R.ロッセリーニ『イタリア旅行』(1953)など

 今月からだったと思うが、ロベルト・ロッセリーニ(1906-1977)の戦後の四本の映画を、ケーブルの「シネフィル」でとっかえひっかえやりだしたので、これについてでも書けばと思って録画した。書く以上当然見なければならないので見るだけは見た、どうころんでも面白いというような映画ではなかった。うんざりするしかない。巨匠だかなんだか知らないが、面白くなければ観客がつかず、金が儲からないのは、当然で、当時しばらくは映画が作れ無かったらしい(なお主演女優は、ロッセリーニのもとに走ったバーグマンばかりである)。年代からすれば『ストロンボリ 神の土地』(1949)が古いので、それから見だしたが、昔トロカデロのシネマテークで最初に見たロッセリーニは、この映画だったということは覚えていた。今度もやはりつまらなかった。多少知識は増えているので、ネオ・レアリスモの巨匠の漁の画面などさすがだと思ったが、それだけで映画が面白くなるわけがない。台詞がつまらないし、物語にほとんど発展性がない。今回は戦前のは見返していないが、おそらく、この二つが他のロッセリーニの映画の欠点でもある。他に見たのは『イタリア旅行』、『不安』(1954)、それからドキュメンタリー風の『インディア』(1958)である。
 この中で一番できのいいのは『イタリア旅行』だが、ずいぶん以前黒澤明推薦で見たときには、どこがいいのかさっぱり分からなかった。出来が悪くはないというのは分かるが、ともかく面白くなかった。今回見たときには、前に短い解説めいたものが、いつものごとくついていたので、それを読んだら、ゴダールが絶賛して、いわばこの映画の作り方をベースにして、出世作の『勝手にしやがれ』を作ったとのことである。なるほどと思いながら『イタリア旅行』を再見していると、ゴダールの映画の相似形である。画面はパーフェクトで、台詞もそつなくできてはいて、一応は面白いといえば面白い。しかし、この映画の台詞は浅薄だし、登場人物の夫婦は愚者としかいいようがない。伯父さんだかの遺産相続にナポリにきているのだが、なんやかやごたくを並べるので離婚したければ勝手にすればいいだろうと思っていると、最後になって離婚はとりやめとのことである。そんなら、こんな映画を作らなけれはいいだろう。人騒がせな話である。
 少なくとも人騒がせともおもわず、車一台と男と女がいれば映画をつくれると驚嘆した男が一人はいて、おなじような映画をつくり続けている。最初のうちは国も時代も違うし、それなりの新鮮さもあり、観客はショックを受けたものだが、二三本見れば後は繰り返しのようなものだから、面白いわけがない。こないだベルトルッチの『リトル・ブッダ』の解説を借用しているとき、彼も同じようなことを言っていた。J-L.ゴダールには、映画をつくるきっかけをあたえられたので敬意は払うが、彼は自分の世界の中だけにとじこもっていて、一歩もそとに出ようとしないし、現実はまったく無視しているとのことである。だんだん観客が離れていくわけである。おまけに変な哲学趣味があって、それで観客をけむにまくから、はなはだしいのにいたっては、映画の神様だと思って尊敬しているのもいるほどである。しかし、哲学のしっかりした知識があれば、ゴダールは哲学のミソもクソもごちゃまぜにして悦に入っているのだから、こちらは、近寄らないようにしていないと、イライラするだけ損である、と心得ておくべきである。あんなに引用したいのなら、せめて哲学史くらいは、きちんと読んでおいてもらいたいものである。
 ロッセリーニにもどると、『不安』は、『イタリア旅行』よりひどいだけだし、金欠で撮れなくなってしばらくしてからの『インディア』も何がいいたいのかさっぱり分からない。しかも、インド風の画面を堪能させてくれるわけでもない。
 戦争ものほうがずっとよかったと思うが、あのころが花で、後はすでに述べた彼の欠点ばかりが残る映画しかつくれなかった。今のゴダールにしても同じことで、夜郎自大とでもいうしかない。ヴィスコンティは、ついにテレビに逃げこんでしまったようだし、ゴダールも大先生の後を追っているとしか見えない。一時期一世を風靡したひとたちが、早くから衰微する姿を見るのはあわれである。

2009年2月下旬

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