Ⅰ.ベルイマン『野いちご』

 7月末に亡くなったM.アントニオーニとイングマール・ベルイマン(1918-2007)について書くことは、前回予告したが、今回はベルイマンのほうである。実はベルイマンもあまり熱心に見ているとはいえない。しかしアントニオーニよりは作品数も多いし、一応は見ているといっていいにしても、少し頼りない。ベルイマンの映画のなかでは『野いちご』(スウェーデン、1957)を一番良く見ているので、これについて述べることにする。なお黒澤さんも「世界の映画100選」では、ベルイマンの『野いちご』も入れている。
 前回引用した中条教授によれば、「哲学とセックスをまったく同じ水準で描いて人間の根源を探求するという手法が、ベルイマンの<現代性>だった」が、「新奇な映像世界の追求を諦(あきら)め、永遠不変の人間的関心(家族関係)に還(かえ)ることで、晩年のベルイマンは芸術家として生き延びることができた」ということになるが、筆者が見たかぎりでは、こないだ初めて見た『蛇の卵』(1977)とか二度目の『ファニーとアレクサンデル』(1982、1983アカデミー賞外国語映画賞)と『リハーサルのあとで』(1983)の三作に関しては、映像も平凡脚本も科白(せりふ)も平凡、見ているのが苦痛で、ストーリーが分かる程度の早送りで見た。同時代のゴダールやワイダが良かったのは出だしのころだけだったし、ベルイマンも終わりのころにはだいぶガタが来ていたのではないかと推測している。本来は全部見てから言うべきことなのだが。 
 しかしかなり長いあいだ第一線で活躍していたのは確かで、そのことを『野いちご』を通じて見ようというわけである。この映画のテーマは、孤独だといっていいだろう。スウェーデンのどこかの町に暮らしている78歳の老医師が主人公である。奥さんを早くに亡くし、家政婦と長年ふたり暮らしらしい。50年間医師をやってきた功績が認められて、ルンドの大学から名誉博士号をもらう日のできごとである。字幕によると「世間づきあい」(こんな言葉があるかどうかは知らない)がわずらわしくて、あまり人付き合いをしなかったため、老医師は孤独で、そのことで少しは苦しんでいるようだが、そのことをあまり後悔している風でもない。
 授与式の日の朝、棺おけに入っている自分の出てくる夢をみた医師は、突然飛行機はやめにして、ルンドまで車で行くと言い出す。家政婦はいやがるので、ちょうどしばらく滞在していた息子の嫁と一緒に出発することになる。途中、医師の家族が子どものころから長年ヴァカンス用に使っていた家の近くを通るので、そこに立ち寄り、若かった時いとこのサラという女性と婚約していた幸せな時代のことを思い出したりするが、結局サラは強引な医師の弟と結婚してしまうということが、物語の進行につれて分かるようになっている。医師の幸せの象徴ののような「野いちご」は、この別荘にたくさんあった。そしてその場所でイタリア旅行をするという三人の若者(女ひとりと男ふたり)を車に同乗させることになり、車内は急ににぎやかになるが、しばらく行くと夫婦仲のよくない連中の車と衝突しそうになる。そして相手の車が故障してしまうので、この夫婦まで同乗させることになるが、このふたりがたえず夫婦喧嘩を繰り返すので、運転を交代していた嫁が、ふたりを降ろしてしまい、また5人の旅となる。
 老医師は昼食の折、92歳になる母親を訪問するが、母親はひとり暮らしで、老医師と同様かたくななので、10人も子どもがいたのに、ほとんど誰も訪ねてこないという状態らしい。やがて分かることになるが、この母そして老医師とその息子はいずれも人付き合いが苦手で孤立しがちだという共通点をもっている。車に戻った老医師は眠って夢を見るが、奇妙な夢で、誰だかはっきりしない男から医師の資格を審査され見事失格という判定をくだされる。それから、その男は医師を近くの場所に連れて行き、かつての妻が不倫している現場を目撃することになる。医師はこの事実を知っていたようだが、事を荒立てるのを好まず、いわば無視するような態度をとったらしい。不倫したふたりは、罰としてこの世から追放されることになるが、人生に真剣に向き合おうとしなかった医師への罰は「孤独」だと、正体不明の男はいう。この点に関しては(神の)慈悲もなさそうである。どうもこの医師は一応キリスト教信者ではあるらしい。目覚めると、若者たちは医師の祝典を祝おうと、外の野原で、花を摘んでいて、嫁とだけ車に残されている。
 嫁は息子との夫婦関係のことを相談しようと、医師を訪ねたのだが、ややこしいことに巻きこまれるのを嫌がる医師は、話を聞こうともしなかった。しかし、その時は聞いてもいいような感じになっていて、話させると、実は嫁は妊娠していて、その子を産むかどうかで対立したらしい。息子に言わせると、人間の人生に意味などなく、自分は孤独のうちに死を待っているだけである。これが人生なら、この世に新たな命を生み出すことは、残酷すぎて許すことができない。これまでにも同じようなことがあったらしいが、今度ばかりは嫁は子どもを産みたいので、父親の医師のところに相談にきたわけである。もちろん医師は、嫁の意見に賛成である。
 若者たちから花束を受け取るとルンドの式典への出発である。にぎにぎしい名誉博士号授与の儀式が終わり、息子の家にもどると家政婦も到着しているし、最初は険悪だった息子夫婦の仲もどうやら折り合いがつきそうになっている。離婚にまで話は進展していたが、息子も人生を受け入れざるをえないと、多少は悟ったのだろう。但し、映画には息子の変心についての説明はない。
 老医師は、ベッドに入るが、心が騒いで寝付けそうにない。例の若者たちが、お別れだと言って、窓の外で歌をうたってくれる。ベッドに戻った老医師は心騒ぎ対策で、昔子どもだったころのことを思い出そうとする。弟と結婚してしまったサラが出てきて、釣りをしている父とそばにいる母のところに案内してくれたことが心に浮かんで、医師は幸せな気分になれる。
 この重苦しい映画をベルイマンが作った時には、まだ40歳にも達していない。かなり早熟だったと思うが、もっともっと加齢が進から作っていれば、だいぶ趣の変わったものになっていたのではないだろうか。

2007年10月中旬

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