溝口健二『残菊物語』(1939)

 例により「目出度くもあり、目出度くもない」正月をすごしたが、妻は肩や首がこって調子が悪そうだし、息子は息子で何だか様子がおかしくて、十一月の終わり頃からギターやピアノの練習はほとんどせず、レッスンにも行きたがらないので、進歩の前の停滞かなどと言っていたら、こちらも肩が凝っているようなので、二人に湿布薬をはりつけることになり、少しはましになったようである。妻はマッサージで決着をつけたが、息子はあまり好きではないので、まだ様子を見ているところである。かくいう筆者も病気持ちだから元気というわけにもいかず、少し酒をのみすぎたのか、散歩がすぎたのか、両人とたいしてかわりはない。
 今度は映画だなと気付いてはいるので、せいぜいケーブルのcinefilとか日本映画専門チャンネルとかに気を配っているのだが、今のところ一向に書く気の起こるのはでてこない。溝口さん(1998-1956)の『残菊物語』を見て、仕方がないから、これで行くかということになった。もちろん古いビデオはあるのだが、きちんと整理されていないので、よほどのことがないかぎり、古いのには手を出さないことにしている。
 「残菊」はNHKの生誕百年の折見ているので、おおまかな筋立ては分かっていても、細かいことは失念している。『雨月物語』(1953)や『近松物語』(1954)は何度か見ているので、大丈夫だが、ほかに見た十本分くらいはあやしいのが多い。生誕百年の折のNHKの企画でも、かなり古いのはフィルム自体ぼやけていて、見づらくてしかたがない。だから録画したまま放置しているのも何本かある。そのうちデジタル化されて見やすいのが出てくると思っていたが、あまり人気がないのか。期待外れのままである。 さてなぜ「残菊」かということだが、前回見たときには、単なる古めかしい物語としか思えなかったものが、二度目とあって眼もなれて画面が以前より良く見えて、絵の素晴らしさが良く分かった。それがあればこそ昔ながらの人情物語もかなり身にしみたということのようである。原作は村松梢風で溝口さん以後二度映画化されているのだから、物語には人気があるのだろう。
 尾上菊之助(花柳正太郎)という若い役者が、やがて尾上菊五郎を継ぐだろうということで、なかなかの人気者なのだが、本人はあまり釈然としていないところへ、弟の乳母のお徳(森赫子)がちやほやしないで批評をしてくれるので、有り難がって付き合っている内に双方に恋心が芽生えるが、歌舞伎の名門の長男と下町の女とでは釣り合いが取れないので、切り離されて、付き合い続けるなら菊之助は破門ということになってしまう。そこで菊五郎は家を出いったん思いあきらめ、地方で修業することにするが、お徳が後を追ってくる。ついには大阪で田舎芝居に出たりして二年ほども苦労しているところへ、菊五郎一座が大阪で公演をすることになる。お徳は菊之助を独り占めにしていることに心悩ませ、一座の元の仲間たちに菊之助が地方で修業を積んで立派な役者になったようなので、いちど一座と芝居をさせてくれと頼みに行く。そして成功すれば菊五郎に再会させて、元の鞘に納めてくれるよう懇願する。うまく行きそうなら自分は身を引くという条件で。
 話はお徳の思い通りになり、彼女は大阪にとどまる。それからしばらくして、東京でも成功をおさめた菊之助が、一座とともに大阪で公演する運びとなる。そして大阪でも再び成功を収めるが、この時には菊五郎も、菊之助の成功の原因がお徳にあると気づいていて、お徳にあうことを許す。そこで、宣伝のため船に乗って川をめぐる船乗り込みの前にお徳に会いに行くが、お徳は重病になっていて、医者も命の心配をしている。菊之助はこの時は間にあうが、船乗り込みのこともあるので、中座してしまうが、お徳はその間に命を落とすという新派大悲劇である。
 考えてみれば、菊之助は人形遣いの人形のようなもので、いわばお徳のおかげで一流の役者になれたわけだが、お徳は報いられないままあの世に旅立つ。一種の美徳の物語である。溝口の脚本を多数書いている依田義賢氏の話では、溝口の本質はもっと「どろどろした欲望」にあるので、晩年の国際評価の高かった作品はいわば「きれいごと」だと言うのだが、「残菊」も「きれいごと」の方で、こちらとしては人間の「欲望」のかたまりのような溝口映画にはまだお目にかかっていない。そのうちお目にかかれるのを楽しみにしている。

2012年1月上旬

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