ヒチコック(1899-1980)の『裏窓』と『鳥』

ヒチコックが英語圏の代表的な監督の一人であるのは、誰もが知っているとおりである。ここでヒチコックの傑作をふたつ取り上げようとしているのは、何かはっきりした意図があってのことではない。いつものように単なるズボラからである。最近学生たちに見せたばかりで、やはりすごい人は猛烈にすごいなという単純な感想を抱いたという理由だけからのことである。
筆者が映画館で見たのをはっきりと覚えているのは、『知りすぎていた男』(1956)くらいからで、『裏窓』(1954)は誰かに連れて行ってもらって見たことを、ずっと後になつて多分テレビがきっかけで思い出した。当時それらの映画をどれだけ理解していたかは大変おぼつかないが、怖かったのは確かである。
数年前にもそう思ったことがあったが、『裏窓』はヒチコックの最高傑作ではないかと思う。『鳥』だと今回少し退屈だなと思う箇所が一箇所あったが、『裏窓』の出来は完璧で文句のつけようがない。仕事で脚を骨折したカメラマン(ジェームス・スチュアート)が回復期の6週間ものあいだ退屈のあまり、4つのビルで囲まれた中庭越しに、特に正面のビルを熱心に覗き見した結果、反対側のビルの同じ階の男が、病弱でいさかいの絶えなかったその男の妻を殺害したのではないかという疑惑を抱く。骨折の原因を作った友人の刑事を呼んで相談をもちかけるが、刑事はなかなか信用してくれない。
それで身の回りの世話をしてくれる女性や恋人(グレース・ケリー)に相談をもちかけている間に、だんだん事の真相が明白になってきて、やはりその男が妻殺しをしていたということが判明するのだが、友人の刑事がなかなか腰を上げないので、危機的な状況が生じたりする。スリラー映画とかサスペンス映画とかにお定まりのことになるわけである。しかし、ヒチコックが優れているゆえんは、もちろん人間を丁寧に見事に描くことができるからで、これは並みの映画監督のとても及ぶところではない。それにヒチコックの映画の台詞にはしゃれたものが多いが、この映画は特にその感が深い。
それと、この映画で面白いのは生活習慣の違いである。マンションの住人は、窓を開けておいても平気である。空けておけば当然他人に見られることもあるのだから、そのことは許容ずみのことで、恥ずかしいともなんとも思っていないようである。もちろん見られれば恥ずかしかったり困ったりすることもあるのだから、そういう時にはカーテンを引く。しかし、カーテンを引く規準がわれわれのところと比べれば相当にゆるやかで、よくあれで平気でいられるなと思うほどである。もちろん男の主人公のように、骨折で暇をもてあましていて、関心が過剰になって双眼鏡や大型レンズのついたカメラまで持ち出して観察するようでは、ルール違反なわけだか、そういう開けっぴろげの習慣があれはこそ、この映画は成立したわけである。われわれのところのように、特別見られて困るようなことをしていない時でもレースのカーテンを絶えず引いている国なら、もちろんこんな映画を作れるわけがない。欧米の平均からすれば、われわれはやはり相当な恥ずかしがりやなのだろう。
10年ほど後の『鳥』も傑作で、これと『サイコ』(1960)とが一番有名かもしれない。しかし、『鳥』は鳥たちが人間を襲うという奇想天外な発想の映画だが、ともかく文句なく誰をも映画の中にひっぱりこんでしまう手腕は見事というほかない。ところが、どこで読んだか忘れてしまったが、その頃この映画と同じようなことが発生し、ヒチコックはそれを参考にして映画を作ったようなのである。コンピューター・グラフィックのない時代にあれだけのことをやろうとするのは、さぞかし大変だったろうがちゃんと成功しているのだからスゴイ。しかし、冷静になって考えてみれば、たとえどの程度の類似の事件があったにせよ、映画の最終部分に入る前に、レストランでおばあちゃんの鳥類学者に言わせているように、あんなちいさな脳しか持たない動物が、集団で意図的に人間を攻撃することなどできるわけがない。となると、映画にはそんな説明などないが、たまたまいくつかの条件が重なって、その重なり方の具合で、あのような行動を鳥たちに取らせることになったとでも考えるほかない。つまり、それまでの人間たちのさまざまな身勝手な行動が鳥たちの異常行動を惹起したということになるわけだろう。
もう一本気になる映画がある。『フレンジー』(1971)のことなのだが、大分以前に見たきり、見直していないので、今回は置くことにする。 
2005年5月中旬

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