小津安二郎『彼岸花』(1958)など

 身体のあちこちが傷みだす上、前から続いている太ももから足の先までの痛みは、これまで最高である、と言いつつも、一日中家に居るのもいやだから、ゆったりと三十分程度は歩くことにしている。パソコンはしばらく調子が悪かったので、新たに録画した映画を新たにみる余裕などなく、少ない時間を修繕にさいていた。だから相変わらず小津さんだのみである。『彼岸花』(初のカラー)のあと近くに置いてあった『東京暮色』(1957、最後のモノクロ)も見たので、それらについて書く。ビデオがきちんと整理されていないし、整理する気持の余裕もあまりないので、だらしない状態が続くだろう。
 『彼岸花』は、前回書いたうちまだ結婚に関しては親の承諾が必要な頃の作品である。ある会社の重役(佐分利信)には、二人の娘がいるが、いわゆる結婚適齢期で、特に上の娘(有馬稲子)のほうは年がいっているだけ、余計気がかりのようである。もちろん父親だけでなく、母親(田中絹代)も同様であちこち手をまわしては、気をくばっている。ところがある日、その娘の恋人らしい若い男が、転勤が近づいたのでという理由で、突然父親の会社を訪ね、結婚の申し込みをする。恋人と相談することなくやってきたので、父親にはなんの情報もないのだから、余計動転する。ちょうど、友人の娘(久我美子)が父親(笠智衆)の承諾なく恋人(バンドマンのピアニスト)と同居し、バーのようなところに勤めているから、様子を見てきてほしいと依頼された直後なので、動揺ははなはだしい。友人たちの娘もそれぞれが適齢期に達しているのである。父親は、友人の娘の様子を見に行くことは承諾するが、自分の娘の結婚には断固反対で、親の心配を知りながら、勝手なことをするのはケシカランと息巻いている。どだい家柄もわからないし、相手の人品骨柄もわからない。そんな具合ではうまくゆきそうにもないから、結婚には反対だというわけである。この話には京都で旅館を経営する女性(浪速千栄子)とその娘(山本富士子)もからんでいて、母親の入院を機会に上京し、お互い気の向かない相手と結婚するのはいやだから、協定を結び、協力を誓う。そして今回は東京がたの結婚が邪魔されそうなので、上京を機会に東京の話をまるで自分のことのように話し、父親に意見を求める。人さまのことは気楽に考えられるから、悪いことではないと父親が発言すると、とたんにこれはペテンであって、自分のことではなく実は「あなたの娘」のことだと白状してしまう。母親の方はそれ以前に偶然相手に出会い気に入っていたという前提もある。
 いまさら自分の娘のことならやはり反対だとはいえないので、父親は、自分は結婚式には出席しないと言って意地をはる。しかし友人が仲人をやってくれることになってしまうので、不本意ながら、出席をせざるをえなくなる。
 今からすれば親が出しゃばりすぎということになりそうだが、今のように多くは子供らだけできめてしまっている場合より、いくらかは失敗防止の効果もあったことだろう。フランスあたりでもたしか1950代あたりまで、結婚には親が干渉するという風習が残っていたようである。もちろんこれは、結婚によって家格を上げるのが目的だが、結婚する当人が美男美女であったり、特別な才能の持ち主であればより優位になることはいうまでもない。いわば本人の気持ちより、家族の利益が優先されていたということになる。『彼岸花』ではいろいろもめたが、結局転勤で広島に暮らすことになった娘夫婦に、ごねていた父親が会いに行くハッピーエンドで終わる。
 『彼岸花』はすでに述べたように最初のカラーの作品だが、前作『東京暮色』は最後のモノクロの作品である。タイトルからも察せられるように、こちらは小津さんには珍しい悲劇である。やはり会社の重役(笠智衆)には、二人の娘がいて上の娘(原節子)はすでに結婚しているが、うまくいっていなくて長男とともにしばらく父親の家に身を寄せている。問題は妹(有馬稲子)の方で、短大を創業した後英文速記の学校にかよっているが、大学生の恋人の子供を妊娠して悩んでいる。前作と同じように、結婚には親の了解が必要な時代に結婚もしていないのに妊娠するなどということは、もってのほかである。相手の大学生も逃げ腰だし、妹は悩んだあげく借金をして堕胎してしまう。堕胎医のところに姿をみせているのは、ほとんどが水商売の女たちらしいと書いておけば、当時における事の重大さが分かるだろう。一応事はすんだが、恋人は相変わらず逃げ腰なので、妹は電車に飛び込んで自殺をしてしまう。そもそもこの姉妹の母親(山田五十鈴)は、父親が外国に出張中、娘たちが小さい間に、父親の下役と恋仲になり、出奔してしまう。それに負けじと父親は懸命に育てたのに、娘たちは二人とも不幸な境遇に陥ってしまう。母親は現在は東京にいるが、娘の自殺のこともあり、北海道に去ることになる。妹の死後、そのころのことを思い出したりしたのだろう。姉は夫のもとに戻ることにし、父親は今度こそ本当の孤独に入りこむことになる。
 昔のテレビのいわゆるホーム・ドラマにはよくありそうな話だが、前者は自然体という感じだが、もう一つの方は不思議で、『東京暮色』のようにモノクロの悲劇的なドラマでも、すっかり悲劇にうずもれてしまうわけではなく、まるで人生というものはそう簡単に捨てたものではないよ、と合図を送っているような他の監督にはないある種の明るさがあるので、あまり暗い気持ちにならないですむ。この点についてはこれからもう少し注意して見ることにする。
 前回は少し悪口を言ったが、今回は恐れ入りました、と言うしかない。

2011年10月下旬

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