ジョン・フォードの『馬上の二人』

 健康状態は相変わらずで、とうとう医者の勧めで「介護保険」の認定を申請することになった。しかし動くと息が苦しくなる按配だから、散歩程度でもむやみと外出はできないが、寝たきりになったわけではないから、なんにもしないと退屈だから、これを書いている。何本も映画を見たが、『馬上の二人』(1961)でやっと映画を見たという気分になったので、書くことにしたのである。
 「馬上の二人」というタイトルだけから見れば、馬に乗っている二人の人間とも取れかねないが、実は一頭の馬に相乗りしている人間という意味である。それも事実相乗りしているわけではないから、精神的な意味での相乗りということになる。
 たぶんテキサス州の近辺らしいある町で保安官(ジェームス・スチュアート)をやっている男のところへかなり遠方から十人くらいの軍人(陸軍)が訪ねてきて、その保安官に頼みたいことがあると上官から言われたと言う。気乗りはしないが指揮官(リチャード・ウィドマーク)は友人だし、軍隊からの依頼だから、しょうことなしに遠方の軍隊まででかけると、薄給で、コマンチにさらわれた子供たちを取り戻してきてほしいと依頼される。保安官はコマンチとも連絡がとれて有能な男だが、金には細かいので、一部落ほど子供の救済に来ている人たちから、金を巻き上げることにして、やっと引き受ける。もっともさらわれた子供といっても古くは20年まえにもさかのぼるし、それほど時間がたっていれば、子供じたいがひどく変化しているだろうと、保安官は前もって言う。それでも親たちは救済を願う。
 そこで保安官と、金のことでは剣呑で仕方のない保安官のみはりもかねて、先の友人の軍人の二人は出発する。コマンチの酋長に出会い、交易違法な銃などと交換の条件をもちだすと、酋長は10代の少年と攻撃隊長の妻となっている成人の女性を連れて行くことを許可する。
 そしてついには、人々のもとに二人を連れ帰るが、連れ帰った少年はまだ十四五で、幼い時に連れ去られたので自分はコマンチだと思い込んでいて、すきがあれば逃げ出しそうなので、縛られてしまう。女のほうはスペイン系の成人だから、逃げ出しはしないが、本来仲間のはずのひとたちから、コマンチがらみの失礼な質問ばかりされるので、困惑し当惑している。出発前に保安官が予告していた通りになる。時間がたちすぎたのである。この映画はたしか学生時代に東京でみたはずだが、ほとんど記憶にのこっていない。たぶんここらあたりのさらわれた人間の心理の変化がよく分からなかったからではないかという気がする。西部劇でここまで立ち入った俘虜の心の変化を描いた映画はこれ以外には見ていないと思う。
 少年は食事をとらせようとした母親にいましめをとかれたとたん、殺してしまい死刑にされてしまう。女のほうはなんとか苦境を脱するが、頼みの綱の保安官べったりとなり、保安官がもといた町までついてくる。戻ったみると保安官は首になっていて、金づるのバーをやっていた恋人は、新人の保安官にうばわれてしまったようなので出発することにする。同行してきた友人の軍人は金づるの女を簡単にあきらめた元保安官を見て、「馬上の」もうひとりとして、「やっと彼もひとなみになった」とのたまうところで、The Endである。
 書き終えてみて、この種のアクション映画は、やはり見なければ良さは十分分かるまいと、ある程度予測していたとおりになったと思った。

2012年8月中旬

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