F.トリュフォ『大人は判ってくれない』(1959)

 たまたま出会った、何か言いたくなる映画になかなか出会えないので、困ってばかりいたが、今回はトリュフォの映画を10本ばかりやるので、『大人は判ってくれない』にすることに決めてしまった。なんやかや病院行きが多いので、どうせ何本かトリュフォを見ざるをえなくなると思ったからである。
 長いあいだトリュフォは見ていなかったので、多少記憶に不安があったが、この映画なら大丈夫だろうという確信もどこかに残っていた。その前にケーブルの録画の順番でまず『あこがれ』(1958)を見た。思春期の少年たちの性の目覚めを描くというテーマが前から好きだったが、見るたびに評価は下がる一方で、今回も同じ結果となった。
 「大人は」のほかのいわゆる自伝的なアントワーヌ・ドワネルものは全部やっていたので、「アントワーヌとコレット」(1962)(『二十歳の恋』のうちの一篇)、『夜霧の恋人たち』(1968)、『家庭』(1970)、それからこれまでの自伝ものと現在の状態の対比をしながら過去の映画の批判めいたこともやっている『逃げ去る恋』(1979)も見た。しかし、これらは筆者の記憶からほとんど消えているので、新たに見直すようなものだった。「大人は」以外はもっと期待していただけに、期待はずれもはなはだしく、病気のせいもあって老朽化している筆者から見れば、女の後を追いまわすことのみがテーマのこれらの映画は、まるで色情狂の映画としか見えない。どれもが押しが足りず軽い感じで、かろうじて後についてゆける程度のものだった。もういやになったとか、早送りしたいとまでは思わなかったが、なんとなく名手とおもっていたのにまるで期待はずれだった。女のほかにもなにか興味のある仕事なりなんなりも同時に存在していそうなものなのに、目指すところは女性のみでほかのことは、たいてい付けたしである。こんな色情狂的人間があまりいるとは思えないが、主人公はみんなまだ若いから仕方がないと言えばしかたがないのかもしれない。現に筆者も昔みたときにはなんの抵抗も感じていなかったからである。
 考えてみれば、薄弱化した記憶によっても、トリュフォの映画は、「大人は」を除けば、ことごとく恋愛映画だった気がする。それに52歳という若さで逝ったとしても、本人が意図的に企てなければ、こういうことにはならなかった気がする。
 さて本題の『大人は判ってくれない』だが、性には目覚めていても主人公のアントワーヌ・ドワネル(ジャン・ピエール・レオ)は小学校の高学年程度だし、学校でも家庭でもいわゆる日常生活が一向にうまくゆかないのだから、毎日の暮らしがつらくて仕方がない。学校では勉強しないから当然成績は悪く、いたずらばかりするから、先生からよく思われるはずがない。家にもどっても、両親は共働きで、つきあいは希薄である。それにもともと母親は未婚のうちに身ごもり、結婚することなくアントワーヌを生んだという、子供にとっての重大事も当人は知っているようだし、子連れの女性と結婚してくれた父親も、そんなに意地悪には見えないにしても、自分の子供ではないということから、どこか垣根を作っているふしがある。おまけに母親はしょっちゅう浮気をしているのだってアントワーヌは知っているし、父親は自動車クラブに凝ってろくにアントワーヌのあいてもしてくれない。アントワーヌは家でも学校でも孤独である。もちろん今なら未婚の母はやまほどいるから、だれも驚きはしないが、映画には直接でてこないが、未婚の母という圧迫が母にも子にもあったのではと思われる。
 アントワーヌの不良ぶりはエスカレートするばかりで、学校をさぼっておいて母親の死を原因として教師に告げるが、すぐさまバレルので、完全に教師たちの信用を失ってしまう。母親がめずらしく説教じみたことを言い、すべての科目ができなくてもいいからフランス語だけはしっかりとと激励した。それでアントワーヌはバルザックを読み、感心したあまり教師の与えた作文に適当なタイトルをつけ、中身はバルザックの丸写しをやる。このため教師の怒りは頂点に達し、校長室へ行けとどなりつける。停学だと察したアントワーヌは、学校から逃げ出し、悪友のおかげでなんとか一晩は無事に過ごすが、翌日に家に戻ると、少年の矯正施設に入れられることになっていた。施設でしばらく暮らしたあと、母親が訪ねてくるが、母親の通達は、もうわれわれの子供だと思いたくないから、施設の後は親とは関係なく独立して好きにやってくれというものだった。それからすぐアントワーヌは施設を脱走するところで映画は終わるが、すぐに見つけられて連れ戻されるのは目に見えている。
 こういう子供を破滅させかねない、ややこしい人間関係の場合、誰が悪いと順番をつけてもしかたがないだろう。みんなそれぞれがなんらかの不手際をやっているからである。ただ幼い子供がなすすべをしらないのだから、一番の被害者になるのは、あわれだがいたしかたあるまい。トリュフォの場合は、大好きな映画に救われるのだが、ややこしい閲歴のためきわめて不安定な性格をもたざるをえなくなるのもやむをえまい。ただいかんながら、筆者は彼の不安定さどんなものであったか、一般的なことしか想像することはできない。ただ、トリュフォが思い込んでいたところとは違い、これが自閉症的な不安定さとは異なっているということは、確かだろう。

2012年3月上旬

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