黒澤明の映画(9)『天国と地獄』 以前に書いたことだが、中学二年の時に黒澤明に一応開眼、依頼本編の『天国と地獄』の後の『赤ひげ』まで欠かさず映画館で黒澤さんの封切映画を見続けた。今思えばファンだったということになるが、どうしたものか当時はそんな意識はなかった。十分に理解できていたとはとうてい思えないが、それほど難しい映画でもないので、それなりに理解して満足していた。評価も当時と今とで、『赤ひげ』まではほとんど変化がない。しかし、『天国と地獄』のころには、ナマイキざかりの大学生で、多分友人と映画を見ては、「カンカンガクガク」をやっていた最中だから、『天国と地獄』もその例外ではなかっただろう。 東京の下町にある丘の上に豪邸がたっていて、そこでナショナル・シューズとかいう製靴会社の重役が三人集まって、やはり重役で豪邸の持ち主の権藤(三船敏郎)と会社の乗っ取りの相談をしている。しかし権藤は権藤で、一人で画策した計画があるので、誘いには乗らない。相談の最中には庭で遊んでいたらしい子どもたちが、今度は中まで入ってくるが、また出ていくという具合で遊びに夢中である。 しばらくすると、知らない若者から電話があり、息子をさらったから身代金を出せという脅迫である。三千万円出さなければ、生きては返さないと言われるのだが、すぐに実はさらわれたのは権藤の息子ではなく、住み込みのお抱え運転手の息子だったことが判明する。二人は衣服を取り替えたりして遊んでいたからである。権藤にしてみれば、さらわれたのが自分の息子ではないということになれば、自分と家族の今後のために、つまり会社乗っ取りのために準備した金の6割も支払わねばならぬという筋合いはなくなる。しかし奥さん(香川京子)も可愛そうだからと同情するし、運転手はわが子のことだから哀願する。それでとりあえずは警察に連絡し、様子を見ながら身代金も出そうというところに落ち着く。原作はアメリカのスリラー作家エド・マくべインの『キングの身代金』だが、誘拐という点を除けば、映画と原作とのあいだにはほとんどつながりは無いとのことである(佐藤忠男著『黒澤明解題』)。 結局、犯人の指定どおりのカバンに指定どおりに金をつめて、金を支払うことになるのだが、支払い方には脚本の苦心の跡がみえる。権藤は二個のカバンとともに新幹線の「こだま」に乗るよう命じられる。まだ新幹線ができて間無しのころに、さっそく新幹線を利用しているわけである。手洗い場のみ7センチ窓が開くのを利用し、カバンを投げるという仕組みである。洗面所の窓を使うことや、どこで投げ落とすかは、新幹線の電話をとおして連絡がくる。犯人の姿はかけらも見えていないので、サスペンス満点である。 このシーンについては、「黒澤明はこれを、東海道線の列車を借り切って其の中で八台のカメラを同時に回して一気に全ショットを取ってしまうことを考えた。一等車、ビュッフェと電話室、洗面所、車両の連結部、先頭の機関車と後尾の展望車、などの場面がある。そこで犯人の電話に応じた権藤の動き、それに伴って列車のあちこちに張り込んでいる刑事たちの動き、さらに彼らの見た眼による車窓の外の犯人の動きなどがある。それらほんの十数秒の突発的な出来事を想定されたとおりのリアル・タイムで演じ、それぞれの動きと反応をそれぞれの位置で同時に撮るのである。この作品のカメラマンである中井朝一と斉藤孝雄のほか、玉井正夫、安本淳、逢沢譲、太田幸男などのカメラマンがこの場面に協力した。先頭の車に斉藤カメラマンとチーフ助監督の森谷司郎が二台のカメラを持って乗り、黒沢監督と中井カメラマンが三台のカメラとともに洗面所のところにおり、最後尾の車両には玉井正夫カメラマンと松江陽一助監督が二台のカメラとともに居る。他の中間にもうひとりのカメラマンがカメラを構えていた。殆ど一瞬の緊迫感の中の出来事を、誰ひとり失敗してもいけない待ったなしの一回かぎりの一瞬の撮影という同じような緊迫感の中で撮ったのであり、結果としてそれは、たんに一瞬の出来事における多くの人物の相互に連携した動きを的確にとらえ得ただけでなく、疾走する列車の中の出来事という、その疾走感を鮮やかにとらえた映像ともなった」と説明されている(佐藤氏著前掲書p.231-232)。 誘拐の場合はたいていそうらしいが、金銭の授受がこの場合も決め手となって、犯人逮捕への大きなきっかけとなる。仲代達矢演じる警部を筆頭とする警察陣の大活躍で、犯人(山崎努)は次第に追い詰められ、ついには逮捕されてしまう。 教誨師には合おうとしない死刑囚の犯人は、権藤には会いたがるので、権藤が刑務所まで出かけていくと、犯人は、こんなことを言う。下町の安アパートにくらしている医者の卵の目からは、冬は極めて寒く夏はうだるような暑さのアパートは「地獄」で、丘の上の権藤邸は、冷暖房完備の「天国」のようなものである。親も死んでしまった孤独で不幸な犯人は、「幸福な」天国の住人を誘拐で「苦しめるのは面白い」ことだと、考えて犯行におよんだという。あの世を信じない犯人には、教誨師は必要がない。ただ対戦相手にだけは、今回の反抗の理由を明かしておこうとしたわけである。しかし、別に何も悔やんでなぞいないと豪語しつつも、やはり死をおそれているような涙も見せるところで終幕である。しかし、権藤も重役の職も失うし、犯人から取り戻された金を元手に再出発なのである。 黒澤さんにしてみれば、山崎努という新人を使って、カミュの『異邦人』ぽい映画を作ろうと思ったのだろうが、ヒューマニストの黒澤さんには、実存主義のもつニヒリスティックな面は、やはり苦手だったろうなと、今から見れば思う。当時の大学生の大部分がサルトルの『存在と無』の翻訳書を一度はのぞいていた時代の雰囲気に、黒澤さんもいくらか影響を受けたのかもしれない。ともかくも、彼がそれまでに作った現代劇では、一番成功しているものだろう。 2007年4月下旬 映画エセートップへ |