モンゴル「草原の国から」
モンゴル「草原の国から」

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モンゴル【草原の国から】 目 次


1.−交流− 遠い国モンゴル 入国には招待状がいる

2.−交流− (続)遠い国モンゴル 手紙は2カ月もかかる

3.−モンゴルの気温− この国は夏がいい ぜいたくなアジアの避暑地

4.−なぜ出かけたか− 渡航目的は二転三転 娘の結婚式に立ち会う

5.−ゆるやかな時の流れ− ゆったりとした生活 首都の道を牛が行く

6.−ゆるやかな時の流れ− のんびり生きる 「家畜は太っていますか?」

7.−ホットなモンゴルの経済事情− 二年で物価が百倍に 据置きのバス料金は0.5円

8.−ホットなモンゴルの経済事情− (続)二年で物価が百倍に 据置きのバス料金は0.5円

9.−モンゴルの自由市場− 市場ではだれが売り手か買い役か

10.―為替レ−トに関する感想― 外来者には割高か 共産圏での生活

11.−レ−ト対策中国に学べ− ちゃっかりしている中国 モンゴルも見習えばいいのに

12.−レ−ト対策中国に学べ− 中国人は誇り高き民族

13.−社会保障と経済− なぜ安くても生活できたか 要求される政治と経済の力

14.−アジアの経済事情− 金がなくては生きられない 暮らしにくい日本

15.−モンゴルの学校教育− 小学生から寮生活 四学期で九月始まり

16.−23中の教育− 特別に外国語を学べる23中学校 最近は英語や日本語なども

17.−23中の教育− つい最近までロシア語は必修

18.−モンゴルの教育− 情熱を次の世代にたくす

19.−モンゴルの教育− 仕事休んで教えなさい できの悪い子は親の責任 下手な先生は安い給料

20.−モンゴルの政治− 小国の悲しみ 首相でさえ殺される

21.−モンゴルのラマ教− ラマ教も復活のきざし

22.−モンゴルのラマ教− なんと男の四割がラマ僧に 好戦から恭順へ 清朝が異民族支配に利用

23.−モンゴルのラマ教− 曾祖父も犠牲に 破壊されたラマ文化

24.−取材と言論− 娘の夫が証言? これが4年前ならあなたは何度となく射殺されていたかも

25.−モンゴル相撲− モンゴルの相撲を見る 力士(ブフ)はみんな筋肉隆々

26.−モンゴル相撲− モンゴルの相撲を見る 寄り切りも突き出しもない

27.−モンゴル相撲− モンゴルの相撲を見る 激しいブフ(力士)の息づかい

28.−相撲以外− スポ−ツの好きな国民 若者にバスケなども人気

29.−地球の遺産− エーデルワイスやタルバガン ここは動植物の天国

30.−地球の遺産− 中央博物館は宝石箱 恐竜の卵やいん石など

31.−モンゴルの結婚式− 娘がモンゴルで挙式 迎えにきました いいですか

32.−モンゴルの結婚式− 娘の挙式 親類が大切にされる民族

33.−モンゴルの結婚式− 結婚式は厳粛で合理的 盛装の写真大好き

34.−モンゴルの結婚式− 心はみんな同じ 通訳は大使館の辺見さん

35.−モンゴル人の生活感情− 歌声が草原に流れて モンゴル人の生活感情

36.−まとめ前編− また行かなければならない国 私はモンゴルに羊を残してきた

37.−まとめ後編− 「共に生きる」援助はその国のために 君たちの国際貢献に期待する



はじめに


1992年の8月、ウランバ−トルの若者と結婚することになった次女の式に参列するためモンゴルへ出かけました。妻とふたりで。
ちょうどペレストロイカ後で、日本との交流もこれから本格的にという時期でした。
当時、私は中学3年の担任で、学年通信「十輝星」を生徒と発行していましたから、帰国後、その頃のモンゴル事情をまとめて、37回に渡って連載しました。
そのころとは変わってしまった部分も多々ありますが、読み返してみて今でも、もっと多くの若者や大人にも、知っていただきたい、考えていたきたい内容があると信じています。
今回、元の原稿に手を加え、「*注」を適宜つけてみました。ただ、生徒に話しかける調子はそのままにしてあります。
橋田 昌幸 



【草原の国から】1.−交流−

遠い国モンゴル 入国には招待状がいる


 わが家に一通の手紙が舞い込んだ。妻宛、次女からのものだ。中には夫婦のモンゴルへのインビテ−ション(招待状)が入っていた。ウランバ−トル市の第23小中学校の校長先生からのものだ。ツア−でなくこの国へ入国するためには、この書類が必要である。国交はかなり昔(*注@)からあるのだが。次女は昨年(91年8月)からここの学校で児童生徒に日本語を教えてきた。たとえインビテ−ションが要らなくても英語も日本語もあまり通じない(ロシア語・モンゴル語以外は、まずダメ)。この国の空港から出るだけでもたいへんであることが後でわかった。
 モンゴルは、1921年の革命以後、歴史的、地理的背景からソ連との友好を最上のものとしてきた。このため長い間この国へ入るにはモスクワかイルク−ツク(旧ソ連のバイカル湖のほとりにある町)から入るのが一般的であった。いずれも、汽車か飛行機で。今は、北京からも飛行機と汽車が出ており、少し便利になった。とはいえ、北京からの飛行機は週何便かしかないミヤット(モンゴル航空で、行きに乗る)と中国航空(帰りに乗った)があるだけ。JALなどは飛んでいない。しかも、日本にもミヤットの支部はあるが、この切符はわが国ではなかなか買えない。(ただし、ここ2.3年、名古屋か新潟のどちらかから夏場に週1便だけチャ−タ−機が飛んでいるもよう。)(注A)
*注@1972年2月24日外交関係樹立。
*注A現在では、関空からの定期便の他、地方からの臨時便など多数ある。



【草原の国から】2.−交流−

(続)遠い国モンゴル 手紙は2カ月もかかる


 こんなわけで、乗り継ぎの飛行機に乗るために、妻と私は北京で行きは2泊、帰りは1泊することになった。飛行機に乗っている間は、5時間半だが、実際に着くまでには、少なくともゆうに2日はかかる。
  大阪−北京     3時間20分
  北京−ウランバ-トル   2時間10分
 まだまだ近くても遠い国という印象が強い。モンゴルからの船便の小包や手紙(普通)だと2カ月近く(注@)もかかる。だから、小包の中にめったなものは入れられない。手紙も向こうから直接出さず、日本へ戻ったりする人にことづけ合うことが多い。おまけに届かないことさえある。次女の場合は、すべて大使館留めにしたせいか手紙が1回なくなっただけだったが。
*注@現在は1、2週間



【草原の国から】3.−モンゴルの気温−

この国は夏がいい ぜいたくなアジアの避暑地


涼しい。 モンゴルに着いた翌日(8月9日)は曇り。外気は、すっかり秋の気配。日本の9月か10月を思わせる風が頬を通り過ぎていく。
 コスモスの花が搖れる姿を思い浮かべながら、草原には知らない花が咲き乱れているだろうと、心をはずませる。なんと、その後街角でコスモスも見たし、大草原の中に咲くたくさんの草花、エ−デルワイスなどを見た。ぜいたくなアジアの避暑地といえよう(着くまでの時間も旅費もたいへんだから)。
 街を歩いている時、日中の外での温度計が19゜cをさしていた。その後、帰りに寄った北京は30゜cを越え、大阪に戻っても、8月中は、当然のように30゜cを越す暑さが続いていた。
 夜はふとん一枚で寝るが、明け方は寒い。目を覚ますと身を縮ませている自分に気付く。平均気温は−2.9゜c。
 ソ連が、8年ほど前に援助して建てたと聞くレンガ作りのマンション(9階建て)には、すべて2重に窓ガラスが取り付けられており、冬の厳しさが思いやられる。ウランバ−トルで、この冬一番の寒さは−30゜cぐらいだったという。乾燥しているので日本で想像するよりは過ごしやすいそうだが、それでも、こうなると冷たいというより痛いそうだ。
 モンゴルでも屈指の寒さといわれるオブス地方では、歩いている馬がそのまま凍ってしまったとか、寒さのために鹿の角がポロリと落ちたという話も聞いた。



【草原の国から】4.−なぜ出かけたか−

渡航目的は二転三転 娘の結婚式に立ち会う


 モンゴル最大の祭りナ−ダムがあるのは夏(ウランバ−トルでは7月11日から)。牧民達は、仕事はさておき、各地から集まってくる。一応、県や郡など地方毎にも行われているが、中には、競馬に出場させる子供を連れて500キロ以上も離れた所からも来るという。
 この国の最もよい季節はやはりこの頃(7月から8月にかけて)だという。だから、私達夫妻は、いちばんいい時に行ったことになる。
 しかし、招待状を手に入れたのは12月。もともと娘の陣中見舞に行くなら、雪と氷に閉ざされた冬休みか砂嵐で目も開けにくいという春休みでもいいしなどと思案していた。しかし、自分が1月に胃の手術で入院ということになったので、結局、仕事を終えて娘が帰国する直前の夏休みに、この国を観光するという手はずになってしまった。しかし、ことは予期した通りに運ぶとは限らない。
 なんと、娘はかの国の青年と、かの国で結婚式をあげたいとのこと。
 つまり、最終的には、私達は、陣中見舞いでも観光でもなく、モンゴル風の式に参列し、新しい親類にご挨拶するために出かけることになった。礼服もカバンに詰め込んで。
いつの間にやらエトランジェ(旅人)やアウトサイダ−(傍観者)の持つ冷たい目ではなく、ホットな目でこの国を見る人になっていた。



【草原の国から】5.−ゆるやかな時の流れ−

ゆったりとした生活 首都の道を牛が行く


 ベイジン(北京)空港からモンゴルに向かう。空からこの国を見る。連なる山々を越えると、どこまでも続く平原があらわれてくる。
 この広がる緑が草原。中に点々とある青いものは何だろうか。町は見えず、ところどころに白いゲルが見える。移動式の遊牧民の住居だ。縦横に走る茶色の線が道。ところどころ二重三重になっている。地上に降りて旅をしてわかったことだが、車が何度も同じ所を通れば道ができるということ。水たまりを避けて通る事が多くなれば、そこがまた新たな道になる。魯迅が『故郷』で「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」(国語の教科書249P)(注@)と言っているが、草原から草を奪うのは車である。
 次女や先方の両親などの出迎えを受けて車でこの国の首都ウランバ−トルの町に入る。人口56万、この国の総人口215万の4分の1が集中する大都会のはずだ。が、途中一度だけだったが、牛が道の真中にいてこちらを見ていた。
 国土は日本の4倍、人の数より家畜の数が圧倒的に多い。この国の、のどかさをいきなり見た気がした。生活はゆったりとしている。
*注@当時の三省堂。現在も多くの出版社が三年でこの教材を扱っている。



【草原の国から】6.−ゆるやかな時の流れ−

のんびり生きる 「家畜は太っていますか?」


 「生活がゆったりしている」と書いてしまった。(そのとおりだが、経済生活は、それどころか「火の車」である。この点については次回からのレポ−トで)
 世界がどう変わろうと、自然と共存する遊牧生活はあまり変わりようがない。数多く出会ったこの国の文化人でも時間に縛られてはいないようだ。腕時計をしていない人も多い。
 挨拶もおもしろい。当然「こんにちは。お元気?」(サイン.バイ.ノ-)で始まるのだが…。
 「『ソニン.サイハン.ヨウ.バイナ』(なにかおもしろいことはありませんか?)
 『ユムグエ−.タイバン.サイサン』(なにもありません。平穏無事です)
 モンゴル人は人と会ったとき、『サイン.バイノ−』(お元気ですか?)といってから、これらのことばを交わす。たとえ、いましがた、道端で偶然、大金を拾ったばかりでも、逆に、なくしてしまったばかりでも、とにかくまずは、『ユムグエ−』と、なにごともなかったように答えてからでないと、話は始まらない。」
 (一ノ瀬 恵『モンゴルに暮らす』より)
 この話を読んで出発したが、ついでに、もう一つおもしろい話がある。テ−マから少し離れるかもしれないが、私が草原で羊の群れを見たいと頼んでおいたせいで、ある牧民の家にお世話になった時のことだ。(後述)ここで主から受けた挨拶にはどぎもをぬかれた。もちろんモンゴル語でだが、いきなり、
「家畜は太っていますか?」一瞬、一匹も家畜を持たない自分がみすぼらしく思えた。これは、慣用句だと次女が説明してくれて、
「すばらしい休暇になっていますか?」ともう一度、主人が聞き直してくれたので、「テイ−ン」(はい)と答えておいた。



【草原の国から】7.−ホットなモンゴルの経済事情−

二年で物価が百倍に 据置きのバス料金は0.5円


 自由化が進み物資不足のためか市民はひどいインフレに悩まされている。
 ある本によると、少し前の話だが、労働者の平均賃金は550トゥグルク(2・7万円)、高級サラリーマンで800トゥグルク(4万円)ぐらいだったらしい。
 しかし、私が現地で聞いたところでは、当時は、映画の入場料が1回4トウグルク、ジャガイモが1K60ムング(0.6トウグルク)だったというから、当時の円とは、比較にもならないが。
 「ちなみにモンゴルではゲル1個の価格は6・000から1万トゥグリク(邦貨に換算して30万から50万)中の家具、調度が普通のもので数千トゥグリク(邦貨約数十万円)と比較的安価である。」
(高瀬秀一著『ジンギスカンの国へ』)
*ゲルは、遊牧民の移動式の住居。中国では、包(パオ)という。
 この本によると、昨年(’91)の1月から給料も物価も倍という政策がとられた。為替レートは長い間、1ドル2・9トゥグルクだったが、90年7月に5・6トゥグルク、翌月の初めの外貨競売では1ドル35 〜52トゥグルクになったらしい。(233P〜239P)前述( )内の引用価格は、いずれも1トゥグルク50円で計算されていたことがわかる。
 その後、毎月のように物価が上昇し、今年(’92)6月、1ドルは200トゥグルク、闇では250、公式には170ぐらいと次女からの連絡があったが、2カ月後の八月も同じだった。物価は、ここ2、3年の間に100倍になったことになる。
 博物館の入館料は10トウグルク(5円)、市民の足であるトロリーバスは1トウグルク。これは、1円にも満たない。闇レートだと、たった0・5円ということになる。値段が据え置かれているせいだろう。



【草原の国から】8.−ホットなモンゴルの経済事情−

(続)二年で物価が百倍に 据置きのバス料金は0.5円


 公共のものでも、ゆるやかに値を上げているものがある。切手がほしくて、郵便局に行ったが、同じ額面の切手を買うのに5倍の金を払うことになった。封書を出すのに大型の切手を表や裏にべたべたとはっている男がいた。こんな状況がしばらく続いたと思う。
 タクシーには何度も乗った。すべて白タクだが、市内を移動するのに100〜150トゥグルク。これでも、50円から75円だから、日本の基本料金の450円よりはずいぶん安いが、トロリーバスと比べると、やはり100倍ぐらいかと思われる。
 治安はよくないと聞いてきたが、危ない思いは一度もしなかった。金を持っているようには見えなかったからだろうか。顔は、モンゴルにいそうなタイプだし、モンゴル語を99・9%知らなくても、それをよく知っている人が必ず近くにいたし…。
 この国は、失業率も高いと聞いている。物価がどんどん上がっていく中で物を買って生きるのは大変なことだろう。それでも、みんなやさしかったし、たくましく、おおらかに生きているように見受けられた。



【草原の国から】9.−モンゴルの自由市場−

市場ではだれが売り手か買い役か


 ものを売る場所には、デパ−ト、普通の商店、市場、最近ではドルショップ(高いが品物はある程度そろっている)などがある。
 ある日、住宅街にある市場に立ち寄った。日本から持ってきたあめが底をついてきたので贈物の補充をする必要もあって。
 これが自由市場というのだろうか。
 どこからどこまでがだれの店ということはない。手に品物を持ったまま売っている人もいる。だれが売り手か買い手か、その気で見ないとわからない。少しの余り物をでも金に替えたい人もいるのだろう。
 「たけのこ生活」を思い出す。日本でも戦後、食べ物に困った都会の生活者が、高価な着物などを米に替えるために一枚一枚と売ったりしたものだ。
 野菜やふかしたばかりのボ−ズ(肉入りのまんじゅう)を売っている人もいる。電器製品を手に一つ持って寄ってくる人もいる。あめを、手に持ったまま立って売っている人も。衣類もある。これは中国から大量に買い出している人を見たが、その一部だろうか。日本での露天商とも違う。ここには物々交換に似た素朴な対話がある。青空マンツ−マン商とでも言っておこう。これも私有財産。
 自由化の波の中で生まれたものだろうか。聞いてみると昔からあったようだが、物不足もあって最近は活気をおびているという。
 雑踏の中でカメラを向けたが、「あまり調子に乗らないで」と娘にたしなめられた。これを好まない人もいるとか。なるほど、当然だろう。こんな場所では。



【草原の国から】10.―為替レ−トに関する感想―

外来者には割高か 共産圏での生活


 共産圏では体制が違うため金への依存度が薄いのだろうか。少しはそれもある。(後述)それにしても経済力は弱い。インフレ下の今は特に。
 しかし、いくら経済力が弱いとはいえ、ドル(円などを含む)で来る商社マンや観光客に同じレ−トでの生活をされてはたまったものではない。
 例えば、(今はあてはまらないが…)A国人が日本に来て0,5円かそこらのレ−トで北大阪急行を満員にしたら君でも怒り出すだろう。緑地公園駅から新大阪まで210円も払っているのに。
 「ワレワレハヤッテラレヘン」(※0,5円は前に出したがモンゴル.ウランバ−トル市のトロリ−バスの‘92年8月現在の運賃。ちなみに、同じ時、北京では1角2、5円だった。)
 このため、外国人観光客や商社マンなどは、庶民生活よりかなり割高のドルだてで支払う事になっている。
 経済の仕組み、(例えば、敗戦後レ−トは長く1ドル360円だったが‘92年8.9月の今は変動相場制で120円台だが…)は、ひずみを少なくしようとして、ひずんでいるところもある。



【草原の国から】11.−レ−ト対策中国に学べ−

ちゃっかりしている中国 モンゴルも見習えばいいのに


 旧ソ連も含めてモ・中などの人と日・米人などと負担費用が違うのはやむを得ない面がある。これは前回の電車賃の例でもわかると思う。日本でそんなに安く電力や人権費がまかなえるはずがない。
 モンゴルでは、例えば、日本に帰るため娘、香と彼女の夫ダワ−が鉄道の切符を買った。ウランバ−トル=ベイジン(北京)。香72ドル(約9100円)ダワ−8389トウグルク(約4200円)。ざっと2倍強。(体重も、娘の方がずいぶん軽そうなのに…)しかし、これではまだ、なまやさしい。こうしたやり方は、中国では格段に徹底している。中国では紙幣も外国人は別。(もっとも市内に入れば何でも使えるけれど空港など特定の場所では、外国人用紙幣以外は使用は出来ない)
 行きと帰り、合計三泊することになった「京倫飯店」での宿泊費は食事オ−ル抜きで一部屋一泊90ドル。(2人部屋、2人で1万円強)。当然他に必要な夕食、朝食は別。もちろん、味は吟味してあるだろう。量も多すぎるくらいあるが、これも、かなり高い上に税まできっちりかかっている。
 「…家賃は月50元。大学講師の月給が170〜180元というから…」(一の瀬恵『モンゴルに暮らす』)そうすると、1万円は約400元だから…。
 モンゴルからこの国まで戻って来ると、まるで中国人の2カ月分以上の給料を一晩の素泊まりで払わされているような気になる。
 明・清朝の宮殿(故宮)はみごとなものだが、中国人と外国人とでは、これまた全くの別料金。
 タクシ−も外人向けは別料金。(白タクは危険だそうだが…)。メ−タ−もあり、きっちりしていて、日本よりは割安だが、空港まで75−85元(35分−70分間)かかる。これにしても、現地の大学講師なら、往復したら次の給料日までカスミを食べていなければならない。
 こうした中国のようながめつさをモンゴルももう少し持てばいいのにと思う。



【草原の国から】12.−レ−ト対策中国に学べ−

中国人は誇り高き民族


 そう言えば思い出した。少し脱線するが、北京に着いた夜、妻と夕食の中華料理を食べた。あれこれ注文して出てきた量の多さにとまどっていると、隣に座っていた三十代の男が急に日本語で話しかけてきた。中国の海岸の都市を飛び回っているという。彼は水産加工関係の仕事で中国人を指導〔?〕に幾度となくこの国へ来ているらしい。が、中国人は「誇り高き民族だ」(失敗しても自分の非を認めない)と例をあげてぼやいていた。
 「東南アジアで海老の養殖に成功して、ここから大量に輸入しているという話も聞いていますが…」と水を向けると、
「東南アジアはまだいい。中国人は日本のス−パ−やデパ−トでの値段を調べあげて値段をつけてくるので品物によっては損をする時もある。」とぼやいていた。
 私は商人でも何でもない。さすが、「カキョウ」の国だ。私は、にやにやしながら聞いていた。したたかな中国を知らないわけではなかったが…。



【草原の国から】13.−社会保障と経済−

なぜ安くても生活できたか 今要求される政治と経済の力


 モンゴルの場合、円.ドルなどとのレ−トの違いがひどすぎる。インフレがこれに拍車をかけている。一般に物不足に悩む共産圏では、この傾向が強い。しかし、インフレとは関係のない中国でも安い賃金で働いている。
 なぜ安くても生活できるのだろう。これには体制の違いによるところも多い。例えば、教育費は寮の食費も含めて無料(教科書・学用品は自分で)だ。土地は国のもの、家(マンション)も国の建物で毎月安い家賃を払えばよい。医療費は入院の費用なども含めて無料(薬代は別)といったぐあい。
 しかし、国の保障の大きさが実際の生産力というか経済力とマッチしているかどうか。政治のあり方も含めて今後に残された課題は多いと聞く。



【草原の国から】14.−アジアの経済事情−

金がなくては生きられない 暮らしにくい日本


 中国にしてもモンゴルにしても円に換算するとめちゃめちゃ安い給料だ。次女の給料は他のモンゴルの先生より多い、2000トウグルク。しかし 1年後の今ではたった10ドル。日本でなら1日の食費にもならない。これは、極端なインフレにも原因が。それにしても…。
 逆に言えば、物価の高い日本で暮らすアジア諸国から来ている留学生は、国費ならともかく、個人で来るなどよほどのことがないとむつかしいだろう。来ても、アルバイトなしでは生きていけまい。だから、日本の大学生とは、えらい意識に違いがある。北京から大阪に向かう飛行機を待つ時、空港で出会った若い中国の女性は、日本の一人の老人(旧軍人で中隊長)の通訳をするため1カ月付き添ってきたという。静岡の大学で経済を勉強しているとか。
 また逆に言えば、その変な国日本で円を残して自国へ帰れば豊かな暮しができる。東南アジアなどからも難民を装ったり、密航したりして日本を目指す人たちが跡を絶たないのも、なるほどとうなずける。



【草原の国から】15.−モンゴルの学校教育−

小学生から寮生活 四学期で九月始まり


 広い国土に少ない人口。大草原を羊を追って移動するゲル生活の遊牧の民。その子どもたちにどんな学校教育をしているのだろうか。
 やはり、学校は、ほとんど町の中心地にある。田舎の子供たちは親許を離れて寮で生活している。三カ月近い夏休みの他、秋休み、冬休み、春休みと、かなり休みが多い。そのたびに彼等は家に帰って手伝いをする。
 新学期は9月で四学期制。
 以前は小学年.中学年.高学年と3年.5年.2年の10年だったが、1988年から小が1年延びて4年までになり11年になった。が、実施の段階で、賛否両論があって、まだ元のままでいっている所もあるという。
 なお、小.中が義務教育で、高学年に上がる時に試験があり、他校へ移る者、工業など技術系(3年)に進む者、仕事に入る者と進路が分かれる。
 また、一つの敷地内に小、中、高が全部そろっている学校と、分かれている所とある。高学年の次は大学で、日本と同じ4年か6年(医学部)となっている。



【草原の国から】16.−23中の教育−

特別に外国語を学べる23中学校
以前はロシア語ばかり 最近は英語や日本語なども


 次女が1年間、日本語を教えていたウランバ−トルにある10年制の23中学校(次は大学だし、小・中・高と含まれているのになぜか中学校と呼ぶ。この学校は外国語を特別に学べる数少ない学校である)に、ご挨拶に行った。夏休み中とあって、生徒はいない。寒い冬をしのばせる二重の窓ガラス。その廊下を小学主任のナツァッグ先生が案内して下さった。
 ここは、かなり先進的な学校で、三年前モンゴルで最初に日本語の講座を持ち、2年前から日本人(大阪外国語大学の学生)が1年ずつモンゴル語の学習を兼ねて教鞭をとってきた。したがって娘の香はその2人目。その後、1、2校が日本語学級を開設しているもよう。このように、外国語を低学年(小1)から特別に教える学校はウランバ−トルに4校、他の都市に2校ぐらいあるらしい。この23中学校では、今、日本語の他に、露・中・仏・英・韓の講座がある。ペレストロイカ、1990年からのことだ。
 以前は、ここではロシア語ばかりで、先生もモンゴル人は少なくほとんどが旧ソ連人だった。今でも教室の表示はロシア語でされている。つまり、中高生はすべてロシア語を勉強するために入学した生徒だった(出世するためにはロシア語は欠かせない言語だった)。こんなわけで、中高生は選択で上記の語を勉強できることになっているが、小学年だけは、クラスによって習う語が決まっている。ちなみに今年の9月からの小学年のクラス編成は次のようになっている。
    ( )内はクラス数
 1年生 露(1) 英(1) 日(1) 韓(1)
 2年生 露(1) 英(1) 日(1) 中(1)
 3年生 露(1) 英(2) 日(1)



【草原の国から】17.−23中の教育−

つい最近までロシア語は必修


 このように、もともと、23中のような特別な学校では、小学1年からロシア語が教えられ、しかも、ロシア人教師の手で学校も運営されていた。モンゴルの他のすべての学校でも中学年(4年時)からはロシア語は必修。(モンゴル人の教師が教えてはいたが)。
 他に、ロソア人が多くこの国に来ていたため、彼等の子供たちが通う、いわゆるロシア人学校もあり、ここでは、すべてロシア語での教育がされていた。ここにも数少ないモンゴルのエリ−トたちの子弟が通学していた。香がこの国に来た頃に下宿してたゾリク氏の二人の娘さんもここに通っていた。91年に廃校になるまでをアルバムを見ながら、次女のアリオンナが説明してくれた。長女のセレンゲはブルガリアに留学中。このように成績のよい生徒たちは、23中の生徒も含めて国費でヨ−ロッパの共産圏諸国に留学していた。



【草原の国から】18.−モンゴルの教育−

情熱を次の世代にたくす


 成績のよい生徒は国費で留学と書いたが、この国の教育にかける、言いかえれば、次の世代にかける意気込みの強さに共感を覚えた。それは、明治以後の日本人が考えた富国強兵策とは違うが、文化吸収への共通する情熱のように思えたから。
 ただ、この国の教育に対する熱の入れようは、ややせっかち。きちんと習得させることに最大の重点が置かれているようにも思えた。



【草原の国から】19.−モンゴルの教育−

仕事休んで教えなさい
できの悪い子は親の責任 下手な先生は安い給料


 モンゴルでは、教えられる内容を子どもがきちんと理解しているかどうかは、親にとっては重大な関心事でもある。(*注@)
 素行も含め大変悪いと見なされた場合、ごくまれだが、親は学校に呼び出され、子どもがわかるようになる、あるいは、よくなるまで、父または母親がついて教えなければならない。1カ月とか、半月とか。その間、親には給料が入らない。それでも十分な効果が上がらない場合は、子供は病院で診断を受けたり、転校を勧められたりするというケ−スもあったというから厳しい。これは2年前までは徹底していたが、最近では少しゆるくなってきたと言う。逆の場合は現在も生きているが、親も鼻が高い。
 「…10年間オンツ(成績優秀)であれば、試験なしで大学に入ることが出来る。オンツをとるかどうかはかなり重要で、年末にオンツをとった生徒には、学校や文部省や驚くべきことに父親の職場からも菓子や文房具などのプレゼントが贈られる。」(『地球の歩き方 モンゴル』より)
 オンツとは5段階の5で本来100%できたの意。4がサイン。以下ドント,モ−,オンツモ−と続く。
 ただ、最近では、事情が少し違って児童生徒の成績は教える側の先生にも責任があるとされるようになった。仕事が給料にはね返ってくる。その評定にしたがって金高が上下するという話も聞いたが、本当だったら私なんぞは、かなり安くなるだろう。
*注@現在では、逆の場合も含め廃止されている。



【草原の国から】20.−モンゴルの政治−

小国の悲しみ 首相でさえ殺される


 清朝とロシア帝国。ソ連と中華民国、中共。ロシアと中国。政権や呼び名は変わっても二つの大国に挟まれたこの国は、たえずどちらかの圧力を受けながら存続してきた。その昔、チンギスハ−ンの時代を除いて。
 とりわけ、ソ連の力を借りて独立してからは、この国の力が色濃くモンゴル人の生活に入り込んできたことは、前回まで連載してきた教育の姿を見てもわかると思う。
 国民の英雄チンギスハ−ンはキプチャック汗国(モスクワなどのあった所)などを侵略した悪者とされ尊敬することは許されず、モンゴル文字も廃止され、キリル文字(ロシア語を表字している文字)が使用されてきた。
 放送も、モンゴル放送と同じチャンネルでモスクワからの放送を聞かされてきた。領土問題でも、オブス湖辺りの線引きには、不明朗な点があるとか。
 民族的なもの、民族主義的な発想は分裂主義として廃され、ソ連の国益に添わない政府の要人や軍人は監視され、粛正(シュクセイ)などの名のもとに抹殺されてきた。首相や将軍でさえ殺されたらしい。
 ただ、このあたりは、今度の旅で重点を置いて取材したわけではない。『モンゴル民族と自由』〔田中克彦著・岩波書店〕にくわしいので関心のある方は読んで欲しい。次回から宗教に関する面だけ少しとりあげておこう。



【草原の国から】21.−モンゴルのラマ教−

ラマ教も復活のきざし


革命政府の中で厳しい弾圧を受けたラマ教は、民主化後、また各地で復活しつつある。
 8月16日、ただ一つ、その時代でも活動を許されたというガンダン寺と、ラマ教の史跡、ボグドハン宮殿博物館を訪ねた。
 ガンダン寺では、中の大仏はモスクワに持ち去られたという大仏殿(観音堂)の修復工事が行われていた。(*注@)
 日本の寺院でもよく見られるように鳩がたくさん舞っていた。中国風の建物だが、犬や象の彫刻は精巧とはいえない。
 尺取り虫のように、前進する修行を略式でする台も置かれていた。境内にはひと目で田舎から来たとわかる古びたデ−ル姿(民族衣装)の人たち、赤ん坊を抱いた若いお母さんの姿も見えた。内モンゴルからも来ると見えて分〔フエン・中国の小額コイン〕も、おさい銭の中にあった。黄色に赤の袈裟をまとった僧に特に頼んでもらって、お堂の中も拝観させてもらった。毎年、多数のお布施が集まり、慈善事業に寄付されているという。
 ボグドハン宮殿博物館には、モンゴル最後の活仏で、1921年にモンゴルの君主となったボグドハンの冬の宮殿と七つの堂が残っている。中には、ラマ教や彼の豪華な遺物が並べられていた。



【草原の国から】22.−モンゴルのラマ教−

なんと男の四割がラマ僧に
好戦から恭順へ 清朝が異民族支配に利用


 このラマ教は、モンゴルでは、その昔盛んに行われていた。これは、チベットに起源をもつ仏教である。他の仏教の教派より、ラ(上)、マ(人)、つまり、上人(しょうにん)への帰依が強い。毎日の勤行(ごんぎょう)の他に、学問研究をする点にも特徴がある。
 この国への伝承はかなり古いらしいが、本格的な導入は、フビライが13世紀に元を建て、これを奨励したことに始まる。十六世紀以降、中国文化に対抗する政治的な狙いもあって、チベット文化を採り入れた向きもあった。いずれにしてもこの国にしっかりと根づいてきた。
 とりわけ、清朝は巧みにラマ教をチベット、蒙古などの異民族統治のために利用したとして、高瀬氏は次のように述べている。
「災厄を運命としてあきらめる無抵抗主義や、現世の幸福を求めるための闘争を否定するラマ教の教義は好戦的なモンゴル民族に恭順の精神を植えつけるために好都合で、それが、強固な信仰となった結果、モンゴル人はかつての勇気を失い、また人々が好んで子弟をラマ僧にするようになって、ラマ僧という非産的活動に従事する人の数が著しく増え最盛期にはモンゴルの男子人口の40パ−セントにまで上ったとさえいわえる。それが民族衰退の主因になったという人もいる。」
(『ジンギスカンの国へ』高瀬秀一より)
男子の4割がラマ僧、革命党はこの大勢力との戦いを重点課題とした。



【草原の国から】23.−モンゴルのラマ教−

曾祖父も犠牲に 破壊されたラマ文化


 政治経済・文化・学問の中心として栄えたラマ教は、人民革命党よりも根強い勢力を誇っていた。このため、あの手この手を使って締めつけをしていたが、1937年と翌8年、いよいよ実力行使に踏み切ったという。何万人にものぼる僧侶が逮捕され、拷問にかけられ、処刑されたという。今となっては定かな数はわからない。
 娘の夫、ダワ−の母方の曾祖父もこの年に銃殺、犠牲者の一人であったとか。祖父も隠れラマだった。健在の祖母から、その状況を聞くのは、初対面でもありとてもできなかった。
 こうしてラマ教に支えられた文化は破壊されてしまった。わずかに残された建物としての寺院に、血が通うようになるのはいつのことであろう。



【草原の国から】24.−取材と言論−

娘の夫が証言?
これが4年前ならあなたは何度となく射殺されていたかも


 メモを片手に精力的に取材した内容は、こうして次々と連載されている。たかが「十輝星」という学年新聞に。
 でも、こうした取材は簡単なものではない。23回まで読んだかぎりでは 娘の夫(ダワ−)の話によれば、少し前なら十分射殺に価するスパイ行為。その連続にあたるという。
 逆に言えば、つい最近まで、命をかけなければ書けなかったことを書いているということになる。私が書き続けているのは、この国のことを、ほめるとかけなすとかいった問題ではない。多くの人に真実を知って欲しい。その社会の課題を考えて欲しいと願うジャ−ナリストとしての心だけだ。
 治安や物質だけではなく、表現や言論の自由に恵まれた今の日本に生きている幸せに気付く。反対に、不幸の数々が、今もなお、世界のあちこちにあるだろうということにも。(日本の今がすべていいとは決して思わないが)。同時に、君にも世の中(世界も含めて)のことをもっともっと認識した上で、地球のすべてのもののために貢献してほしいと思う。



【草原の国から】25.−モンゴル相撲−

モンゴルの相撲を見る 力士(ブフ)はみんな筋肉隆々


 本意ならずも、つい深刻な内容が続いてしまった。楽天的な私としたことが…。このあたりで話題を変えよう。
 滞在中、ラッキ−なことにモンゴルの相撲を見る機会に恵まれた。8月16日、医者をしている義理の兄がベンツで迎えに来てくれた。(こんな高級車にモンゴルで乗せてもらうとは思ってもいなかったが、私にはマイカ−、ホンダのインテグラの方が好き)。いつもならこの相撲ブフは、ナ−ダム(7月11日の革命記念日に開かれる最大の祭典で、イベントは、少年少女による競馬、老若男女による弓と成年男子によるこの相撲が中心)の時など、年に4、5回行われるだけだから観戦をあきらめていたのだが……。
 ちょうどこの地でモンゴル研究会議(主な参加者は国内の外に、露・日・米・中・独などの各国が主だという)が開かれそのアトラクションとして、この日、開かれた。貴重な切符を手に入れてくれていたのだ。発行数はごく限られたものだったようで、会場はがらすき、私と妻は学者のような顔をして、観戦した。
(時々いろんな顔をしなければならない。)
 ウランバ−トルの体育館(たしか、勤労者文化宮殿)で初めて目にしたモンゴルの力士(ブフ)は、全員筋肉隆々きりりと締まっている。日本のそれのあんこやゆるんだ肉の体には、お目にかからなかった。国技だがプロはいない。



【草原の国から】26.−モンゴル相撲−

モンゴルの相撲を見る 寄り切りも突き出しもない


手をついても負けではない。ひじ、ひざ、腰などが地面についたり返されると負け。体育館には、じゅうたんが敷いてあるが、もともと草原での競技。土俵のようなゾ−ンはない。だから、日本の相撲のように寄り切りや突き出しといった決まり手はない。島国日本との国民性の違いがル−ルの上にもあるのかと思った。試合はト−ナメント方式で行われ8人の力士(ブフ)が一斉に試合を始める。格の上の人が順に対戦相手を選べるらしい。選手はいずれも有名な人物らしく中でも呼び声の高かったのは、今年のナ−ダムで二位になったというムンフエルデンと柔道の世界大会で二位になったことがあるというバルジンニャム。
 勝った方は右の方に立っている旗の周りをゆうゆうと手を広げてまわる。
 私は、よい写真をとりたくて二度も観客席から競技場に降り立った。控えのブフを写した時、フラッシュをたいたのがまぶしかったのではないかと、礼をすると先方も三人ほど一斉に礼を返してくれた。



【草原の国から】27.−モンゴル相撲−

モンゴルの相撲を見る 激しいブフ(力士)の息づかい


 長い試合になると五分十分と続く。しかも、ト−ナメントは1回で終りではなく最後の1人になるまでその日のうちに決着をつける。だから、かなり体力を消耗する。いよいよ最後の二人になった。バルジンニャムの体からは引き続く試合で汗が吹き出している。その相手も疲れているのであろう。二人の激しい息づかいまでが聞こえてくる。長い時間の結果、相手方が勝った。名をダワ−ジャウというらしい。後で知った事だが、彼は以前強かったブフで、モスクワ五輪、レスリングの銀メダリストだとのこと。
 ナ−ダムではもっとハ−ド。1回戦には、普通512人がエントリ−されて一斉にゲ−ム開始。優勝までの9回戦を二日間で戦うというから、スタミナのない人はどうにもならないだろう。
 このナ−ダムの前だけは彼らは1カ月も前から酒を断ち、女性ともあまり話をせず、田舎にこもったりしてトレ−ニングに精を出すという。ただごとではない。



【草原の国から】28.−相撲以外−

スポ−ツの好きな国民 若者にバスケなども人気


相撲以外にモンゴルで見たスポ−ツは、小さな子供たちが棒切れをバットがわりに使う野球に似た遊びぐらい。しかし、野球はまだこの地では始まったばかり。今年日本の少年野球チ−ムがこの国に行って道具一式をプレゼントしたという記事を読んだ。以前から相撲・柔道・レスリング・ボクシングなどの格技の他、若者にはバスケット、バレ−ボ−ルに人気がある。卓球も盛ん。水泳は苦手な人が多いとか。自転車やアイスホッケ−も盛んになってきている。全般的にスポ−ツは好きな国民と聞いた。



【草原の国から】29.−地球の遺産−

エーデルワイスやタルバガン ここは動植物の天国


 ワンダン家とその親類のお世話で二、三度田舎に出かけた。
 暮れようとする深い山あいの谷や、どこまでも続く草原に立つと、詩人でなくても自然の神秘さや人間の小ささに思いをはせる。
 8月は野の花の季節か、信州の高原や蔵王で見たエーデルワイスやチングルマも咲いていた。その他、名も知らない背の低い草花が、所狭しと咲き乱れていた。
「山路来て 何やらゆかし すみれ草」 −芭蕉−
 誰が植えたわけでも、近くに柵があるわけでもなく。
 昼間見たチョウやハチやバッタはどこかで休んでいるのであろう。車で移動したりちょっと立ち歩いたりしていると、ひょっこり珍しい動物に出くわすことがある。愛嬌のあるナキウサギや、はにかみやのハリネズミ。ゆうゆうと飛ぶワシ。放牧されている家畜の群れは言わずもがなである。自分で堀った巣穴で暮らすタルバガンが、夕方顔を出して立つようなしぐさであたりを見まわす姿もかわいい。
 冬の厳しさを除けば、モンゴルは動植物の天国である。人口密度が、1kuあたり2人に満たないと聞くと、なるほどとうなずいてくれるだろう。これらの自然は、今や大切なわれら地球の遺産ともいえる。



【草原の国から】30.−地球の遺産−

中央博物館は宝石箱 恐竜の卵やいん石など


 地球の遺産と言えば、ウランバ−トルにその宝を集めた場所がある。国立中央博物館である。休館日の火曜に中へ入れてもらったので、カタログを買えなかったのが心残り。中は、自然と歴史と民族学の分野に分かれていて、ぜひ見たい場所。特に自然科学に関するコ−ナ−がすごい。
 各種の恐竜の骨や卵が展示されている。ゴビの一角に分布する中生代白亜紀の地層から、たくさん出てくるという。山羊や羊や馬の祖先のはくせいがいる。(馬の祖先タヒは絶滅の危機にひんしている)。珍しい植物もある。例えば、ゴビにある金色の枝をした木。さまざまな岩石の標本がある。この国にはあらゆる地層、あらゆる鉱石があるという。巨大な隕石が、ポンと置かれた場所に出る。まっ黒い地肌、何トンあるか。宇宙のどの星から分かれて、どんな旅をし、地球に吸い寄せられたのであろう。
「名も知らぬ遠き星より…」藤村の椰子の実よりはるかに重い。



【草原の国から】31.−モンゴルの結婚式−

娘がモンゴルで挙式 迎えにきました いいですか


 お正月だからちょっと、はなやいだ話題にしよう。はじめに書いたように、昨年の8月、次女はモンゴルの若者ダワ−と結婚した。式の朝、彼は私たち夫妻の部屋に来て、たどたどしい日本語であいさつをした。娘から言い方を習ったのであろう。
「きょう、8月10日、前に話し合いましたとおり、あなたがたの娘さんを正式に妻とするために迎えに来ました。いいですか」
 私は日本語しか話せない。急なことだったから気のきいた言葉も浮かばなくて、
「かわいがってやって下さい。どうぞよろしく」と、答えておいた。
 式場は、市の中央付近にある。ギリシャ建築を思わせる建物だが、仏教でもキリスト教でもない。ウランバ−トルにただ一カ所ある結婚式をするための役所だそうだ。しかし、意外におごそかな雰囲気だった。
 原色のデ−ル(民族衣装)に身を包んだ親類の人たちが40名ぐらい集まっていて、礼服の私たちに口々に挨拶をしてくれた。彼が近くで紹介し、娘が通訳してくれるが、こんなにたくさん、一度に覚えられるはずがない。中には、ずいぶん遠くから来てくれた人たちもいた。
 親類を大切にする民族性のあらわれであろう。このことは後でもっと強く感じることになる。



【草原の国から】32.−モンゴルの結婚式−

娘の挙式 親類が大切にされる民族


 というのは、式の二日後、父方の親類一族と小さなバスを借り切っての一泊する遠出を組んでくれた。遊牧生活を見たいという私の希望もあってだろうが、母方の親類や友達とも田舎の牧民のゲルヘ、やはり小さなバスを借りて出かけてくれた。
 他に、父方、母方それぞれの親類からの招待で、親類と楽しい一時を過ごすことになる。
 モンゴルの披露宴は2、3日かけて行われると聞いていたが新婦ともども、その両親として、形を変えて似た歓待をしてもらったことと察している。
 話を元へ戻そう。会場に入る。当然、新郎と新婦が先頭。その両サイドに親類の女性が介添役で付く。
 新郎の横には父親の妹ソロンゴ、新婦の横には母親の弟の妻ナラントヤ。その後に親類が続く。正面に向かって左側に父親方、右側に母親方、私たちは母親方と同じ列の前の方に並ぶ。長老から順。私の方は母方の祖母が先頭で、たしか私は3番目だった。



【草原の国から】33.−モンゴルの結婚式−

結婚式は厳粛で合理的 盛装の写真大好き


 美しいデ−ルに身を包んだ人が多い。中央に立って式をとりしきる女性の役人もその姿だ。彼女のあいさつの後、新郎と新婦が署名。続いて介添の二人も。指輪交換。二人の子供から花束をもらう。新郎の父親がハタックの上に置いた器を二人にささげる。中にはミルクが入っているらしい。固めの杯か。さしずめ日本の三三九度のような儀式だ。
 いきなり、私に、ただ一人だけするという祝辞がまわってきてあわてた。打ち合せでは披露宴でスピ−チをするということになっていたので、その時だけだと思って安心して写真を撮ったりしていたのに。その上、通訳をする娘、新婦が次のせりふをせかすしぐさを一度したもんだからよけい緊張した。
 それが終ると全員で乾杯。お菓子が配られておひらき。宗教とは関係がないのでお祈りやおはらいのような儀式はない。厳粛で合理的だと思った。
 式の後、何枚も記念撮影をし、披露宴会場に向かう途中スフバ−トル広場に立ち寄り再び記念撮影。いろんな組み合せで次々に写す。みんな写真に撮られるのが好きだ。さながら撮影大会。新郎の弟ナサと私は大忙しのカメラマン。
 革命の英雄、スフバ−トルの銅像をバックにしたり、政府省庁(国会議事堂)を遠影にしたり。時には、あなたも入れと誘われたり。



【草原の国から】34.−モンゴルの結婚式−

心はみんな同じ 通訳は大使館の辺見さん


 披露宴は午後、大きなレストランを借り切って行われた。会場はチェコ料理の専門店「プラハ」。中身はモンゴル民族のお祝いの料理。
 総勢130名、ほとんどがモンゴル人。日本人は、20名に満たない。大使館の日本人職員全員(大使夫妻を除く)、海外青年協力隊の人、留学生の友達、ただ一人の顔見知り荒井教授(大阪外大)などが参加してくれていた。
 まず、お客が着席するとお茶が配られる。新郎の父がハタック(神聖な布)の上の器についだ牛乳を二人に手渡した後、頭付きの羊の肉にナイフを入れる。
 ウエイトレスがアイラグ(馬乳酒)を配る。祝詞(のりと)。白い酒での乾杯。新郎がたの親戚紹介が済むと今度は私の出番。日本側の参加者紹介と両家を代表してのスピ−チ。大使館の辺見さんが手際よく補佐してくれた。(1カ月近く練った文章だったがもう読み返す気はしない)2度目の乾杯。(食事も最初と2度目に分かれている。
 親類の叔父がオルテンド−(モンゴル民謡の一種)を歌い始めた。よく通る美しい声である。その歌の勉強にきている東京の伊藤さんは沖縄民謡を聞かせてくれた。特別ゲストに男女のプロ歌手もいて、その声に唱和する風景も見られた。新しいカップルに祝福とプレゼントが続く。じゅうたんをもらったりキスを受けたり。最後にアイスクリ−ムを食べ、新郎の挨拶でお開き。
 夜は、雑誌社「さくら」から記者が取材にきた。主に新郎と新婦に。私は、「モンゴル人も日本人も心はみんな同じ」と、妻は、印象として「人と人とのつながりが強い」と言っていた。翌日、少し新聞やラジオで式のもようが「成功した」と報じられた。



【草原の国から】35.−モンゴル人の生活感情−

歌声が草原に流れて モンゴル人の生活感情


 最後に腰を落ち付けて書いてみたいと思っていたのがモンゴル人の生活感情について。しかし、時間がなくなってしまったので残念ながら詳しく述べられない。
 緯度が高いので8月は夜が暮れにくいので午後十時でも十一時でも人が訪ねてくる。そうすると、お茶を出したり酒を出したり…。電話のある家は少ないらしいが、これもしょっちゅうかかってくる。「サイン…」「バイノ−…」などと大声でやり合っている。
 日本における東京、韓国におけるソウルのように、ウランバ−トルはモンゴルの全人口の四分の一がひしめく大都会だが、休暇にバスを貸り切って遠出をするのも、ここの人達の楽しみらしい。親類や親しい人々とマイクロで。そんな時、車の窓から果てしなく続く草原に向かって歌声が流れたりする。林間のバスレクの一コマのように。年輩の女性たちのくったくのない歌声や笑い声が続く。歌は、男性よりも女性に好かれているようだった。



【草原の国から】36.−まとめ前編−

また行かなければならない国 私はモンゴルに羊を残してきた


 ペンを置く時が来た。早いものだ。半年近くもこのシリ−ズは読んでもらったことになる。モンゴルはみんなにとって未知の国、以前とは違った目でこの国や住んでいる人を見てもらえる素地ができたかな。私も半月にも満たない旅、不十分なことばかり、現にしたいこともいっぱい残してきた。近いうちにぜひまた行きたい。
 遊び心はいっぱいふくらむ。もともと遊び人だからねえ。
 ゴビ砂漠を馬で走ること。満大の星をそこで見ること。タルバガン(リスやモグラに似た動物)のハンティングをすること。魚を釣ること。カラコルム(ハラホリン)の遺跡を見て歩くこと。ハルハ河戦争(ノモンハン事件)の真相を知ること。この国にもいた日本人抑留者の実態を知ること。カシミア工場の見学をすること。たくさんの親類や知人と飲んだり話したりすること。
 みんな、金をためていっしょに行ってみないか?何回も私は行ってみたい…。そう言えば、私はモンゴルに羊を残してきた。田舎に行った時、主賓だったせいもあって牧場主から羊を一頭もらってネ。殺してもいいし、持って帰ってもいい。ここに置いておいてもいいと言う。
「預かっておいて下さい」と言うと、
「次、来る時は子供を産んでいるでしょう」と笑って答えてくれた。何人行っても二、三日はあれで食べられる。それにしても彼は、せいかんな体と顔のモンゴル人だった。 あの羊もあの人も今頃寒い冬をどこでどう過ごしていることか。



【草原の国から】37.−まとめ後編−

「共に生きる」援助はその国のために
 君たちの国際貢献に期待する


 ソ連の抑圧から脱して新しい国作りを模索しようとしているモンゴル。体制の変化。生産の片寄り。東ヨ−ロッパから流通しなくなった物資。インフレによる経済の破綻。
 日本などからの経済援助も急速に伸びてはいるが、どうすればより良い生活ができるか、今何を考えるべきか。双方の課題としてほしい。私は、この国のための援助を望む。彼等の生活に直接的に役立つものであってほしい。金があるなら、長い目で見て相手に喜ばれるような援助をしてほしい。企画が金もうけするための援助であってはいけない。
 例えば、食生活の多様化や安定をはかるため、魚(彼等は、これをほとんど食べていない)の分布や種類を調べ、その料理法を教えること。また、この寒冷地に促成抑制栽培の技術を伝え、冬でも新鮮な野菜を供給できるようにすること。工業生産のための施設や技術を提供すること。各分野の留学生を日本に呼んでやる資金と制度を作ること。すぐ私が思いつくだけでも重要な課題はいくつもある。
 こうした考え方はモンゴルに留まらない。日本の近くの国々に目を向けるだけでも、東南アジアの人々の生活の問題。カンボジアの和平をめぐる問題。南北統一に責任さえ感ずる韓国と北朝鮮の問題。
 私たちにできることはないか。私は、現代の社会に小さな影響力しか持たない教師。きみたちは、まもなく卒業する新しいエネルギ−。これからの世代の人。世界を視野において生きてほしい。そんな願いを込めてペンを置く。


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