A・タルコフスキーの『サクリファイス』など 相変わらず体調がすぐれず、あと10日もすればまたしばらく入院ということになったので、今回は書けないだろうなと思っていた。ところが、ケーブルのcinefilでアンドレイ・タルコフスキー(1932-1986)の特集をやった。まだ全部は見ていないが、『ストーカー』(1979)は二度目だし、『サクリファイス』(1986)は三度目なので、この二本について書いてみようと思う。 『ストーカー』を見ているときは、二度では書くのは無理かなとも思ったが、『サクリファイス』を見ているうちに、この二本の基本的傾向は同じだから、なんとかなるだろうと考えを変えた。体調がダメで暇をもてあましているようなところもあるので、脳には適当な刺激になるだろう。 タルコフスキーの全作品を見ているわけではないが、以上の代表作二本を見ていると、彼のキリスト教的神秘主義的な傾向が作品の支えになっているのは、歴然と理解できる。遺作の『サクリファイス』のほうが三度見ているということもあり、組み立てがしっかりしているということもあり、これを中心にして考える。 映画が始まると、アレクサンデルという初老に近い主人公と五歳くらいの長男とが、枯れかかった松の木を、海辺に植えている(どうもスウェーデンの南のバルト海にあるゴトランド島にいるらしい。ちなみにタルコフスキーはソ連では映画を作りにくくなっていて、この遺作もスウェーデンとソ連が金を出している)。植えおわった松をみて、アレクサンデルは息子に言う。昔年を取った修道士がいて、その男も枯れかかった木を山すそに植え、若い修道士にしばらくは毎日水をやりに言ってほしいと頼む。若い修道士は毎朝桶に水をくみ山に行き水をやると、仕事でもしているのか夕方僧院に戻るという生活を三年間送った。すると三年目には、その木にみごとな花がさいた。この話のあとで、アレクサンデルも息子に水をやってほしいと頼む。そして、人生においては「一つの目的をもった行為は、いつか効果を生む」とさとす。息子は小さいから意味がわからなかったろう。そして、ここまでで、美しい海辺の景色を背景として、この映画のテーマはすでに先取りされている。ちなみにアレクサンデルは現代文明に絶望し、なんとかしたいと思っているらしいが、なにをどうしていいのやらまったく分っていないのである。喉の手術をしたばかりの息子も声が出せなくて、アレクサンデルを小型にしたようなものかもしれない。なお、この遺作はタルコフスキー自身の息子にささげられている。 その日はアレクサンデルの誕生日で、もと高校教師の郵便配達が、祝電の配達をしたついでに、アレクサンデルと話をするが、その話から、アレクサンデルは元は有名な舞台俳優だったらしいが、今はジャーナリストで、演劇評論や文芸評論を書き、大学では美学を教えているらしいといったことが、分かる。この郵便配達はなかなかのインテリで、ニーチェの「永劫回帰」の話をしたりするし、キリスト教信者であることも分かるが、アレクサンデルは神は「実在しないだろう」と明言する。ちなみに、『ストーカー』もそうだが、この映画でもキリスト教的なテーマを扱っているので、タルコフスキーはロシア正教徒ではないかと思うが、確認はできていない。 さてその夜、誕生会が上の郵便配達夫と医師が参加して開かれることになっているが、食事が始まる前にテレビで首相らしき人物が、戦争が勃発し非常に危険な状態になっているので、各人が慎重に行動するようにといった発表を行っているが、途中で電気は切れてしまうし、電話も通じなくなってしまう。アレクサンデルがそとに出てみると、異様な風の吹き方からもどうやらかなりひどい核爆発がおこったらしい。世界の最後が近いとアレクサンデルは思う。それで、神の実在を信じなかったはずのアレクサンデルが、自分と自分の家族、自分の持ち物のすべてを犠牲にしてもいいから、どうか他の人たちは救ってほしい、と神に祈る。ところが、郵便配達夫がノックして言うには、ずいぶん良く眠っていたようだ、とのことである。しかし、それはそれとして、大変な事態になっているのだから、自分はできるかぎりのことはしたいと、郵便配達に言うと、この神秘主義者の郵便配達は、それならあなたが、お宅のお手伝いのマリアの家を訪ねて一緒に寝なければならないと奇妙なことを言う。マリアは魔女で人類の救済をできるのは、彼女だけだという。それで、アレクサンデルを待っている連中を放置しておいて、さとられないように自転車でマリアの家にいき交わりをもつ、交わっている間ベッドは空中に浮かんでいる。どうも魔女らしいと思って見ていると、どうやらこれも夢だったらしいということが、朝になって分かる。誰も何事もなかったかのように通常にふるまっている。しかし、アレクサンデルは自分が魔女と交わったからこそ、この世は救われたのだと信じているらしい。郵便配達の示唆も、彼が犠牲を払うという約束を神にしたから、生じたと思っているのである。そこで、何も知らない妻や娘や息子を殺すことはできないにしても、みんなを散歩に出して、その間に家に放火し、約束の一部をはたす。しかし、家族や友人から見れば、狂気のさたである。だから救急車がよばれて、多分精神病院に入院することになるようである。途中で出会う息子は松の木に水をやっているし、マリアも現れて心配そうにアレクサンデルを見送る。夢と現実とをはっきりと切断しないというやり方によって、この作品は見事に成功を収めた。 もう一方の『ストーカー』については書く余裕がなくなってきたが、ストーカーというのは、この場合「永遠にとりつかれた囚人」といった意味である。隕石が落ちたため、大火事が起こり村人が一人もいなくなったとされているゾーンがあり、そこでは奇妙なことばかり起こり、人が死んだりもする。しかし、ストーカーが直感に頼って危険を避けつつその村にある「部屋」に案内した人は、どんな不幸を背負っていても、癒されるとストーカーは信じている。どうにもならなくなっている世の中で、唯一救済の場所は、その部屋だけしかない。もちろんそんな場所が現実にありうるはずはない。アレクサンデルが狂気とされたように、ストーカーも自分が理解されないことに苦しんでいる。これらは単なるSF映画ではない。画面の緊張感が、そこに描かれているのが、タルコフスキーの心理的現実であることを証明しているからである。 2006年5月下旬 映画エセートップへ |