B.ベルトルッチの「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)など

「ラスト・タンゴ・イン・パリ」という映画自体は古いけれど、実際に筆者が見たのは、おそらく15年ほど以前で、それから一度は見直したという記憶はあるが、たしか先々週くらいにWOWOWが、三本立て続けにベルナルド・ベルトルッチ(1941- )の作品を流したのでまとめておこうと、もう一度録画することにしたが、一本は忘れていてできなかった。しかし、「ドリーマーズ」(2003)という新しいのはすぐに見て、ついでに「ラスト・タンゴ・イン・パリ」も見て二三日すると、筆者の病気の二回目の治療がありかなりつらかったで、今回分の黒澤さんの映画は見る気が起こらないまま日にちがたってしまった。先週は学校で授業したのでよけいつらい気分のところへ、三回目の治療が追い討ちをかけた。これではますますダメなので、ベルトルッチにしようと思ったが、これもいざ書こうということになると、もう一度見直す必要がある。ボケッと見ていたのでは感想は書けない。見直したら案の定記憶から抜け落ちている部分がかなりある。年を取るのはいい面もあるが、記憶に関してはまるでだめで、よほど感激でもしないかぎりあまり記憶には残らないらしい。たいていのものはほぼ完全にストーリーを忘れてしまう。出だしを見直すと思い出しはするが、良し悪しさえ記憶しておけばいいと思っているのもその原因だろう。短期間に多量の映画をこなす知恵だったのかもしれない。
友人の話では「ラスト・タンゴ・イン・パリ」が発表されたときには、大胆な性表現が話題を呼び、「芸術かワイセツか」と騒がれたそうである。友人は、フランコ政権下のスペインの昔のバスクの首都にいたので、国境を越えわざわざフランスまで出かけて見たそうである。監督の祖国イタリアでも、しばらくして上映禁止になったとのことである。筆者も15、6年以前に始めて見たときは、やはりあまりあからさまなのに少し驚いたが、もう露骨なのはますます当然という時代になっているのだから、今ならポルノグラフィーまがいのでもやらないかぎり、どうということはないだろう。インターネットがポルノを蔓延させているからである。
パリのパッシーという地下鉄の駅の周辺が舞台である。筆者が昔大学院生の時代に暮らしていた地下鉄トロカデロ駅のエトワール(凱旋門のあるところ)へ向かって一つ目の駅なのでなつかしい。パッシーの駅付近で、中年のアメリカ人(マーロン・ブランド)と若いパリの娘(マリア・シュナイダー)とが借りようとしているアパルトマンで鉢合わせをし、そこで行き掛かり的に性関係をもつ。中年といっても老年の方が近い男は、フランス人の妻に自殺されたばかりで、さびしがっていたということが、後で分かってくる。若い娘の方は婚約者のような男がいるのに、翌日も関係を持った男が借りることにしたらしいアパルトマンに再び出かけていく。男の自殺した妻には、愛人がいて、愛人は妻の経営する安ホテルにいる男だということを主人公の男も知っていたということが、やがて明らかになってくる。いわばヒモ的なアメリカ男は、妻に理由不明の自殺をされて、かなりまいっている。どうも惚れこんでいたらしい。それで、その自殺に懲りてか、娘相手の時には、男は名前も身元のてがかりになりそうな事柄はいっさい教えずに、情事だけを楽しむのだ(「空しいセックス」)という態度を崩さない。しかし、娘は毎日のようにそこに現われ、最後から二度目の訪問のときには、結婚衣裳の試着の後婚約者の前から姿を消してから現われるという執着ぶりである。娘の最後の訪問の時には男の家具などは姿を消している。そこで娘は、突然の別れを惜しみながら涙を流し、守衛の女性にことの次第を尋ねるが、守衛はなにも知らない。そこで仕方なく娘が帰ろうと駅に向かって歩き出すと、突然背後から男が現れ、同棲しようと声をかける。そして、今度は身元も明かす。しかし、娘にとっては謎の男だからこそ、その男は魅力的だったらしく、男の申し出をことごとくはねつける。男は執拗に後についてきて、一緒にレストランに入ってアルコールを飲み、娘を口説き続けるが娘の態度には変化がない。それで男は娘の家までついていく。思いあまった娘は、家にあったピストルで、男を撃つ。男はその家のベランダのところで絶命する。最初から最後までまず四五日のあいだの出来事である。当時のベルトルッチは、三十を過ぎたばかりだが、かなり早熟な人だったに違いない。発表当時見ていれば、筆者は監督より一才年長だが、十分に理解できただろうか、と思う。
映画としては成功作だとは思えないが、よくぞ作ったものだ、と感心する。あるいは、大金を払った甲斐があってM.ブランドにずいぶん助けられたのかもしれない。
次は最近作の「ドリーマーズ」(2003)についてだが、場所は筆者のいたトロカデロのフィルムライブラリー<シネマテーク>から、始まる。時代はパリの五月革命(1968)のさなかの出来事で、主人公の一人は、ラスト・タンゴと同じくアメリカ人だが、今度はやはり孤独な若い留学生である。そしてcinefil(映画狂)のその若い学生が、五月革命のさなか同じシネフィルのフランス人の双子の男女と知り合うところから、映画は始まる。テーマはラスト・タンゴと同じ性の問題である。知り合った直後、フランス人たちにシネフィルっぽい映画についての知識を試された若いアメリカ人は、相手の男女の家(アパルトマン)に招かれるが、翌日双子の両親は旅行にでかけ、三人の若者だけが取り残される。二人のフランス人は、この機会を逃す手はないという調子で三人の関係を前進させる。この双子の兄弟はいつも一緒に寝ているらしいが、性的関係はないのに、まるで本物の恋人同士以上の強い精神的な絆で結ばれている。そのあいだに入りこむことを許された若いアメリカ人は、姉に恋愛感情を抱き、性的な関係をもつが、姉と弟二人の結束は異常なほどに固く、結局は精神的にははじきだされるようなハメになる。そこで、このアメリカ人は、二人の関係があまりにも閉鎖的で、なにも生み出さないことを指摘するので、二人は五月革命に積極的に参加することで、その閉鎖性から逃れだそうとするが、ベトナム戦争をやっているアメリカの若い留学生が、暴力を否定するようなことを言ったとたん、火炎瓶を投げようとしている二人から完全に締め出しを食うことになってしまう。
ほぼラスト・タンゴと同じテーマだし、「ルナ」もこの部類に入るだろうが、早熟な人には老成ということがないらしい。一応まとまってはいるが、それだけという感じである。

2005年11月中旬

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