黒澤明の映画(3)『酔いどれ天使』など

 やっと病気の治療は終わったが、体調との関係で最後のは二週間延期されたため、今月の半ばころが最終回ということになった。すごい荒療治なのでだいぶ緊張していたとみえ、終わるとアルコールの飲みすぎのせいもあるが、数日間はダウンしてしまい、使いものにならない。そのあと三日は学校に行ったが、それがすんで年賀状を作ってから、この稿を書いている。映画はなじみのが多いが、一応見直してからでないと書けない。見終えたので、遅くなったが忘れないうちに書いてしまおうというわけである。
 今度は『蝦蟇の油』(黒澤明著)がやっとみつかったから、それを読めばよさそうなものだが、どうもまどろっこしい感じの文章なので先送りにして、佐藤忠男氏の「解題」をのぞくと、これまたまどろっこしいので拾い読みしていたら、こういう文章があった。「植草圭之助と黒澤明は、肺を病んでいる自暴自棄のやくざと、彼を治療しようとするヒューマニストの医者との物語という基本的な構想を立てた。三人(上記二名の以外のプロデューサーを含む)はひきつづき各地の闇市の実態調査をつづけ、多くの人に会った。その過程で黒澤明は、闇市のオープンセットの三分の一ほどを沼にしてしまおう、というプランを立てた。汚いどぶ沼であり、メタンガスがぶくぶくわき、さまざまなゴミが浮かんでいるというものである。これが敗戦後の日本の社会と人間の汚濁と混乱を象徴する風景となった」
 もちろんこれは『酔いどれ天使』(1948)の背景説明である。闇市の長い説明もあったが、なるほど説明をしないと分からないだろう。なにもかもが配給の時代だが、闇市に行けばなんでもあり、そこにヤクザが群がっているという仕組みである。そのヤクザの一人(三船敏郎)は当時ひどく恐れられていた結核を病んでいる。そして「酔いどれ天使」の医者(志村喬)のところに傷の治療に行って医者に結核を見破られるところから話が動きだす。医者は大きな病院でレントゲンを撮るように勧め、ヤクザはそれを実行するが、むやみと酒好きの上、むやみと怒鳴る医者が苦手で、なかなか素直になれない。医者が怒鳴るところでは何度も吹きだしたが、どうもここらは脚本の相方植草圭之助の功績ではないか(植草は黒澤の小学校以来の友人らしい)。やっとヤクザが医者の言うことを聞きだしたころ、兄貴分のヤクザが出獄してきて、もと復員兵の結核病みのヤクザの縄張りや恋人まで奪ってしまいそうになるので、それを阻止しようとして逆襲され、命を落とすことになる。ちょっとここらがあまりにも短兵急になっていて、物足りない感じがする。このヤクザ病人と対照的なのが、久我美子演じる中学生くらいの患者で、これは医者の言うことを守って完治する。こういう構図は今の方がよく見えるが、発表当時は三船のニヒリスティックな演技が好評だったらしい。今みるとやくざの方は救いようがなくて、中学生でほっとする。もっとも現在の中学生なら、見ているだけで「救われる」という感じにはならなくて、「いやになる」のではないかと思いそうだが。
「三船は、それまでの映画界では、類のない存在だった。特に表現力のスピードは抜群だった。分かりやすく云うと、普通の俳優が十フィートかかるものを、三フィートで表現した。動きの素早さは、普通の俳優が三挙動かかるところを、一挙動のように動いた」、と黒澤が評している三船が、以後『赤ひげ』まできわめて重要な役割を果たす俳優になる。
 『静かなる決闘』(1949)も、三船主演だが、こちらはひどくくそ真面目な映画で、『わが青春に悔いなし』と同様見ているだけでシンドクなってくる感じである。南方の戦場で軍医だった主人公の医者は、戦場近辺での手術中患者に使ったメスで自分の指を切り悪性のバイ毒をうつされる。十分に治療ができなくて医者の病気もひどくなり、日本に戻ると心配で婚約者と結婚することもできず悩むといった話だが、どうもまじめくさっているだけで、ちっとも面白くない。時々出る黒澤さんの悪癖のような映画である。そういえば、これも黒澤流だが、どうも医者好きらしくて、この二本も1960年代の『赤ひげ』も主人公は医者である。ほかにもあったかもしれない。
 『野良犬』(1949)が、今回の映画の中では一番できがいい。進歩したのだろう。『酔いどれ天使』と同じく復員兵が、今度は新米の刑事になっている。暑い夏の盛りに、この刑事(三船)は拳銃の練習帰りに、バスの中でコルトを盗まれる。夏といっても戦後四年目でもちろん冷房などある時代ではない。扇風機があるところはいい方である。したがって猛烈な暑さのなかで話は進行する。
 盗まれたコルトで強盗が行われ、けが人がでる。新米の刑事は神経質になり、必死になってなんとかコルトの行方を追おうとする。街を歩き回っている場面ではいろんな音楽が流れていて、この場面も子どものときに見たという感じがした。発表当時叔父に連れられてこの映画を見ているのは以前に書いた。ひょっとしたら『酔いどれ天使』も見ているかもと言う気もするが、こちらは偽の記憶かもしれない。
 結局年長の刑事(志村喬)と組んで、犯人を追うことになるが、しだいに分かってくるのは、犯人(木村功)はこの新米の刑事と同じく復員してきた帰りの汽車の中で彼らの全財産であるリュックを盗まれ、犯人はヤケを起こしとんでもないことをする。しかし、もう一方は刑事になっているが、犯人の気持ちも分からないではないという設定である。同じコルトでついには殺人も行われ、犯人を追い詰めたところで上役も撃たれ、新米刑事はますますあせる。最後は犯人の幼なじみの踊り子(淡路恵子)の通報で、犯人が駅でその女を待っていることが分かり、新米刑事は撃たれながらもついに犯人を逮捕し、コルトを取り戻す。強迫的な行動を取っていたらしい犯人は逮捕の際に、解放されたように嗚咽する。上役の刑事が言っていたように、若い復員兵たちの出発点は同じでも、以後の歩みはずいぶんかけ離れたものとなったわけである。これは学生たちにも一度見せたことがあり、駅で犯人を見分ける際の決め手になった、雨の中に飛び出した犯人の衣服への泥のはねかえりが背中にまで及んでいるのを見て、一人の学生が吹き出した。誇張だと思ったのだろう。しかし、当時は舗装されている道路の方が少なかったのだから、誇張でもなんでもない。
 こういうことにも、説明が必要なのだから、ずいぶん時間が流れたことになる。

2005年12月下旬

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