F.W.ムルナウ『ファウスト(‘26)』など

 体調があまり整わないところへ、遅まきながら薬の副作用が出たらしくて、下肢ははれている上しびれていて、歩くと不快でかなわない。一応病気は治ったらしいからと、当分辛抱するしかない。
 映画はどれにしようか迷うが、それは比較的新作のものは全部といっていいほど、見ていられないからである。古いが、黒澤タッチを味わおうかと、小林正樹の『上位討ち 拝領妻始末』(1967)を見たが、予想通り既に見ていて、予想どおりあまり出来のいい映画ではなかった。
 しかたがないから、一度は見ておいた方がいいだろうと思って最近録画しておいた、フリートリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ(1888-1931)の無声映画『最後の人』(1924)、『タルチュフ』(1925)、『ファウスト(‘26)』(1926)を少しずつのぞいていくと、なかなかいいし、『ファウスト』まで来ると取り上げようと思った。
 だいたいサイレント映画はあまり見る機会がないし、見たと言えるくらい見たのはチヤップリンくらいのものである。ムルナウはドイツとアメリカで20本以上も撮っていて、最後のほうはトーキーらしいが、こちらの見たのは上記の3本のみである。『最後の人』と『タルチュフ』は比較的短くて、ストーリーも単純で、なるほどうまく映画化したなといった感じの映画である。
 『ファウスト』は110分もあるサイレントでは長い映画だが、話は単純といえば単純が、映画作りにふくらみを持たせている感じで、楽しめた。「ファウスト」といえば、誰もがゲーテの「ファウスト」を思い浮かべるだろうが、この映画は、ゲーテの作品のもとになったドイツの民間伝承をベースにしている。
 大天使と悪魔が地上の権力争いをしていて、高潔な優れた学者ファウストをとりこにしたほうが勝ちだということになる。つまり、字幕でも言われているように、「善と悪」の人間の自由な選択がテーマである。
 どうも、ファウストはあまりエジプトらしく見えないがエジプトにいたということになっている。ぺストが流行するが、ファウストの努力もむなしく、全国に蔓延するばかりである。この流行は悪魔のせいだということが画面で示される。宗教にも知識にも絶望したファウストはついに悪魔と契約し、悪魔の力でペスト退治をするのだが、病気の娘が胸に抱いていた十字架に近づけないのをみんなから怪しまれ、結局退けられる。
 悪魔曰く、お前のしてきたことはわずかばかりの学問だけで、この世の快楽を知らないものは、生きたとは言えない、と。それで、有名な若者返りが行われ、若者ファウストが誕生し、悪魔のはからいでイタリア一の美女と交情を深めるが、ファウストは満足したふうでもない。そしてドイツの故郷に返してほしい、と悪魔に嘆願する。故郷ではグレートヒェンと出会い恋に落ちるが、グレートヒェンは熱心なクリスチャンなので、悪魔はなんとかして二人の中を裂こうとし、グレートヒェンの兄に、この事態を知らせてしまう。そのため二人の決闘となるが、悪魔が兄を刺し殺す。死にぎわに兄は、自分のために死のミサをしてほしいということと、娼婦の妹をさらし台にかけるようにと遺言する。
 一度の交わりで妊娠してしまったグレートヒェンは、子供を出産するが、彼女の不道徳な行為のショックで母親も亡くなっているので、子供を育てようとすれば、物乞いをするしかないらしい。しかし「さらし者」になった以上、施しはほとんどなく、子供は死んでしまう。すると、子殺しだということになり、火刑に処せられることになる。途方にくれたグレートヒェンは、兄殺しのあと離れたところにいるファウストに呼びかける。
 悪魔のおかげでグレートヒェンの声を聞きつけたファウストは、ふたたび故郷に戻り、グレートヒェンに殉じようとする。この行為は、悪魔からすれば、大天使に味方することで、契約違反だから、悪魔はファウストを元の老人の姿に戻してしまう。しかし、火刑台の上まで登って来た老人の顔に若きファウストを認めたグレートヒェンは、安らかな気持ちで、ファウストとともに天上へとむかう。
 こんな風にストーリーを要約すると、いかにもおとぎ話めいていそうだが、画面で見ると、ずっと現実味をおびて見え、心が少し温まる感じである。
 まだわずかしか見ていないので、機会があればムルナウを見続けるつもりである。

2010年1月中旬

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