黒澤明の映画(6)『蜘蛛巣城』など

 年譜を見まちがえていたらしく、『生きものの記録』(1955)と『蜘蛛巣城(くものすじょう)』(1957)以前の1954年に『七人の侍』が作られていたことを、完全に失念していた。黒澤さんの最高傑作だと思っているのに、なさけない話である。どうも入院のことが気がかりだが、今回は書くつもりでいて、見なければという念が先立ったせいらしい。まあしかし、『七人の侍』については何度か触れているので、今回はとばしたままにしておく。
 『生きものの記録』は水爆の恐怖にとりつかれた男の物語だが、例によって佐藤忠男著『黒澤明解題』をのぞいていたら、当時アメリカがしきりに水爆実験を行っていて、54年3月には南太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁で大がかりな実験をし、予想以上の結果が出て、「死の灰」を含む雨が降ったり、第五福竜丸が危険区域外で被害にあったことなどしきりに新聞で報道されていたことを思い出したりした。テレビがまだ普及していないころのことである。
 もっとも映画自体は黒澤明の悪癖丸出しという感じの映画で、観念だけが先走って、映像がしっかりついてきていないシナリオのようだし、映画のできも左に同じということである。これはさすがに評判も悪くあまりお客もつかなかったらしい。主人公の老人(三船敏郎)はかなり大がかりな鋳物工場の経営者だが、水爆の恐怖から逃れるために、工場を売りはらってブラジルへ一族郎党を引き連れて移住しようという一念にこり固まってしまう。しかし、工場で働いている息子たちもいるわけだし、三人のメカケもいて、その関係者たちのことも心配だから連れて行きたいなどと言いだすので、親族から準禁治産者にされてしまう。工場がなくなればあきらめるだろうと、老人は工場に放火するが、そこまでくれば、当然ながら精神病院入りということになる。どだいご当人の思いこみだけで映画をつくろうなどというのは無理な話である。つくる以上は、それなりの工夫がなければ、見ているほうはシンドイだけである。以前の『白痴』と同じで、気持ちはわかるだけに無視もできないという感じになるからである。
 さて後の『蜘蛛巣城』は、シェイクスピアの『マクベス』の時代劇への翻案映画である。こちらはなかなかのものだと思うが、『生きものの記録』を見た直後だから、余計和製マクベス(三船敏郎)とマクベス夫人(山田五十鈴)の言動が気にかかる。実を言えば、シェイクスピアの『マクベス』を読んだことはあるが、もう一度読み返している余裕はない。だから、原作との比較の仕様がないのだが、モノノケの予言を真に受けて、自分が将来の領主になると信じたマクベスが、妻のそそのかしを受け入れ自らの館に泊まった領主を暗殺する。そして、その結果自らも破滅してしまうという悲劇だが、黒沢版マクベスは、マクベスもマクベス夫人も根っからの悪人というわけでもなく、自らの欲望に負けて、暗殺を実行するが、暗殺の結果さらに殺人を犯さざるを得ないハメになる。しかし、自らの罪の重さに押しつぶされたような形で、自滅してしまう。もちろん、シェイクスピアの戯曲にあった、城のそばの森がうごきだすようなことがなければ、マクベスが敗れることはないというモノノケの予言は実現されるのだが、黒澤さんも先の『解題』に引用されている対談で、マクベス夫妻の精神的弱さを強調するという旨のことを、言っている。そういう意味では、『生きものの記録』の主人公と同じく、自らの思いこみによって敗れるという点は共通しているとも言える。しかし、作品としての出来具合からすれば、『蜘蛛巣城』のほうがはるかに優れている。

2006年7月中旬

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