黒澤明の映画(7)『どん底』

 体調が良くなくておおむね寝転がってビデオばかり見ている。こういう文章でも書けば時間つぶしにはなるが、後が疲れる。もう少しすれば一応学校も始まるわけで、一応は出かけるつもりなので、頭の体操を兼ねて文章を書くことにする。

 黒澤分は、前回で『蜘蛛巣城』まで行った。1957年の作品だが、同年にはやはり外国の翻案ものの『どん底』を撮っている。もちろんこちらの原作はゴーリキーの同名のものである。
 時代は江戸時代と設定されていて、場所は江戸の下町である。高い断崖の下に、長屋と大家の家がある。長屋といっても壊れかかっていて、まともなのは盗賊の三船敏郎が住んでいる左手の一部屋のみで、前の仕切りはすっかり壊れて居間のようになっている。奥のほうが二段ベッドのようになっていて住人はそこで寝るわけである。
 戦後12年しかたっていないが、その当時でもひどい貧乏だと思うほどの貧乏ぶりで、文字通りの「どん底」生活である。仕事をしているのはヨタカの根岸明美くらいで、新入りの鋳掛け屋問(東野英治郎)は、嫁さんが死に掛かっている50男だが、一応習慣で仕事をしているといった程度である。あとは堕落した元旗本にしても(千秋実)、バクチと酒とが仕事のようなものである。
特に事件らしい事件が起こってドラマが進行するわけではない。最初から分かっているのは、大家の若い奥方(山田五十鈴)と盗賊の三船の仲があやしいということ、大家(中村雁治郎)もそれに気づいているらしいということ、三船のほうは奥方に利用されそうなところもあって、同居しているその妹の香川京子に気持ちが傾いているといったことである。
 最低生活に甘んじ、かろうじて生きている人間どもの吐き出す台詞の掛け合いが、この芝居の見所ということだろう。そういう生活の中へ、巡礼の老人(左卜全)が一時的滞在で入りこんでくることで展開が生じる。この老人は、「川原の石ころさ、さんざもまれて、まあるくなったのさ」とみずからで言うような男で、ヨタカの少女のような恋愛話にも耳を傾けてやるし、死にかかっている鋳掛け屋の女房にはあの世の話をしてやるという具合で、長屋の弱者たちからは好評である。しかし、どうもただ者ではなさそうで、犯罪でも犯して逃げ回っているという感じもする。
 酒を飲んでのバカバヤシ(「地獄のさたも金しだい、仏の慈悲も金しだい、こっちはオケラですってんてん」)は達者な役者がそろっているので、結構面白いということもあるが、最後は大家のところの二人の女と三船との関係がこじれて、三船が大家を突き飛ばし、打ち所が悪くて死んでしまったため、三船と奥方は裁きにかけられるし、妹は行方知れずである。巡礼は騒ぎに巻きこまれるのを嫌って姿を消している。
 例によって酒で調子をつけ、バカバヤシと踊りをやっていると、巡礼から「酒毒でやられた五臓六腑」をタダで治してくれるという寺があると聞いて勢いづいていた元役者(藤原鎌足)が、支えの巡礼が消えたことが応えたのか、首をくくったという知らせがはいって、宴会も台無しである。
 黒澤さんは、今までの『どん底』より面白い『どん底』を作りたいといっていたらしいが、あまり記憶に残っていないジャン・ルノワールのものより、確かにはるかに面白いだろう。映画なのに、断崖の下からカメラは動かない。まるで芝居でも見ているような感じだが、その分ずいぶんリハーサルはやったらしい。カメラは『七人の侍』以来マルチ・カム(三台のカメラを同時に回し、常時一台はアップ、もう一台はミーディアム、最後の一台はパンにしてある)で、編集でどうされるか分からないので役者はカメラをほとんど意識しなくなったらしいが、こういうタイプの映画では、あまり効果は発揮しないのではと思った。
 『七人の侍』にも少し触れるつもりでいたが、疲れてきたので、ここらで終わりである。

2006年9月中旬

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