新藤兼人『ある映画監督の生涯』

 どうにも暑い。たいていはエアコンなどない格別な猛暑の中のヨーロッパにいる友人たちのことを考えれば少しはマシとでも思うしかない。予定では病院にいるはずだったが、まだ検査が残っていて、それをすませないと治療法を決められないとのことなので、お盆休みもあるし、月末まで待機状態である。妻も息子も一応元気だが、筆者は三月以来三度も入院し検査も含めて手術室に入れられたのがたたったらしくて、冷え性になり少しでも冷房の温度が低いと局所の冷えがなかなかとれないので困る。用心はしているが、少しの油断も禁物である。

 本稿のテーマ『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975)というドキュメンタリーの監督新藤兼人(1912- )は、調べてみると予想以上の高齢で、黒澤明より誕生は二年遅いだけである。三度目の結婚は乙羽信子とだったということで知っている人のほうが多いかもしれないが、若い人たちは映画オタクを除けば知っている人はまずいないだろう。筆者にしても、そんなにくわしくはなくて、まあ一番感心した映画はたしかパリで最初に見た『裸の島』(1960)くらいで、あと何本か見ているが、失礼ながら感心するようなものはない。唯一の例外が本稿のテーマになっている映画なのである。しかし、そのテーマの溝口健二(1898-1956)自体がある程度高齢の人でなければ名前も知らないかもしれない。黒澤、小津、成瀬などとならんで世界的に著名な演出家であるにもかかわらずである。
 今回この映画のことを書くことになったのは、たまたま学校で溝口の『雨月物語』を見せ、大きい画面であらためてその映像の迫力を思い知らされたのが、きっかけである。日本人の四大巨匠のなかで一番明確につかめていないのが溝口で、彼のすべての映画をいまだに見られないのが(人気がないということもあるらしい)、ひとつの大きな原因なのだが、今年は死後五十年なのでいろんな企画がありそうで、空白が埋まるのではと期待している。新藤の映画は、当時はまだ生きていた証人たちを次々と登場させて、回想をとおして溝口の人間と映画について語らせている。以前にも一度見たことがあるのだが、そのときよりも溝口映画を多く見ているので、今回は余計関心が深かったわけである。
 今述べたようにたとえば溝口の中期の主だった映画すら見ていないので、映画について論じるのは別の機会にして、今回は新藤の映画から見えてきた「人間溝口」について考えてみたい。年譜もていねいに見ていないので来歴は知らなかった。溝口の父親が職人でおまけに仕事に失敗したため、溝口は小学校しか出ていなくて、奉公に出されるのだが、長続きしなくて戻ってきてばかりで、それもメカケをしている姉さんがたよりだったらしい。一年間だけらしいが後の作家の川口松太郎と同級生だったこともあるようである。一時は黒田清輝の画塾にかよっていたこともあったらしい。映画会社に入る前には、一年ほど神戸の新聞社に勤めていたようだがやはり故郷の東京に舞い戻り、知人の紹介で日活に入社する。
 やがて助監督として働くことになるが、カメラが良くなったためらしく、女形を女優として使えなくなったりしたことも原因で、比較的早く監督に昇進したようである。新藤の映画からは、以上のように知らないことをたいぶ教えられたが、一番印象に残ったのは、溝口と女性との関係である。
 酒のほうは酒乱ぎみだったらしいし、女性関係はかなりだらしがなかったらしい。「下積みで苦労した」(依田義賢)女性が好みだったようである。最初の奥さんも大阪でダンサーをしていたとのことである。それ以前に有名な話だが若いとき関東大震災の後、京都の撮影所に来てヤトナ(祇園派遣の家政婦兼売春婦)に女性関係のモツレから、かみそりで背中を切られてその傷がずっと後まで残るほどのものだったことを言っておく必要がありそうである。以来京都住まいが続くのだが、内川清一郎という当時の助監督が、その傷見たさに銭湯で背中を流しましょうと言うと、「これくらいでなければ女は描けません」とのご託宣だったそうである。溝口43歳のとき最初の奥さんが発狂してしまうが、溝口はその原因は自分が性病を移したためだと思いこんでいたらしい。検査の結果そうではないと分かっても、やはり女性関係で悩ませたからという「負い目」はずっと感じていたようである。
 対人関係では、朝言ったことが夕方には豹変するといったことがたえずあったらしいし、『雨月物語』をもって田中絹代や依田義賢とヴェネチア映画祭に参加後、パリでルーブル美術館を訪れた際、外国行きが極めて困難だった時代にせよ、モナリザの前では涙を流すし、ゴッホの自画像の前では、「気が狂うようじゃなければダメだ」(依田義賢)とのたまったそうである。どう見てもすごく感情的な人間である。
 周囲の映画関係者たちも、かなり閉口しながらでなければ付き合いきれなかったようだが、それでも溝口がひたすら映画のためだけに生きていたことを、誰もが知っていたため離反する人はほとんどいなかったとのことである。まことに風変わりではあるが、きわめてコリ性である上、映画作りのための一種の人徳の持ち主だったようである。筆者が見た限りの映画でも、この人には少し知的に欠けるところがあるのでは、思っていたが、証言者たちの意見もほぼ同様ということのようである。ただ、『雨月物語』や『近松物語』といった最晩年の映画はある種のキレイ事で、中期から『西鶴一代女』までの一番油の乗り切っているもっと卑俗な人間を扱ったものが一番優れているとするのが、関係者たちの意見のようなので、そこらをしっかり見てみなければと思ったりしている。

2006年8月中旬

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