「タチソ」(高槻地下倉庫)とは




1944年秋、近畿・中国・四国地方を管轄する中部軍司令部の地下壕が大阪府高槻に建設され始めた。ところが、45年1月に、兵庫県にあった川崎航空機明石工場が空襲にあったため、地下壕はその疎開工場として使用するよう変更された。当時は、特攻用の飛行機の生産が急がれていたからで、エンジンの生産をする予定であった。
陸軍高槻地下倉庫は、工事の中身を隠すため「タチソ」と暗号で呼ばれていた。「タカツキ・チカ・ソウコ」の略である。
工事は、国鉄のトンネル技術者たちが指導にあたり、多くの朝鮮人労働者や兵隊、学生が集められた。そのなかでも最も危険な掘削作業や削岩機でダイナマイトをはめる作業に従事したのは朝鮮人労働者たちおよそ3500人であったという。(人数についてははっきりしておらず、万を超える人数がいたとも言われている。)
桧尾川をはさんで東西の山が掘られ、付近の農地は「天皇陛下の土地である」と軍に強制収容され、工事関係者の飯場が建てられた。現在、トンネルの手前には採石場が広がり、トンネルは生い茂る樹木に隠れて見えない。

右手の山が一地区、左手の山が二地区。
右手の山には採石場の施設が見える。
坑口をつなぐ道。 ここは特に広いが、全体にかなりはっきりした道がついている。 多分、トロッコのレールが引かれていたのだろう。


タチソのトンネル群は所在によって5つの地区に分けられる。
1地区は桧尾川の東側に位置し、第一工場があったとされる。第一工場は一番はじめに着工され、敗戦時にはほとんど工事が完了していたようだ。縦方向16本、横方向4本のトンネルが碁盤目状に掘られ、総延長4500メートルである。しかし戦後、採石場になったため地下壕の大部分は消滅・崩壊してしまった。
2地区は第二工場として工事が途中まで進んでいた地区。坑は北の谷から4本、南の谷から6本、南北に貫通しているのが1本ある。また東に陥没した坑口が1本ある。1地区と同様に碁盤目状の地下施設を作ろうとして掘り進めていたようである。
3地区以降は位置もばらばらで、使用目的もはっきりしていないものが多い。3地区は琴堂池の北側に展開するトンネル群で小規模な坑6本とコンクリート構造物2ヶ所がある。4地区の谷には小規模な坑1本以外はコンクリートの構造物7ヶ所があり、工作機械を据える台座や貯水槽と思われるがはっきりしない。5地区は2地区の第二工場跡の西側にばらばらに掘り進められている。発見されている範囲で合計9本の南北坑があり、5つの地区の中で保存状態が最も良い。5区の坑内からはつるはし、かすがい、犬釘などの工具が発見されている。

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