ノーマリゼーションへ向かって
−−−自閉症の一事例から−−−



布施佳宏


はじめに


 ノーマリゼーション((normalisatiom)とかノーマライゼーションとかという言葉がどれほど一般的に知られているかは、あまりはっきりしない。四、五年前までは比較的新聞の家庭欄でよく取りあげられていた問題なので、かなり知られているのではないかと思っていたが、筆者の担当している福祉関係の授業でこの二三年連続して学生諸君にきいてみると、知っているのは平均してほぼ四分の一程度である。おそらくいくらかは福祉に興味をもっている学生たちなので、一般的なレベルよりある程度高い数値である。この数値から一般的レベルを推し量れば、かなり低い数値に落ちるだろう。
 福祉関係者や障害者の親の間では周知のものとなっているこの言葉は、デンマークのバンク-ミケルセンの創案になる言葉とされていて、デンマーク発ということを重視すれば「ノーマリゼーション」であってしかるべきところだが、近頃では英語読みのノーマライゼーションのほうがよく使われている。(注1)この原稿を書いているワープロでも、ヒラガナでノーマリゼーションと打って変換を押してもカタカナにはならなかったが、ノーマライゼーションのほうは変換可能だった。
 言葉の意味は、老人を含めた障害者が、たとえば街の郊外などの人里離れた施設に入所させられている状態などをabnormalと考え、むしろ街中に健常者にまじって暮らしているのがnormalだとする考えかたであり、本来はそうした人たちができるかぎり健常者に近い生活をおくれるように条件を整える必要性を強調する考え方である。要するに今まで、いわば社会の外に置くことが常識であった老人を含む障害者たちを社会のなかによび戻そうとする運動の理念なのである。
 ほぼ以上のような意味で使われるのが、ノーマリゼーションという言葉の使いかたの通例となってきているのが現状であり、この使いかた自体に問題があるわけではないが、この言葉は、まず最初は、知的障害者(精神遅滞、ダウン症、自閉症などの障害をもつ人たち)を対象として使われだした言葉だということは、一般的には意外と忘れられている。
 すでに述べようにノーマリゼーションという言葉はデンマーク発である。だが、スウェーデンとならんで福祉の最先進国であるデンマークでわざわざこのような言葉が発明されなければならなかったということは、このような国においてさえ、知的障害者の生きる権利の多くが無視されていたということを意味する。ましてその他の福祉後進国においては、ひどい状態にあったし、今もなおひどい状態にあるのは、言うまでもない。

 「ノーマリゼーションの父」と言われる、デンマークの社会省の行政官だったバンク-ミケルセンは、ノーマリゼーションの理念を1959年に法制化することに成功したが、その時のことを回想しながらつぎのようにのべている。

 「用語と内容について、他の北欧の国々の専門家ともいろいろ討議しました。ヒューマニゼーション(humanisation)あるいはヒューマン・リレーション(humain relation) もありました。またイクォーライゼーション(equalisation)など、いろいろな用語が考えられました。しかし親の会の願いを一番よく表わすものとして、結局ノーマリゼーションという語に落ち着いたのです」。(注2)

 こんな早い時期の法制化など、日本から見れば驚異としか思えないが、この法制化を支えていたのは「親の会」の強い要請だった。この法制化により、少なくとも法律の上では、「知的障害をもっていても、その人は、ひとりの人格をもつものであり、ノーマルな人びとと同じように生活する権利をもつ人間である」ということが、認められたのである。(注3)。
 デンマークでは、この法制化以後、スウェーデンではニィリェの1960年代終わりの論文の反響以後、ノーマリゼーションは社会福祉の分野にじょじょに浸透しつつあるようである。もちろん、ノーマリゼーションという理念がある程度現実のものとなるには、福祉先進諸国においても長い時間がかかっている。そして、この時期以後この両国さらにはその他のヨーロッパの主要な国々でも、大型の施設は原則的には廃止の方向に向かい、街中の小型のグループ・ホームなどが中心となってきているようである。これは言うまでもないが、知的障害者以外の障害者や老人に関してもである。

 日本でこの言葉をよく耳にするようになったのは、1983年からの「完全参加と平等」を目標とする「国際障害者の十年」のほぼ十年間のあいだのことで、お祭りさわぎがすんでしまうとマスコミもほとんどノーマリゼーションを取りあげることはなくなった。民主主義もヒューマニズムもそうだが、どうも輸入品はいつまでたっても身につきにくいものらしい。だが、何年か前に気づいたことだが、厚生白書にはちゃんとノーマリゼーションという言葉は載っているのである。それを読んだときにはあきれかえった。どうもだいぶ以前から言葉だけはちゃんと輸入していたらしい。実態はどうかということになると、言葉とはおよそかけ離れた状態にあるということは、おそらくだれにも推測のつくことである。だいたい経済が順調なときには、先進諸国は福祉に金をつぎこみ、充実させるもののようだが、日本はほとんど充実しないうちに、あるいはほとんど充実させる気がないうちに経済は不調になってしまった。そして不況になれば、こういう時 だけ横並びで先進国なみになって、まっさきに福祉予算をけずるほうへ走りだす。そして、あまりえたいのしれない「介護保険」なるものを作ったりしたが、さていったいどうなることやら、とだれもが考えていることだろうし、日本の福祉の至らなさで地獄にいる思いをさせられた人たちなら、よけいそう考えていることだろう。すでに述たバンク-ミケルセンはもちろんのこと、ノーマリゼーションのもうひとりの世界的な指導者スウェーデンのニィリエも行政官である。日本流にいえば役人である。ただ、彼らが日本の役人たちと違う点は、理念を現実に化するためにおおいに努力し、もちろん完全にとはいかないが、かなりの点で理念を現実に変化させるところまでもっていく力量があったということである。日本の役人は、「親の会」の要求には、そっぽを向くのを慣例としているようだし、親の要求に耳を傾ける奇特な役人がいたりすれば、まずはすぐさまほかの部署へ飛ばされてしまうようであるらしい。

 どうもこういう問題になるとついグチっぼくなるので、本題にもどることにする。
 何年か以前からノーマリゼーションについてなにか書いてみようと思っていた。それで、翻訳された文献はあまりなさそうなので、二軒の洋書店にたのんでノーマリゼーション関係の洋書のタイトルを検索してもらった。ところが、ある程度予想していたことだが、最近五年くらいの文献ということで、リストアップされてきた書籍目録の点数はあまり多くないし、これは当然だろうがこういう探し方をすれば、どうしても理念的・理想的な概論風の書物に限定されてしまう。そういう本は画期的なものでも出なければ、二三冊もあれば足りる。そして、筆者の知っているところではすでに二冊の古典的なものの翻訳があるので、基本的にはそれで十分だと思われた。(注4)それならなにも言うことがないかというと、そういうことでもない。むしろ日本の現状についてなら、不平不満は山ほどある。かといって、理念や理想と突き合わせて、日本の現状をうんぬんするのは、現状が貧弱すぎてやる気もおこらない。しかたがないから、例によって筆者自身の経験をのべ、それについてあれこれ考えてみるのが一番無難ではないか、という結論になった。ヘタに理念をかかげるよりまだしも耳を傾けてもらえるだろう。それに、デカルトの『方法序説』の言い分ではないが、だれかの参考にはなるだろうし、悪くってもだれの害にもならないだろう、というわけなのである。

I.


 子どもが生まれたのは、1970年である。当時は「ノーマリゼーション」などという言葉を知っている人は、日本ではほとんどいなかっただろう。もちろんデンマークやスウェーデンならある程度のひとたちはすでに「ノーマリゼイション」について知っていた時代だが、日本では、多くの人が障害者についても福祉についてもほとんどなにも知らない時代だった。筆者も例外ではなく、子どもに障害があるらしいと思われだしたのは、三歳くらいだから、最初のうちはまだ子どもが障害児であることも知らず、ただ子どもの誕生を喜んでいた。今からすれば、あれほど無知でよくも平気でいられたものだと思う。当時、障害者に関する一般の人たちの認識がどの程度かを示す例をひとつあげておこう。これは記憶だけがたよりなので、年代が正確ではないが、息子が四歳か五歳くらいの頃、朝日新聞の家庭欄にアンケートの結果が載っていて、その結果が記憶にある。確か関西の短大の女子学生に、「もし自分のところに障害児がうまれてきたらどうするか」という意味の質問をしたところ、それに対する回答は、過半数の人が、「自殺する」と答えていたというものだった。さすがにこれを読んだときには、子どもが自閉症だということが判明していたので、頭に血がのぼったが、これはまだ筆者がひかえめにおさえて言っているので、そう答えた人の数は記憶では80パーセントだったはずである。ちょっと高すぎるようにも思えるので、過半数としたのである。かりに過半数だとしても、これが現在新聞にでも出れば、大問題になるところだろうが、問題にすらならなかった。このアンケート結果が、人びとの意識のレベルを象徴的に表わしている。
 もうひとつ思いだしたことがあるので、それも書いておく。やはり子どもが三歳か四歳くらいのころ、たまたま妻が知人の高校の先生に会って、「子どもが学校に入った時、どういうことに注意すればいいか」と訊ねたところ、「母親はつねに地味な服装をして、物腰は、だれに対してももっぱら低姿勢であるべきだ」という答が返ってきたとのことである。1973、4年ころには、一般的にはそんな風だった。その当時でもまだ、日本では、福祉に関しては、慈善事業としか考えられていなかった暗黒時代が続いていた のである。しかし今でも、そのころと比べてそれほど前進があったとは、とても思えない。そういう意味では先程の役人たちは考え方だけは進歩的で、明治以来の伝統でせっせと先進国の思想を輸入しては書き留めておくという習性はあるが、また現実には目をとざすという習性もあわせもっているということもつけ加えておく必要があるだろう。
 子どもに自閉症という障害があると分かってまずわが家でなにが起こったかといえば、だいたいどこの家でも生じそうなことである。どだい自閉症という障害が、どんな障害かということにも、はっきりとした決着がついていなかったから混乱は今よりひどかったかと思う。とんでもない治療法なども横行していたからである。そのくせ最初のうちは意外とのんびりしていたが、それはひょっとしたら治るのではないかとどこかで思っていたからである。どうもにも治らないらしいと分かっても、なんとか普通の子どもに近づけたいという願望が生じるので、親はてんてこまいをさせられながら、良い医師はいないか、良いカウンセラーはいないかと血眼になる。それがずいぶん長くつづく、子どもがなかなかいい方向にむかってくれないからである。つまり、言葉はほとんど零に近い状態のままだし、社会性も芽生えてこないからである。それに、社会自体が障害者を排除しようとする仕組みになっているのである。そうしたことをしだいに知らされてくるにつれて、仕組みをすぐさま変化させることなどできないのだから、親としてはあせりをひたすらつのらせるしかない。別段つのらせたいなどと思っているわけではないが、あせりの方が勝手につのってしまうのである。自閉症児は、特に幼いうちはほとんど言葉を理解できない。そこで、親の言うことはきかないし、もちろん他人のいうことも聞かない。社会性という点ではとんでもないことばかりやらかす。おまけによく行方知れずになったりするので近所中で大騒ぎになる。事情を多少なりとも知っている人の対応は多少はちがうが、普通は「しつけの悪い子」としか取られることはないので、特に母親はあせらざるをえない理由があるわけである。教育は母親の担当という通念が、今だに当然のこととされているからである。しかし、「しつけが悪い」ということであれば、最終的には父親にも責任があるということになるから、父親にしても騒動にまきこまれざるをえない。だが、この「あせり」は、主として社会を構成している人たちの意識の低さからやってくるのであって、社会福祉の制度のレベルの低さのみからやってくるのではない。もちろん、意識が高ければ、制度のレベルも上がっていて当然のはずである。制度が整っていないということは、それだけの意識しか国民はもっていないということである。よく言われるように、国民は意識のレベルにあった政治家しかもてないのだか、社会福祉についても事情は同じである。
 こうして、自閉症児を抱えた家族は一種の「狂気」のうちに置かれることになり、夫婦喧嘩はたえず、他に子どもがいればその子にもおおきな精神的負担がかかるので、へたをすれば離婚はもちろん家庭崩壊も起こりかねないという状態にまでなる。昔なら、家のなかに監禁して、外出などさせないようにしていたのだろうが、今でもおなじようなことをしている人もいると、たまに聞く。しかしながら、多くの親は精神的肉体的な多大の負担にたえて、子どもの精神的社会的向上を願って努力を重ねる。たまにはかなりよくなる子どももいるからである。しかし子どもが成人期を迎えても、あまりはかばかしくない状態なら、それこそ親は精も根も尽きはてて、子どもを施設に送りこむことが多いらしい。大変な負担にたえてきた親たちを、だからといって非難する人たちは少ないにはちがいないが、問題はその入所施設である。施設自体が十分にあるわけではないし、職員の数もとても十分などということはこの国にかぎってはありえないことだから(看護婦数で、日本の病院と欧米の病院とを比較して見ればいい)、そういうところでは精神的肉体的虐待が生じても不思議ではないだろうし、問題行動の多い人は薬で眠ら されてしまうことになるらしい。これは多くの特別養護老人ホームでも起こっていることのようだし、「痴呆老人」に関しては軟禁状態は当然のこととされている。おまけに言葉のにがてな知的障害者たちなら、きちんとした抗議ができるはずもないし、抗議でもしようものなら、老人のケースでよくあることらしいが、よけい虐待されるだけのことだろう。
 バンク-ミケルセンならずとも、「ノーマリゼーション」と言いたくなって当然なのである。しかし、こうした事情を知っているはずの厚生省が、よくも白書にノーマリゼーションなどと書けたものである。しかし、なにしろほとんど税金を使って建てる「特別養護老人ホーム」で汚職のおこるお国柄だから、べつだん恥ずかしいとも思わないのかもしれない。

 時間をだいぶ前に送りすぎた。わが子はすでに二十九歳でこれから先のことが気になっているからである。後戻りしなければならない。 別に好きこのんで、家族や他人とのコミュニケーションをとらないわけではないが、どうも子どもにはコミュニケーションを担当している脳の部位に故障が生じているようで(これは現在ほぼ定説となっている言い方をしている)、医師もカウンセラーも、とにかく人のなかへ入れなさいと言う。それで、三歳のときに幼稚園にいれた。文字に興味があったので、子どもはヒラガナもカタカナも漢字も読めたので、どうにも落ち着きはないが、入園を許可されたのである。園長さんはかなり理解のある人だった。しかし幼稚園が始まり正体がばれたとたん、妻は毎日のように、幼稚園まででかけて見はりの役をやらされていた。最初の年の先生は中年の女性で、どこに飛び出していくかわからない子どもがかなり負担だったらしい。半年間はそんな状態がつづいていた。 三年間幼稚園に通ったが、子どもたちの中では、わが子はほぼ完全に孤立していた。好きな男の先生がいて、よくその人にまつわりついていたということもあったし、やさしくしてくれる先生や親たちもいたことはいたが、基本的には子どもは孤立の輪からでられなかった。今から思えば、身をすくめて生きているような感じの三年間だつた。こちらの意識がまだまだ低かったということもある。

 子どもが幼稚園に在園中に、妻は、いわゆる「自閉症児親の会」といわれるものに所属するようになり、いろんな情報がえられるようになってきた。障害者についての平均的な日本人の平均的な情報のなかにいれば、息苦しい思いをしながらでなければ生きられないので、「親の会」から現在言われている「ノーマリゼーション」といわれるものに近い情報が入ってきて、ある程度気分が楽になった。上に述べた「平均的な日本人の平均的な情報」といういわゆる「常識」なるもの、長いあいだかかって歴史のなかで作りあげられてきたほぼ無意識的な概念がどれほどその中にいる人間を拘束しているものか、この時期以降長い時間をかけて思い知らされ、今も思い知らされつつある。それはまずみずからの無知の自覚から始まる。ソクラテスはまちがってはいなかったのである。無知からわずかばかりの知への歩みは、長い時間をかけなければなかなか身につかないもののようで、生き方の根幹に関わる問題でありながら、障害者の問題がいかに大きな問題であるかにまったく気づかずに人生を終えてしまう人がなんと多いことかと思う。第一今言った哲学自体にしてからが、長いあいだ、そしていまもなお障害者問題をはずして、哲学をやりつづけている。例えば、医学や科学の進歩によって、さまざまな問題が生じ、あらためて人間の生命や環境の問題について深刻に考えなければならなくなってきているが、ここらあたりが第一歩で、決着がつくころには、人間の存在自体があやうくなっているかもしれない。障害者問題をはずして学問をやってきた報いだ、と考える人はあまりいないだろうが、障害者問題に真剣にとりくんでいれば、事情はだいぶかわっていただろうということは、言える。障害者問題が昔から問うてきた問いの重さを、最近にいたるまでだれも身に沁みて感じなかったあるいは感じられなかったことの人間把握の甘さの報いを、これからの超高齢社会でやっと思い知らされる人たちの多さを考えれば、わが家に障害児が生れてきてくれて、早くからこの問題に直面せざるをえない状況に置かれてしまったことは、ふつうの意味からかなりずれた使い方だが、まことに「不幸中の幸い」であったかも知れない。あるいは「不幸中の幸い」と言うにはまだ早すぎるかもしれない、まだこれから先の事が見えてこないからである。

 小学校にはいるころには、子どもは普通の学校に入れてやろうと思うようになっていた。ところが、入学の時期が近づくと、地元の小学校の先生方がわが家を訪問され、普通学校にはいるようにという勧誘があった時には驚いた。T市は、当時障害児教育に関しては先進地域だったのである。T市に暮らしだして四年くらいしかたっていなかったので、この地域のことはよく知らなかったのである。それで、息子は小学校の六年間を「原学級」ですごすことになった。学校と親とのあいだには、「連絡ノート」というものがあり、親は家でのその日の子どもの様子をそのノートに書き、先生も学校での様子をそのノートに書くので、双方が見えないところでなにが起こっているのかを知ることができるという仕組みになっていて、その情報にもとづいて子どもへの対し方を調整しうるという利点があるわけである。障害児教育にについてはほぼ北欧なみのことが行われていた。ただ北欧なみの自覚がすべての先生方のなかにあったかといえば、はっきり言って自覚のなかった人たちのほうがはるかに多かっただろう。制度としてそうことになっていたので単にやっているというだけの人が大部分ではなかったかと思う。しかし、いちおうそういう格好になっていれば、従来のやり方しか知らない学校にいる人たちよりも、やはり一般的な理解ははるかに進んでいて当然だろう。偶然筆者の通勤の問題だけで住みついた地域で、ある意味での「ノーマリゼーション」に出会ったことになる。このことの意味は大きかった。
 以前に別の文章でも書いたように、普通の子どもたちのなかにいたことの効果は、普通の子どもというのはだいたいどういう行動を取るのか、ということがわが子にのみこめたことだろう。自閉症児というのは、目に見える形での障害があるわけではないので、同級生が低学年のうちは、変わったやつだとは思っていたろうが、息子に知的障害があるということを、それほどたいした問題とは考えていなかったふしがある。それで、一応仲間に入れてもらえてみんなと一緒に行動できたことが、小学校教育の最大の成果だった。たいていどこへ行くにも仲間といっしょだった。あれこれ世話をやいて、こういう時には、こうするものだといちいち教えてくれる積極的な子どももいたし、ひかえめで普段はなにも言わないで傍観しているが、肝心な時には出てきてきちんと指示したり手を貸したりというタイプの子もいた。そのため、いろんなことが自然とできるようになったことを、成果と呼んでいるのである。驚いたのは、二年生のときだったと思うが、副車輪のついた自転車にしか乗れなかった息子の自転車から、副車輪をはずしても大丈夫と妻に教えてくれていた子がいたことである。副車輪をはずしてみると、息子のほうもべつにためらう様子はなく、はじめての副車輪のない自転車に乗りこみ、そのまま走ってどこかへ 行ってしまった。それで息子は、一度も転ぶことなく自転車に乗れることになったが、当方が驚いたのは、息子が転ばす乗れると見極めた子どもの観察力あるいは判断力の確かさについてである。これは極端な一例であって、その他とるにたりないことであっても、普通の子にはできても、自閉症児にはできない多くのことを、 息子は同級生から数多く教わったということが、言いたいのである。
 もちろん先生も息子が孤立してしまわないように、わが家に訪ねていくように子どもたちに勧めてくれていたということも言っておく必要があるだろう。先生の勧めもあったし、親が共働きで家にいてもつまらないという子もいたようで、常にわが家は子どもたちであふれかえっていた。そこでわが子は、小学校の二年から四年の頃まで、朝の九時から夕方の五時くらいまで、ずいぶん辛抱をしなければならないことも多かったろうが、まがりなりにも一応普通の小学生のなかで生活することができた。そして、同級生 の子どもたちが、本物の先生たちよりはるかに優れた最良の先生だった。
 そうした制度的な意味では、この小学校は、自閉症児も仲間のうちに数え入れようという方針だから、制度的にカバーしうる点ではこのやり方は一応成功していたと言えるだろう。ところが、子ども自体の障害が、学年があがるにつれて、彼をどうしようもなく孤立させてしまっていて、最終的にはやはりどこから見ても「浮き上がった存在」にしかなりえなかった。ただし誤解のないようにいっておくが、自閉症という障害を文字通りの意味にとってもらっては困るので、子どもの脳のシステムが社会的な生活を送るようにはできていなくて、たえず健常者の状態に自分を合わせていなければならないので、ひどく疲れてしまい、すぐにひとりになりたくなるらしいといった意味で、「浮き上がっている」と言っているのである。もちろん言葉がどうしょうもないほど身につかないという背景もあるのだが。
 言葉にあまり不自由のないらしい知能の高い、高機能群とか、アスペルガー症候群とかと言われる自閉症の分類に属する人たちもいて、その人たちのひとりとされているれているドナ・ウィリアムズについて、五年ほど前にNHKの放送があった。あの「ようこそわたしの世界へ」のなかで、ドナが明らかにしようとしていたのは、彼女にとってより重要性をもつのは、言葉ではなく感覚だということだった。言葉特に話し言葉を使う世界は、彼女にもやはり苦手な世界なので、やはりひとりになりたがっていたのを見 て、わが子の「孤立」の意味を画面を通じてはっきりと見たという思いがした。
 五年生になったころ。この学校での「浮き上がった」状態は決定的となった。いっしょに町を歩いていて、同級生が向こうからやって来ると息子は避けるようになった。始めのうちは照れているのかと思っていたが、実は「いじめ」があるからだと気づくまでに、そう時間はかからなかった。むろん、やさしくしてくれる子もいるのだが、多くの同級生たちは「いじめ」グループになってしまっていたのである。それとほとんど時を同じくして、子どもたちが、わが家を訪れることがきわめてまれになった。わが家がマンションに引っ越したということも影響していたのかもしれないが、塾通いとかで忙しくなる子もいただろうし、多分子どもたちどうしが互いにつき合う相手をえらぶ年齢にもなっていたからだろうと思う。つき合ってくれる子がごく少数になった形で、息子の小学校生活は終わりを迎えた。
学校の勉強のほうのことも少し書いておく。自閉症児の特徴で、機械的に覚えこめばできてしまうことはできるようになる。たとえば漢字を覚えることとか、算数の計算ができるとかといったことである。ところがそれ以外のことはまったくダメである。なにしろ国語が、つまり言葉の意味がなかなか理解できるようにならないからである。そして、なんとかなる方の漢字の知識なり算数の計算なりは、実生活の上ではまったく役に立たない。映画「レイン・マン」にあるとおりである。息子がまがりなりにもひとりで買い物ができるようになったのは、三年生のときで、そうとうあやしげな買い物の仕方だったようだが、ともかくもひとりで買い物ができたというので、とてもうれしかったから記憶にある。
 小学校時代も自閉症児の「こだわり」はいかんなく発揮されていた。これは小学校にはいる前からだったが、ともかくなんであれ言葉というものに興味があったらしい。フランス語、ドイツ語、英語など家には職業柄テキストやテープのたぐいはそろっていたので、いつのまにやらカセットデッキの扱いを覚え、言葉ももちろん系統だった覚え方ではないが、なんやかや暗記してしまった。それから漢字にこだわりがありいくらでも覚えてしまう。それに、それをそこいらに鉛筆やらクレヨンやらで書くのである。そこいら中が外国語や漢字で埋まってしまっては困るので、なるだけチラシなどの紙にかかせるようにしていたが、むやみやたらと書くのでたちまち紙はなくなり、目を離しているとともかく文字の書けるものになら、書きこめる手段をえらんでなんにでも書いてしまう。しかし、小学校に入ってから一年くらいたつと、やはり日本語は多少なりとも意味が分かってくるので、外国語のほうはどこかへ消えてしまい、もっぱら興味は漢字に 集中することになった。漢字への興味は中学を出るころまでつづいた。
 その次はレコード蒐集だったが、これは後に回すことにして、ここではいくらかなりとも勉強にかかわることのみに話しを限定する。三年生の時に、どういうきっかけからだつたか、県章とか府章とかに興味がわき、これを日本中の各県や府などに問い合わせて、返事をもらい、ある県章なら県章の由来などといったものを丸暗記してしまう。妻が資料請求の文例を書いておいたので、必要事項のみ書き改めれば、どこにも通用するので、全国のものを集め、それをことごとく暗記してしまった。社会科のテストで県庁所在地名を書くというのがあって、当然これは全部正確に書くことができた。これは、息子が、学校時代に満点をとった唯一のテストだった。
 関心に重なるところがあるが、やはり同じ頃にテレビのネットワークというものにむやみと凝るようになった。コマーシャル好きは幼児の頃からだが、どこかに旅行すると各地方でテレビのチャンネルと放送局とが関西地方とは違うので、それでだんだんネットワークというものがあるということに気づきだしたらしい。やはり、東京にある放送局などからパンフレットのたぐいを送ってもらったり、筆者が学会で地方に出かけるときには、そこの放送局に行ってパンフレットを手に入れてくるようにという命令が下るようになった。家族で東京に行ったりするときには、放送局めぐりをするのが慣例になっり、夏休みにはわざわざそのために何回か東京までか出かけることにもなった。そうこうするうち、近くの吹田市に毎日放送文化館というのがあるのに気づいた妻が子どもを連れていくと、病みつきになり、毎週出かけていくことになった。妻が車で連れていっていたのだが、中学卒業後、半年くらいかけて電車とバスを使って、ひとりで通うことを覚えさせた。そこには、スタジオのセットのようなものが作ってあったり、子どもの好きなコマーシャルの古いのを見られるようになっていたし、毎日放送のテレビのネットワークの大きな全国地図があるうえ、各地の放送局名を書いた張り札が細い棒で浮き上がるようにして貼りつけてある。彼にすれば夢中になって当然の仕掛けがしてあったわけである。その張り札のひとつが間違っていたので、彼にすれば気になってしかたがない。そこでとうとう間違っている札を二枚はずして、正しい場所に置こうとした。ところがボンドかなにかで張りつけてあつた札は、はずしていまえばくっつかない。それで、係の人に叱られたのがきっかけで、そこの館長さんと知り合いになり、放送関係の新聞などのあるを教えてもらい、彼の念願は達成されたのである。全国のテレビは言わずもがな、ラジオの放送網までことごとく暗記してしまった。さらには、これから開設しますという予定まで覚えてしまい。開設を心待ちにするようになった。これが、一番長く続いた趣味であり、二十歳くらいまではほとんど毎週かよっていた。それからすこし間遠になりながらも、結局二十七歳までかよい続けた。だから今でもテレビやラジオのネットワークについてはすごくくわしい。以上が、彼の小学校時代に自発的にやった勉強である。ただし、彼の勉強はいつものことだが、ほとんど実用的ではない。
 小学校の卒業式を終えた時には、自閉症の一番たいへんな時期はなんとか乗り越えられたと思っていたので、強い安堵感があった。たえず子どもの相手をしていた妻の安堵感は、当然筆者のものとは比較にならないだろう。

II.


 小学校は普通の学校に通ったので、中学校ももちろん普通の中学ということになった。カウンセラーの先生の指示もあったし、小学校の時から勉強は二の次どころか、眼中にすらなかったと言ったほうがいいだろう。だから、勉強しろなどということは、一度も言ったことはない。学校のもうひとつの機能、社会性を身につけること、社会のなかで暮らすことの基礎を育てる機能のほうを重視したきたわけである。そこで、中学でも同じやり方でいくことにした。知的障害児、特に自閉症児の勉強については、いろいろ論議のあるところで、もちろん筆者に定見があるはずもないが、ともかくわが家ではそうやり方を取ることにしたわけである。自閉症児は別の世界に暮らしている子どもなのだから、勉強をしてもそれは別の世界でのことであって、この現実の世界とはきちんと結びつくかつかないか分からないのだからあまり意味がない、と今思えば直感的に考えていたのだろうが、後になつて勉強でえた知識をある程度は現実の世界と結びつけられる子だっているはずだから、この考え方はかならずしも一般的に通用するとは思っていない。
 ともかくそんなわけで、中学でもあらゆる授業を原学級でやることにした。ところが、またしても、「いじめ」の問題に遭遇することになった。妻の話では一年生の時「いじめ」に気づいたのは一度きりで、その時は事後処理がうまくいったようだが、二年生になるとひどくなってきた。なにしろ毎日のように、制服のあちこちに靴で蹴られた跡をつけて戻ってくるようになったからである。そこで、筆者が学校に掛け合いに行ったが、なんだか体よくあしらわれた感じだった。一応こっちの言うことは聞いてくれるが、どうもどうしていいか分からないらしい。靴跡は相変わらずあるので、一体なにをしているんだとずいぶん腹を立てたが、とうとう子どもが学校に行くのを嫌がりだした。学校に出かける際、妻がマンションの上から見ていると、子どもはマンションの前で立ち止まって、なかなか学校の方に行こうとしないのである。毎日見ていたが、やはり状態は変わらない。当時は不登校の子どももそれほど多くはなかったので、フリー・スクールなんかもあまりなく、遠くのそうしたたぐいのところを見物してきた妻の話では、行かせたいが遠すぎるとのことだった。
 とうとう業を煮やして、学校を休ませることにした。子どもは、学校というところは行かなければならないところだと考えていたらしいので、説得に多少手間取ったが、なんとか行かなくていいんだと納得させた。子どもは安心した顔になった。しかし、二三日もすれば、学校の方がやきもきしだして、登校するようにと矢のような催促である。こちらは、精神的肉体的休養のため少なくとも一カ月は休ませるつもりだったし、場合によってはやめさせてもいいというつもりだったが、結局先生のメンツの問題その他があるらしく、一週間ほどでほんとど無理やりに学校へ引き戻されてしまった。当座は監視の目をきびしくしていたらしくて、いじめられているふうでもなかったが、やはりしばらくすると「いじめ」は再開されたらしい。だんだん陰険になって、例えば「跡がつかない程度につねる」というようなことをやられたらしい。中学時代は、学校ではほとんど「いじめ」で終始したようなものである。
 小学生四年の終わりくらいまでは、毎日同級生がわが家を現れたということは先に書いたが、それ以後はときたま思いだしたようにだれかが訪ねてくる程度だった。中学の時も同様で、ほとんどだれからも見放された感じだった。「やさしい」子がいなかったわけではないが、家まで訪ねてくるほどではなかった。それに、わが子と同級生たちとの国語の能力を比較すれば、わが子は全体的には文字通り二歳、部分的には三四歳程度の能力のままなのに、同級生たちの方はそれぞれ学年並みの能力を身につけるようになっているので、コミュニケーションの溝は一年ごとにどうしようもないほどの格差が確実についてきてしまっている。話が通じなければ面白くないのが、道理である。
 そんなこんなで、子どもの中学時代のことはあまり思いだしたくはないのだが、嫌な思い出の締めくくりをしておかなければならない。中学卒業となれば、進路指導の問題が出てきて、そのひとつは、この地域では障害児には後々の支援のためのグループを作っておくというのが、最終学年の担任の先生の仕事なのである。ところが、先に述べたように一応学校では「ノーマリゼーション」めいたものを実行していることになってはいても、本当に十分理解して実行している先生方はこうした方式を実現するための発起人となった二三人の先生がたにプラス数人という状態だったようで、ちゅうと半端な態度しか取れない人だと、そんな支援グループは作れないし、それにクラスの雰囲気というものもあるだろうから、簡単にはいかないこともあるだろう。むりやり作っても、単に形式的なものに終わってしまうことになる。わが子の場合は、なにしろ「いじめ」られていたのだから、結局グループを作るというところまではいかなかった。
 もうひとつの進路指導の問題は、子どもの行き先をどうするかという問題である。まずいっておかねばならないのは、この地域には、「障害者を公立高校へ」という運動がその当時までに十年ほど続いていたということである。ほとんどの中学卒業生が高校に進学しているのだから、障害児だって進学して悪いわけはなかろうという理屈である。たしかに、高校では受験というふるいをかけて選抜をやるのが習慣となっているが、学校というのは知識のみを教えこむことだけで尽きているわけではないということは、先に述べた通りであり、社会性を身につけさせるというもうひとつの重要な側面ももっていて、義務教育ではその面を肯定的に捉えていたから、知的障害児の入学も許可していたわけである。第二次世界大戦前のエリートたちのための高等学校というのならいざしらず、今のように高校がほぼ義務教育化している現状で、しかも筆者の居住地域のように公立高校では地元集中方式を採用しているとという地域で、選抜試験にどれほどの意味があるのか、知的障害者だって入学させた方が一般の生徒たちのためにもなるというのが、この運動の方針だったと思う。異存があろうはずもないから、不合格となるのは覚悟のうえで受験させ、予想通り不合格となった(以後デモンストレーションで二回受験したが、子どもがいやがりだしたので、三度でやめにした)。たしか受験の前日、わが子は母親に答案用紙にはなにも書かなくてもいいのかといった意味の質問をした。答えの方は書きたくなければ、なにも書かなくていいといったものだったはずである。その時には、子どもがどんなつもりでそんな質問をしたのか、はっきりしなかったが、やがて子どもにとっては意味のある質問だったということが明らかとなった。
 ともかく、どこかに行き場がなくてはならない、とみんなが考えていた。公立受験は受かるはずがないのはのは始めから分かっている。行けるところは、とみんなが考えて、出てきた答えは通信制の高校か夜間高校だった。一応試験はあるけれど、なんとかなりそうだという話である。ところが、思わぬことになった。子ども本人が、学校に行くのは嫌だと言いだしたのである。公立校受験の時、答案に答えを書かなくていいかという質問をしたのは、これまで書けるところだけ書いて、一応中学は卒業できたのだから、子どもにしてみれば、書けるところに解答を書けば合格になるかもしれない、と心配したらしいのである。ともかく、学校というところは金輪際嫌だということだったのである。高校を嫌だと言いだして、やっとそのことに気がついた。だいたい学校が好きだ言う人はあまりいないのではないかと思うし、いまのようにすぐ受験受験と受験至上主義がまかりとおっているご時世なら、なおのこと好きな人はいないだろう。ましてやわが子は、保証付きの知的障害児である。話を聞いてもほとんどなにも分からないわけだ し、いじめられるしではいやがって当然である。思い返してみれば、よく我慢したとほめてやりたくなるくらいである。そんなに嫌だと最初から分かっていれば、学校にやるんじゃなかったと思うくらい、切実な顔をして言った。それで、高校行きの話は立ち消えになった。

III.


 そういう訳で「在宅」ということになった。在宅といっても、普通の子ならなにもしなければ退屈でしかたがないから、自分でなにかやることを見つけだすだろうが、自閉症児の場合は、そうはいかない。放っておけば、僅かの時間自分の好きなことだけにかまけるだけで、あとはなにもしないでゴロゴロしていることになるのは、目に見えている。それに、自閉症児というのは、毎日のスケジュールをきちんと決めておかないと落ち着かなくて、精神的に不安定になる傾向がある。いままではいやいや行っていたところにしろ大きなスケジュールの枠を決めてくれていた学校がなくなったのである。だから親の方で、スケジュールを考えなければならないことになったわけである。
 まず、先にのべた「放送文化館」があった。これで一日はつぶせる。それから絵とギターがあった。絵とギターは、小学五年の時から習いだした。友達は来なくなったし、やることがなくて寝ころがってばかりいるのを見ていると、親のほうもつらくなってくるからである。両方とも、その時まで続いていた。絵は無理やりに頼みこんで教えてもらったのである。その絵の先生は、なん人かの自閉症児に絵を教えようとして失敗していたので、最初のうちは試験的に習ってみるということで、引き受けていただいたのだが、以後順調にいってその時まで続いていた。ギターの方も、やはり遊び程度のことでしかなかったがともかく続いていた。その三つの他に、受験した高校に「《障害》児問題研究会」というのがあって、そこが毎日でもいいからと、いわば校長黙認の「準校生」として、放課後に呼んでくださることになったので、週二日は厄介になることにした。しかし午前中があきが多い。そこで妻がが中学の先生たちと相談の上で、先生たちの「買物代行業」をやるということを思いついた。先生がたは忙しいし、とも働きの人が多いので。買物の代行は助かるようなのである。週に一二回弁当屋その他で買物をして学校まで届け、駄賃をいただくことになった。こんなふうにして、一応一週間分のスケジュールが組めることになった。ただし、品物を届けることだけは子どもがやるが、買物の方は妻がくっついていかないと、らちがあかない。だが、しばらくするとよくある注文とか、弁当については、子どもがひとりですべてをやれるようになった。
 ほかにもやったことはいくつかあるが、だいたいこのスケジュールで、息子は高校生の年齢に相当する期間を過ごすことになる。だが、この期間に予想外の出来事があり、彼の生活はかなり変化することになる。
 「《障害》児問題研究会」に通うようになって、半年ほどたった頃、わが家(この頃にはマンションよりは広い一個立ちの家に引っ越していた)は、この研究会の一種のたまり場のようになった。最初は集まりが少し遅くなるような時に、学校に比較的近くて便利な場所だったので、よく利用していた。そのうち学校帰りにはかならずよる生徒が出てきた。この研究会の部長をしていたキンちゃんという子である。それからその子と仲のいい友達もよく一緒について来るようになった。息子が小学四年の時以来、わが 家はふたたびにぎやかになった。そのうち、キンちゃんは毎日来ては、毎晩わが家で晩飯を食べるようになった。だんだん分かってきたのだが、この子はお母さんが引っ越しをしたのに、高校を変わりたくないらしくてアパートでひとり暮らしをしていた。サンケイ・スカラーシップでアメリカに一年いてのんびり暮らし、帰ってくるとせちがらい日本の高校生活が待っていたので、いやになってちっとも勉強をしなかったので、一年落第したという。留学と合わせれば二年の留年である。学年の上では息子と同級生だか、年齢は二つ上である。毎日やってきては、夜までピアノを弾いては歌を歌ったり、ギターをひいたりする。息子の相手をするのもなかなかうまい。そのうち八時頃になって、当時は晩酌をしていた筆者が酒を飲みだす頃には、彼は晩飯を終えていて、そばに来てなんだかんだと話をする。十七歳だがら当然そうとう生意気で好き勝手なことを言っているが、こちらは酒を飲んでいるから、たいして気にもならない。適当に相手をして、晩飯を食べれば十時頃になっている。こっちは、その後すぐ寝てしまう。妻もしばら くすれば寝てしまう。息子は子どもの時から寝つきが悪くてよいっぱりである。学校がなくなったので、その傾向がますます強くなっている。キンちゃんも夜昼逆転している。そこで、ふたりでたいていは楽器を使っていっしよにコマーシャルソングかなんかを歌ったり、楽器の演奏をしたりして、夜中まで過ごすということになった。最初のうちは十時頃には帰っていたと思うが、だんだん遅くなり、毎晩十二時ころまでになり、よく泊まっていくようになった。普通の子が自閉症児とよくそんなにつき合えたものだと、今でも思うが、ふたりのあいだには楽器があり、歌があり、言葉を必要としない音楽があったから、十分間がもてたのである。
 筆者はふたりが楽しんでいる時は、ぐつすり眠っていたので、なにが起こっていたか直接にはほとんど知らないが、いろんな話を総合すると次のようなことだったらしい。息子は、じょうずに相手をしてくれるキンちゃんがすっかり好きになってしまって、キンちやんのようにギターやピアノがうまくなりたいと思うようになっていたし、キンちゃんも相手をしているうちに息子に音楽の才能があるということに気づいて相手をするのが面白くなったらしい。もちろん、一般的な意味での才能とはちがっていて、普通の人間の才能からすればやはりかなりズレたところがあるが、ともかくすごく耳がいいようだし、音楽への反応がいいというようなことだったのではないかと思う。それにキンちゃんにしてみれば、ひとり暮らしですこしは寂しい思いをしていたろうし、家庭的な晩飯にありつけるということもあったらしい。ともかく、毎日毎晩のことだったので、いくら相手が若いといっても多少疲れるので、週に一回くらいは休んでくれというほどの入り浸りようだった。キンちゃんはしばらく後で東京に行って、音楽で何年間もメシを食えるくらいの実力の持ち主だったから、つぎからつぎへと息子の要求をこなしていったらしい。おもにうろ覚えで弾いたり歌ったりした曲を、息子が正確に知りたがるので、家に帰ると、場合によつてはかなりの時間をかけてその曲の採譜をして、息子用に作った独特のコードを紙に書いて持ってきていたようである。妻がかなりの数になるそんなノートを取っておいたので、今でも残っている。要するに、だれが仕組んだわけでもないのに、突然キンちゃんが現れて、息子をはっきりと音楽の方に向かわせてくれた。おかげで息子は、生まれて初めてほかの人とも共有できる趣味をもつことができた。もっとも、息子にしても、これまた偶然のことだが、二度目の音楽に熱中する時期を過ぎたところだったのである。最初は小学校に入ったころで、むやみにレコードを買いこんでは、音に合わせて踊りまわっていた時期が二年ほどあったが、当時のレコードの選び方は、それこそあれもこれもという感じだった。ところが、キンちゃんが現れる以前の中学時代には、好みがビートルズのみに限定されていて、半年以上、暇があればビートルズを聞きまくっていた。ビートルズに狂っている人がいて、その人はともかく手に入るかぎりのビートルズの曲を外国にまで行って手に入れていた。そしてもっている限りの曲を、息子のためにテーブに録音してくれたのも、幸運のひとつだった。というのも、キンちやんもビートルズを神様ではないかと思っていて、そういう意味では、息子も知らないあいだに、彼とつき合う共通の下地を自分で作っていたことになる。
 一年間くらいはそんな生活をしていた。ところが、キンちゃんがまた落第した。それで、とうとう学校をやめると言いだした。それから、お母さんが買ったマンションに住むことになった。わが家からなら、行き来に一時間くらいはかかるところなので、それ以後それまでほどひんぱん姿を見せなくなった。アルバイトもしなければならないので少し忙しくなった。それで、息子に音楽を教えてもらいたいということもあって、息子を週一回彼のところへ、泊りがけで通わせることにした。帰りにはわが家まで送ってきてくれたので、週に一度は来ていた勘定になる。これが一年ほど続いた後、先に書いたように彼は東京で暮らすことになった。関西では音楽関係の仕事がやはり少ないようだった。しかし、彼はそのしばらく前に置きみやげをしていってくれた。
 大阪の北の新地に「自立平和」というレストランがあった。当時は毎日新聞社の隣だったので、毎日系統のマスコミではよく話題に登るレストランだった。コック以外の従業員はすべて障害者という、今にいたっても珍しいレストランだった。キンちゃんは時々その店に行っていたらしいが、こっちの知らないあいだに息子のことを売りこんでくれた。実は自分たちを売りこみにいったらしいが、にぎやかな音楽は嫌いだと言って断られたので、息子のことを話題にしたらしい。一度つれておいで、ということになった。そこの女主人K.M.さんは、本来はシャンソン歌手だが、本業では食えないので、クラブを経営していて、そこの上がりを「自立平和」に注ぎこんでいた四十すぎの体格のりっぱなすてきな人だった。妻が息子を連れていったところ、ギターを何曲か弾かせてから採用ということになった。それで、週に一回出かけては、三十分ギターを弾いて二千円ちょうだいできるという「夢」のような話が現実になった。
 キンちゃんと出会ってから、前から習っていたクラシックギターのレッスンはある程度本格的になっていたが、レパートリーは二十曲くらいしかない、十七歳の時のことである。それから半年ほどして、キンちゃんは東京へいってしまったが、貴重な置きみやげだつた。
 「自立平和」に通っている三年ほどのあいだに、いろんな事があった。まずキンちゃんの東京行きである。彼は一旗上げるつもりだから、意気軒昂たるものだったが、こちらとしては実のところは寂しかった。それから、関西にチェーン店のある生演奏を聞かせるステーキハウスに中学の時の先生が紹介してくださってそこにも毎週通うことになった。こちらは家から車で十五分くらいのところだった。そうしたことの余波のためか、時たま施設その他で催し物があったりすると、ギター演奏の依頼がくるようになった。
 それに当然のことだが、すこし奥手の思春期が始まっていて、女性にとても関心をもつようになった。中学時代の同級生に突然会いたいと言いだしたり、こちらが知らないあいだに同級生のところへ何度も自転車ででかけ、会ってはもらえず居留守ばかりを使われたりというようなこともあった。本人には自分がやっていることには通常の意味ではほとんど自覚がなく、ただある女性に会いたいから出かけていっているだけなのだが、相手もしくは相手の親は、健常者の男が交際を申しこんだのと同様に解釈して、ひどく怒りだしたりもする。はっきりとは言わないにしても、「障害者のくせに」といった態度をあからさまに取られて、こちらが逆上せざるをえなくなることも何回かあった。しかし、本人には自分になにが起こっているのかさっぱり分かっていないわけだし、思春期をストップさせるわけにはいかないので、あ互いによく知らない相手には声をかけないようにというように仕向けた。そうすれば、いわれのない侮辱だけは避けられるからである。そのうちに一計を案じたのかどうかはよく分からないが、比較的よく知っている女性には、かたっぱしから「いっしょにプールに行こう」と声をかけるようになった。若い女性にはほとんど断られたが、ある程度年配の女性にはたいていつき合ってもらえたし、時には若い女性でもいっしよに行ってくれる人もいた。しかし、彼に起こった事は、思春期の単なる性の衝動の発露だけらしい。彼には「恋愛感情」というの分かっていないようである。したがって今いたるまで「恋愛」なるものが彼の心に生じたらしい様子はない。
 思春期の衝動とほとんど同時に発生したのが、かん高い声への拒絶反応である。ニワトリを嫌がるのは、子どもの時からで、これも理由がはっきりしないのだが、ニワトリの声も関係があるようである。トリのいないニワトリ小屋ですら嫌がるくらいだから、臭いも嫌なのかもしれない。そのくせ、ニワトリの肉は平気で食べるというのが、よく分からないところである。「かん高い声」のほうは、一番嫌いなのが赤ん坊の泣き声で、その次くらいが幼児の泣き声やしゃべり声である。そのくせ、赤ちゃん自体はやわらかくてふわふわしているから好きだという。ニワトリの方は戸外にいるので、たいていは見つければ逃げだせばすむし、大変なばあいもかなり遠回りをすれば回避できる。しかし、赤ん坊や幼児は、戸外のみにいるとはかぎらない。バスや電車やエレベーターに乗り合わせたりすると、電車の場合は車両を変えれはすむが、バスやエレベーターの場合は彼にとってはパニックものである。だから、近頃では乗る前にずいぶん注意をしてから乗るが、時には注意が十分に行き届いていないばあいだってある。息子が用心をしだす以前、ケンタッキー・フライド・チキンの店に赤ん坊連れの女性がいて、赤ん坊が泣きだし、パニック状態になり、思わずその女性の背中を力まかせにたたいてしまったことがある。それで、そばにいた男性に胸ぐらをつかまれ、「警察に突き出してやるぞ」と怒鳴られたそうである。それから当分彼は警察恐怖症になった。それに、先に書いたステーキ・ハウスをクビになつたのも、子どもの声のためである。なんでも演奏中、前の席に子ども連れのお客がいて、彼はずっとがまんしていたらしいが、演奏が終わるとその席のテーブルに楽譜をたたきつけたそうである。後から妻が息子を連れて謝りにいったが、結局はクビだった。こっちの方も性の問題と同じく、まだ継続中で、耳栓でごまかしたりさせてはいるが、根本的な解決にはなっていない。この方は、かれの耳の鋭敏さと関係がありそうである。十八の時から習い始めた本来は作曲家であるピアノの先生の経験では、やはり息子と同年齢の頃、世の中はなんと騒音に満ちあふれているのかと思い、ずいぶん辛かったとのことである。
 ギターのことに話をもどす。キンちやんが音楽の火をつけてくれて以来、ギターのレッスンが本格的になりだしたということはすでに述べたが、そのうち先生からギター検定を受けるようという指示がでた。それで、最初のほうの過程は省略して、十級から始めた。どうなることかと思っていたが、難なく合格。検定は半年に一回あるので、半年ごとに受けて一度も不合格にならなかったので、二年間で五級まで行ってしまった。普通の人なら、ほかに理論的な試験を受けて合格すれば、通っている教室の講師ぐらいにはしてもらえるのだが、一般的には難しいとされている検定試験のほうは、すこしも上がらないので無事に通過したが、容易とされている理論的なテストのほうは受かりそうもないので、あきらめざるをえなかった。五級に合格したのは、二十歳の時である。それ以後、親のほうに時々迷いがでで、進路のことで思案することもあったが、勤め先がそうおいそれとは見つかるわけがないので、好きなことをやらせることに、結局は返ってしまう。いまさら他の仕事はできそうにない。

 以上、子どもがなるだけ住んでいる地域で普通の生活を送れるようにと願ってきた両親が、子どもの教育の面で配慮してきたことの簡単な記録である。いい点もあれば悪い点もあるだろう。成否はほかのひとに判断してもらうしかない。偶然が大きな役割を演じてくれたのは、上記のとうりである。それに、人からよく甘やかしすぎだと言われる。たしかに、その通りである。もうすこし自立の方向に進まなければと考えつつも、そちらのほうは牛歩が続いている。当然のことながら、一人っ子である息子の将来には、大きな不安を抱いている。

 知的障害者について、バンク-ミケルセンは、次のように言っている。

 「子どもが成長したならば、両親から巣立ちして生活することはノーマルなことです。同じことが、知的障害者にもついても言えます。
 障害者のことを《いつまでも 発達しない子ども》とみる過去の受けとめ方は、誤りです。たとえ知的レベルが子どもと同じでも、成人した彼は、成人の肉体をもち、子ども以上の体験をしてきた人なのです。両親と同居生活を続けると、両親は保護し過ぎて、その子の発達を阻害することになりかねません。
 知的障害者の居住条件は、その地域社会で通常の人が生活している条件と比較して考えなければなりません。もしそれが違っているなら問題です。
 知的障害者の多様なニードに対応できるように、いろいろな種類の住居が提供できることが必要です。たとえば下宿とか、自立あるいは保護を受けながら使えるアパートもその一つです。《グループホーム》と呼ばれる形式の地域に根づいた家−−−ニードに応じて、スタッフが居る場合といない場合がありますが−−−もあります。障害者が障害のない人と一緒に生活する《仲間の家》もその一つです。
 これらの、いろいろな方式の住居と必要な訓練とか経済的な助言やサポートなどのサービスを提供する、自治体や国の政策が必要です。
 一般市民と専門職の両方を啓蒙するような、組織的なキャンペーンも大切です。そうすることによって、知的障害者の大部分は、地域社会で満足して生活でき、働くことも職をもつこともできます。また、地域社会のさまざまな活動に参加したり、余暇を楽しむことができるのです。ですから、このことは、もっと人々に知らされ、話題にされる必要があります」。(注5)

 もちろん、上に述べられていることは、デンマークにおいても理想にすぎず、ましてや日本では、夢のまた夢にすぎない。デンマークでなら、この理想にある程度は近づいているということができるだろうが、日本では、「ノーマリゼーション」という言葉を口にすることすら、あまりにも現実とはかけ離れているので、気恥ずかしいという思いなしにはできない。もちろん、デンマークにだつて「心ない」人たちがたくさんいるにちがいないが、おそらく一番違っているのは「心ある」人たちもたくさんいるだろう、ということである。さもないと、ああいう理念を盛りこんだ法律ができあがるはずがない。いくら親たちの圧力があろうともである。日本では、一般には親たちには、まだ圧力をかけるどころか、いまだに「日陰者」意識のほうが強いのではないか、と思うくらいである。たしかに「日陰者」意識を抱かせる現実ガ厳然としてある。それにタテマエは「弱い者の味方」であるはずのマスコミが、一向に頼りにならない。マスコミがやっているのは、せいぜい言葉狩りくらいのものだろう。それも「自粛」とかという単なる保身のすべでしかないのだから、なさけない。マスコミ自体の意識が低過ぎる場合が多すぎるのでである。その一番ひどい例が「自閉症」についての理解に現れている。いつまでたっても、まったくの無知が平然とまかり通っているのには、あきれかえるしかない。どだい、理解しようという気持ちがあるのかすら疑わしくなってくるほどである。
 さらに、教育の問題もある、超高齢社会が目前にせまり、かなりな程度の福祉予算も使われているにもかかわらず、社会福祉学科のある大学はいざ知らず、一般の大学では福祉関係の授業科目をもっているところはきわめて少ないようである。それに、筆者の知識不足かもしれないが、例えば医学部に福祉関係の科目がないということは、どう考えてもおかしい。医療と福祉が密接な関係にあることがしばしば問題されているにもかかわらずである。教育はすぐさま効果の現れるものではないにしても、基本的な知識を植えつけておくことは、これからますます必要なことになるのは、まちがいのないことだろう。
 最後に、ニィリエの文章を引用して、障害者のなかでももっとも見捨てられている知的障害者の「障害」の意味について考え直しておくことにしたい。これは、本稿のテーマである「ノーマリゼーション」という理念を思いだしておくためでもある。ニィリエは、知的障害を、単独の障害ではなく、以下に引用する三つの要素からなる複合体だと考えている。

「1.個人的な先天的知的障害: 認知障害、適応行動障害、学習困難、忍耐力や他人への理解の面で問題があり、失敗が原因でストレスが生じたり、こういった経験を繰 り返したり、新たな経験や困難に遭遇した場合に適応できなくなる。  2.後天的障害: 親や施設職員や一般の人々の態度に不満を感じていたり、環境や生活条件が不備であるために機能障害や不適応を起こす。また、施設が貧しかったり、十分な教育やトレーニングを受けられない場合や、社会との交流がなく、社会への理解が困難な場合に障害が増す。  3.障害の認知困難によるもの: 障害者自ら歪んだ概念を自己にたいしてもち、自己防衛的になり、悲しみやあきらめのため内に引きこもることがある。真の自分を自己表現することは、誰にとっても難しいが、特に、知的障害者にとって自己を肯定的に理解することは難しい」。(注6)

 そして、ニィリエが強調するのは、第二の要素である。この要素は解消可能であり、他のふたつの障害を緩和したり解消するための前提条件でもあるからである。要するに、親や関係者や、さらには一般の人たちの意識の程度が、知的障害の程度を決定する決め手だということになる。こうして、本稿が最初に提起しておいた、「意識の低さ」の問題へと返ってきた。そして、意識のレベルが「ノーマリゼーション」を可能にするかいなかの鍵である。
 マスコミでは、「国際障害者の十年」の後、しばらく前から超高齢社会の問題がひんぱんに取り上げられるようになり、ごく最近では公的介護保険がまもなく開始されるので、これも多くの話題を提供しているが、今までのところ障害者問題(高齢者問題も含む)で苦労をさせられた人のみが、日本の福祉の現状のお粗末さを身に沁みて知っているだけである。よく言われることだが、高齢者問題も障害者問題のひとつでしかない。高齢者問題が生じるのは、高齢者がなんらかの形の障害をもちひとりで生活ができなくなるからなのである。福祉先進国は、早くから障害者問題に日本よりはるかに真剣に取り組み、その成果のうえに立って、高齢者問題を考えることができた。上に述べたように、ふたつの問題があるのではなく、あるのはたったひとつの問題だけだからである。

おわりに


 息子がまがりなりにも社会に参加するきっかけを作ってくださった「自立平和」のK.M.さんは、ある時妻に、「ようこそ、生んでくださいました」と言ってくださつた。K.M.さんは、息子のことをちゃんと見ていてくださったのである。これは何も自慢話をしているわけではない。純粋で虚飾のない、あるいは虚飾の少ない知的障害者について、一般的にいえることだからである。特に「性の目覚め」以前のまだ未発達な少年期の知的障害者に言えることだろう。そして、なかでも言葉のきわめて少ない自閉症の人たち にあてはまることだろう。しかし、だれもが歳を重ねていくにつれて、いろいろな経験を積み、だんだんと生きることの辛さを知り、純粋さにも虚飾のなさにも、いささかかげりが出てくる。しかし、それがかげり程度ですむかいなかは、つまり知的障害者が知的障害者の良さを保持しつづけられるかいなかは、周囲にいる人びとや一般の人びとの意識の程度と関係がある。せっかく自然が知的障害者たちにあたえた美点(この美点は一般の人たちにも心の支えとなるような性質のものである)を生かすか殺すかは、意識の程度にかかっている。意識が変われば社会制度もかわる。高齢社会の問題も、同一の 問題を含むということは再三述べている通りである。
 自然が物質とその運動から成り立つものだとするなら、自然は無駄なものや余計なものはなにひとつ作ってはいない。第一無駄とか余計だとかという概念は、自然に所属するものではない。それらは、いわば人間がその時々の都合で勝手に作りだしてきたものである。間違っていれば訂正し、新たな概念を作ればいいのだが、簡単に訂正できるものもあれば、そうではないものもある。「ノーマリゼーション」はそうした新たな概念であり、バンク−ミケルセンは「革命」だと言っているが、日本ではこの「革命」はま だまだ遠くにしかないように思われる。



1)朝日新聞論説委員室+大熊由紀子著「福祉が変わる 医療が変わる」、p.24、ぶどう社、1996年。
2)花村春樹著「《ノーマリゼーションの父》N.E.バンク-ミケルセン」、pp.80-81、1994年。
3)ibid.,p.81
4)ヴォルヘンスベルガー著、中園康夫他訳「ノーマリゼーション−−社会福祉サービスの本質−−」、学苑社、1982年。
ベンクト・ニィリエ著、河東田博他訳「ノーマライぜーションの原理−−普遍化と社会変革を求めて−−」、現代書館、1998年。
5)ベンクト・ニィリエ著、op.cit., pp.56-57。
6)花村春樹著、op.cit., pp.175-176。
7)ベンクト・ニィリエ著、op.cit.,pp.56-57。


『京都外国語大学研究論叢』 LIV より


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