A.キアロスタミ『友だちのうちはどこ?』(1987)など

 この映画は、映画館で見たわけではなく、録画によればBS2で見たことになっている。封切後そんなに時間はたっていなかったと思う。ただ当時も今もイランとかイラクについてはほとんど何も知らなかったが、当然のことながらイラン人だとて人間らしい生活を送っているのを見て驚いた。驚くほうがおかしいのだが、無知もそこまで行っていたということである。数回見ているが、今回の驚きが大きかったので、感想を書くことにした。それにしても、多くの人間的な生活を送っている人たちがいる反面、なぜ宗教的狂気に入りこんでしまう人たちも結構いるのかということが、納得のいかないことである。
 『友だちのうちはどこ?』は現代映画で、監督の呼び名はアラビア語の影響が入るとアッバス・キアロスタミとなるらしい。そしてこの映画はイラン映画を現代の一流の作品の中にくりいれた。監督名は、ペルシャ語的には、アッバース・キヤーロスタミ―(1940-)ということになるらしいが、筆者と同年生まれなのには驚いた。何かしら共通点を感じていたからである。こちらが半年ほど早いが。
 ここでは、筆者も一般的な常識程度のことしか知らないので、政治にはあえて触れない。現に映画も政治には触れてはいない。『友だちのうちはどこ?』は教室の場面から始まっている。先生が教室に入ると、一人ひとりの生徒の宿題を調べて、やっていない生徒にはいちいち文句をつけている。やり方が尋常でないほど厳しいと思っていたら、後で見た『ホームワーク』(1989)で謎が解けたが、そのことについては後述する。主人公の隣席の友人は、二度もノート以外のものに宿題を書いてきたので、三度目も同じことをすれば留年だと脅かされている。ノートは其の子の従兄弟のカバンに入っているのだが、どうも帰り道に従兄弟のところで宿題をやろうとしてはノートを忘れて来てしまうらしいので、こんな事態が生じているのだろう。
 その日家に帰ると、主人公は、さっそく母親から宿題をやるよう催促されているのだが、彼は問題の友人のノートも自分のと似ていたので、自分のカバンに入れて持って帰ってしまっていた。この子は少しは宿題をやりながら、他の母の命令もこなしているが、どうも友人のことが気にかかって仕方がない。ノートを持っていってやらないと、友人は落第だからである。そこでパンを買って来いという命令を利用して、かなり離れた友人の村まで、出向いてしまう。いろんな人たちにたずねたりするし、その友人の父親は大工のようで其の子の村まででかけてゆくのについていったりしても、親父は親父で商売に気を取られて、子供の話をほとんど聞いてくれないので、一向にラチがあかない。それで、再び友人の村まで戻り家を探しつづけるが、結局見つからないうちに夜になってしまう。
 しかたがないから、心配のあまり晩飯を食べる気もおこらず、その子は、二冊分のノートに二つの宿題を書いて、友人の落第をやっとのことで食い止める。落第は起こらなかったのである。キアロスタミさんは小津安二郎を尊敬しているようで、小津流のたんたんとした画面になっていて、まだ完成には少し遠い気がしないでもないがが、十分楽しめる。
 『友だち・・』では、学校が始まると、すぐに教師が生徒の宿題を調べ始め宿題をやってくることを、きわめて重要視している風だし、イスラム流の師弟関係もしっかりしている。しかし、昔の日本の学校ならいざしらず、多少なりとも今の学校を知っていれば、映画でであれ、イスラムの小学校を見れば、はっとするだろう。きびしいのである。落第があるのは、日本以外の国とおなじだろう。しかし、これは風習の問題だけではなくて、宿題重視のほうには、はっきりとした理由があったのである。

 1989年に『ホームワーク』という80分ほどの、ドキュメンタリー風の映画がある。これを見ると、ホームワークが子供たちの生活のおおきな部分を占め、遊んだり、用事で時間をつぶすと、宿題をやりとげるには夜中まで時間がかかる、といった仕組みになっているらしい。子供たちにはかなりの負担になっているようである。おまけに親の38パーセントが文盲だし、そうでなくとも都合で子供の勉強をみてやれないことだってある。キアロスタミは、本質的には学校の勉強は学校で片をつけるようにし、教育立国的に私的な時間を使うことには反対のようである。宿題の時間は、外国のように、創造的なものに使うべきだという、親もいたりした。
 日本は文盲の親こそほとんどいないだろうが、まだまだ教育が本来の役割をはたしているとは、とても言えまい。個々の人間が何を求めているかで、必要な教育も変化するということもあるし。しかし、どんなやり方をするにしろ、「人間が良く考えられるようになれば、」教育は成功したと、言えるだろう。

2009年4月下旬

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