岩井俊二あれこれ

岩井俊二(1963- )という監督の名前を知ったのは、今から10数年以前のことである。WOWOWで特集めいたものをやったのを見て、ひさしく出てこなかった才能のある人が現れたと、喜んでいた。それからたしか二年ほどして長編映画「スワロウテイル」をテレビで見た。
 今度こんなことを書こうとするのは、先月ケーブルテレビの日本映画専門チャンネルで、これまでに作られた4本の映画も含めて、1991年以来の作品が、おそらく全部放映されたからである。ところが、録画しておいたのを逐次見ていったが、少なくとも1992年までの短い作品群はまだ未熟な感じで見る気になれず、早送りになってしまった。以前のWOWOWのときは、1993年以後の短いのをつまらないのもあったけれど一応は見ることができたのだが、こんな調子では失望するかもしれないと思って、話を4本の長編映画に限定することにした。時間の関係もある。
 最初にみた「スワロウテイル」(1996)は、整然としていて機械化されたような都会の外というよりアジアの都会のように貧富の差がはげしく、庶民が地べたをはいずりまわって生きているような地域(円都=yen town)が東京の一部にあると仮定し、そこで金儲けをしてのし上がろうとする在日の外国人たちの物語なのだが、大体はうまく進行していたのが、終わりのほうでかなり破綻するが、なんとか締めくくったというような終わり方だった。まだまだだな、と思った。
 その後「Love Letter」(1995)をやはりテレビで見たが、こちらのほうが完成度は高いので、「スワロウテイル」の後の作品だとばかり思っていた。これは、韓国では200万人の観客を動員した、とたしか新聞で読んだ。筆者はあまり感心はしなかったが、終わりまで見ることができた。まあこれからは知らないが、これまでならイチオシの映画だろう。それから、「リリイ・シュシュのすべて」(2001)だが、これは中学生のひどいいじめが、いじめの親玉に死となってはねかえってくる、という救いのない嫌な感じの映画だった。最後は「花とアリス」というたしか高校一年生二人が主人公の映画である。岩井俊二の説明を部分的に見たが、記憶喪失という着想が浮かんで、映画にしようと思ったらしいが、どうしようか迷っているような時にはそんな単純なこともきっかけになるのだろう。たしか花の落研の先輩がころんで少し気を失ったのを見て、「あなたはそのため記憶喪失になったが、その前には私の恋人だった」という花の言葉がきっかけで、いわば話が展開する。そして先輩のほうは、そのことをいぶかしく思いながらも逆にアリスにひかれていくのだか、結局花が嘘を自白することで終わるというたあいもないと言えば、たあいもない話だか、そういう話でも一応は、最後までひっぱっていくだけの力は持っているのである。
 4本の映画を見てきて、確かに撮影技術あれこれなど、次第に進歩してきているのはわかるが、映画はもろもろの部分から成り立っていて、それらを最終部に向かってなるだけぎくしゃくすることなく、うまく結び付けていくという点では、この人にはいつもいくつかの欠陥があるというのが、率直な感想である。口幅ったいことをさらに言うと、もっと緻密な計算がないと、十分に満足できないし、傑作と呼べるものが、まだ作れない原因もそこらにあるのではと推測している。
 それから今度4本を続けざまに見て気づいたことだが、「スワロウテイル」は若い外国人が主役だか、後の3本は、中学生か高校生が主役である。「Love Letter」は一応成人した男女の恋愛の話ではあるが、いわば死んだ恋人が主人公の女性に一目ぼれした原因を、その男の中学時代にさかのぼって探求するという形でストーリーは展開するわけだから、やはり中学生の物語だということになる。30代の終わりから40代の始めの監督の映画のテーマが、これだけ、中、高時代に集中するとなると、どうも今の時代はなかなか大人になれない時代なのかなと思ったり、あるいはその時代に集中せざるをえない内面的な事情でもあるのかな、と考えたくなる。ちなみに、偶然見ていた「野良犬」という復員してきて刑事になった若者が主人公(三船敏郎)の映画でも、大人の上役(志村喬)もきちんと描けている。1949年の作品だから、黒澤明39歳前後の仕事である。もちろんその前から大人も描いていたが。 ともかく、なるだけ早い大成を、日本映画のためにも祈っている。

2005年8月中旬

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