「タチソ」と朝鮮人労働者たち




一番危険な発破作業や、坑内の重労働は朝鮮人の仕事だった。削岩機であけた穴にダイナマイトを差し込んで粘土でふさぎ、導火線の先に火をつけると、わき目もふらずにトンネルの外へ逃げ出す。壕が奥へ掘り進められると、支柱の陰や、待避のためにつくられたくぼみの中へ飛び込む。大地が揺れた。
爆破のあとは丸太で支柱をつくって落盤を防いだ。セメントが不足していたため、トンネルの入り口にコンクリートを巻いたほかは、坑内の保全は最小限にとどめられた。つるはしをふるって壕を拡げ、砕かれた岩石はトロッコで外へ運び出し、モッコで集積場までかついでいく。こうして1日に2メートルか3メートル掘り進んだ。作業は8時間労働の三交代制。二交代で働かされる組もあった。
削岩機を使うと、飛び散る岩の粉がすごい。でっかい電球が頭の上についているけれど、前は何にも見えなくなる。顔と頭にタオルを巻いて、目だけ出している。まつ毛などは雪がつもったように岩の粉で真っ白になる。珪肺にかかって苦しむ者がたくさん出た。
50本のダイナマイトを入れたリュックを背にトンネル内の岩にかけたはしごを登る途中、マイトの重みでバランスを失って転落、腰の骨にひびが入るけがを負ったのに二日間しか休ませてもらえず、作業に追いたてられた者もいた。
殴打されていた現場を目撃したという証言もたくさんある。落盤事故にあったり、竹矢来で腹部を刺し貫かれた朝鮮人もいた。牛や馬は死んだら代わりがきかんが、朝鮮人は死んでもまた連れてきたらいいといわれたという。徴兵された朝鮮人でタチソに配属され、同胞の見張りをさせられた人がいる。
工事中の事故は日常茶飯事で、大けがでなければ病院には連れていってもらえなかったようだ。朝鮮人宿舎では工事で亡くなった人の葬式が何回もあった。
当時を知る朝鮮人は、憲兵が昼も夜も巡回して監視の目を光らせていたという。谷間の出入り口にあたる磐手橋には臨時の交番も置かれて、出入りがチェックされた。

朝鮮人が寝起きしていた飯場の建物は、床が地面から30センチもない。壁は板張りで、屋根は杉皮だった。天井は板で、相当雨もりした。洗面器やバケツで雨を受けてしのいだ。床はアンペラと呼ばれたむしろが1枚。新聞紙を貼って風の吹き込みを防いだ。家族持ちは六畳一間、単身者は四畳半から五畳の部屋に五、六人。大体一棟十部屋で、50人から60人が暮らしていた。
食事は最初のうちこそ雑炊がまぜられた米が食べられたが、3〜4ヶ月目からはキビ、コーリャン、大豆が主になった。副食はしょうゆと塩、たくあん。山へ行って野草をとったり、豆でモヤシをつくったりした。
こういう食べ物のため、ほとんどの者が腹をこわした。共同便所だけでは追っつかない。野山といわず、畦といわず、用を足した。
川から水を汲んで沸かす共同風呂はあったが、いつも混んで汚かった。夏には川で体を洗った。女風呂はなかった。晩、誰もいないときに川に行ったという。生活用水は井戸水で、飲み水、洗濯など一切をまかなった。一本の井戸を十以上の棟が使っていた。

大阪府が建てた「タチソ」の記念碑。
(記念碑の中の文章は下を見て下さい。)
山中より市街地方向を見る。 このあたり一面にタチソの飯場が所狭しと並んでいた。


近くの住宅地入り口にある「タチソ」記念碑の碑文。

タチソ地下壕跡


成合の山間部に散在する三十数本のトンネル群は、高槻地下倉庫タ・チ・ソの暗号で呼ばれ、崩落が続いているが、今なお当時の面影を残し、戦争の愚かさと悲惨さを語りかけています。このトンネル工事には、周辺の地元民、動員学生のほか、強制連行その他の手段で集められた、3500人ともそれをはるかに超えるともいわれる朝鮮人労働者が投入され、多くの死傷者が出たともいわれています。アジア太平洋地域の人々に大きな災禍と苦痛をもたらしたことを忘れず、恒久平和への誓いをあらたに戦後50周年大阪府記念事業として銘板を設置する。

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