黒澤明の映画(4)『羅生門』など

 今度の4回目で、黒澤さんがきわめて黒澤明らしくなる、金がかかってメリハリがきいた『羅生門』までやっとたどりつくことになる。東宝争議の結果「映画芸術協会」という同人組織(山本嘉次郎、成瀬巳喜男、谷口千吉、黒澤明)をベースに当分黒澤さんは東宝を離れて仕事をすることになる。すでに『静かなる決闘』(1949)は大映で撮っているし、『羅生門』(1950)の前の『醜聞(スキャンダル)』(1950)は松竹で撮っている。
 『ガマの油』(黒澤明著)によると、『醜聞』の着想をえたのは、電車の広告かららしい。当時からすでに雑誌などは、販売作戦でスキャンダルをでっちあげ、抗議が出ると新聞に謝罪文を出すが、これは小さな記事になるだけだから、販売効果だけが絶大になりさえすればいいとする風潮が出てきたころのことである。そして、そういう「やくざな言論」と戦うために、『醜聞』は作られたが、そういう風潮はいっこうに阻止されず、今にいたるまで続いているようだが、黒澤さんだとてそこらは心得て映画を作ったにしても、作品があまりさえないのでは、あまり効果もあがるまい。新進の画家(三船敏郎)と有名歌手(山口淑子)との偶然の出会いを週刊誌がスキャンダルにでっち上げることが話の始まりだか、それへの抗議にからんで登場する悪徳弁護士(志村喬)は話を示談にして金で収拾しようとするが、画家と歌手が訴訟を起こし、悪徳弁護士は善良そのものの結核の娘の死を契機にして被害者側につくことで勝利をもたらすという、たあいもないようなセンチメンタルな話である。黒澤さんの初期の作品としては『静かなる決闘』とならんで有名でない作品だが、そうなっても仕方がない。出来上がりがよくないからである。
 1950年後半大映で撮影された『羅生門』は、ヴェネチア映画祭でグランプリを取り、黒澤明を一躍世界的な映画作家として認めさせた作品である。原作は芥川龍之介の『藪の中』だが、「内容が難解」ということで、なかなか会社から撮影の許可がもらえなかったらしい。筆者はいつ最初に見たかははっきりとは覚えていないが、多分高校生のころで、一応理解できたものの、その年齢なら十分な理解は無理である。その後『七人の侍』より回数は少ないにしても、十数回は見ている。たしか昨年の夏休みに入るまえにも学校で見せた。だから今回テレビでの見直しは、画面が小さいこともあり頼りない感じがした。
 テーマは、人間は自己の名誉や利害に関係のあることに関しては、自分に都合のいいような話しかできないという、古くからのものだが、こういうかなり食い違ってはいるが、重なり合っている部分も多いストーリを繰り返す作品については、映像で見せるほうが、文章で語るより有効だろう。おまけに大映でのことだから名キャメラマンの宮川一夫を使えるという利点もある。新しい試みがいくつも実験されただろう。
 話は平安時代の殺人事件で、京の山中を通りかかった武士夫婦(森雅之、京マチ子)を、盗賊の多襄丸(三船敏郎)が襲い、妻をレイプし、夫を殺害するというものだが、三人が三様に事件を語るほかに、事件を目撃した木こり(志村喬)の話も入れて、なんとか映画としての長さになったとのことである。もちろん夫は死者だからイタコに乗り移って語るという形式になる。
 半壊状態の羅生門の巨大なセットと大雨の中で、検非違使庁での話の食い違いから、「分からない、分からない」と人間不信の念をこめて羅生門で雨宿りをしているふたりの男(僧侶と木こり)はしきりと嘆くのだが、後からやってきた通りすがりの男は、どうやら現場をおおかた見た木こりが、武士の妻の持っていた短刀をくすねたらしいということを見破ってしまうので、なおのこと「人が信じられなくなった」と坊さんが不信の思いを強くする。すると羅生門の隅っこに捨てられていた赤子が泣き出し、通りすがりの男が赤子の衣類をはぎ下着だけにしてしまったところで、木こりが言う。「家には子どもが六人いる、六人でも七人でも」子育ての苦労は同じからだと言い、赤ん坊を拾っていく。その仏心に僧侶は救われた思いがし、木こりも盗みの償いができたのだろうと観客が納得するところで、映画は終了する。
 黒澤さんは、この作品がヴェネチア映画祭に出品されていることすら知らなかったらしい。製作に当たっては、さんざ文句をつけたらしい当時の大映の社長は、テレビで『羅生門』が放映されたとき、「この作品の製作を推進したのはすべて自分である」とまくしたてたのには、あきれたと『ガマの油』は語っている。作品で描いた「人間の性質の悲しい側面」を製作の責任者に見せつけらるとは、皮肉な話である。
 ともかく、敗戦後五年だから、まだ腹をすかしている人が多く、木こりのような貧乏人の話には身につまされる思いだったということと、その作品の受賞と数年後の湯川秀樹博士のノーベル物理学賞の受賞とが、自信をなくしていた当時の日本人にはずいぶん励みになったということを、今回の再見で思い出した。

2006年2月下旬

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