二、三のトリュフォ

たしか先週BS2で四回、フランソワ・トリュフォ(1932-1984)の映画を夜中に流していた。「ピアニストを撃て」(1960)、「夜霧の恋人たち」(1968)、「終電車」(1980)、「日曜日が待ち遠しい」(1983)の四本である。録画したのがばらばらだったのならすでにあるのだが、四本まとめて見てどんな感想を抱くかと思って録画することにしたが、初日はうっかり忘れて、二日目からということになった。 最初に見たのは最後の「日曜日が待ち遠しい」で、これはスリラー映画のようなもので、以前に一度見たことがあるが、今度も途中からあまり興味がなくなってしまってどうなったかも覚えていない。少し酒も入っていた。「夜霧の恋人たち」は、まあ若者についての恋愛映画ならこんなものじゃないかという感じだったが、最後にずっと女性をつけまわしていた男が、恋人たちの前に現れて女性に対する愛の告白をした。それでしばらくトリュフォは見ていなかったが、彼の映画のほとんどに現れるいわゆるエディプス・コンプレックスらしいもののことを思い出した。次の「終電車」はナチスドイツ占領下のパリで、地下室にユダヤ系の夫を隠しながら、けなげにも劇場の経営に当たっている女優(カトリーヌ・ドヌーブ)の話だったが、芝居のオーディションで選んだ男優(ジェラール・ドパルデュ)と最後には仲良くなり、首尾よく見つかりそうになった夫を救うという形で決着がつくのだが、最後に俳優と夫を左右に並べて、手をつないで観客にお辞儀をしている場面でしめくくられるのを見ていて、むしろ一人の女性と二人の男性の関係に絞られるパターン化されたストーリーの今後のことが心配になってきた。
それで、そのことから「隣の女」(1981)という気にかかる映画のあったことを思い出し、たぶん三度目の見直しをした。「終電車」の翌年に作られた映画で、まるで「終電車」の続編のような映画だった。とある田舎町に中年の夫婦が住んでいて子供も一人ある。旦那(ジェラール・ドパルデュ)は造船関係の仕事をしているらしい。ところが、隣家に夫婦が引っ越しをしてくるのだが、実は、この夫婦の妻(アルデーヌ・アルダン)の方は造船技師のかつての恋人だったという設定である。隣の女には、子供はいないし、夫とも少し年齢が離れている。しかし、このことはこの映画の本筋とは本質的な関係はない。昔は、うまく行かなくて別れてしまったもとの恋人どうしが、よりを戻してしまうことが、この映画の本質なのである。もちろんさっき言った一人の女と二人の男の関係である。どちらも、一時は相当迷い、さすがに中年の男女だから配偶者や子供などのことも考えて行動しようとするのだか、いろいろあった挙句、どうしても縁を切れないと知った女はとんでもない決断をする。性交中に男の頭をピストルでうち抜き、その弾が同時に女自身のあたまをも打ち抜くように撃つ。愚かな悲惨な話である。しかし、この女にはこれ以外の解決は思い浮かばなかったのだろうと観客に思い込ませるだけの説得力はある。
そもそも一人の女と二人の男の関係の問題は、「大人は判ってくれない」(1959)以来トリュフォの引きずっている問題で、トリュフォとおぼしい主人公の母は義父と結婚していると言う状態にありながら、義父も子供も大切にすることなく、義父の方もスポーツで遊び暮らしているという感じだし、母親にいたっては不倫までしている始末である。こういう親の愛情の薄い頼りにならない両親と暮らさざるをえなかった「不良少年」は、「隣の女」のような人を仰天させるような映画を作らざるを得なかった原因をとっくの昔にもっていたのである。「あわれ」と言うしかない。

2005年7月中旬

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