松の内(2) 2005年松の内 昨年のたしか秋ごろからワープロを打つときキーのミスをしては打ち直しをすることが多くなった。老化現象もあるだろうし、ひょっとすると眼鏡が合っていないのかもしれない。遠くを見る分はあまり見えていないということが、職場の健康診断の際分ったので、近くをみるのも合わなくなっているのかもしれない。それに乱視もある。二年ほど眼科に行っていないので、近い内に行ってみなければと思う。ほかにもその健康診断書にたしか「心室性期外収縮」というややこしい名前の障害があるから、精密検査を受けるようにと書いてあったが、昨年末はいろいろ忙しくていけなかった。その前に胃腸科に行った際、そのことを聞いたら予想通り「不整脈」のことだったから、もう一度心臓の検査やってくれるものと思っていたのに、胃腸科だからと笑われてしまった。しかし心電図くらいやれそうなものなのに、専門家が来る日があるからその日に来てくれと言われて、そのままになっている。 年末には母親が脳梗塞で生死の境をさまよっていたので、筆者も一晩だけ病院に泊りこんだりしたが、多分助かるという感触があったので、めっぽう忙しい時期なので、泊まりははずしてもらって本屋の校正やら原稿書きやらで30日までかかってしまった。明日は息子とおばあちゃんの見舞いにいくつもりである。 本屋の仕事は一応済んだが、まだ今月中に続きがあるだろうし、学生の提出物が山ほどあってそれにはほとんど手がつけられていないままなので、見舞いがすんだらそちらに専念しないと後で大変なことになるのは目に見えている。教師稼業も期末には大変である。それに近頃のことだから入学試験だってむやみとあって、以前に数えてみたら年に11日間試験をしている勘定だった。さらにもう一日くらい増えているかもしれない。 こちらは目下むやみと忙しいのに、息子のほうは二月に少し遠方で小さいコンサートがあるし、3月6日は高槻の「スタジオ73」で先生とふたりのコンサート、それに4月にも小さいコンサートがあったりするので、普段の練習のほかに、その方の練習ものんびりとこなしている。たいていは一度仕上げているからである。結構なものである。今聞こえているピアノの音は普段の分である。2階のこの部屋の戸を少しあけておくとピアノは聞こえるが、ギターの音はあまり聞こえない。別段息子の音楽を聴こうと思ってあけてあるわけではない。妻が買い物にでも行ったとき、玄関のピンポンが鳴っても、息子は下にいるときも知らん顔で練習なりなんなりをやっているという状態なので、少しあけておく習慣がついたのである。言い忘れたが、締めておくとそのピンポンが聞こえないのである。 そういえば、息子がピアノを弾いている椅子の後ろには、寒さに弱い植物が多分7鉢くらい置いてある。そのうちのデンドロビウムという洋蘭の2鉢が少しながら花をつけている。これから咲きそうな蘭もある。昨年は肥料を一切やらなかったのに、花が咲くとはどういうことだかよく理解できない。ただし蘭の鉢はみっつだけで、後は観葉植物である。人からもらったのがたまってそれだけの数になったので、好んで集めているわけではない。好きな方の和物の庭の黒松は、今年は手入れをする気にもなれないので、妻にもらしておいたら、裏の家に来ていた庭師の人に話して今月中に松だけ剪定をしてもらうことになった。変な頼み方になったのは、ほかのものまで全部頼むと金がかかるということもあるが、こちらの楽しみもなくなってしまうので、こちらが手入れする分は残しておいてほしいからである。新年そうそう老化現象の話ばかりになってしまったが、もう疲れたのでおしまいにする。 P.S. 松の内の(2)も、このコーナーでは、この手の文章としてはふたつ目だというつもりである。 |
「自閉症者のギター」 2005年2月上旬 すでにホームページに掲載されているように、2月末に「自閉症者のギター」というタイトルのCD付書籍が刊行される。前にも述べたようないきさつで、二瓶社さんが発行まで引き受けてくださって、なんとか準備が整ったようである。ギターの方はホームページにあるとおりだが、書籍の内容には触れられていないので、ここで注釈めいたものを書いておく。 内容で分量的に一番多いのは、筆者の「自閉症という問題」から抜粋された、和生の生育暦めいたものである。最初は「自閉症という問題」自体を本にする予定のようだったが、単価をなるだけ下げるためだと思うが、生育暦の部分が抜粋されて校正刷りが送られてきた。多少手を加えたり、小見出しをつけたりしたが、20歳ごろまでで話は終わっているので、それ以後の補足を付け加えて「息子・布施和生」という部分になっているが、多分量的には「自閉症という問題」の三分の一くらいではないかと思う。 この校正が送られてきたのは昨年末近くだったと思う。母親は脳梗塞で入院している最中で、まだ心配が続いているあいだのことである。もちろん二瓶社さんの方は、そんなことになっているとは、露知らずに送ってきたのである。先生の北口さんの原稿はもうとっくに届いていますよと言われたのは、補足の部分を書いているころだったと思う。北口さんのはまだ見ていないので、どんな内容かは知らない。それとCDに入っている曲の解説も書いてくださったはずである。 ところが、もう一人の執筆予定者、和生のボランティアをしてくださっている近藤さんは、いろいろ忙しいらしくて、なかなか送ってくれない。二度催促して、正月にやっと暇ができたかして、たしか三日に届いたのではないかと思う。これはこちらに一応届いてから本屋さんに送る手はずになっていたので、中身は知っている。「近藤さんは文章うまいよ」という人がいたので依頼したが、たしかにいい文章だった。確認したい方は「自閉症者のギター」を買って確認してください。 それはともかく、年末の20日すぎから開始した学校の採点は、2月の1日の夕方終わり、ぎりぎりで最終便に間に合った。そして、2月3日4日の入試で一応仕事は終わった。しかし、そのあいだの一月の半ばになる前に母はあの世に往ってしまった。当然、お通夜とか葬式をやらなければならないし、当方は形式だけにしろ喪主である。たぶん持ち直して退院するだろうとたかをくくっていたのだが、あっけなく行ってしまった。夜中の3時ころなくなったが、その日の朝筆者自身の書物の校正刷りが届けられ、急いでほしいと書かれている。その日学校では試験をやったので、監督をやりながら校正をやった。しかし、家に戻らないと処理できないこともあり、戻ってからやった分は意外と時間がかかり、とうとうお通夜に遅刻する始末である。まあおばあちゃんは92才になる前まで生きた大往生である。生きているものの方のことを優先しても許してくれるだろうと勝手な理屈をつけることにした。その日を逃せば何日間かは遅れてしまうのは必定だったからである。 だいぶ長いあいだ生きてきたが、こんな「せわしない」思いで、40数日間を過ごしたことは、これまでなかったが、これからもないだろう。 |
3月6日(日)のコンサートを終えて 2005年3月上旬 コンサートをやるのは大変である。今回はポスターを作らずに、葉書で観客集めをやることにいつの間にかなっていた。たぶん妻と息子のギターの先生の北口さんが相談して決めたことだろう。それでたしか11月の初め頃岡田デザインに集まってすでに原版の出来上がったCDのデザインをどうするかとか、葉書やチケットのデザインをどうするかという話に加わったのが、筆者が今回の企画に参加した始めである。その後筆者が知人の二瓶社社主吉田さんに連絡をとり、12月の初めにマサラ・バザールに集まって二瓶社さんから、発行発売を引き受けるという話が出て、CD付書籍を刊行することに話が変化した。それ以前に北口さんから自費出版のCDを出すつもりで作ったのだし、うんぬんといったクレイムなどがついたりして、だいぶウンザリさせられた。 しかし、CD付書籍にすることでは最終的に意見が一致し、そちらに動き出した昨年末母が倒れ、今年の一月半ば帰らぬ人となったりして、葬儀をやらねばならず、その他仕事やら二冊の本の校正やらにふりまわされたのは、先月書いたとおりである。その後入試があって少ししてから、葉書に貼るラベルの宛名書きをやらねばならないことになった。幸い数年前洋封筒の宛名書きをしたフロッピーが出てきたので、それをラベルにコピーしては貼り付けの作業を100回以上やった。そのころと付き合う人など変化しているし、住所の変わった人もいるし、思った以上に手間はかかるし、少しずつ追加も出てくるしで、だいぶシンドイ思いをした。 もちろんそれで仕事が終わったわけではない。葉書を出した先からは多くの場合電話で連絡が来るので、電話番をしなければならない。最初のうちはチラホラ程度だから気安く家を空けられるが、6日の一週間ほど前になると、誰かが家にいなければ電話をくれたお客さんに迷惑がかかるので、電話の苦手な筆者も妻が留守の時には電話に出ざるをえない。ところが、そういう時にかぎってセールスの電話が多かったりする。げんなりである。それでも予約が多ければ張り合いもあるのだが、思ったほど連絡がない。今度は北口さんが一人でプログラムを組んだので、クラシック好きの人ばかりが集まるわけではないから、ポピュラーなボーカルを適宜入れてほしいと注文をつけておいたが、クラシックで凝り固まっている人でなかなか譲歩したりしないので、あまり期待はしていなかったが、やはり案の定だった。 和生-北口コンビなら、そうなることを知っている人もいて、予約が少ないのではないか。それならいたしかたなしという思いでいた。コンサートの前日に約60名の予約である。会場がスタジオ73で73くらいが適当な会場らしいから、まあなんとか格好はつくだろうと思って、当日朝10時に会場につくと、時間に几帳面な北口さんはすでに到着していて、すぐに練習が始まった。 1時開場2時開演で、かなり早くから来てくださったかたもいたし、開演のころには多分80名くらいの観客になっていた。予約なしの人が10名くらいいたようだし、チケットを差し上げたかたも10名くらいいたので、ほぼ満員になった。和生の調子がよかったし、北口さんもリードが上手になっているので、途中10分ほどの休憩を入れても80分程度だったが、あっという間に終わりまで進行したという感じで、アンコールをすませているのに、席を立つお客さんはいない。和生は済んだと思っているようだし、北口さんが、二人で一番最初に演奏した「はげまし」をもう一度やることに決め、それで終演となった。来てくださったおおかたには、十分満足していただけたと思う。 もっとも問題がなかったわけではない。後で、選曲には和生の好みをもっと反映すべきだといって下さった人もいたし、やはりお客さんには窮屈でも100名程度は入ってもらわないいと採算が取れない。「打ち上げパーティー」他は別にしても、会場費やデザイン印刷費を支払うと、残りは微々たるものである。かなり持ち出しということになる。こんどびっくりしたのは、翌日、息子がよそへ呼ばれたらたいした額ではないにしても出演料はもらえるのだからと考えてのことだろう、彼の方から出演料を要求したことである。親はやはり息子抜きでは、コンサートもCD付書籍も成り立たないということは十分心得ているが、これまで息子中心のコンサートをやっても、彼の出演料のことまで考えてくれた共演者は一人もいない。親は赤字を少なくしたいので言わないのだが、それより先に日本の現状を息子に見事に指摘されたという深い感慨を抱いた。予算がおありのところは、ギターはもちろんボーカルもやれるしピアノも弾けるし楽しい演奏会をやりますので、せいぜい声をおかけください。 |
検査入院 2005年4月上旬 コンサートが終わって「やれやれ」と言っている間もなく、すぐさま入院手続きとかということになった。たしか、1月の尿の検査で悪性のもののカケラでも入っていたらしく、すぐにカメラで調べられたが、ボウコウには一見したところ異常はないとのことだった。ところが次の2月にも同じようなものが見つかったらしく、それで入院して、その怪しげなものがどこから来ているのかを調査しようということになった。仮に見つかってもお腹を切るようなことにはなりませんから、とのことである。 一昨年の秋ボウコウに悪性のモノができていることが分かり、BCG注入療法とかというのをやった。お腹を切らなくてすむのは有難いのだが、BCGを薄めたのをボウコウに入れ炎症を起こさせて、ついでに悪性のモノも片付けるという方法である。炎症が起きればなんとも痛いような不快なようなことになるのだが、痛み止めを使っても、たいして効果があるわけではない。週に一度ずつ6回やったが、週のうち3日間はただ苦痛に耐えるだけのことになるので、これは誠につらいものである。しかし治療を終了して、炎症も十分に治まったと思われる年末にボウコウ鏡で調べたら、モノは消えていていちおうヤレヤレということになったが、ここに発生するものは再発しやすいとのことなので、毎月一度は尿の検査をして様子を見、半年に一度くらいはカメラをやるという生活を送っていたが、以上のようなことになったのである。 それで延べ3週間ほど入院するはめになった。入院して検査するのだから、かなりつらいことになるだろう、と医者の説明から予測はついていたが、つらさは予測を越えていた。最初にやったのは、すでに腎臓の調べは済んでいたので、局部麻酔をしてから腎臓の出口の腎盂のあたりまでチューブを入れる、腎臓は二個あるから当然両方に入れられ、さらにボウコウにもう一本で都合3本のチューブで尿を採取して悪性のモノがどこから来ているのかを見ようというわけである。もちろんこの3本のチューブの出口はpenisだということになる。3本もあるのだから、穴より太い勘定で、これはいやなものだった。出口のところは仕方がないにしても、座薬でもくれていれば、お腹あたりの軽い苦痛はとれただろうが、最初に医者が穴の太さのことで文句を言ったと思ったらしく、「どうしようもない」といなされたので、余計な苦痛までしょいこむことになった。二日ほどして教授回診があり、土日に入るのにあれでは気の毒だとでもいうことになったのだろう。金曜の夕方にはずしてくれたが、大学病院の若い医者が慣れないことをやっている感じで、やり方があまりうまくないのは当然と言えば当然だか、もう少し患者のことも考えてもらいたい。チューブを抜いたあとも挿入されていた部分が痛み出したので、今度は座薬が出てなんとかしのげた。しかし、血尿が3日ほど続くし、点滴をずいぶんやっているのに、おしつこがあまりでない。食欲もほとんどなくなるし、なんやかやでだいぶ病院にいた。 それから3、4日外泊で家に帰り、体力と気力を回復してから、再度の挑戦で、ふたたび入院ということになった。先の検査の結果、やはりどうも一番疑わしいのはボウコウということになったようで、表面に異常は見られないが、念のため、ボウコウと尿道から6ヶ所ほど細胞を採るという話である。今度は、こないだだいぶブツブツ言ったからかどうか分からないが半身麻酔でやることになった。さすがに痛みはゼロだし、済んでからも少し痛めば座薬を使うので、今度はほとんど痛みは感じなかった。ただしチューブは一本だけボウコウからきているが、3本と比べれば一本くらいはどうこう言うほどのものでもない。それも翌日には抜いてくれたし、術後の感じで今度はうまくいったと思っていたら、そのとおりで予想より一日早く退院できた。退院後一ヶ月したら外来に来るようにと言われたが、それなら、トータルで4人の医者が見て大丈夫と思ったらしいので、すぐ来いといわないのだな、とこちらは勝手に納得している。 家に帰ると息子が、「お父さん、今度はいつ入院するの?」と訊く。二度も入院したのだから、また入院するのかと思ってのことかもしれない。妻の話では、筆者の入院中息子はしきりと、入院のことを話題にしたという。しかし、いちおう言葉の上では心配していると言っていたとのことだが、あまり心配している風でもない。デジタルのビデオ予約が入院していると、どうしても少しになるので、息子にしてみれば、自分の好きなように予約できるので都合がいいので、「いつまで入院しているのか」としきりに訊いたに違いないというだけのことだと邪推している。いかにも、彼らしいなと改めて思ったが。といって、彼は入院するのは、ただならず恐れているのである。普段極端な偏食とかしているのに、入院はいやなのである。もっとも、その因果関係がどれだけ分かっているかは不明である。 |
検査の後 2005年5月上旬 息子の生活が判で押したようなのは、たいていの自閉症者の生活と変わりがない。彼あるいは彼女はそうしたパターン化された生活で精神生活の安定をはかつているのだから、いたし方がない。息子は割合融通が利くようになっているが、それでも彼の生活のみを材料にしていれば、すぐタネ切れになるのは分かっているので、仕方なしに筆者の生活を主たる題材にして、彼には部分的に登場してもらうことにしていたのだが、それが一年以上も続いていると、なんだか筆者が「私小説」でも書いているような具合になってくるので、嫌気がさしてきた。そこで「私小説」は今回で一応終わりとして、別の工夫も考えたいと思っている。 前回は大学病院での検査入院の話しをしたが、今回はその続きである。検査は終わってすべてに決着がつくというわけにはいかず、続きがあったからである。それもかなりシンドイ続きだった。前回に書いたように最初の検査は二つの腎臓のところまでチューブが入り、残りの一本はボウコウに入っていた。三本のチューブを挿入した医者は女性でかなり若く少し年長の医師の指示を仰ぎながらやっているのだから、当然この医者はほとんどこのやり方を経験していないようだという見当は容易についた。しかし、軽い麻酔をしてチューブを入れるだけだから、そうたいしたことになるなどとは思えなかった。ところが、膀胱鏡をやりなれた医師でもうまく行かないときも結構あるというのは、経験上知っていたが、やはりやりなれない場合はよほど器用ででもないかぎり、大変なことにもなる。 三本入っている管は異物なのだから不快に感じるのは当然でも、そのこと以上になにかうまく行っていないという感覚がずっとつきまとっていて、なんともたまらない。教授回診とかがあった後、土日にかかるし、気の毒だからということで管は抜かれることになったが、抜いた後が痛むのである。ここに管がはいっていたというナマナマシイ感覚があるのは、なんともいただけない。座薬を使ったということは前にも書いたが、一応痛みは取れるが、小便の出は悪くなるし血尿は続いたままである。おまけに、腎臓の裏あたりから、さらに上の背中がとても凝っている感じでこれまたつらい。 たしか抜いてから三日目には、血尿の色がずいぶんうすくなってきて、筆者自身ももう大丈夫だろうと思い出したころ、挿入したのではない入院病棟の医師がやってきて、続けて次の検査をやるか、しばらく間隔を置いてからにするかという話になった。そのときは背中の痛さもだるさも座薬のおかげで一応収まってはいたが、何日間も血尿を見たあとすぐ次の検査はしんどいと答えたので、それでは三四日置いてからにしましょう、ということでたしか三日外泊した。それから再入院して、翌日検査、今度は前にゴダゴタがあったせいか、しっかりした医者だったし、挿入もボウコウあたりまでで、細胞を取るだけのことだから、スムーズにすんだ。患者にも後の感じでスムーズさが実感できるのである。だから翌々日には退院できた。 退院してやれやれというのもつかの間、背中のあたりがだるいような痛いような感じがたえずある。それでシップ薬をはったりマッサージ機にかかったり、いろいろやった挙句灸まですえたが、それでも治らない、夜中につらくて目が覚めるので、家にあつた座薬をいれると朝まではなんとかもつが、起きるとまたもやという繰り返しである。座薬が切れ掛かったころ、多分退院後二週間たっていたと思うが、トイレに行くと小便がしばらくでないで長細い塊が出た。よく見るとそれは血のかたまりで、その後のトイレのときにもまた出たので、これは尿管でかたまっていた血液だということが分かった。あまけに血尿まで出る始末である。血尿は長続きしなかったので、血の塊と関係があるらしいと分かったが、そんなことが起こるなどとは何もきいていなかったので、翌日あわてて外来に行ったが何をしにきたという顔でけろっとしている。たしかに管を突っ込んでおけば血の塊位できたって驚くにはあたらないのだろうが、少しは患者の気持ちも考えてもらいたい。検査の結果はすべて白だということで、ともかく座薬だけもらつて帰ってきたが、背中のほうのおさまりはついていないし、胃まで痛みだしてきている。座薬は胃に悪いと聞いていたが、とうとう胃の方にきてしまったようである。 日ごろ胃潰瘍の予防薬というのを胃腸科の方から、もらっているのでそれで傷みをなんとかごまかしながら、今度はすでに予約した胃カメラの日を待っている。 うつとうしい話づくめになってしまった。気分転換に、『古今集』からに二首引用しておく。 題しらず 読人しらず 百千鳥さへずる春は物ごとにあらたまれども我ぞふりゆく 寛平の御時后(きさい)の宮の歌合せによめる 源の宗干(むねゆき)朝臣(あそん) ときはなる松のみどりも春くればいまひとしほの色まさりけり (息子の和生には特に変わったことはないが、彼はこのところ梅田の一駅先の鍼灸院にしよっちゅう通うようになった。但し、交通費がバカにならない。) |
『古今集』夏の歌ほか(1) 2005年6月上旬 前回に書いたように、あまり自分のことばかり書くはめになるのは、気が引けるので、何か別のことをと思ったが、とりあえずは『古今集』ということにした。昨年『源氏物語』を卒論のテーマにした女子学生がいて、こちらも完読はしたことがないので、原文は難しいので、とりあえず谷崎潤一郎訳で読み終えるつもりでいた。ところが、以前にも書いたような事情で、12月から1月にかけてが、これまでにないほど多忙となったため、果たせないまま終わった。『源氏』と関係が深いからと取り出して机の上にのせておいた『古今集』についてなら、何か書けるのではないかと思って書き出している。 それにしても哲学、特にフランス哲学が専門の人間のゼミの学生が、なんで『源氏物語』などについて書いたりするのか、不審に思われる方がおられるかもしれない。こちらだとて論文の質の良し悪しなら判別できるが、国文学については人並みの事しか知らないのだから、まことに頼りない話だが、外国語大学というところはおかしなところで、一応外国語が専門という形の勉強はするが、実は専門はないに等しいという学生が大多数である。一般の大学と比べると、例えば英語の共通テストの平均点はたしかによそより高いが、それだけのことで、一所懸命に語学をやっている人間はひとにぎりである。一般の大学でもその程度の数の人間なら、語学学校にでも通って自分の専門に役立てようとか、こちらの方が多そうだが就職に有利だからと金と努力をつぎこんでいる。しかし、彼らのほうはやはりこれまた例えば政治とか経済とかという専門の勉強もしているのであり、それ以外の時間をさらに語学に注いでいるのだから、そちらの方が多少はしっかりしているということになりそうである。ところがわが外大の学生たちは、卒業が近づくと、あまり勉強をしてこなかったので、せめて卒論でも書いて思い出作りの勉強でもやろうということになるらしい。各語学科には、各語学の言語学とか文学とかというシバリのあるゼミがあるのだが、それ以外のことに興味のある学生は、一般教育の教師が開いているゼミに首を突っ込んではなんやかややっている。だから、まあ書き方の指導くらいはできるのだから、こちらの許容範囲のことなら、たいていは大目にみることになる。『源氏物語』の学生は、今まで外国語ばかりやってきたので、日本のことがやりたくて、こういう選択になったらしい。 筆者の最初の指導教授だった人は、何度か外国に出かけている内に、たとえ西洋哲学の勉強をしていても、やはり日本人なのだからもっと日本のことも知っておくべだと考えるようになっていて、常々そう主張しておられたので、まあ筆者は多少日本のことも知っている方かもしれないが、やはり専門が第一になるし、哲学をやれば最低英独仏の三つの語学の勉強もしなければならないとなると、これは相当たいへんである。おまけに子供に障害のあることでいろいろ影響も出たりしたので、日本の方を向こうかという気持ちになったのが、50歳になる前くらいからで、梅原猛や司馬遼太郎などの本をかなり読んではいたが、なかなか東洋の思想や文学の原典を腰をすえて読もうというところまで行けなかったのが、まあ先の学生がきっかけを作ってくれてわけではないにしても、少しは日本化への方向付けを強めてくれたようである。それで一応『古今集』ということになったのだが、実際には全体を通読してもいないあいだに始めなければならなくなってしまった。検査入院というオマケつきの検査をしたせいでもある。 といって、それだけやっていると、のめりこんでしまうかもしれない。しかし、少しはなんとかしたいと思っているデカルトの『情念論』という書物のこともあるので、一ヶ月おきに、日本のことからフランスのことへと、行ったり来たりということになりそうである。 前置きがずいぶん長くなってしまったが、少しは『古今集』からの引用をしておくことにする。 寛平の御時(おほんとき)后(きさい)の宮の歌合せの歌 お き か ぜ 声たえず鳴けや鶯ひととせにふたたびとだに来べき春かは これは春の歌の最後の方に出てくる歌である。歌にあるように「確実に」今年の春も行ってしまった。 夏の歌から二つ 読人しらず 五月(さつき)まつ花橘(たちばな)の香をかげば昔の人の袖の香ぞする もちろん旧暦の五月は夏で、「昔の人」とは昔親しかった人のことだろう。 読人しらず いつのまに五月(さつき)来ぬらむあしひきの山郭公(ほととぎす)今ぞ鳴くなる。 「あしひきの」はもちろん「山」の枕言葉である。「もうウグイスが鳴いているぞ」という歌とは大違いで、今年の日本は花の咲くのが桜から始まって順送りに遅れているのは、ご存知のとおりである。 〔わが家の近況------息子は相変わらずで、偏食のひどさも変わらない。しかし今月の終わりころには、中伊豆まで一泊で少し演奏に出かけるそうである。妻もたいして変化はないが、少しは元気そうである。筆者は、例の「検査入院」のおかげで胃潰瘍になってしまった。だから病院を変わったが、今月末にはまたボウコウ鏡の検査である。だから変わりたくはなかったのだが、ああいうひどい検査は二度とごめんである。しかし新しい医者だとて、一度は自分の目で確かめておきたいのだろう。〕 |
デカルトの心理学 -----『情念論』をめぐって(1) 2005 年7月上旬 わが国の『古今集』とデカルトの『情念論』とについての、エセー風のものを交互に書くと先月予告したが、後者の一回目が、この文章である。なんかおかしな取り合わせだと思われる向きが大方だろうが、一応理由はあり、前回簡単に触れたが、今回はもう少し詳しく述べる。『古今集』は筆者の趣味的な興味の対象だが、『情念論』は筆者の専門分野でのいまだに書き残し状態の書物なので、気にかかっているという点では、共通しているのである。 実は今年の三月に『デカルトの出発』(二瓶社)という書物を刊行した。デカルトについての三つの論文を集めた100ページにも満たない薄っぺらな書物である。それもいかにも学者が書きましたという文章にすることはできるだけ避けたので、送呈した方からは、短いしなんとか終わりまで読めそうだという感想をだいぶいただいたが、はたして終わりまで専門家以外の何人の人がたどりつけたかは、かなりいぶかしいなと思っている。文章はある程度くだけていても、内容自体の難しさはどうしようもないからである。 その本の「あとがき」に本来は、『情念論』についての文章を書き上げてから書物を刊行の予定だったが、体調その他の事情もあり、今回は見送ることにする、と書いた。同所に『情念論』について次のような説明を付け加えている。新たに書いてもほぼ同じことになりそうなので、引用しておく。 「『情念論』という書物には、情念という本来受動的心理状態を能動的な状態に変化させることで、われわれの生き方をより良いものに変化させようとする意図があった。俗に言う理性で感情をコントロールするということだが、これを常識のレベルをはるかに超えた実り多いものにすることが、『情念論』という書物の目的である。もっとも誰もが知っているこのコントロールは、訓練をつんでもなかなか容易にできることではない。人間においては心と身体とがまるで一つのものであるかのようにきわめて密接な関係をもっているからである。あるいは心と身体とが一つだからである。身体が健康でも心に何らかのひずみが生じれば、身体の方にも大きな影響が出、われわれの生はしばしば困難なものとなる。そうした際には、みずからの心の状態を正確に分析すると同時に、アランがよくたとえに出した例で言えば「体操」、つまり身体を何らかの形で行動させることを通じて身体そのものを正しく活動できるよう調整すれば、心自体の悩みが完全に消え去るわけではないにしても、心の状態もある程度改善されて、われわれはより良き生を楽しむ状態にもどりやすくなる。つまり生理学的知識を大いに活用しようというわけである。これが、身体が病弱であるうえ心にも悩みの多かったオランダに亡命中のドイツ人の王女のために、デカルトが書いた処方だった。」 エリザベット王女は、デカルト哲学の心身合一の矛盾を最初に指摘した若い女性だが、哲学の問題のほかにも、自らの師としてのデカルトに心の悩みまで打ち明けて、教えをこうた。そのため、1649年にデカルトが最初に予定していなかった『情念論』という書物が刊行されることになる。そして、これがデカルトの遺著となるのである。この書物は、まずデカルトの生理学で始まるので、味も素っ気もない感じだが、なるだけそんな感じにならないように、本文の訳文の間にエリザベットへの書簡なども織り交ぜていこうかなどと考えている。 |
『古今集』夏の歌ほか(2) 2005年8月上旬 今年は最初からあわただしくて、それがずっと続いているという感じで7月終わりの採点の時期まで来た。それもなんとか片付けた。しかし、どうも前立腺炎にかかっていて、それが6月以来のもので、治りきっていなかったようで、今度で3度目である。そのたびに、排尿の際にはかなり局所が痛んだりする。最初は局所の感染症ではないかと思っていたら、今度で前立腺らしいということになり、もうそろそろ終わりに近いが、一週間分また抗生質物質を呑んだ勘定になる。これでおしまいになってほしい。来週には検査が待っているし、ウンザリ続きである。息子は障害者関係のキャンプに行ったので、今晩は留守である。 『古今集』とタイトルはつけてあるのに、なかなかそこまでたどり着けない、多病のせいとお許し願いたい。そもそも「仮名序」初めにはこんな文章があったが、有名だと思うから、大方はご存知だろう。 「やまとうたは、人の心を種として、万(よろず)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思うことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出(いだ)せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙(かわず)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(おとこをんな)の中をも和らげ、猛き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」 「ことわざ繁きものなれば」というのは、「人間はいろんな事柄とたえず接触しているのだから」といった意味らしい。「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」、といったあたりは、われわれにはおなじみの発想で、たとえば西洋人と比べれば、自然と比較的仲良く暮らしてこれたのは、こんな発想に由来していると思われる。西洋人たちにも、近頃では割合こうした発想が一般化しつつあるようだが、やはり鶯や蛙が「歌をよんでいる」などと思わない人のほうが圧倒的に多いだろう。自然の音はだいたい雑音と取る傾向が彼らには強いからである。 まして、「力をも入れずして天地を動かし」となると、「言霊」的思想のない人たちは、「いいかげんにしろ」となるだろう。「鬼神」の問題は置くとしても、引用文の最後は誰もが納得するだろう。しかし、精神性の強調が時としてきわめて危険なものとなるのは、もうすぐ60回目の敗戦記念日の戦争をひきおこし長引かせた軍人たちのふりかざしていた「やまとだましい」のことを思い出せば、理解できるのではないだろうか。 『古今集』の夏の歌は、ほとんどがホトトギスの歌である。平安時代の人間が自然の中で生活しているのも同然だったとすれば、われわれの生活はなんだということになるのか、人工的な機械の中での生活同然とでも、言うしかないだろう。筆者もふくめて都会の連中は、山にでも行かなければホトトギスの声は聞けない。ホトトギスが身近な動物だという感覚の残っている人は、日本人の中でもしごく少数派になってしまっているようだ。しかし、平安時代なら貴族たちは平気でこんなことを言うのである。 いまさらに山へ帰るな時鳥(ほととぎす)声の限りはわが屋戸(やど)になけ どうせ鳴くのなら、わが家で鳴いていてくれたらいいではないか。さらには、 三 国 町(みくにのまち) やよや待て山郭公(ほととぎす)ことつてむ我(われ)世の中にすみわびぬとよ 山へ帰るのなら、山にいる友達に「世の中がいやになった」と伝えてほしいと頼んだり、あるいは、 寛平御時(かんぴょうのおほんのとき)后(きさい)の宮の歌合の歌 紀友則(きのとものり) 五月雨(さみだれ)に物思いをれば時鳥夜深(よぶか)く鳴きていづち行くらむ 雨の夜中物思いにふけっていたら、一声鳴いてそれっつきり、どこへ行ったか心配になるではないか、とまるで友達扱いである。 |
デカルトの心理学(2) ------ 『情念論』をめぐって 2005年9月上旬 9月に入ってすぐに、わが家の3人も含めると合計7人で、三泊四日の韓国旅行をした。こちらは体調のこともあり、最初は行けるかどうか不安だったが、何とかなるだろうで出発し、なんとか無事に帰ってきた。最初の夜は日本軍の元慰安婦たちの家に泊まると聞いて驚いた。やはり過去の軍隊を主とする日本人の犯罪行為が心に重くのしかかっていたからである。しかし、韓国の人たちはやさしかった。 一番心配だったのは、息子の食事のことだったが、なんとか食べていたので安心していたら、彼にはなんの興味もないところへばかり連れて行く結果になったので、相当うんざりしたと帰ってから母親にこぼしたらしい。もちろんストレートにそんな表現はできないので、あちらに行ったりこちらに行ったりしながらだったろうが。つい、近況報告も入ってしまうが、今回はデカルトがテーマなので、デカルトの方へ行く。 デカルトの『情念論』は、まず生理学で始まっている。当時17世紀の前半には、すでにイギリス人のハーヴェイの「心臓ポンプ説」は発表されていて、デカルトも知っていたのだが、彼は自説の「熱機関説」に固執していた。心臓で熱せられた血液は膨張し蒸気となって心臓から押し出されて、身体中をめぐって再び心臓に戻るとする考え方である。今ではハーヴェイが常識だから、奇異な感じがするが、自然学でもデカルトはしっかり筋は通している。それから、もう一つ引っかかるのが、「動物精気」という言葉である。今なら神経は脳神経も含めて、電気的インパルスで情報が伝わると言うことになっているが、デカルトは「動物精気」というものがその代わりをしていると考えていた。他にも細かな点でおかしなところもあるだろうが、肝心な相違点はこの二つである。そして、この生理学で重要な点は、心身の相関関係を明らかにしておくことだった。 すでに述べたようにオランダに亡命中のドイツ人の悩み多き王女エリザベットの質問攻めにあい、デカルトは『情念論』を書かざるをえなくなる。そしてそれを始めるには、一体人間の身体の働きはどうなっているのか、心と身体の関係はといった、いわゆる「心身合一」の問題をまず知っておかなければならない。それが上の生理学だったわけである。 どうも話が硬くなるので、本論のほうは今回はこれくらいにしておいて、少しデカルトの紹介をしておく、「近世哲学の父」と言われるデカルト(1596-1650)は、言うまでもなくフランス人だが、1628年以降はほとんどオランダで暮らしていた。何の職業にもつかず、一生独身生活を貫き研究に専念していたのである。長男ではないので、母親の残してくれたいくばくかの財産でなんとか生活していたらしい。貴族は貴族だったが、いわば成り上がりの貴族で、通常は判事とか弁護士などの法律関係の仕事をする人が多かったので、「法服貴族」と呼ばれる部類に属する貴族である。オランダ転居以前、ある事件がきっかけで、彼はしっかりした「形而上学」を仕上げているという噂が広まってしまっていた。しかし実際にはほとんど何もできあがっていなかったので、「あたえられた名声にふさわしいものとなるために」、オランダで独居生活を送り形而上学の完成を目指そうとしたのである。そもそもデカルトが考えていた哲学とは、彼のたとえを引けば一本の木なのであり、根が形而上学(=存在論=神の存在や人間や世界の存在を考える学問)、幹が自然学(自然科学)、枝はすべての学問だか、そのうちの主たるものは、機械学、医学、道徳と言ったものである。そして、なかでも重要な道徳を築き上げることが、デカルトの最終目標だったが、はたすことはできなかった。 生涯独身だったことはすでに述べたが、晩年には若い身分の高い女性にモテモテで、先のエリザベットのみならず、スウェーデン女王クリスチナからもしたわれて、家庭教師になってほしいと再三言われ、ついにはオランダまで軍艦を派遣されるようなことにまでなり、仕方なくスウェーデンに赴くが、朝寝が昔からの習慣なのに、女王様は、忙しくて早朝にしか時間が取れない。それで、「思想も凍る」寒さのスウェーデンで早朝からたたき起こされたのが原因で、とうとう肺炎になり、死去することになる。デカルトは医者でもあったから、フランス公使のシャニュの面倒も見て、こちらの病気は治すのだが、自分については誤診をしてしまい、あの世に行くことになってしまった。「さあ、わが魂よ、出発しなければならない」が、デカルトの最後の言葉だった、と最初の伝記作者バイエは伝えている。 「近世哲学の父」などと呼ばれるのは、彼がキリスト教と自然科学を人間の理性という同一の基盤の上に載せ、理性の観点から両者を結びつけて考えようとし、近世のみならず、現代の「合理主義(rationalism)」への道も切り開いたためである。「合理」の「理」は理性(ratio)の「理」なのである。 |
『古今集』秋の歌など 2005年10月上旬 8月始めには、しきりと病気のことをボヤイテいるが、今月も同じようなことを書きたくなる状態である。前立腺もしばらく快調という感じだったが、昨晩あたりから少し怪しいなと思っていたら、今朝はかなり怪しくなりとうとうしばらくぶりに薬である。前回の『古今集』のときも検査のことを嘆いていたが、あれは予想と違い楽な検査だった。しかし、今回のはまたしても検査入院だから、三泊四日もかかるし、あまり楽ではないようである。もっともすでに経験済みの検査だから、比較的気は楽だが、一年のうちに三回も入院するのは初めてだし、ひょっとすると続きもあるかも知れないので、どうなるやらと気をもむことしきりである。それに結果がどうであれ、後はつらいことが待っているのに変わりはない。ボヤイテいても何がどうなるわけでもないから、『古今集』に行くことにする。 小学館版の日本古典文学全集の『古今集』の序「『古今和歌集』を読む人のために」の最初の導入部には、こうある。「『古今集』は醍醐天皇の命令により、紀貫之以下四人の選者たちが、約一千首の和歌を二十巻にまとめて奏覧に供したものである。それが歌の内容で、さまざまに分類し配列されているが、一番多いのが巻第一から巻第六までの四季の歌と、巻第十一から巻第十五までの恋の歌とである」とある(小沢正夫・松田成穂著)。西暦紀元では十世紀の歌集で、『源氏物語』に先立つことほぼ一世紀である。もちろんそれ以外の歌もあるのだが、ここでは今のところ四季の歌のうち秋の歌の一部を見ようとしているということになる。といって相変わらずズボラを決めこんでいるので、秋の歌を途中までよんだところで、これを書き出している。 秋立つ日よめる 藤原敏行朝臣(ふじわらのとしゆきのあそん) 秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる あまりにも有名な歌が、「秋歌」の冒頭にあるとは知らなかった。今年も暑くていつになったら涼しくなるやらと思っているうちに、気がつけば秋だった。 秋立つ日、うへのをのこども、加茂のかわらに川逍遥しける、ともにまかりてよめる つらゆき 川風の涼しくもあるか打ちよする波とともにや秋は立つらむ 「うえのをのこども」は殿上人たちだとのこと、「川逍遥」とは、川舟に乗り遊ぶことだそうである。 題知らず 読人しらず 物ごとに秋ぞ悲しきもみじつつ移ろひゆくを限りと思えば まだもみじには少し早いが。 是貞の親王(みこ)の家の歌合(うたあわせ)の歌 いつはとは時はわかねど秋の夜ぞ物思うことの限りなりける 「物思う」と言ったって、いろいろあるだろうが。 是貞の親王(みこ)の家の歌合わせに読める 大江千里(おおえのちさと) 月見ればちぢに物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど この文章の締めくくりの歌もまた、すこぶるつきに有名な歌ということになった。 |
デカルトの心理学(3) ------ 『情念論』をめぐって 2005年11月上旬 ここしばらくの間に息子の和生だけが健康で、親たちはだいぶ頼りない状態になっている。特に頼りないのは筆者で、10月にやった検査入院の結果報告が少し延びたりしていたので、すっかり白だと思っていたら、とんでもない間違いだった。完全な黒ではないが、きわめて危険な状態なので、治療をした方がいいということになり、先週から週に一度ボウコウにBCGを注入されることになった。注入後数日は苦しいこと限りないが、二年前にやったときよりは慣れもあるし、少しはやり方も進歩しているのか、少しは楽なような気がしないでもないが、気のせいだけなのかもしれない。その内はっきりするだろう。健康な息子は今月末ごろ近くの高校の人権教育とかの集会に妻と一緒に参加ということらしくて、毎日せっせと練習している。 さて本来の主題の『情念論』に戻る前に、そもそもここで「情念(passion)」という言葉で示されているものを、明らかにしておく必要がある。今ならかなり激しい感情を指すために使われることが多いが、17世紀頃には感情(sentiment, emotion)を示すための言葉だったので、今とは使い方にズレがあるが、デカルトはaction(行動、能動)との対比で使っている。ご存知のようにpassion(受動、情念)は、大文字で書き始めるPassionだと、「キリストの受難」つまり磔刑を指す言葉になる。そしてsentimentにしてもemotionにしても、語源的には外から「動かされる」という受動的な意味を持っている。そうなるとデカルトに言われるまでもなく、感情というものはそもそも受動的なものなのだということが明らかになるだろう。われわれは、感覚を通じてさまざまなものを知覚するが、「見たり聞いたり」の原因は、明らかに外部からやって来るが、これはいわゆる外部感覚、外感で、痛覚などの身体感覚も内感ではあるが、情念ではない。精神以外のものが原因つまり能動となって、精神のなかに生じさせる受動が情念にほかならない。そうした外部の原因(能動)が脳内にある種の動揺(精気の運動)を生じさせ、心のうちの情念となる。 デカルトは、「驚き」、「愛」、「憎しみ」、「欲望」、「喜び」、「悲しみ」を基本的な6情念と考え、これらによってすべての情念を説明しようとする。なぜ「驚き(admiration)」が情念の最初に来るのか疑問の向きもおられるだろうが、デカルトはこういう説明をしている。 「なんらかの対象との最初の出会いが、われわれを不意打ちにし、われわれがそれを新しいと判断するとき、つまり、以前に知っていたもの、あるいはわれわれがこうあるべきだと想定しているものとは、ひじょうに異なっていると判断するとき、われわれは驚き、あきれる。そしてこのことは、その対象がわれわれにとって好都合なのか不都合なのかをなにも知らないうちに起きるので、私には、<驚き>は、われわれの情念のうちで最初のものだと、思われる」 そして、その驚きの内容から、他の情念も生じてくることになる。 古代ギリシャの哲学者プラトンやアリストテレスは、「知的な驚き」が学問の端緒であるとしたが、日常生活の次元の問題である 情念も、その点では同様で、デカルトの心理学も「驚き」から始まるわけである。 以上のように出だしを整理してみると、ちょっと気にかかる不明なところがあったのがすっきりして、気にかかっていた問題の見通しも見えてきた。それで、筆者の勝手な了見で始めた本稿を勝手に今回で打ち切らせてもらうことにする。三回書いて、なるだけ分かりやすく書くには、いろいろ寄り道をしたりしなくてはならないのが、まどろっこしくなってきたからである。おいそれとは、終わりそうにないということもある。 結論だけは書いておく。すでに一回目に在るとおり、デカルトの目的は、精神の受動である情念を、精神の能動に変化させ、情念を自らの支配下におこうとするところにある。そのために身体(精気の運動)を大いに利用することになる。しかし、このことは説明よりも実行が困難であることは、デカルトも十分に心得ている、それでデカルトが最後に強調するのは、generosity(高邁の精神=自由を失うまいとする決意)ということである。かりに幾度も失敗を重ねても、generosityを失わないこと、つまり自由意志を失わないことがもっとも肝要である。高邁な精神を持っていれば、いつでも自由に再度の挑戦が可能だからである。 もちろんここでの横文字はデカルトが使った仏語ではなく、英語になっているが、学術用語に関しては、両方が似ているので、ここでのgenerosityも、仏語の心得のある人なら、容易に仏語を推測することができるだろう。どうもこの稿を書くのが面倒になってきたのは、昨日治療を受けてまだ体調が不安定な状態が続いていることが直接の原因であるようだ、と今気がついた。さっきまではかなりつらかったのに原稿の仕上げをしている間忘れていた。薬も効いてきているらしい。『情念論』にありそうな話である。 一応終わりのつもりだが、またその内----- 健康にでもなれば ----- 気が変わることもあるかもしれない。 |
わびしい話 2005年12月初旬 本来ならここは、『古今集』のコーナーだが、例によってこのところ治療でだいぶ痛めつけられていて、ほとんど元気がなくなり、映画ならなんとか見られるが、本は読む気がおこらない。実は今週は全体的に疲労ぎみで最後の治療は一週間延びることになった。たしかに医者の言うとおりで、今回は治療は害になるだけで、体力や当の身体部分にとっても良い結果は生まないだろう。後一回だから、早く終えたいのはやまやまだが、治療が中断されて、ほっとしてもいる。 そんな調子なので、学校に行っていても辛くて仕方がない。最後の日は会議まであったので疲労こんぱい、タクシーに乗って京都駅まで行こうとしたら、タクシーは何を考えているのかバス通りを走る。普通なら裏道を走るはずだからおかしいなと思っていたら、どうもわざと混んでいるところに突っ込んで、時間かせぎをしょうという算段らしいと気づいた時には、もう方向転換をしてほしいと言えない場所まで来ていた。わずか数百円のことにしても、あさましいことをやるようになったものである。運転手は「なんで混んでるのやろ」とわざとらしいことまで言う。しらけること限りない。妻や友人も同じような目に会ったと言っている。 それにしても、近頃はこの手のことが多すぎる。耐震強度偽装事件はその最たるものだろう。実際いやな世の中になったと思っていたが、この事件でここまで来ているのかと愕然とした。バレないと思っていたにしても、完全に良心なしで商売をされては、たまったものではない。被害者のことは当然なんとかしなければならないにしても、この事件のためまたまた景気の回復が遅れるのではないか、そのためさらにまたひどいことをやる人間が出てくるのではないか、などと余計心配が増えていく。なんかおかしな殺人事件ばかりが起こり続けて嫌な感じだったが、こちらの方もまだ続きがありそうである。なんでこんなに人心が荒廃したのだろう。 そうした原因の一つは、学校からも見て取れる。こちらは商売柄、毎年新しい学生を迎えているが、学生たちの頭脳の程度はほぼ下げ止まったと思っていたが、この二年ほどまた低下ぎみである。だから、教師稼業にも嫌気がさしている。教え甲斐がないのである。といって難しいことばかりやっているわけではない。多くの時間は映画を見せているのに、映画も理解できない。まあ考えてみれば、ろくでもない映画しか見ていないのだし、やっていないのだから無理もないといえばそうなのだが、二年ほど前までは二三回やれば静かになって後がやりやすいのに、何時までたってもザワザワしているクラスもある。「今どきの若いもの」のやることはよく分からないにしても、知的レベルははっきり判定できる。そして大部分の学生については、学問レベルにまで話を上げないにしても、手の施しようがない状態である。ともかく、高校までなにをやっていたのか、不思議に思うほどである。どうも一般的には、親も学校も教育能力が低下しているようである。受験教育だけが、教育だと思っている親や教師が多いのではと思ってしまう。どだい親にしろ教師にしろ、教える側が受験競争にどっぷり浸っていた人たちなら、現状は危険きわまりないということになるだろう。そして「今どきの」学生たちを見ていると、そのことが裏書されているとしか思えない。 そして当然ながら、もう一つ思うのは、倫理的な問題である。倫理とか道徳とかと大げさなことは言いたくはないが、社会の実態を見ていればついついそんなことまで考えてしまう。欧米の社会はキリスト教道徳に支えられてきたが、これも土台は相当ぐらついているようである。そして日本も含めて東アジアでは、いわゆる儒教道徳が有力だった。日本の儒教というのは、中国や朝鮮半島のものと比べればだいぶズレている儒教道徳だったにせよ、仏教と結びついて独自の位置を占めていたのではないか。いわゆる封建道徳ということになるが、昔は悪評の高かったこの封建道徳が、江戸時代に始まり戦前から戦後期までも支えてきた道徳的バックボーンだったのではないかと思う。明治以降徐々に力は弱まっていったとはいえ、日本人が曲がりなりにもしっかりしていられたのは、良かれ悪しかれこの儒教道徳のおかげだったはずである。戦後しばらくは残っていたこの道徳は、やがてとうとう消えて失せてしまい、だれもが、受験道徳を平気で受け入れ、受験とか就職試験のみが大事で、ほかのことはどうでも良いという感じになっているのようである。そのため入試のためならなんでもするという、恐ろしい世の中になってしまったのである。もちろん、文部省がこれを奨励したのだが、日本人たちもこれを受け入れ、その結果が、倫理的にはほとんど何もなくなった世の中を作り出すことになってしまったわけである。いわば、江戸期にかなり人為的に作り出されたものが、長時間をかけて人々の心に染みつき定着し、時代の動きにつれてやがて消失していった。しかし、人間に強制的にものごとを押しつける制度が消えてしまった現在では、人為的に倫理的慣習を作り上げることはほとんど不可能だろう。そして、諸外国においても、日本とほぼ同様の事態が起こっているのではないか、と思われる。 ひたすら嘆いているだけでは芸がないから一言だけ言うと、「恥の文化」のお国柄だから、各人が「良心に恥じない」行動をとれば良いわけだが、しっかりした良心を持つ人がどれだけいるかが最後の問題になる。 思ったより長くなってしまつたが、これは治療を受けなかったため、少し元気が戻ってきたためらしい。あるいはまだ頭の回転が悪くて長くなったのかもしれない。その点はお読みの方が、ご判断ください。すでに書いた和生と妻が参加した近くの高校での「人権教育」とやらは、無事に終わったようである。 |