ジャック・リヴェットの『美しき諍い女』

 今度は一応外国映画の番だが、ふりかえるとこの数年邦画にしろ洋画にしろ最近作でほとんど優れた映画と出会っていない。黒澤さんに戻ろうかとビデオをさがしていると、リヴェット(1928-)の『美しき諍(いさか)い女(め)』(1991)のoriginal editionとかというのが見つかったので、これを扱うことに決めた。劇場公開版は2時間半ていどだったと思うが、これだと4時間もある。原作はバルザックの『知られざる傑作』で、17世紀同名のアダ名のついた娼婦がいたそうで、これが一応モデルらしいが、学生時代に読んだきりで、まるで記憶にないから、原作との比較はできない。
 映画はどうも南仏らしい場所に暮らしているファレンファーベルという老画家(ミシェル・ビッコリ)を、若い画家とその恋人(エマニュエル・ベアール)が訪問することから始まる。老画家は10年ほど以前に、自分の妻(ジェーン・バーキン)をモデルに「美しき諍い女」という絵を描こうとするのだが、結局成功せず、以来自画像めいたものを除いては絵を描いていないらしい。若い画家は老画家を尊敬していて、恋人をモデルに再挑戦をしてほしい様子である。老画家も新しいモデルを相手に再挑戦をしようかという気になる。恋人の方は、モデルになる気がなさそうだったが、翌日には老画家を再び訪問し、モデルを引き受ける。
 さっそく作業が始まり、絵を描く作業とモデルとの関係を通じて、10年前の作業をなぞるようなことが行われるわけだが、なぜ以前には失敗したのかという理由が、現在の作業によって少しずつ明らかになるという形で、映画は進行する。
 したがって、画家とモデルとふたりのいるアトリエが、映画の主要場面となり、他は画家の家のほかの部分、妻の趣味らしい仕事の場面、モデルの恋人のいるホテルと恋人およびその妹、画家の絵を買うことになっているらしい実業家などが、時々写されるだけである。というと、ずいぶん単調そうな映画と思われそうだが、ほとんど退屈などすることのないような映画に仕上がっている。多分これで三度見たことになると思うが、リヴェットの映画の中では傑作のひとつだろう。最初は着衣のままだったが、しばらくすると全裸になることが要求され、しかも画家の要求に応じて体位を決定されてしまうので、モデルも大変である。俳優にしてもいわゆる通常の演技以外のモデルとしての仕事もこなさなければならないのだから、疲れただろうなと思う。
 画家は、最初のうちは「君の骨格がはっきり見えるような」姿勢を要求したり、筋肉の形がはっきり出るような姿勢を要求したりしているようだが、実はそれ以上のことも求めていることが次第に明らかになってくる。デッサンのが直接撮影されたりもするので、当然プロの画家の協力も必要である。もちろんモデルにしても自分の好みどおりの絵が描かれているわけではないと知ってはいても、どんな絵になるかは画家にも正確には分かっていないのである。
 モデルの恋人が画家の家を訪問し、画家の妻と会って様子をうかがったりする。モデルを勧めていたのに、実際に仕事が始まると心配になってくるようである。画家は紳士だから、心配することはないなどと、妻も最初のうちは言っているのだか、何日間も仕事は続くので、今度は妻自身がなんとなく落ち着かなくなるらしい。そういうものらしいということは、この映画を見ていればなんとなく理解できる。70すぎの老人とはいえ、一人の男と、全裸の女が真剣に向かい合っている緊張感は、ある種異常な雰囲気のものである。画家にとっては、それがなりわいであるにしても。
 周知のように、写真の出現以来、近代絵画は、写実を越えた「絵にしかできない」ことを求めて進展することになる。そして、絵画以外の芸術も、それにしかできないことを求める結果となったことも、よく知られていることである。だから、筆者にしても、この映画を見ながら、画家ではセザンヌのことを、それから彫刻家ではロダンのことをしきりと、思い出さざるをえなかった。そして、原作のバルザックは近代以前であるにしても、リヴェットもやはり、近代画家のことが念頭を去らなかっただろう。
 たしか、4日間のモデルをつとめたあと、仕上がった絵を見て、「こんな非情で、冷酷な絵」を見たことはない、と失望を隠せない様子で、モデルは言い、アトリエを去る。その後画家の取った態度はよく理解できない。絵を布で包むと、少しくぼんだアトリエの一部分に置き、お手伝いさんの娘に秘密だよと言いながら、レンガにセメントを塗り、壁を作り、絵を封じこめてしまう。その後一気に別の絵を描き上げ、変化が起こったというような言い訳で、翌日関係者か集まり、前出の実業家が約束どおり絵を買い上げることになる。一応の決着はつけられたことになる。
 しかし、実物の絵を見たのは、画家とモデルのみであり、モデルは前日の絵をまだ覚えている。観客にはもちろん、その絵は見せてもらえない。何が「非情で冷酷」だったのかは、想像することしかできない。10年前にモデルの妻と画家のあいだに起こったことがふたたび繰りかえされたようである。以前には両者の関係は破綻しかかったので、画家は絵を放棄するが、今回も絵は完成したが、また破綻しかかったので、なんとかつじつま合わせをして、画家は事態を収拾したようである。いったい、何がその絵には描かれていたのかは、推測しかできないが、おそらく人間存在の「存在」の核心をなす部分のみが描きだされていたのではないか。それは、あまりにもなじみがないので、モデルは「非情で冷酷」と言ったのだろうが、意外とだれもがどこかで見かけてはいても、見ようとはしないものだったのではないか。だれもが、人間というフィルターをかけてしか見ないものが、じかに描かれていたのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。

2007年6月下旬

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