小泉堯史『博士の愛した数式』(2006)

 久しぶりに日本映画で、しかも割合最近のものを選べたのでほっとしている。別に映画評論家ではないし、なるだけ最近の映画を選んで批評するなどと約束した覚えもないのだが、古いのばかりが何本かつづくと、なんとなく気が引ける。しかし、こないだうちから役所広司の『ガマの油』を見て、二三分で耐えがたくなるし、是枝弘和の『歩いても歩いても』も見たが、こちらはいちおう最後まで見られたが、別段何の感慨もわいてこない。今ネットで調べたら、いろんなところで賞を取っている監督だと分かったが、世界の三大映画祭のグランプリを取ったクラスの人なら見るということに勝手に決めているので、ひっかかってこなかったわけである。「三大」の方にしたって、昔でも大監督が出てくるのは数年に一人くらいのもので、現代のようにこれだけレベルがさがっていてはどうにも致し方がないわけである。
 小泉堯史(1944-)にしても、何か映画を見たらしいという記憶はあったがネットで調べて黒澤さんの遺稿『雨あがる』を監督した人だということが分かり、黒澤そっくりの感じの割にはたいして面白くなかったということを思い出し、『阿弥陀堂だより』もひよっとしたら見ているかもしれないが、なにも覚えていない。黒澤さんの助監督を28年もやっていたことも知らなかった。
 『博士の愛した公式』は、たしか昨年録画しておいたのが、VHSにはさんでおいた紙がなくなり、何が入っているのか分からないビデオを見ていたら、見つかったのである。画面もしっかりしているし、それぞれのシークエンスもしっかりしているから、最後まで見られたが、格別優れた映画だとは思わない、種ぎれのときだから利用させてもらったわけである。あるいは筆者が専門にしていたデカルトが数学者であることを思い出させてくれたから選んだのかもしれない。
 記憶に障害のある数学者と家政婦の家族の間の物語である。ただ今でも疑問に思っているのは、80分しか記憶のもたない人間が、他人と人間関係が結べるなど非常に難しいのではないかということである。ただし、どこからも文句も出ていないようだから、成り立つと仮定して、映画のことを考えてみる。
 数学者の博士(寺尾聡)の家政婦(深津絵里)の息子(斎藤隆成、吉岡秀隆)---頭が平らなので博士に数学記号の「ルート」というあだ名をつけられた---である中学の数学教師が、新学期に新しいクラスを相手に自己紹介をするという形で映画は展開するのだが、その内容は、博士と家政婦と自分とのことである。なぜそれが自己紹介になるかといえば、博士との出会いがなければ、多分彼は数学教師にはなっていなかっただろうからである。
 彼の母親は結婚できないような男が好きになり、彼を身ごもり出産する。そして母子家庭で成長する。母親の職業は家政婦である。ある時、記憶力に欠陥のある数学者の家政婦をやることを、博士の義姉(浅丘ルリ子)から依頼される。博士は記憶が80分しかもたないから、毎日訪ねて行っても相手が誰だか分からない。そこでどうしても必要なことは紙に書いて、背広に張り付けたりしている。家政婦に10歳の息子がいることが分かると、幼い子供が一人で留守番するのをはかながって、学校がすむと博士の家まで来て、一緒に食事をしてから帰るように、仕向ける。通常はやってはいけないことも、博士の子どもへの愛情が許してしまう。記憶の不如意もあって、博士が他人と交流するだいじな手段は、数字に関係したことを通じてである。たとえば、階乗、素数、自然数、整数、約数、友愛数、虚数、完全数などといった言葉が、説明とともに使われ、記憶の不備を補って、話の展開に利するように使われている。それともう一つの展開の柱は阪神タイガースである。博士の記憶の不備を引き起こしたのは、1975年の車の事故で、それから10年後の話という設定になっているので、事故以前のことは記憶に残っているから、阪神タイガースのことも利用できる。息子は野球好きのうえ、タイガースファンだが、ファンという点では博士も母親も共通なので、つながりが増えることになる。博士は昔野球をやっていたことがあるので、子供や仲間たちを指導したりもする。話の中心は、博士に記憶の不備がありながら、もともとの性格の優しさと、数学などという浮世ばなれしたことをやっているために、さらに優しさが強まり、親子を余計ひきつけることになるというのが、話の中心である。他人がよほど愛情を感じなければ、博士になかなか親しみはもてまい。そして、博士の解説つきで、上記の数学用語が頻発され、視聴者が数学に親しみをもつように仕掛けてある点が、この映画の特徴である。
 しかし、きれいごとばかりが出てくるわけではない。博士は、若い学生時分、兄が工場経営からえた利益で、ケンブリッジまで留学させてもらい、大学の研究室の多分助手にでもなったのだろうが、兄が早死にをすると、義姉と愛しあうようになり、親や親せきなどとも離れ、子供までつくるが、さすがに出産は見合わせる。その後能を見に行った帰りに車の事故に会い。記憶の欠如のため、博士は職を失ってしまうが、義姉は工場の跡地にマンションを建て、生活を確保すると、二人は同じ敷地に二件の家を建て、別々に暮らすことになる。義姉も事故のため脚が不自由になっていたし、世間体ということもあったのだろう。
 そして最後には、博士のオイラーの公式(より正確には等式)への愛情と母子の博士への愛情とが重ねるようにして語られているが、うまく重ねあわされたとは思えない。数学も人間の営みとは言え、ふたつのものへの愛情は異次元のものへの愛情だからである。

2011年1月下旬

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