二キータ・ミハルコフ『太陽に灼かれて』(1994 ロシア 仏)

 見終わって、同じように背筋が寒くなるような映画を見た覚えがあると思ったが、記憶には何も浮かんでこない。どうも以前に同じのを見たが、完全に記憶から消えていたらしいとしか思えなくなった。ニキータ・ミハルコフ(1945-)の作品は他に二三作見たきりなので、あまりよくは知らない。
 この映画では、モスクワ郊外の「芸術村」と呼ばれる、芸術家が集まっているらしい村が故郷の30歳くらいの青年が、そこに戻ってくるところから始まる。始まってそうそう、その青年はまるで遊びのようにいわゆるロシアン・ルーレットと呼ばれる命を落とすかもしれない一種の自殺をやってのけると、映画の内容をコンパクトしたような主題歌が流れる。
「朱に染まった波の間から、偽りの太陽が昇り始める。その光の中でお前は言う、もう愛はないと。でも私は絶望しない。痛みも哀しみもない、朝日の光の中で、お前は明るく言う”旅に出ましょう”と、それでいいのだ、お前と私二人が悪かったのだ。朱に染まった波の間から、偽りの太陽が昇り始める、その光の中でお前は言う、もう愛はないと」。
 時代は1936年、「人民の敵」という名目で裁判なしに7万人が殺されたといわれるスターリンの大粛清時代のことである。戻ってから半年ほど(これは本人の言で実は翌日のことかもしれない)して、ミーチャ(オレグ・メンシコフ)という青年がかつての恋人の家を訪ねる。かつての恋人マルーシャ(インゲボルガ・ダクネイト)は革命の英雄コトフ大佐(ニキータ・ミハルコフ)と結婚していて、6歳の娘(ミハルコフの娘)がいる。ミーチャは、10年前コトフ大佐の命令で外国に送られ、記者だかなんかの仕事をすることになった。いわば国家命令だから、逆らえば命の保証がないからである。残されたマルーシャは自殺をはかったりと大変なことになるが、コトフ大佐が相手をして、なんとか収拾をつけ、ついには結婚してだいぶ時間がたってから、ミーチャ(結婚して子供が3人いると言っているが、嘘くさい)は戻ってきたわけである。当然感情的なわだかまりが生じるが、互いに大人だから、大騒ぎなったりすることはなく、じょじょに過去のことが姿をみせたりする。
 周囲は田舎だから、スターリンの気球の記念日とかといって、気球が上げられる日になっているが、みんなのやっていることは日常的なたんたんたることばかりである。しかし時代が時代だけにのどかな農村地帯に戦車が入りこんできて、演習をやりそうになったりするし、飛行機が上空を飛びまわったりする場面も出てくる。 昼御飯がすんで、昼寝の時間にミーチャはマルーシャの娘と遊んでいたりするが、しばらくすると、二時間後には車が自分を迎えにくると娘に告げ、マルーシャに夫に用事があるから呼んでほしいと連絡を頼む。
 実は彼はただ遊びにきていたのではなく、大事な用事で来ていたのである。スターリンの友人であり、同士であったはずのコトフ大佐に、「ただちにモスクワに出頭せよ」と伝言するのが、用件だったのである。さすがに大佐は軍人だけあって、ミーチャが防諜機関員らしいということを見抜いていて、粛清のことも察しているが、まわりには悟られまいと迎えの車がやってくるまで、サッカーをやって時間つぶしをしたりしている。しかし容赦なく時間は経過し、大佐はかつてはドイツのスパイ、近くは日本のスパイをやっていたとの容疑で、疑いをかけられている、ということをミーチャは告白する。ミーチャにしてみれば、かつて大佐のおかげですべてを台無しにされたことへの腹いせが、いくぶんかは混じっているような口ぶりだった。大佐には身に覚えのないことにしても、結局はスターリンの命令ということになるのだから、どうにもいたしかたがなく、ミーチャの命令に従うしかない。やはり面白くないので、車の中に酒を持ち込んで飲んではごまかそうとするが、迎えの連中の反発を買い暴力をふるわれるだけである。ただ話はもう少し入り組んでいるが、それを省略してしまえば、冒頭で引いた主題歌にもどるだけである。一度目に見たときは、日常生活の中に、死という非日常が、突然現れそれを淡々と大佐が受け入れるところに、ぞくっとするばかりだったが、見直してみると、映画はさすがによく仕組まれているのが、分かる。最初のミーチャのロシアン・ルーレットをやる気持が分かるようにできている。なにしろかつての恋人の夫を殺し、その家庭を破壊することになるわけだからである。 先にも書いたようにこのタイプの映画は、他でもみた気がしないでもないが、
 カンヌのパルム・ドールとアカデミー外国語映画賞を取るぐらいの価値はあるだろう。「太陽」はもちろんスターリンの比喩である。

2011年2月下旬

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