとりよがりの論理だかららしいと思うようになってきた。この意見を強めてくれたのは、ゴダールを出発点として映画を作り始めたヴィム・ベンダースの出演しているタイトルを忘れたドキュメンタリーの中のせりふ、「彼は現実を受け入れようとしない」といった意味の言葉だった。なんだ、同じことを考えているんだなと思った。これは、しばらく以前偶然に見たものの中にあった言葉である。
 どういうところへ話をもっていこうかと考えることなく始めたが、ここらにきてはっきりしてきた。処女作時代には感動を与えられたが、時代がすすむにつれて次第におもしろくないと思うようになった理由を見つけ出そうとしていたようである。どうも現実をほとんど無視し、あまりにも我流に映画のバックの思想、具体的にはせりふを考えすぎるので、しだいについていけないということになるらしい。 だいぶ以前に筆者のゼミで、ゴダールをテーマにした卒論を書こうとした女子学生がいたが、彼女自身はっきりした意見がのべられないので、ゴダールの哲学的知識を寄せ集めたような『新ドイツ零年』(1991)を一緒に見ようという提案をしたが、ビデオを持ってこないので実現しなかった。実はこの映画は、哲学の専門家から見れば、かなり立場の違う哲学者を平気で同列に並べ、なんの疑問も感じることなく勝手なことをいっている。もっとも、ほとんどが引用文だったと思うが。これで身勝手な論理をあばこうとしたが、相手には高級すぎたのだろう。かわりに、たしか「ゴダールぬきで20世紀は語れない」とかいうタイトルの雑誌を持ってきていたが、相変わらずゴダール狂は健在だなと思わされた。日本の文学者ほどひどくはないが、本場のヨーロッパの文学者や監督などで、哲学の知識がある程度でもしっかりしている人はほとんどいない。
 ゴダールもこのくちで、哲学のみならず、一般に思想といわれるものを、なまじ処女作で認められたために、あまりにも自己に引きつけて解釈する癖がついてしまっているらしい。これでははた迷惑なだけで、映画にしても、勝手なことばかり言われてはおもしろいはずもない。ゴダールファンは次第に姿を消すだろうが、わけもわからずやたらに難しそうなことをいっては悦に入っている人がけっこういるのは、相変わらず続くだろう。
 9月の初めころ書き出したが、前回と同じくなかなか進まないので、「暑い」という文句が最初のところに残ってしまった。

2010年9月中旬

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