ルイス・ブニュエル『皆殺しの天使』(1962)など

 入院もあるし、病院での点滴の回数が増えたりで近頃定例の文章がなかなか書けない。
 今回はケーブルでブニュエル(1900-1983)の映画をまとめてやるとのことなので、書くことに決めたが、なかなか見れないし、書く気も起こらなくて手間取った。
 まず見た映画のタイトルをあげておく。『アンダルシアの犬』(1928.サルバドール・ダリ共同監督)、『黄金時代』(1930)、『グラン・カジノ』(1940)、『エル』(1952)、『ビリディアナ』(1960)、『皆殺しの天使』(1962)、『小間使いの日記』(1963)、『昼顔』(1967)、『銀河』(1968)、『哀しみのトリスターナ』(1970)、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972)、『自由の幻想』(1974)、『欲望のあいまいな対象』(1977)の13本である。こんなにあるとは思っていなかったが一応全部見たし、これら以外にも3、4本以上見ているが、内容は一切記憶していない。録画はあることはあるが、探してまで見る気は起こらなかった。13本で十分だと思ったからである。以上の映画のうち『昼顔』だけは、ちょうどパリにいたときに封切だったので、上映と同時に見ている。
 ブニュエルという名前だけは、若い時分のシネマテーク通いの仲間から聞かされていたのが、しばらくすると実物を見る機会が来た。スペインきっての巨匠という感じだったが、当時まず『アンダルシアの犬』を見たときは、なるほどシュールレアリスムかと思った程度で特に感心もしなかった。たしかに発表当時はずいぶん斬新だったろうが、それから時間がたってさんざ模倣めいたことをされているだろうから、いまさら驚かないのである。ほかにもたしか『黄金時代』も見たはずだが、よく分からなかったろうし、記憶にもない。
 ただ驚いたのは『皆殺しの天使』で、今回もこのことを書こうと見直すことにしたのである。すでに述べたようにすべての作品は見ていないし、今回相当数を見た全体的な印象では、たしかに凡才ではないが、最後までシュールレアリスムを部分的にひきずりながら映画を作り続けたという印象だが、ほとんどが見ては入られるが、面白いとはあまり思えないし、ラテン系らしく男女関係の映画が多い。書く気は、やはり「天使」にしか起こらない。
 そこでひさしぶりに見直したが、どうもすなおには納得しがたい。一応解釈できるが、さらにもう一度見直さざるをえなかった。見たことのある人は、あまりの奇妙さにストーリーはおぼえておられるだろうが、ブルジョワ連中がオペラを見た帰りに、ある男の屋敷により、晩飯を食べるというどこにもある話なのである。ただ変なのは召使いなど下働きの連中の多くが、なんやかや理由をつけて、屋敷を離れてしまうことである。後でそういうことが話題になるが、難破する船からネズミが逃げだすような按配である。しかし、食事はとどこおりなく終わるが、客のだれもがなんとなく家に帰る気がおこらなくて、その屋敷のサロンに閉じ込められたようになってしまう。そして事実明け方にはだれもが、そこから外にはでられないと気づかざるを得なくなる。水も食べ物もなくなるし、病気もちの客が亡くなったりする始末である。外部も異変に気づくが誰も中へは入れない。入りこめたたしか三頭の羊は食べられてしまう。水は壁の中の水道管を破壊して取るなどしている。
 そのうち誰かが最初の夜の食後、サロンでピアニストが、ピアノを弾いた直後と同じ位置にたまたま全員がいることに気づく。つまりその時から異変が生じたらしいというわけである。それで、その時の場面をそっくりうまく再現すれば異変が入り込む余地がなくて、事態は推移すると考え、その通りやってみると、図星で、なにごともなく誰もが移動できるようになる。こういう経験に類似した経験は筆者にもあるが、そっくりの経験ではないが、道具とかおもちゃなどをいじっていたときに経験した人が結構いるのではないかと思う。ここまでは、こじつけめいているにしても、一応納得がいくが、それ以前に外に出られたら、教会でミサをあげてもらうと誓ったのがいた。
 そこで無事脱出のあとミサということになるが、ミサの後まず神父たちの挙動がおかしくなり、再び以前と同じことが起き、教会にいる連中は誰も外に出られなくなってしまう。その時点で映画は終了である。例のシュールレアリスム癖がここでも姿を現したとしか思えないが、ここでは十分な効果を挙げたようである。

2009年10月中旬

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