エリック・ロメールの『冬物語』(1991)など

 ロメール(1920-2010)の「喜劇と格言」シリーズをケーブルで三本(『飛行士の妻』1981、『美しき結婚』1982、『海辺のポーリーヌ』1983)やったのをまとめておこうと録画して見ているうちに、どれかについて書こうかなと思って、シリーズのほかの三本(『満月の夜』1984『緑の光線』1986、『友だちの恋人』1987)をさがしたが、一番最後のがないらしいとわかった。一本欠けていても残りの5本を見て書くつもりでいると、ロメールの登場人物のせりふがどうも軽いなと感じるようになってきたので、「四季の物語」の四本シリーズ(『春のソナタ』1989、『冬物語』1991、『夏物語』1996、『恋の秋』1998)も見てしまった。先のシリーズは、「喜劇」という言葉が入っているから少し軽めになっているのかなと思ったりしていたが、「四季」のほうはせりふが前のものほど軽薄ではない。やはりそれだけ成熟したのだろう。このシリーズでは『冬物語』が気に入ったので、これにしようと決めたとき、ジャック・ドゥミ(1931-1990)の長編処女作『ローラ』(1961)もやっているのがわかり、これも似たようなストーリーだということを思い出した。ドゥミのほうも『シェルブールの雨傘』(1963)や『ロシュホールの恋人たち』(1967)なんかもやっていて、ついでに見たので、今回はこの文章のために12本の映画を見た勘定になる。
 『冬物語』と『ローラ』とは、十代で恋人の子供を懐妊するが、恋人と連絡が取れず、ひたすら恋人を待ち続ける話である。『シェルブールの雨傘』は、同じようなパターンだが、恋人は徴兵に取られて戦場にいる上、あまり連絡が来ない。おまけに夫をなくした母親が雨傘店を経営し借金に苦しんだりしているところへ、金銭的に豊かで懐妊も許容できる心の広い人物が現れて結婚を申しこむので、娘は心変わりをし、承諾する。あまり時間をおかずに逆のパターンの映画を作っているところに興味をひかれた。しかしどちらの映画も主人公たちが不幸にはならずに、各人なりの幸福な生活をおくっているという点では共通している。ローラは十代の半ばでの妊娠を告げると、恋人は若い上に金もないのでどうしたものかと思案のあげく、外国に行って一旗あげることにするが、出発以来音信普通で、ローラは町の場末の踊り子をして、あちこち転々としながら子供を育て、7年間もまったところで、待ち人来るで幕切れになる。もちろんその間に適当にあそんだりしているが。男のほうは長年放置したままだったので、戻ってきても間が悪くて三日ほど舞台のナントの街の様子をさぐってからやっと姿を現す。
 『冬物語』も、よく似た話で、バカンスの海辺でできた恋人の子供を懐妊しているとも知らず別れるが、女性のほうはきちんと自分の住所を知らせたつもりでいたが、あることから間違って教えていたことが分かり、なんとかしようとするが、相手の男もコックの修行中でたしかカナダの都市の名前を教えただけで姿を消したので、男からの連絡を待つしかない。子供は三歳くらいにはなっているから、ついに女はパリのどこかでバッタリ出会うことしか期待できなくなっている。女には二人のまがいものの恋人がいるが、一人と同棲してみて、やはり本来の恋人が忘れられないということが、判明する。もう一人のまがいものともつかず離れずの関係だが、結婚しようという気持ちはさらさらない。そんなこんなでウロウロしながら時間をすごしてきたが、偶然乗りこんだバスの前の座席に男は座っていた。男のほうが先に気づくが、男のほうも結婚していなくて、めでたくハッピーエンドである。出会いそうだという彼女の予感はあたっていたのである。
 ほかにもたしかロッセリーニだったかに『ローラ』と同時代のころの、待つ女がテーマの映画があったと思うが。ありふれたテーマのようで実際にはほとんどないことだから、映画にならしておきたくなるのだろう。『ローラ』のころでもそうで、人情の希薄さにますます拍車がかかるような時代になってきているようだから、ロメールまで作りたくなったのかもしれない。ボケそうな年齢になりながら、しっかりした映画をつくってきたロメールは、なかなか立派だと思う。

2010年2月下旬

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