B.ベルトルッチの『リトル・ブッダ』(1993)

 古いテープを少し整理しようと、本立てをのぞいたら、「映画関係」というのが数本あった。調べてみたら1994年のベルナルド・ベルトルッチ(1941-)のインタビューの(2)(NHK教育テレビ)の入っているのが出てきた。まだ見ていなかったので、写してみたら『リトル・ブッタ』を撮り終えた翌年のインタビューだった。たぶん(1)のほうは、それまでの作品について語ったものではないかと思う。(1)のほうはないので推測するしかない。
 それで初めて知ったのだが、東洋三部作というのがあり、『リトル・ブッダ』が第三作目になるとのことである。最初が『ラスト・エンペラー』(1987)、二番目が『シェルタリング・スカイ』(1990)である。東洋といっても、アフリカまではいっているのだから、かなり広い意味でということになるようである。
 本人の話では、1994年の15年ほど以前から、東洋特に仏教に興味を持っていたという。よくある西洋にうんざりし、東洋にあこがれるというパターンのようだが、職業が一流の映画監督というのは、初めてではないだろうか.。もともとはマルクスとかフロイトに興味を持っていた人間が、仏教徒になったわけではないにしても、ほれこんで映画まで作ったとなると、やはり説明が、自分のためにも観客のためにも必要となるわけだから、上のインタビューでは、それがメイン・テーマとなっている。
 宗教学者や哲学者ではないのだから、いわゆる好事家的な解釈のようで、仏教は人間中心的な考え方、つまり哲学だといったりしている。つまり、魂という言葉をあまり使わずに精神(mind)を通して考えるという知的な考え方で、ドグマではないという解釈である。そんなことを言ってしまっていいのかと、疑問が残るが、こちらも素人なので、彼の解釈を伝えておくだけにしておく。
 はっきり言っていたるところにGodが首を出すキリスト教とは違って、Godぬきで、人間が人間や世界について考えるところが新鮮なのだろう。古代ギリシャ哲学に近いなどといったりするところからも、それは分る。古代ギリシャ哲学と仏教では思考方法がまるで違うはずだが、God抜きで哲学をやっている点と輪廻転生を想定している点では似ていなくもない。ここでの仏教はもちろん原始仏教というか小乗仏教を念頭においての発言である。とにかく絶対神のキリスト教と無関係のチベット仏教だから、新鮮だという程度の意味らしくて、仏教の持つ土俗的なものは、この場合当然無関係である。日本生まれで日本育ちの日本人のキリスト教徒がいくらがんばっても、西洋人のキリスト教徒にはなれないという程度の意味で言っているのである。そういう意味では、東洋三部作といっても、テーマが外国に取られているだけで、どう見たって西洋人ないしはイタリア人の作った映画としか思えない。科白が英語だから、こんなことを言っているわけでは、もちろんない。前置きが少し長くなったが。『リトル・ブッダ』について考えてみる。
 アメリカのシアトルに住んでいる建築家の家に、ラマ僧が訪ねてくる。どうもその家の小学校の低学年の息子が、ブータンにいるチベット仏教の高僧ノルブ師のさがしている先生ドルジェー師の生まれ変わりではないかというわけからである。ドルジェー師がかつて部長をしていたチベット仏教の伝道本部がシアトルにあったことから、そういうことになったらしい。お母さんに尋ねてみると師匠の死亡日時にその子は生まれていることが判明し、可能性大ということになる。子供に、ゴータマ・シッダールタ(おシャカ様)の伝記の絵本を与えたりして子供の反響を見ようとしたりする。またそのことを通じて映画では仏教のことを知らない西洋人にシッダールタのことを紹介してもいるわけである。
 しばらくするとネパールのカトマンズにやはり可能性のある子がいるという情報が入ってくる。シアトルの男の子のことをはっきりさせるためにも一度ブータンに行く必要もかねて、カトマンズの男の子にも会わねばならないことになり、シアトルの男の子は、母親は仕事でぬけられないから、ちょうど時間のできた父親とカトマンズに行く。
 さらにはまたブータンの女の子も、生まれ変わりらしいので、結局三人の子供のうちのだれがドルジェー師の生まれ変わりかを調べなければならなくなる。ノルブ師の苦心の結果三人の子供はすべてが生まれ変わりだということになる。時には、そういうこともあるらしい。 病気もちだったノルブ師は、おそらく死を迎えるための座禅にはいる。これくらいの高僧なら十日間連続の座禅くらいは平気で、その間に半ば意志的に死を迎えることもできるとは映画から知らされたことである。もちろん通常ならブッダは輪廻転生という苦を脱するために「悟り」を開くのだが、どうもチベット仏教では高僧も何度となく人間に生まれ変わり、なんども衆生の救済に当たることになっているらしい。三人の「リトル・ブッダ」はノルブ師の遺灰をもらい、それぞれのふるさとで海やら大地やら天空やらの自然に返すことにより、師の再生をはかることで、映画は終了する。今のわれわれなら、そういうことに驚かなくなっているが、西洋人たちには新鮮だったようで、感動したと、かなりの人たちから言われた、とベルトルッチは語っていた。

2008年10月上旬

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