山中貞雄『人情紙風船』(1927)

 以前は山中貞雄(1909-1938)のことは名前しか知らなかった。たしか黒澤明のインタビューで、そういう映画監督がいるということを初めて知った、と思っていたがどうも山本嘉次郎(1902-1974)の記憶違いで、そんなことになったのも黒澤明が助監督をつとめ「ヤマさん」と呼んでいた人物を山中貞雄だと思いこんだためである。数年前黒澤が助監督をつとめた『馬』(1941)を見ているくせに、今にいたるまでこの映画の監督は山中貞雄だと思いこんでいた。今度調べてみて勘違いがはっきりした。山本嘉次郎は、まじめな映画も作っているようだが、履歴をみると多量の娯楽映画を作っていたらしい。これに反して、山中貞雄は天才肌の監督とみとめられていたそうである。『人情紙風船』という代表作を作ったのは27歳であるにもかかわらず。
 だいたい一般的な風潮がそうだろうが、戦後育ちは戦後の映画で育てられているので、戦前の映画のことはほとんど知らない。傑作と言われるような日本映画は、圧倒的に戦後に多いから無理もないかもしれない。それに、今のようにのべつまくなしケーブルかなんかで映画がいくらでも見られる時代とは時代が違う。映画を見るのは映画館にかぎられているし、料金をとられるから、戦後の貧乏人はめったに映画館にはいけない。そういう点では外国映画もおなじである。だから、上記のようなとんでもない間違いが生じるのである。
 さて『人情紙風船』だが、「ヤマさん」が作っていると思っていたから、こんな映画も作る人だったのかと思っていたら、映画の後の解説めいたもので、これは山中貞雄の遺作で、山中は翌年中国の戦地で死亡したと聞かされて、驚いたわけである。ほんものの「ヤマさん」のほうは戦後もたしかNHKの「話の泉」とかというラジオやテレビの番組で活躍していたからである。
 誤解の話が長くなったが、この映画はもともとは河竹黙阿弥原作の古いもので、内容的には昔の映画やテレビのドラマで話題になりそうな話である。しかし山中さんのは話に芯が通っている感じだし、画面もいいが、どうも戦争中のことだから、フィルムの配給が少なかったとみえて、終盤はあっけない終わり方をしている。しかし、長々やるよりこちらの方がスッキリしているかもしれない。
 始まりの場所は、江戸時代のいつだかどこだ知れないところである、きたない長屋で武士が自殺をしたという話ではじまる。侍なら切腹しそうなものだが、貧乏暮しがつづいていたらしく、刀は竹光となれば切腹はむりだから、首をつったということである。その日はお通夜だからという口実で大家に金を出させて散財である。
 この長屋にはもう一人侍がいるが、これも浪人で一応細君もいるし、刀も竹光ではないらしいが、生活が苦しいから父の知人のどこかの藩の家老に仕切りに仕官を頼んでいるのだが、一向に相手にしてはもらえない。その家老は、浪人の父親の御蔭で家老職につけたのに、完全な「人情紙風船」である。家老は知り合いの質屋の娘にさる大名の家老との結婚話が持ち上がっているので、娘を自分の養女にして嫁入らせようという算段をしている。ところが、娘は店の番頭の方がいいらしい。ある雨の夜、浪人は家老から決定的に手を切られてしまうし、質屋の娘は番頭と出かけたものの雨のため寺の山門のようなところで雨宿りしている。番頭が傘を借りに行っているあいだに、例の長屋のヤクザまがいの髪結いが現れて、どういうわけだか髪結いについて長屋までいってしまう。多分フィルムが少し切れていたのだろう。ついて行った理由がわからない。それで誘拐だということになり、質屋の用心棒のヤクザが五六人髪結いのところへ掛け合いに行くが、髪結いは娘をさんざ脅しておいてから、隣の浪人侍のところに預けているので、なんとも手の打ちようがない。大家が気を利かして質屋に通報するので、娘は無事にもどり、大家は50両の大金の礼をせしめる。そのうち半分くらいは髪結いがせしめ、そのうち数量はとなりの浪人の手にもはいり、またもや最初の浪人との自殺の時のように、どんちゃん騒ぎの宴会となる。ちょうど前日からたしか姉のところにでかけていた浪人の妻が、その日にもどってきて、浪人の素行を知り、侍の風上にも置けないということで、夫を殺して自殺してしまう。一方髪結いのほうは、ヤクザ連中といざこざ続きだったが、決闘ということになり、ヤクザの親分は長脇差、髪結いは短刀だから、所詮勝負にはなるまい。侍一家の自殺は言葉で告げられるが、髪結いのほうのことは負けるのが分かっているから、たちあいの場面は、出だしのところだけで、後はカットである。フィルム不足から最後のあたりは、画が欠けている感じだが、下手に最後までやられれば、かえって幻滅かもしれない。これしか残っていないし、これで十分間に会っているのだから、良しとすべきである。
 貧乏人でも「人情紙風船」式の人間もいるが、たいていは金持ちがほぼ独占的に「人情紙風船」をやっていたというのが結論だということになるだろう。これは昔の話だが、今でもあまり事情に変化が生じたともおもえない。
 それにしても戦争が山中貞雄の命を奪ってしまったのは、日本の映画にとってもったいないことである、。生きていればもっと優れた作品が残せたのは、山中のノートにも記されていたように、いうまでもないことだからである。

2011年12月上旬

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