黒澤明の映画(2)『虎の尾を踏む男たち』など

 本稿では、『虎の尾を踏む男たち』(1945)、『わが青春に悔いなし』(1946)、『素晴らしき日曜日』(1947)の三作を扱う。
 『虎の尾を踏む男たち』は、第二次大戦中から戦後にかけて撮られたのに、まだ内務省が存続していて、アコギさを黒澤が非難したのが影響して、実際に上映されたのは1952年になったといういわくつきの映画である。今回も「ガマの油」が見つからず、佐藤忠男氏の『黒澤明解題』を覗いていたら、ストーリーの的確な要約があったので拝借しておく。

 「将軍頼朝の命令で、逃亡中の義経主従を捕らえるためにつくられた関所のひとつ、富樫(とがし)が守る安宅(あたか)の関に、義経主従が山伏に身をやつして通りかかる。山伏なら勧進帳があるはずだと言われて、弁慶(大河内伝次郎)は白紙の巻物を出してまるでほんものの勧進帳のように読み上げる。それでもなお、強力(ごうりき)に変装した義経が疑われると、弁慶は義経を叩きのめす。富樫は彼らを義経主従と見ぬきながら、弁慶の忠誠と機知と胆力に感動して腹芸で関所を通してやる」

これで分かるように原作は歌舞伎の「勧進帳」である。ちなみに若い人のために注をつけておくと「勧進」とは寄付のことで、この場合は南都東大寺への寄付のことである。歌舞伎と異なるのは、喜劇役者のエノケン(榎本健一)が狂言回しのような役回りで登場していて、重苦しい雰囲気を和らげる役割も果たしているという点である。大河内伝次郎の歌舞伎風の演技が絶妙で、演出もさることながら、伝次郎のためにこの映画は一時間程度と時間的には短いのに、スケールの大きい映画だという印象を残す。それから、関所通過の後「迷惑をかけた」という口実で富樫が届ける酒肴の伝次郎の飲みっぷり、酔いっぷりは天下一品で、そのことも関所通過後の安堵感を見事に現していて、喜びもひとしおという感じが、なおのこと強まる。黒澤さんの最初の傑作だと、ためらうことなく言える。大河内伝次郎と言えば、黒澤さんの映画ではないが『丹下作膳』もすごく印象に残っている。
 戦後第一作の『わが青春に悔いなし』は、純然たる左翼ものではないにしても、一種のイデオロギー映画で、そうした意味で一所懸命作っているわりには、面白くない。主人公(原節子)ががんばっているところでは、見ているほうもシンドクなってくる。今回この文章のために、多分三度目四度目の鑑賞になったはずだか、印象は変わらない。京大の滝川事件をヒントにしているのは、誰にも分かることだが、黒沢明は『ガマの油』で「軍国主義に無抵抗であった」ことを認め、こんなことを言っているらしい。

  「私達日本人は、自我を悪徳として、自我を捨てることを良識として教えられ、その教えに慣れて、それを疑うことすらしなかった。
私は、その自我を確立しない限り、自由も民主主義もない、と思った。
戦後の第一作『わが青春に悔いなし』は、その自我の問題をテーマにしている」

 以前に『ガマの油』を読んだ印象では、黒澤さんは、文章はあまりうまくないなという感じだったが、この文章をとやかく言うつもりはないが、黒澤さんが『ガマの油』を書いた時点でも、西洋人の「自我」は無理としても、日本的な「自我」すらできあがっていたかどうか、と思う。ずいぶんと後でacountabilityなどということも問題になったりしたわけだし。なまじしっかりした「自我」などもっていたら、今の日本ならなおさら生きにくいのではないか。「自我」の表現の仕方を主に考えてのことだが。しかし、戦後の時点では「希望」や「夢」ならいくらでもあったということが、黒澤さんの文章からも分かる。
 今度は『素晴らしき日曜日』だが、これは多分15年ほど以前に見て、つまらない映画だと思い、以来見たことがなかった。しかし本稿のために見直したら、けっこう落ち着いていて、悪くないという感じがした。それへの反動か『わが青春に悔いなし』のほうが余計つまらなく思えた。東宝争議のため、多くの俳優が移動したため、東宝は安上がりで有名俳優は使わない映画を作らなければならなくなったらしい。それで、バイプレイヤー級の人たちが、この映画の主人公を演じている。
 貧しい恋人同士が、借家を借りるお金もないので、結婚できずにいる。映画の日の日曜日も、二人で35円しかもっていないのだから、ほとんどなにもできない。金のかからないことで時間をつぶしてから、演奏会に行こうとするが、安い入場券は、ダフ屋が買い占めて、二人には買えない値段になってしまう。あげく、男性の部屋まで女性もついてくるのだが、たしかにここいらは佐藤氏のいうように現実感がある。特に結婚までは性交渉をもたないというかなり後まで続く風習が、ふたりの関係をギクシャクしたものにするが、そこらあたりがひどく生々しく描かれている。
降っていた雨も上がり二人は日比谷公会堂らしいところへ戻り、空想上の音楽会をやり、ふたりだけの充実感をえたため、その日は「素晴らしき日曜日」になったといわけである。地味な映画だが、後の黒澤の現代映画に出てくる要素の基本的なものがだいたい出揃っているという感じだった。昔の評価は間違っていたことが判明した。やはり映画は、少なくとも二三度見ないと分からない。

2005年10月中旬

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