「デカルトの出発」(布施佳宏著)

教科書風の月並みな言い方をすれば、デカルトは「近世哲学の父」であり、フランス人流に言えばきわめつきの合理主義者だということになる。誤解のないように念を押しておくと、合理主義の本来の意味は、「理性に合致していることのみを尊重する考え方」を指し、通常の日本人の使いかたからずれているが、そういう意味もあるので必ずしも間違っている、とは言えない。
数学者であり自然科学者であり哲学者でもあったデカルトは。人間も含めた世界を全体として科学的に見る科学的世界観を最初にとった哲学者である。以来今や世界中が、デカルト的世界観を基本にして世界や人間を見ているわけだから、広い意味ではだれもがデカルトの影響下にあるということもできよう。もっとも近頃の日本では、科学の行き過ぎた人間に害をおよぼす部分もデカルトのせいにして、デカルト思想を非難したりする人もいたりするが、見当ちがいもはなはだしいだろう。科学的成果の影響をよく考えず金もうけの手段にする人が多すぎるから弊害が生じるのである。デカルトをよく読めば、こういう点にも慎重だった人だということがよくわかる。そしてもちろん理性をみごとに使用する合理主義者だったこともわかる。
自閉症関係のホームページにデカルトの本が出てくるのはいかにも奇妙に思わるかもしれないが、実は筆者にとっては、これほど密接な関係のある本もないのである。哲学のほうで まあなんとか一人前になった四十歳のころに自閉症関係の本を続けて二冊翻訳することになった(『自閉症児と生きる』、A,ブローネ他著、紀伊国屋書店刊、『自閉症児の表現』)。A.ブローネ他著、二瓶社刊)。息子の状態がかんばしくないので、親も少しは勉強しようというわけで、しろうとながら翻訳に挑戦したのである。おかげで哲学という本職にとっても大切な四十代のかなり多くの時間を自閉症に振り向けることになった。これはデカルトを中心とする哲学の勉強には大きなマイナスだった。そういうことをしていなければ、デカルトの本の厚さは倍くらいになっていたかもしれないし、単著の本がもう一冊くらいかけていたかもしれない。おまけに、ほとんど同時に出版されたので、同時にたしか朝日の広告に出たことも、今となればなつかしい思い出である。。同僚だった政治学の教授が、こんなにやさしい言葉で哲学の本が書けるとは思わなかったと言ってくれた。たしかに筆者もなるだけやさしく日本語らしい文章にしたかった。もともとデカルトもいわゆる専門用語をなるだけ使うまいとしたのも事実である。しかしそれはともかく、この本をしっかり読めば理性と人間と世界の骨組みが分り思考力の向上にに寄与するところがあるのは、確かだろう。