尹 東柱



尹東柱のこと




今から十年ほど前に、NHKと韓国KBSの日韓共同制作で「空と風と星と詩−尹東柱・日本統治下の青春と死」という番組が作られ、NHKではNHKスペシャルの60分番組として放送された。残念ながら私は尹東柱のことをその頃まだ知らずに見逃してしまったのだが、その頃の私のように日本ではまだまだ尹東柱のことを知らない人がたくさんいると思われる。けれども韓国では誰でも知っているような「国民的詩人」なのである。
私が尹東柱のことを知ったのは、延世大学に行ったときにそこで彼の詩碑を紹介され、さらに日本に帰ってきたときに、ちょうどテレビのニュースで尹東柱のゆかりの地京都の宇治にある天ヶ瀬吊り橋のたもとに彼の詩碑を建てようという運動が進められているというのを見たからであった。それから興味を持って少しずつ彼の詩を読むようになった。

尹東柱(yundonju)は、1917年に旧満州国北間島にある龍井という町の近くのとても風光明媚な村(明東村)で生まれた。今の韓国もそうだが、クリスチャンが多く、村の人々も日曜日にはみんなで村の教会に行くような信心深い人々であった。そんな純朴な村に4人兄弟の長男として生まれた東柱は、運動も得意で、勉強もできたので、父は医者にさせようと思ったらしいが、本人は小さいころから文学の道に進みたいと心に決めていたので、祖父の薦めもあって、ソウルの延禧専門学校(現、延世大学)で文学の道に進むことになる。
1942年春に延禧専門学校を卒業した彼は、家族たちの期待を背に、そして本人も多分夢いっぱいの気持ちで日本にやってきたのだが、日本での日々は期待とは裏腹の悲惨なものであった。もちろん当時の朝鮮の人々は、占領国日本の皇民化政策のもとで、本来の名前を奪われ、日本語の使用を強制されていたため、尹東柱も、平沼東柱という名前で過ごしていたのだが、当初入学した立教大学には3ヶ月しか在籍せずに、すぐに京都の同志社大学に籍を移した。もしかしたら失恋の痛みに耐えかねて東京を離れたのではないかとも言われている。東京でも、京都でも日本社会の中で心を許せる人は少なく、異郷の町で孤独な日々を過ごしていたようだ。そして、同志社に移って10ヶ月あまりたった翌年1943年の7月に、突然特高警察によって逮捕されてしまう。
逮捕の理由は、「治安維持法違反」。朝鮮語で詩を書いたことが、朝鮮語の使用は独立運動につながる、として禁止した当局の逆鱗に触れたようだった。もちろん彼はこっそりとハングルで詩を書いていた。祖国の言葉も、文字も、自分たちの名前も、すべてのいとしい文化も、そして自分たちの国さえも、皇民化政策のもとで完全に消え去ろうとしている中で、それらを愛し、いとおしんで書かれた詩が、朝鮮語でハングルで書かれたのは当たり前の話です。

彼が書いた多くの詩は、当局の手でそのほとんどは闇の彼方へと葬り去られましたが、彼がソウルにいる親友に手紙と一緒に送っていた詩編が、かろうじて残っていたのです。その親友は入隊時に田舎の母親のものに「自分の命より大事なものだから」と言ってそれを預け、母親は家の床下に穴を掘ってカメを埋めて、その中に他の貴重品とともにずっと隠していたそうです。後に尹東柱の弟と結婚することになったこの親友の妹は母からこっそりそれを見せられたとき、恐ろしさに鳥肌が立ったと言っています。「内容はどうあれ、ハングル、朝鮮文字で書かれたというだけで大変怖いものでした。もし、それが外に知れたら、たいへんなことでした。」そんな人々の必死の努力の結果、彼の詩がわずかですが、人々の知るところとなったのです。
しかし、東柱本人は逮捕されて一年半後の1945年2月、福岡刑務所内で獄死してしまいます。刑務所内で何か訳のわからない注射を毎日打たれていたということですが、死因はわかりません。その注射が人体実験だったのかどうかもわからないのですが、戦時の刑務所内の過酷を極めた状況の中で、体が衰弱しきっていたことだけは確かです。それにその注射が追い打ちをかけたのでしょう。亡くなる間際、母国語でなにごとかを大声で叫んで息絶えたと言います。

詩人の茨木のり子さんは、尹東柱の弟の尹一柱氏が当時のことについて、「このごろ、父のことをよく思うのですよ。どんな思いで兄の骨を抱いて、福岡から釜山、それから汽車にゆられて北間島(旧満州)の家まで戻っていったのかと」と言うのを聞いて、「朝鮮半島の端から端までの長い道のり、当時はいったいどれくらいの時間がかかったものだろう。遺骨を抱いて、忿懣やるかたない父君の当時の心情をおもいやる息子の言葉は、どんな烈しい弾劾よりも、ぐさりとこちらの胸を刺した。」と書いています。
父は骨壺に入りきらなかった息子の骨灰を、玄界灘に撒き散らしたといいます。


尹東柱の詩碑を訪ねて




延世大学構内にある尹東柱の詩碑。校門をはいってから、かなり歩きました。小高い静かなところに建っています。 京都の同志社構内にある尹東柱の詩碑。こちらは学生でごったがえすメインストリートの雑踏のすぐわきにひっそりと建っています。


同志社の碑文です。
クリックすると拡大表示します。
同志社の碑文の横にある解説文です。
クリックすると拡大表示します。


唯一残っている日本での尹東柱の写真です。同志社在学中に英文科のハイキングで、天ヶ瀬吊り橋で撮ったもの。前列左から二人目が尹東柱。 現在の天ヶ瀬つり橋。当時とほとんど変わっていない。


つり橋の下を宇治川が静かに流れています。 訪れたとき橋は通行止めでした。この橋のたもとにも、詩碑を作ろうという運動が進められています。



尹東柱の詩




「序詩」



死ぬ日まで 天を仰ぎ
一点の恥ずることなきを、
葉あいを 縫いそよぐ風にも
わたしは 心痛めた。
星を うたう心で
すべて 死にゆくものたちを愛しまねば
そして わたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も 星が 風に−むせび泣く。


「星かぞえる夜」



季節が移ろう空は
いま 秋たけなわです。

わたしは、何の愁いもなく
秋深い星々をすべてかぞえられそうです。

胸の内に ひとつ ふたつと刻まれる星を
今すべてかぞえきれないのは
すぐに朝がくるからで、
明日の夜が残っているからで、
まだわたしの青春が終わっていないからなのです。

星ひとつに追憶と
星ひとつに愛と
星ひとつに寂しさと
星ひとつに憧れと
星ひとつに詩と
星ひとつに…母さん、お母さん、

お母さん、わたしは星ひとつに、美しい言葉ひとつずつ呼びかけてみます。
小学校の時、机を並べた児らの名と、佩、鏡、玉という異国の少女たちの名前、
すでにみどり児の母となった、小娘たちの名前、貧しい隣人たちの名前、
鳩、子犬、兎、らば、ノロ、フランシス・ジャム、ライナー・マリア・リルケ、
かれらは、あまりにも遠くにいます。
星がはるか遠いように、

お母さん、
そしてあなたは遠い北間島におられます。
わたしは何やら恋しくて、
この夥しい星明かりが降りそそぐ丘の上に、
わたしの名を書いてみて、
土でおおってしまいました。
夜を明かして鳴く虫は
恥ずかしい名を悲しんでいるのです。

しかし 冬が過ぎ わたしの星にも春がくれば
墓の上に真っ青な芝草が萌え出るように
わたしの名前が埋められた丘の上にも
誇らしく草が生い茂るでしょう。


「たやすく書かれた詩」



窓辺に夜雨がささやき
六畳部屋は 他郷(よそ)の国、

詩人とは悲しい天命と知りつつ
一行 詩を書きとめようか、

汗の匂いと愛の香りふくよかに漂う
送られてきた学費封筒受け取り

大学ノートを小脇に
老教授の講義を聴きにゆく。

省みすれば 幼友達を
一人、二人と、みな失い

私は何を願い
ただ一人 思い沈むのか?

人生は生き難いものなのに
詩がこう たやすく書けるのは
恥ずかしいことだ

六畳部屋は 他郷(よそ)の国
窓辺に夜雨がささやくが、

燈火(あかり)をつけて 暗闇を少し追いやり、
時代のように訪れる朝を待つ最後の私、

私は わたしに小さな手をさしのべ
涙と慰めで握る最初の握手。


「星うたう詩人」(三五館刊)より
「尹東柱の詩碑建立委員会」訳



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