F. フェリーニあれこれ

 どうもラテン系の映画の得意とするところは、いわゆる心理描写とか心のあやとかといったもので、思想めいたもの(たとえばアメリカ映画の好みは「正義」だろう)をもとにして映画を作ることをいとう傾向がある。筆者のように専門分野が思想的なものだと、一本の映画についてばくぜんと感想を述べようとしても、そうするつもりはなくとも本来の癖が出てくるので、フェリーニの場合も、少し書きにくいという感じで、つい他にも何本か見てしまうことになる。「あれこれ」などというタイトルがついてしまうゆえんである。そもそも、フェデリコ・フェリーニ(1920-1993)の映画を最初に見たのは、高校の授業の一部としてである。当時、賞をいくつかもらったりした『道』(1954)という、ネオ・レアリズモ風のいわゆるまじめな映画を見に、みんなが映画館に連れて行かれたわけである。高校在学中あとにもさきにも、学校から映画館に行ったのは、この時一度きりである。多分校長あたりが、感激して、そういうことになったのではないかと、今になれば思う。これは、フェリーニを世界的に有名にした映画だから、もちろん優れた映画である。
 ストーリーは覚えているが、見ようと思ってさがすと、どうしたものかわが家にはテープがない。ということは、留守も多かったが、テレビでは、ほとんどやらなかったようである。ケーブルでこないだうち何回か、『フェリーニのアマルコルド』(1973)をやっていたし、好きな部類のものなので、書こうと思って見返したが、これだけでは簡単すぎることになりそうである。それで、『甘い生活』(1959)、『フェリーニの道化師』(1970)、『フェリーニのローマ』(1972)、『8 1/2』(1963)『インテルビスタ』(1987)などを見たが、「アマルコルド」が一番いいという予想は的中していたようである。
 「アマルコルド(私は憶えている)」は、フェリーニの故郷北イタリアのリミニというところが舞台で、若い14、5歳のフェリーニらしき若者の一年間の生活ないしは生活に密着したことがらが映し出されるのだが、53歳にもなろうとする監督の回想を通して見れば、過去がどのように見えるかは容易に想像のつくところである。やはり懐かしさが先にくるようで、それがこの映画の支柱となっている。プラタナスめいたものは見えないが、春の合図である樹木の綿毛が飛び散って、まず冬という魔女の人形を、がらくたを積み上げた山の上に置いて焼き殺すところから映画は始まる。
 フェリーニらしき若者の家族は、両親、父方の祖父、母方のらしい叔父、弟と合計六人だが、お手伝いさんもいるので、七人で暮らしている勘定である。両親の喧嘩は日常茶飯のことだし、イタリア人はおしゃべりだから、ささいなことが大騒ぎの種になる。父親の仕事は建築現場の監督のようなものらしいが、お手伝いさんもいるのだから、まずまず裕福な暮らしで、いわゆる一般庶民丸出しの生活をおくっている。そして、つきあっている仲間も同類だから、にぎやかなことかぎりないが、いかにも人間っぽい生活らしくて、親しみがわく。父方の叔父もいるが、この人は精神が普通ではなくなっているので、病院にいて、時々家族が散歩に連れだしたりしているらしい。映画の外出場面では、少しアルコールがはいると、いつの間にか高い木に登ってしまって、「女がほしい」と大声でどなりちらすが、家族が登ろうとするとポケットの石を投げるので、病院にまかせるしか手の打ちようがなくなる。
 割合大きな話題は、他には、ファシズムの時代にファシズム嫌いらしい父親が、濡れ衣をきせられてファシストにつかまり、ひっぱたかれるのはもちろんヒマシ油をしこたま飲まされることとか、アメリカのすごく大きな豪華客船が沖を通るというので、この小さな町の連中が夜中になるのもいとわず、小舟で見物にいくとかといった、たわいもない話である。たしか、その後に母親の死が続く。そしてこまごましたことを除けば、最後は、グラディスカという町一番の美人の野外での婚礼が締めくくりで、もう一度綿毛が舞うことで、ふたたび春が来て、一年がたったことが示されて、終幕である。なんだか、リミニとすっかりなじみになったような感じのする映画である。
 日本名が「フェリーニの・・・」という題名の映画は、他にもふたつあり、『フェリーニの道化師』のほうは、黒澤さんが「100選」にいれているのだが、どうも納得がいかない。どちらもフェリーニ自身が時々顔を見せる映画だが、『フェリーニのローマ』の方が優れているのにと思う。若いフェリーニがローマに出てきて、30年のローマの流れをおおまかに描いて、「アマルコルド」姉妹編という感じもあるからである。「道化師」の方は、年取った昔の道化師が何人も出てくるので、フェーリーニやイタリア人にとっては、なじみの人たちでなつかしいのだろうが、こちらとしてはあまりピンとこない。
 黒澤さんの選んだことがはっきりしているのは、他は『甘い生活』と『8 1/2』である。『道』も多分入っていたはずだが、これは録画ミスで消してしまったのではないかと思う。普通は一人の監督につき、三本だが、日本の場合は一本のみ、気にいった外国人の場合は最高4、5本だったので、フェリーニはかなり気に入っていたようである。しかし、今回見直してみて『甘い生活』もたいして面白くなかったし、『8 1/2』にいたっては、台詞のつまらなさに我慢がならず、早送りで見終えた。ある映画監督(マルチェロ・マストロヤンニ)が映画を作ろうとして、さんざ思案するが結局投げ出すというストーリーだが、どうも監督の映画作りの思案がその映画のテーマらしいので、こちらとしてはそんな映画なら見たくもないというわけである。ずいぶん評判になった『甘い生活』(マルチェロ・マストロヤンニ、アヌク・エーメ。アニタ・エクバーク主演)にしても、自堕落な甘い生活をしている男の話だが、今ならもっと自堕落なのはいくらでもいる。しかしエピソードを連ねていくだけの手法にも工夫がこらしてあれば、見てはいられるのである。『8 1/2』は、芸のなさが極端にひどいので、映画のなかでも言っているように、「無意味なエピソード」の羅列のようなものであり、そんなやり方でさらにもう一度「甘い生活」を再現しようなどいう試みは、無価値というほかない。決まりきったニヒリズム的ムードを繰りかえされても、観客は飽きるだけである。どうも、ごたぶんにもれずゴダールにいかれていたのではないかと思う。終わり頃の作品はすべて見たが、残念ながら全滅だった。

2008年7月下旬

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