ジャン・ルノワールあれこれ

 今回ジャン・ルノワール(1894-1979)の映画を見始めた頃、市川崑が亡くなったという情報が入った。崑さんについても一度は書くつもりだったが、すぐには方向転換しにくいので、次回ということにする。少し散歩のやりすぎが響いているのか、おっくうなのである。
 ルノワールを初めてみたのは、『フレンチ・カンカン』(1954)でまだ中学生だし、よく分かるはずもないから、だれかに映画館に連れて行かれたのだろう。その後パリにいたときにシネマテークで『ピクニック』(1936)を見て、モーパッサンの原作も読んでいたし、面白かった。ところが、その後があまりかんばしくない。フランス映画の巨匠だということは、知っていたし、印象派の画家父親のオーギュスト・ルノワールについて、ジャンが書いた伝記のようなのも翻訳で読んでいたのに、その後BSなんかで見るのが、あまりおもしろくなかったのである。この人が映画でなにをしようとしたかが、よく読めていなかったからかもしれない。
 黒澤さんの「100選」には、『大いなる幻影』(1937)が入っていて、やはりこれがいいのかなと思ったりもしていたが、単にドイツのエーリッヒ・フォン・シュトローハイム監督(兼俳優)やジャン・ギャバンなどの達者な俳優たちとの役者としての取り合わせが面白かっただけかもしれない。今回最初にこれを見たのは、傑作だという記憶があったからだが、記憶ははずれていたようだ。たしかによく言われるように反戦映画だが、第一次世界大戦時のドイツの捕虜将校収容所での両国民のやりとりから、最終的には貴族出身のフランスの上級将校の配慮で、ギャバンら二名の捕虜が脱出できたにしても、上級将校を殺すところまでやることはないだろうという気がする。貴族の美学が出すぎている感じである。そして、ギャバンは脱出のとちゅうで、ドイツの戦争未亡人と仲良くなり、将来を約束して、スイスへと入りこむのに成功し、ここでも反戦思想を描いているのだろうが、部分的には優れていても、全体のバランスが良くないのである。
 これでは書けそうにないから、『ピクニック』を見た。これは気にいったが、少し短すぎる気がして、『フレンチ・カンカン』を見た、これも気にいったが老境に入ったという感じで、まとまりはいいにしても、やはり書く気がおこらない。ただこれはカラーだから、父親の画家ルノワールを思い出させる画面の感じがある。ついでにやはりほとんどがカラーの『草の上の昼食』(1959)を見たが、西洋人によくある晩年はダメの口の映画である。それから『獣人』(1938)を見たが、だいたいは良かったが自然科学的なものの扱いが面白くない上、終わり方があっけなさすぎる。なおいいわすれていたが、上の「昼食」も人口受精という自然科学がらみだが、自然科学の位置づけ方がきちんとしていない。
 そのあと、たしか90年代になって、『ピクニック』を撮ったときに残されたカットのすべてを、P.ブロンベルジェがシネマテークに寄付した「撮影風景」を見たが、これはもちろん資料だから、参考に見ただけである。同じテープに入っていたアメリカ亡命中の『南部の人』(1945)も、いただけない。困りはてて最後の頼み『ゲームの規則』(1939)を見たが、以前ほど失望はしなかった。というのもモノクロで見にくいため以前には理解できていなかった部分も理解できて、これが『フレンチ・カンカン』とおなじくらい、筋の通ったストーリで、理屈っぽい映画なのにびっくりした。中年の上流階級たちが、ある貴族の家に泊まり狩猟をする間に起こった出来事を描いたもので、やはりルノワールらしく恋愛が中心だが、中年の恋愛にしろ、さいごにそれこそ感情があんなに理屈で割り切れるものだろうか、と思うほど感情を勝手に操作しているような感じに疑問をいだいた。
 どうやら、父親の絵を売った金で映画を作っていたようだから、少し腰がひけているのではないか、という印象を持った。しかし、そうは言ってもなにかしら魅力的な映画であるのは、『ピクニック』のレストランに出てくる俳優としてのルノワールのようにくだけたオジサンが、半分冗談を言いながら、映画を作っているような感じがなきにしもあらずで、やはり父親の画家ルノワールの眼を受け継いでいて、良い画面を作らせる原動力になっているようなのだなあと思うようになってきた。その一番の成功例が、ふざけているようでまじめな短編『ピクニック』では、ないかと思う。もっとも筆者は日本で上映されたすべてのルノワールを見たわけではないし、日本にはルノワールの全映画が輸入されているわけでもない。

2008年4月中旬

映画エセートップへ