自閉症という問題



布施佳宏


はじめに


「自閉症」とか「自閉的」という言葉は、よくモノを知らないたとえに出される現代の学生諸君ですら知っているようなので、これはもう日本人のほとんどだれもが知っている言葉と言っても、さしつかえないであろう。これは、いったいどういうことを意味しているのか。正確な答を見つけ出すことは困難だろうが、ともかく人間関係がしだいに希薄になり、人間が孤独になってきているにもかかわらず、時には人間そのものがきわめて厭わしく思われ、孤立を求めようとする傾向が現代人においては顕著であることの証拠のひとつだということに、一応しておくことにしよう。だが、言葉自体はまことにポピュラーであるのに、「自閉的」とか、「自閉症」とかという言葉の正確な意味は、無視されたままになっている。一般の人たちのみならず、作家や学者たちまでもが、文字どおりの意味のみに受け取って、これらの言葉を安易に使用し、ますます誤解を広めていることを慨嘆し、苦々しく思っている自閉症関係者はきわめて多いことだろう。1943年に自閉症を発見したカナーは、自閉症の特徴のひとつは「自閉的孤立( autistic aloneness )」にあるとしたが、これは、上記の意味での、「自己の内部への閉じこもり」などという事でなく、脳のなんらかの障害に起因するということが専門家たちの努力によって10年ほど以前からはっきりとしてきている(注 1 )。そして、この努力は限りなく続行されることとなろうが、自閉症が「謎」に包まれていると言われるのは、まだ人間の脳については不可解なことが多すぎるからである。 この文章は、上に述べたような一般の誤解を解き、自閉症児(者)が人間としての市民権を獲得できるよう、自閉症の実体を知ってもらうこと、さらには自閉症児を抱えた家族がどんな困難に直面することになるかを知ってもらうことをひとつの大きな目的とするが、もうひとつの問題は、自閉症児と一緒に20年あまりをすごした筆者が、自閉症という重篤な障害によって否応なしに突きつけられた問い、「人間とは何か」という問いに、筆者なりに新たに答えを求めざるをえない状態に置かれているという事態についての報告でもある。つまり、哲学を専攻する者が、自閉症児を家族に持ったため直面することになった諸問題(精神医学、福祉、哲学等の諸問題)についての考察だということになるだろう。


アメリカ人の小児精神科医レオ・カナー( Leo Kanner ) が、不思議な魅力のある奇妙な子どもたちの存在に気付き、治療に当たっていた十一人の子どもたちについての精緻な報告書を書いたのは、1943年のことである(注2)。この子たちは独特な個性の持ち主であるにもかかわらず、小児精神分裂病に分類することもできずさりとて単なる精神遅滞(薄弱)と呼ぶのも不適当だと思われる共通の症候群を有していた。やがてカナーは、この子たちに特異な症候群を「早期幼児自閉症」( early infantile autism )と名付けることになった。「自閉症」の発見である。その際、カナーは、フロイトと同時代のオーストリア人、E.ブロイラーが成人の精神分裂病の患者の特徴のひとつとして挙げた現実との接触を破棄し、自己の内部に閉じ込もる傾向を指す言葉 autism を、この子たちのために選んだのだが、この言葉の選択が適切ではなかったことは、ヨーロッパ語圏のみならず、現在の日本人たちの誤解のひどさの一因にもなっていることが、その証拠である。同じころ、戦時下なので独立に発見されたことは自明だが、オーストリア人の小児科医H.アスペルガーも、同様の子どもたちの存在に留意し、「自閉的精神病質( AutistischenPsychopathen )」と呼んだ(注3)。立ち遅れていた小児精神医学が面目を表す時期にさしかかっていたのだろう。「カナー症候群」の定義は、今ではあまりに厳密すぎて現実に即していないと言われているし、「自閉的精神病質」の方は、自閉症をはっきりと定式化して捕らえようとしていないことが難点となっているようだが、「自閉症」の発見が偉大な発見であることには、だれも異存はあるまい。この発見のおかげで、自閉症児たちは、もちろん今にいたっても十分とはとても言いがたいにしても、独自の治療法の恩恵に浴せるようになったからである。
自閉症は、対人関係を打ち立てることがきわめて困難であること、 しいては言葉の未発達を、最大の特徴としているが、カナーは最初この障害の原因を情緒的な障害である、と考えていた(注4)。だが、1960年代の後半になるとラターらが言語や認知機能の障害を基本的な障害と見なすようになり、いわば親(特に母親)と子どもとの関係の齟齬、あるいは親による子どもの拒否が自閉症の原因とする心因説と、脳の機能に障害があるとする脳障害説とがいわば拮抗する形になっていた。脳障害説が主流となり、心因説がはっきりと退けられるようになったのは、やっとこの10年ほど以前からのことである。現在、一応自閉症の診断基準とされているものの要点を、次に挙げておこう。
これは、自閉症を広汎性発達障害( Pervasive Developmental Disorder ) に分類しているアメリカ精神医学会の『精神障害の診断と統計の手引』第3版(DSM−III−R)(注 5 )に基づくもので、日本においてもよく利用されが、WHO(国際保健機構)が定めている国際疾病分類もきわめて類似したものである。
1)対人関係の質的欠陥。
2)言語、非言語コミュニケーションならびに想像活動の質的欠陥。
3)活動および興味の範囲の著しい狭まり。
元のものには、もちろんもっと複雑ではるかに長文の説明が付随しているが、主要部分は上記の三点につきる。もちろんこれらの基準を示す言葉のみから、一般の人達が自閉症を理解することはまずは不可能である。自閉症児たちの行動は、それほど常軌を逸しているからである。最近邦訳が刊行されたウタ・フリスの ,Basil Blackwell, 1989 ( 注 6)は、上記の三条件に補足的説明を付け加え、さまざまな症例を挙げるという、専門家のみならず、一般の読者をも対象とする書物の通例のやり方を踏襲していて、一応の成功をおさめ、この種の書物としては秀逸である。だが、筆者としては、もう少し現実感のある叙述が望ましいと思われるので、みずからの経験から多くを取ることにし、不足の部分は、筆者の翻訳したブローネ夫妻の『自閉症児と生きる』や『自閉症児の表現』から取るつもりである(注7)。

III

障害児がいるという話を聞いた大多数の人の反応は、まずは例外なく「たいへんですね」という一語に集約される。まあ、そうとでも言うしか仕方がないのだろうとは思うのだが、「たいへんですね」の内容は千差万別であっても、おおむねの答えの裏に隠れているのは、あからさまには、「それはあなたの問題であって、わたしの問題ではない」という意味であろう。あくまで他人事なのであって、だれも、自分のところに障害児が生まれてくる、とは思っていない。ちょうど、毎日数多くの交通事故が起こっていても、自分が交通事故に合うとは、だれも思っていないようなものだろう。ところが、どんな人のところにも障害児は生まれうるのだし、交通事故だって起こりうるのである。たとえば、自閉症児の発生率は、1000人の子どもにつきひとりと比較的低率だが、精神遅滞(精神薄弱)児(者)の割合は、生まれつきの人となんらかの事故や病気による人とを合わせると100人にひとりはいるということである(注8)。相当な数である。これを聞けばびっくりする人が多いだろうが、じつさいそれだけの人達が、現にわれわれの社会の中のどこかに生きているのである(どうしてもこっそり生きざるをえないので、あまり目立たないだけのことだが、そんなことになるのは、一体だれの責任だろう)。
筆者にしても例外ではなかったことを、まず言っておきたい。子どもが誕生したときには、いわゆる障害者問題などどこ吹く風、無知を絵に描いたようなもので、ごく一般的な人達と少しも変わるところはなかった。思い出すたびに、恥ずかしくなる(もちろん、障害者を差別してはならない、障害者のみならず、いかなる差別もあってはならないという程度のことなら、「知っていた」。しかし、こういう標語めいた言葉など現実にはなんのツッパリにもなってはいないという事、あらゆる差別なるもの実体がいかに深く、重いかということが明瞭に見て取れるようになったのは、子どもの誕生後10年以上もたってからのことであり、それ以後もたえず新たな角度から、この問題に直面せざるをえなくなることは、現在にいたるまで続いている)。今ほど障害者とか寝たきり(寝かせきり)老人などの事が、あまり新聞雑誌に出ることがない時代だったから、知識不足という点では、今よりもっとひどかったかもしれない。長男が生まれたときには、30歳だった。人並みにうれしかった。子どもは五体満足なように見え、すくすくと成長している、とその時は思っていた(これが多くの自閉症児特徴である)。ただ、2歳を過ぎたころから、家族のだれもが、言葉の発達が少し遅すぎるのではないか案じ始めていた。ちなみに、ごたぶんにもれず3人きりの核家族ではあったが、その頃からT市に住んでいて、大阪の両親のところまで、車で一時間くらいで、ほぼ月に2回から4回くらいは出掛けていたので、子育ての経験のある両親も孫の顔をしょつちゅう見るという状態だった。「男の子だから、言葉が遅い」、という両親の慰めの言葉に安心していた。三歳児検診も、すこし発達が遅いというだけですんだ。だが、二歳をすぎたころから、奇妙な行動が目立ちはじめたし、言葉の遅れも気になるので、子どもが誕生したY病院の小児精神科医に診てもらったところ、「自閉的傾向あり」という診断がくだった。今なら「自閉的」という言葉を聞けば、ギクッとするだろうが、無知ほど恐ろしいものはない、その内良くなるだろうと呑気なことを考えていて、どれほど過酷な運命が自分たちを待ちうけているかについては、予想だにしえなかった。週一回通院することになったが、特別な治療が行われたわけではない。男性の医師と女性の助手とが、いわゆるプレイルームで遊ぼうするのだが、子どもの方はいっこうに関心を示さず、そっぽを向いたきりである。家族にもほとんど興味のなさそうな子どもは、他人に対しては、まるで無頓着というより、無視を決めこんでいた。しかし、他人を無視したような行動をとる幼い子どもは、よく見掛ける。そこで、子どもの「てれかくし」のようなものだと、今にして思えば考えていたのだろうと思う。ここで、われわれは、すでに自閉症という障害の一端に触れているのである。先の定義の第一「対人関係の質的欠陥」を思い起こしていただきたい。
おそらく二歳をすぎたころから、もうそうした傾向はあったようだが、子どもの他人を無視する傾向が特に気にかかりだしたのは、「自閉的傾向がある」と言われてからである。第一親の顔さえ直視することはなく、チラッと見るだけである。「自閉症児は人と視線を合わせない」が、自閉症の特徴のひとつであり、まさしくわが家でもそれが起こっていた(注9)。しかし、親の顔をしっかり見ることはないにしても、親子であれば、いっしょに生活しているのだから、当然さまざまな形での触れ合いはあり、かえって気がつくのが遅かったのかもしれない。筆者がやっていたのは、風呂に入れることの他は、妻が留守のとき子どもの番をしていたくらいだったと思う。もちろん家族いっしよに外出することはよくあったし、筆者と子どもだけで外出することも時にはあった。ともかく扱いにくい子で、車がこようがおかまいなしに、道の真ん中を歩きたがる。手を引こうとしても、どうしても手を握らせないので、腕のどこかを掴まえるしかない。言葉は通じないし、親の言うことも聞く気もない、と当時は思えた。どうしようくなく頑固であり、他人はと言えば完全な無視である。まるで自分の側に人間などいないかのような、傍若無人のふるまいをする。たとえば、「子どもたちの中に入れなさい」と医師から言われているので、なるだけ近所の子どもたちのグループに加わらせようとしても、そっぽを向いたままだし、他の子となにかをやろうという気はまったくなく、すぐにグループから離れてしまう。電車に乗れば、他人様の読んでいる新聞などに興味を覚えると、見知らぬ人の前へ行ってその人の新聞を見る。広告なども、人を押しのけてでも近くで見ようとするし、席に人が座っていても、頓着しない。幼い内は、子どもだからですみ、シツケの悪い子だということくらいですんでしまうが、こうした癖は小学校の三、四年くらいまで続いた。この年齢になると、相手はギョッとするし、一体何が起こっているのか当惑してしまう人が多いが、もちろん怒り出す人もいるわけで、子どもは文句を言われ、近くにいる親は睨まれたりもすることになる。いろいろトラブルが多いので、つい車で外出ということになってしまいがちだったが、いつも車ばかりというわけにもいかない。ともかく外出は大仕事だった。
家の中でも、いわゆるシツケなるものが成立しないのだから、こちらにしても何をどうしていいものやら見当もつかない。食事にしても、ともかくじっとしていない子なので、妻はしょっちゅう子どもの後を追いかけ回しては、食べさせていた。好きなものでなければ食べない極端な偏食である。普通の子にも、そういう子がよくいるが、好きなのは、カップラーメンとインスタントカレーで、それさえ出しておけば、子どもは満足しているが、ただでさえそういうことになりがちなので、なんとか他のいろんなものも食べさせたいと当然ながら思い、工夫に工夫を重ねるのだが、あまりうまくはいかない。
医師の指示に従って、偏食を直そうとしたことがあった。ともかく家族の取る食事を出し、食べなければ、すぐに引っこめる。なるだけ間食は与えないようにする。子どもの食欲に訴えようというわけである。二三日食べなくても、死ぬことはない。まさしくその通りなので、さっそく実行してみたが、ここでも頑固さはいかんなく発揮された。普通ならたいていうまく行きそうに思えたが、わが子は、二日ほどものを食べないことなど、ものともしない様子なのである。降参するほかなかった。
三四歳頃、言葉はいわゆる「一語文」しかなく、たとえばコーラとかジュースなどの一語のみで、自分の要求を伝えていた。これだけでは、言葉による他者との交流が持てることを望むほうが無理なわけで、こちらの言うことも、ほとんど通じていなかったはずである。しかし、言葉がなくとも、他者とのコミュニケーションがゼロに等しいということにはならないはずなのに、どういうものか他者は無視されたままである。この無視がどれほどのものか、もう少し例を挙げてみよう。
一番悩まされたのは、近所付き合いである。奇妙な子どもがいる、ということは、近所の大抵の人は知っていて、少々のことでは驚かなくなってはいるが、例えば冷蔵庫荒らしなどは、直接実害が及ぶので、どうしてもあまり良い顔はされない。人の見ている前で、よその家の冷蔵庫から、自分の欲しいものを堂々と持ち出してくる。怒られても平気である。これには、だれもが唖然とする。子どもは、まったく他人など存在しないかのように、ふるまうのである。ごく近くの人たちなら、ある程度つきあいはあるし、しばらくすれば慣れてもらえるようになる。そして、その人たちなりの対応を考えてもらえるようになる。すると、子どもは、親も挨拶すらしない人たちのところにまで、行動範囲を広げていく。そうなると、謝って歩くのも、たいへんになるし、親のシツケが悪いと、面と向かって説教されることにもなったりする。しかし、こちらとしても、どうにも致し方がないのである。途方に暮れるしかなかった。
Y病院には、二年ほど通ったが、ほとんど効果らしいものはなかった。医師にしても、今思えば、どれだけの知識を持って子どもの相手をしていたか、はなはだ怪しいものだと考えざるをえない。ともかく、20年ほど以前の日本においては、小児精神医学を専攻する医師ですら、自閉症についての知識は、素人の域をでない程度のものだったということは、確かだろう(注10)。ともかく、自閉症の専門家の数は数えるほどでしかなかったろうし、単に知識だけでは、子どもの治療に当たれるはずもない。ただ、他の子どもたちの中に入れなさい、という指示に従って途中からだったが、幼稚園の三年保育を受けることになった。子どものことを良く知っていれば、入園は許可されなかったろうが、話し言葉はなかったにしても、平仮名と片仮名はすらすら読める子だったので、かなり落ち着きはないが、頭は悪くないという向こう様の勝手な解釈で、通園することになった。しかし、通園するようになっても、子どものやることにほとんど変化はなかった。相変わらず他の子どもたちを無視し続けているので、グループの中に入れるわけがない。そして、子どもは依然として孤立からでることはできず、多動で活発だったので(自閉症の特徴のひとつ)、一番年配の四十歳位の受持ちの先生には、かなり負担だったようである。それに、なんらかのきっかけがあれば、子どもは外にまで飛びだしていってしまうので、とうとう妻は保育時間には、半年間ほど監視役ということになった。子どもがバスで行ってしまうと、妻は車で幼稚園まで行き、帰りのバスに乗る時間になると、あわてて家まで先に帰り、子どもを迎えるという生活をしていた。受持ちの先生から、「夫婦仲が悪いと、こういう子になる」と、何度も言われたそうである。自閉症児の親というのは、子どものことでさんざ苦労させられているのに、心無い人たちからは悪口を言われるという、まことに割りの合わないつらい役回りを演じさせられることになるが、これは、20年前頃の話ではないので、この事情は今でも、そんなに変化していないのではないかと思われる。自閉症についてまったく無知である人が多いのは、今でも変わりがないからである。
定義一の「対人関係の質的欠陥」についての裏打ちは、この程度にしておくことにして、今度は定義二の「言語、非言語コミニケーションならびに想像活動の質的欠陥」に移ることにしたい。もちろん、現実には、自閉症児というひとりの子どもがいるだけであり、三つの定義が、バラバラに存在しているわけではない。三つの定義は、あくまで便宜上のものでしかない、ということは言うまでもない。

IV

三歳の時、Y病院で「自閉的傾向がある」と診断を下されて以来、ほぼ三年近くその病院に週一回の通院を続けた。医師の方もこちらにしても、どうしていいか分からなかったというのが、実状だった。医師は、情緒障害児や精神遅滞児に関してなら、臨床経験も持ち合わせていたろうが、おそらく自閉症児の相手をするのは初めてのことだったのではないかと思う。ともかくそれまでの他の障害児についてのその医師の経験は何の役にも立たなかった。子どものやることに、ほとんど変化がなかったからである。本節のテーマである言葉についていえば、先にも述べたように、子どもは、一語の名詞で、自分の要求を伝えるだけである。ほとんどは食べ物の名前で、たとえば、「コカコーラ」とか「ボンカレー」といった固有名詞で要求が行われていた。それに、発音が奇妙で、普通の子どものような言い方はしない。のどの奥から吐き出すように、寸づまりの言い方をする。他人を無視し続けること、さらには、これも診断の頃からあったことだが、独特な仕方でピョンビョン跳ねたり、手のひらを自分の方に向けて、顔の前でヒラヒラさせたりする、自閉症児特有の癖もはっきりと頻繁に行われるようになっていた。このピョンビョンやヒラヒラは、嬉しい時とか、不安になった時によく見られたと思われる(注11)。したがって、言葉によるコミュニケーションは、そうした一語文のみでおこなわれていただけだし、「非言語コミュニケーション」の方では、よく言われる「クレーン現象」があった。例えば、自分には届かないところにある物を取って欲しい時などには、人の手をまるでクレーンでも使うように、利用するのである。それも、人の意向などおかまいなし、いきなりやらされるので、最初の内はびっくりするが、それでもこれはこれなりにコミュニケーションではあるので、まんざら悪い気持ちではなかったことを覚えている。
言葉について、もうひとつ言っておかねばならぬことがある。一語文しか話せない子が、テレビのコマーシャルだけは、発声は相変わらず奇妙だったが、いくつでも覚えこみスラスラと言ってのけていた。生まれたときから、テレビの側で育っているような子が多く、ましてや子どもだからたちどころに暗記してしまうのは、当然といえば当然だが、数えるほどしか実際に使える言葉がない子が、コマーシャルだけすらすら言えるというのは、不思議なことで、一時は、テレビの見すぎは、自閉症を作りだすというようなことが、まことしやかに語られたこともあった。扱いにくい子で、多少テレビに子守をさせているようなところもあったので、いくらか自責の念にかられたりもした。しかし、テレビ漬けになっている子は山ほどいるわけだから、怪しいもんだと思っていた。それからしばらくして、電車の中で隣あわせた子どもたちが、30分以上もえんえんと、コマーシャルソングを歌い続けるのを聞いて、わが家で、テレビに関して、特別なことがあったわけではないと気付いたこともあった。
「想像活動」について言えば、これは子どもの場合いわゆる「ごっこ遊び」になるわけだが、これも何ひとつみられなかった。三、四歳にもなれば、男の子なら「お父さんごっこ」などやるものものだが、ともかく他人を完全に無視しているのだから、他人相手にやる「ごっこ遊び」むろんだめだが、ひとりでやる方もだめなのである。おもちゃなり木ぎれなりを使っての飛行機ごっことか電車ごっこなども、まるでやらなかった。わが子だけのことではない。自閉症児一般が、そうなのである。Y病院でも、プレイルームで、大の大人が真剣に相手をしようとし、ゲームに引き入れようとする努力が続けられていた。普通の子なら、おお喜びで遊ぶだろうに、まったく見向きもしない。ごくごく単純な相手とのあいだでのボールのやりとりすらしない。興味がないのである。当時ボール遊びを無理強いされたのが、いやだったのか、今でもわが子は、ボール遊びなるものを好まない。
家でも病院でも、ともかくおもちゃを与えられれば、一列にならべてしまうというのが、唯一の決まりきった行動だった。たとえば積木あれ何であれ並べられる程の数があれば、いくらでもどんどん一直線に並べ続けるのだから、並べることに興味があるのかといえば、どうもそうではなさそうで、おもちゃを前にすれば、他にどうにもしようがなかったのだろうと思う。外に連れていっても、事情は変わらない。普通の子が興味を持ちそうなもので、興味を示したのは、車や電車のみだった。他には、『星の王子さま』ではないが、太陽、特に夕日が好きなようだった。このふたつのことも、わが子だけに見られる現象ではない。
他人の無視、ピヨンピョン・ヒラヒラ、「クレーン現象」、遊びの欠如それに自傷行為(息子の場合には、不満や怒りなどを表すために自分の手の甲を噛んだ)(注12)を除けば、ずいぶん変な子だと思ってはいたが、ともかくも親子の関係は続いていたし、続けていかなければならなかった。自閉的な特徴を帯びていて、ごく僅かづつではあったにしても、子どもはともかく進歩を続けていた(但、細かな点については明瞭な記憶はない)。これは、自閉症児の親としては、まだしも幸せなことであった。進歩が、わが子よりもはるかに遅い子だっているわけだし、たいへんな奇癖をもっている子もいるということを、「T市自閉症親の会」を通じて、じょじょに知るようになってきていたからである(注13)。
Y病院に通院するようになって三年ほどたったころ、妻の友人から自閉症を専門にしている心理学者がいるということを知らされた。上記のように、Y病院の治療はほとんど効果をあげてはいなかったので、この話にはとびついた。しかし、こんな言い方をしても、Y病院を非難しているわけではない。おそらく担当の医師は、持てる知識と経験を総動員しておられただろうが、どうにもならず、専門家を知らなかったので、そちらへの紹介もなかったのだろうと思う。それほど専門家は少なかったということである。今でも、専門家の数こそ増えはしたろうが、経験がものを言う領域なので、親たちは、どうしても経験豊富な医師やセラピストのところに集まってしまう。そのため、一般の精神科の医師はつんぼ桟敷ということになりがちではないかと思う。もっともご当人が、それなりの努力をすれば、事情は違ってくるだろうが、中途半端な努力では自閉症は分からない。それほど厄介な障害なのである。自閉症が一般の精神科医やセラピストの間でどうしてもなおざりにされがちになる所以だろう。
妻は五歳になっていた子どもを連れてさっそくその専門家のところを訪れた。B大学の心理学者S先生のところである。自閉症の研究に手を染められて、それほど時間はたっていなかったのではなかったかと思う。したがって、息子は、S先生の初期の患者ということになる。これまでの経過を話し、もっと幼かった時の写真などもみられて、この先生のところで「自閉症」だというはっきりとした診断が下った。そして、それ以来、息子が小学校を卒業するころまで、セラピストとして治療に当たっていただくことになった。
S先生のやり方は、いわゆる「行動療法」である。Y病院のやり方も、一応行動療法をベースにしていたようだが、いわば相手が自閉症児だということ抜きの行動療法だったと思う。健常児相手なら通用する方法も、そのままのやり方では自閉症児には通用しない。なにしろ、言葉がほとんど用をなさないし、ゲームにも応じない。相手は「ただ者」ではないからである。
S先生は、日本で初めて自閉症児に行動療法を適用した梅津耕作氏の著書( 注 14 ) の購入を勧め、行動療法なるものへの理解を求められたが、やり方は梅津耕作のものとはいくらか異なったものになると言われた。自閉症児相手の行動療法の基本は、簡単に言えば、ほぼ次のようなことなのだろうと思う。
「1つは、人間関係を土台とした言語学習およびそれに関連した諸機能の発達促進であり、他の1つは、自閉症特有の症状および問題行動の改善や緩和である。」( 注 15 )
そして、治療者の側の態度は、
「非指示的受容的態度、親しみ易い人間であること、具体的には姿勢、表情、声の調子、接近の仕方、順序、刺激の選び方、与え方など」(注 16 )に工夫をこらすといったことである。
親に対する具体的な指示は、上記のことに即しているが、とにかく「いっさい子どもを叱らないこと」というものであった。つまり、裏返して言えば「子どもの欲することを可能なかぎりすべて叶えてやりなさい」ということになる。これは、言葉にすれば僅かなことだが、実行がいかに困難であり、いかに辛いかということを、以後8年間くらいに渡って、つくづく思い知らされることになる。いわば、生後5年間子どものことをロクに理解できずに付き合ってきたことへの代償だったわけだが、それにしても、まことにキツイ規則だった。
子どものことをロクに知らなかったと、書いたが、こんなこともあった。生まれた時からか、発症時の二歳頃以降からなのか、はっきりとはしないが、自閉症児には、なんらかの知覚機能の不全がある子が多いらしいのは、周知の事実で、例えば、真冬にいっしょに風呂に入っていて、冷たい水が体にかかっても平気である。いちばん極端だったのは、やはり真冬に、どこに行ったか分からず妻が探していると、近くの料亭の池の中で遊んでいる子どもを見つけた場合である。まるで自殺でもしようとするように、靴の上に脱いだ衣服が置いてあったと苦笑いしながら帰ってきたが、子どもはさすがに唇まで真っ青なのにけろっとしていた。ともかくあわてて風呂に入れたのを思い出す。他にも、子どもによって異なるが、自閉症児が極度に敏感な音や鈍感な音があり、嫌な音に対する嫌悪感の表現も、まことに激しい。つまり、どうやら自閉症児は、健常児が知覚するのとは、かなりずれた形で世界を知覚しているらしいし、人間との付き合いも、とてもこちらが考えているようなものではないようなのである。
親としては、そうしたことを知らずに、普通の子を相手にするようなやり方をしていたのだから、子どもの方も予期せぬことが多く、いわば二次的に親との関係で悪い条件づけができあがっている。そうした条件づけを除去すれば、親との関係も良好になり、言葉の発達もみられるはずだ。今になって整理すれば、これが、「いっさい子どもを叱らないこと」の意味だったのだろうと思う。当時どの程度、子どもの知覚機能の不全が正確に分かっていたかは不明だが、ともかく方法としては、徹底したものだった。当方にしても、まったく五里霧中だったのだから、ともかく良いと言われることを試してみるしかない。それから、望ましいと思われる反応、つまり言葉がしゃべれればもちろんだが、社会的なルールに合致した行動をとったときには、報償として、親の側が「役者がやるように大げさな」身振りや言葉で、ひたすら喜びを表現するようにとの事だった。ただでさえ、親のシツケが悪いと言われがちだし、放置しておけばどうなるかという心配もなくはなかった。その心配への返答は、言葉がなくて人間関係が結べないより、少々ハメがはずれていても、言葉があり人間関係がある方が良いだろう、というものだった。言われてみれば、その通りに違いない。「役者」のまねは、家の中だけに限定するだけでは子どもが混乱するだろうから、人前でも恥ずかしいからいくらかトーンダウンせざるをえないにせよ、やることにした。
しかし、普通の子でも、親が叱らずにすませられるわけがない。ましてや、とんでもないことばかりやる子が相手で、そんなことは不可能と思われようが、やればできないこともないのである。筆者は、以来十八年間子どもを叱った事はない。家にいるかぎり、たいていは子どもの相手をせざるをえない妻の方は、時には爆発することもあったろうが、ほぼ忠実に実行したようである。そのかわり、筆者よりはるかに負担の重い妻は、年に一、二回ダウンした。ウツ状態が数日続き、その間泣き暮らすといったことが、だいぶ続いていたという記憶がある。しかし、とことん頑張った。親の一念とでも言うのだろうか。まだ若かったということである。体力も気力もあったということである。もちろん、二度とやりたいとは、決して思わない。
辛くはあったが、少しずつこの方法の効果が現れてきたので、辛抱をし続けることができたのである。一語文は、二語文になり、さらには三語文(もちろん、いわゆるかなり長期にわたる反響言語−−−オウム返し−−−の段階を通過しながら)というふうに、良好な経過が見られた。しかし、もちろん何年間もかかってである。普通の子どもと同じように、コマーシャル好きは、相変わらずだったが、いくらか言葉が増えていくようになった頃、このコマーシャルを、息子は、自己の感情表現に利用するようになった。たとえば、悲しい時には、悲しいといった意味の歌詞のあるコマーシャルを使って、自分の感情を伝達するといった事をやるようになったのである。自分の要求を単に伝達する時には、通常の言葉を利用するが、感情表現を伝えるときに限ってコマーシャルや歌の文句を利用していたように思う。こうした間接的表現を利用するというのも、やはり自閉症に特有の現象のようである。ブローネ夫妻の意見では、もともと情動に対して敏感である自閉症児は、情動的な生活場面に特に敏感な反応を示し、そういう場面を通して覚えた言葉は、そうした場面を想起させるので、子どもにはけんのんで使えない、そこで子どもは間接的な手段を使用するのだと言っておられるが、確かにそうした事実は、わが子にも認められた。ブローネ夫妻は、この理論をさらに敷衍させ、自閉症児の論理は情動的な論理であり、理性的な論理ではないというところまで一般化されるが、特に子どもが幼い内は、まことにその通りではないかと思う(注 17))。もちろん、子どもが発達をとげ、言葉を身につけ、社会性を身につけていくにつれて、情動的な論理は理性的論理にしだいに譲歩していくようにはなるが、完全に理性的論理に取ってかわられることはないようである。少なくとも、現在の時点では自閉症から完全に解放されは子どもはいないだろう。どんなに良くなった子も、どこかに過去の情動的論理の跡を引きずっていて、どうしても通常の社会の中では、目立った奇妙な存在と見られがちである。
「子どもを叱るな」ということは、子どもの自由を最大限に尊重せよ、ということでもある。他の子どもたちと同じくテレビっ子であるわが子も、普通の番組は極度に部分的にしか、理解できないが、コマーシャルの方はきちんと見ている。おまけにご丁寧なことに、何度も繰り返して放送してくれるのである。熱心に見ていなくても、子どもなら覚えない方がどうかしている。そして、これも、正常な反応だとおもうが、コマーシャルで見たものが欲しくなる。そこで、お菓子、インスタント食品、殺虫剤のたぐいまで、新製品はたいていわが家にはそろっていることになった。新製品なるものが、めったやたらと発売されるものだと知ってはいたが、そんなものを次から次へと買いこめば、単価はたいしたことはなくとも、毎日のことだから経済の方はたちどころにピンチである。筆者の書籍代など、ゼロにひとしかった。とにかく金がかかった。当時は、自閉症のことを、わが家では「金食い虫」と呼んでいたのを思い出す。そういう状態が、五歳くらいから、ほぼ十三歳くらいまで続いた。もっとも、小学校の五年生のころから、少しづつではあったが、セーブできるようになってきたので、助かったわけである。あんなことが続いていれば、とっくの昔にわが家は破産していただろう。
言葉のために、すべてが犠牲にされることになった次第を述べたのだが、その前提条件が、子どもから不安と恐怖を取り除くことだった。親としては、楽なことではないが、ひたすら我慢すればすむことであり、使える言葉が増えていくなら、たいていの親なら、たいていの辛抱はできると思われるが、その場合、先にも述べたように一番の心配は、しつけも同時に犠牲にされるので、社会的なルールが極めて欠如した人間になるのではないか、ということだった。しかし、さいわいなことにT市では、親が希望すれば、普通学級で勉強できたので、仲間の子どもたちが、いろんなことを教えてくれたようだし、息子にしても集団生活をしている内に、他の子どもたちの真似をしなければ、どうにも具合が悪いということが、次第に理解できるようになっていったようである。もちろん最初の内は、子どもは、いわば好き勝手をやっていた。集団のルールは、ほぼ完全に無視という状態だったと思う。もちろん、先生はお説教をしたろうが、子どもがそれをどこまで理解できたかはなはだ疑問である。むしろ、息子にとっては、わけの分からぬうるさい事を言っては、不安や恐怖を与える先生よりも、そっぽを向いていてもむりやり仲間にひきずりこんでは、一緒に行動させようとする仲間たちのほうが、先生がたよりはるかに立派な先生の役割を果たしていたことになる。のんびりした性質なら、小学校三年生くらいまで、息子に障害があるということにすら気付かぬ子どもたちもいた。たから、その頃までは、クラスの子どもたちは本当の仲間というに近い存在だったにちがいない。健常児というお手本の中にいられた息子は、その意味では幸せだったと思う。しかし、すべての子どもが、息子には障害があるということにはっきりと気付き、健常児の中でも人間の能力には差があるものだということに気付き出した小学校四年性の頃に、息子と仲間たちとの「蜜月」は終わりをとげた。お菓子食べほうだいのわが家には、あい変わらず子どもたちは、よく出入りしていたようだが、五年生になると、「いじめ」が始まり、学校は、息子にとっては、ただ単なる嫌な場所になってしまっのではないかと思う。


次に自閉症の三つめの定義「活動および興味の範囲の著しい狭まり」に移ることにしたい。幼稚園に入る前から、子どもは平仮名も片仮名も読めたし、漢字もいくらかは知っていたと思う。しかし、この興味は、もつぱら文字に向けられているのであり、文字の内容つまり意味とは結びつかないので、まったく実用性を欠いていた。自閉症児にはこういう子が比較的多いのだが、最初の内は気付かなかった。言葉はしゃべれなくとも、子ども向けの本ならすらすら読めるのだから、その内なんとかなると思っていた。子どもの「興味」が、文字という「範囲」の外に出るまでには、ずいぶん時間がかかった。異常なほどの興味は、中学を卒業するころまで続いた。日本の文字への興味は、たしか四歳を過ぎたころから外国語にまで広がった。筆者がフランス語やドイツ語も教えていたので、この二つの言葉の文法書や読本は山ほどあったし、テープという付属品まであった。いつのまにやらカセットコーダーの扱いを覚え、いつのまにやら、アルファベットや短い文章も覚えてしまった。英語は、ベートーベンの第六シンフォニーを指揮者のバーンスタインが解説しているレコードで覚えた。それでも外国語への興味は、小学一二年までで終わってしまった。日本語の方は、言葉と意味とが少しつづではあれ結びつくようになったので、やはり日本語の方が面白くなったのだろう。おかしかったのは、小学校に入学したとき、日本語のテキストはちゃんと読めるし、いくつかの外国語まですらすら(?)しゃべれたので、同級生たちは度胆をぬかれたらしい。しかし、それも入学後しばらくのことで、二学期にもなれば、目端しのきく子は、息子が「障害」児だということに気付くようになった。一年生がそんな難しい言葉を知っているはずもないから、きっと親から聞いたのだろう。
仮名はすっかり知っているので、文字への興味は当然漢字に集中する。それも、外では広告の看板、家ではテレビのコマーシャルや新聞の広告が、関心の対象である。子どもが好んだのは、主に商品名だが、なぜある商品名にこだわることになるのかは、分からなかった。子どもの好みには、それなりの理由があったのだと思うが、おそらくはたいした理由ではなくほんの些細なことがきっかけで、好きになっていたのだと思う。好きが高じて、道具は、鉛筆だろうがクレヨンだろうがおかまいなしで、紙を見つけだしては、しょっちゅう商品名を書くのが、趣味のようになってしまった。広告のちらしなどを取っておいて、その裏に書かせてもたちまちなくなってしまう。なくなれば、壁だろうが床だろうが遠慮することはない。油断をしていると家中が文字だらけになってしまうので、さすがにこればかりは、いくらか制限せざるをえなかった。筆者の専門書などにクレヨンで字をかかれてはたまらないし、家の中でも消せるところはいいが、さもない場所には書かせないことにした。言葉で禁止しても分からないので、ルソー流に書こうとすれば体で阻止するのである。もちろんいろんな人に頼んで広告のちらしを集めておいてもらってはいて、子どももたいていは、それで満足していたのだが、こちらが油断していると、そこいらじゅうが文字であふれかえるというのが、常態だった。
文字にはそれだけ関心があるのに、普通の子なら興味を示す絵には一向関心がない。幼稚園でも小学校でも、絵の時間には、いやいやほんのお座なり程度のものを画用紙に描くだけですましてしまう。親も教師も何とかしようとはするのだが、お座なりはやまなかった。どうしてそういう気になったのか、今でははっきり思い出せないが、筆者がちょうど芸術関係の大学に教えに通っていた、子どもが小学校に入る前ころ、女子学生にたのんで絵を教えてもらうことになった。夏休みの間だけだったが、週に一回通ってきては、子どもの相手をしながらいろんなことを試みてくれたが、結局は失敗で、成果といえば、文字のデコレーションのようなことがやれるようになっただけだった。ひとつの文字を書くのに、いろんな色を重ねて使うことを覚えた分、床などに書かれると、消す仕事の負担が増えただけと当時は思っていたに違いないが、あれも何かの勉強だったのだろう。ルソーではないが、子どもの行動はすべてが勉強だろうからである。
文字以外のものへのこだわりでは、経済的に痛かったのではっきりと思い出すのは、音楽へのこだわりである。当時こちらとしては、子どもは特別音楽好きだとは思っていなかった。テレビのベストテンとかというのは、他の子なみに見てはいたが、テレビへの嗜好は、普通の子とは特別異なってはいなかったと思う。ただ、番組の内容の意味は、ほとんど分かっていなかったはずである。ところが、たしか小学一年の時、レコードを買いたいと言い出した。それも毎日一枚欲しいというのである。最初の内は言いなりになっていたが、EPを毎日一枚買われてはたまったものではない。それも、レコードだけならまだしも、他の買物も依然として続いているのである。当分言いなりになっていたが、経済的にシンドすぎるので、S先生と相談の上で、最初は毎日一枚だったものを、時間をかけながらではあれ、二日に一枚、三日に一枚と減らしていき、ついには週に一枚というところまで、こぎつけたはずである。一年以上も続いたと思うが、その間子どもはレコードをかけては座敷の中を走り回ったり、箪笥の上から飛び下りたりと思いのままに跳ね回っていたが、床は当然のことながら、ガタガタになった。たいていは、普通の子が好みそうな流行歌が多かったが、どういうものか日本の民謡を集めていた時もある。意外だということの他に、こちらも聞いていて気持ちが良かったので、はっきりと記憶にある。このレコードへのこだわりは、今から振り返ると、子どもにとっては、単なるストレス解消というだけの事ではなかったのかもしれない。ずっと後になって、子どもは、人並み以上に鋭い聴覚を持っていることが分かり、音楽にはっきりとした関心を示すようになり、今ではまだ職業とまではとてもいかないが、近くのレストランに週一回ギターの演奏に通っているからである。
もう一つ「こだわり」の例(注 18)を挙げておこう。これは、たいていの自閉症児にみられるもので、時間への「こだわり」である。もっと正確に言えば、毎日のスケジュールへのこだわりである。おそらく、なんらかの知覚機能の不全から、普通の人たち以上に不安を感じやすいので、毎日の生活が、きわめて正確に時間通りに行われないと、パニック状態になるのではないかと思われる。
だから、小学校の三、四年くらいまでは、こちらとしても時間に敏感にならざるをえなかった。一日のスケジュールがほぼきちんと決まっていて、時間が守られないと、子どもはパニック状態になって泣きわめく。後で子どもの気分を落ち着かせようとすれば何時間もかかるので、ともかく時間厳守を実行するしかない。厳守は、まさしく文字通りの厳守なので、一分と待ってはくれない。例えば外出の際、どうも用意ができていないと見て取ると、定刻の五分くらい前から催促が始まる。そうなると、筆者もあわてるが、妻の方はもうひとつ大変で、必死になってともかくなにがなんでも時間を守るしかない。どの本で読んだか思い出せないが、時計の見方が分からない子で一秒とたがえず時間を言い当てる子がよくいるそうである。
映画の「レインマン」では、自閉症の主人公の数字に対する驚くほどの直観力と記憶力とが、みごとに描写されていたが、あれはけっして誇張ではないので、確かにああした人がいるようなのである。自閉の症状から解き放たれてくるにつれて、天才的とでも言うしかないああした能力は徐々に消えていくものらしい。わが子も、数字についてではないが、記憶力がびっくりするほど良くて、言葉がある程度しゃべれるようになってから、何年何月の何時にどこで、たとえば〈「お父さん」は何々をしたが、あれは好きではなかった〉などとやられて、どきりとさせられたことが何度もあった。
今述べたように、自閉的な「こだわり」行動、本稿で使っている定義で言う「活動および興味の著しい狭まり」は、自閉の症状がゆるやかになるにつれて、しだいに消滅していく。わが子の時間へのこだわりは、四、五年前から完全に消えてしまった。いまでは、三十分でも一時間でも待っていられるし、場合によっては計画を中止しても怒り出すこともない。周囲の状況が理解できるようになったからである。
文字へのこだわりは、中学を卒業するころまで続いたが、最後まで残ったのは、大阪駅前の丸ビルの電光ニュースへの興味だった。丸いものへの興味はごく幼いころからあったが、それにくわえて、あの短い電光ニュースは、簡にして要をえているので、子どもにも半分くらいは理解できたからかもしれない。丸ビルの見えるところへ行っては、ボールペンなどで手帳にニュースを書き写すことが趣味となって、何年間も続いた。一度ニュースが終わると十五分間待たねばならない。知らない漢字が出てきたりするので、誰かがついていて読み取ったり教えたりの役をやる事が必要だった。しかし、妻が小さなカセットを利用する事を思いついてからは、ともかく大体のことを吹きこんでおけば、ほぼ用は足りるし、帰りに産経の夕刊を買えば同じ見出しの記事があると分かってからは、、ひとりで出掛けるようになった。おかげで、だいぶ漢字を覚えたようだが、実用性はそれだけで、今になっても、なんであんなに丸ビルにこだわったのか、よく分からない。息子の目的が、漢字の学習でなかったという事だけは、確かである。

VI

以上で、主としてわが子という実例を使っての、自閉症の定義の要約の裏付けを一応終えたのだか( もちろん紙数の都合もあるので、多くのことを省略せざるをえなかった )、どれだけのことかが伝わったか、筆者としても、まことに心許ない。とくかく相当変わった子どもがいるという事、そしてその子のおおまかなイメージはなんとか伝わったのではないかと思う。真に自閉症を理解するには、自閉症児にじかに接する以外にはない。これはどんな障害に関しても言えるだろうが、名前だけがいたずらに有名でありながら、ほとんど知られていない自閉症に関して顕著なことだと思われる。そして、先にも述べたように、自閉症は大人になっても治るものではない。自閉の症状から解放される度合いは、人によって異なるが、自閉症が子どもだけの障害ではない事は、映画『レイン・マン』にある通りである。
『自閉症の謎を解き明かす』の著者フリスは、自閉症の根本的な原因は、大脳の中枢部にあるとされながら、どこに支障があるかを明確にしえずにいる自閉症研究の枷を思いきって乗り越えて、認知心理学の立場から「心の理論( thory of mind ) 」なるものを援用し、知恵遅れなど他の発達障害を伴わない純粋な自閉症においては、さまざまな情報を「意味のある観念」に統合する能力が欠けていて、そのため他者の「心の状態( mental states ) 」を予測したり解釈したりすることが不可能になっていることが、根本的な障害であるとしている( 注 19 ) 。この理論は、一応首尾一貫しており、比較の対象が健常児でるならまずは首肯しうるが、自閉症児に「心の理論」なるものがないとの仮定には、首をかしげざるをえない。きわめて重度の自閉症児ならいざしらず、たいていの自閉症児に「心の理論」が存在しないとは、筆者にとっては考え難い事たせからである。たしかに自閉症児はたいへんな迂路を通ってほんの僅かの人間認識をうるという心の重労働を強いられてはいるが、僅かつづではあれ「心の理論」についても着実に進歩をとげうる、考えられる。わが子に関して言えば、幼年時代にはそれこそ犬や猫の方がまだしも心が通じると思ったりもしていたが、なにも見ずなにも聞いてはいないようでありながら、かなりの情報を自己の内部に貯え、時期がくれば一挙に理解するといったやり方で「意味」を積み重ねるという作業を行い続けていると考える方がより真実に近いのではないかと思う。もちろんその「意味」の積み上げがどういう仕組みで行われているかは分からないが、わが子や時々出会う知り合いの自閉症児たちもおなじシステムでやっているのとしか考ええない。これは、たんに筆者の個人的な感想ではない。例えば、先に挙げたブローネ夫妻にしても、「情報の統合能力」の欠如という点なら一応承認されるだろうが、フリスの言う「心の理論」なるものの欠如という点にかんしては、おそらく同意されることはないだろう。(注 20 )。

VII

ともかく、上記のとおり、自閉症児の相手をするのは並大抵のことではない。これが純然たる医師とかセラピストなら、仕事時間が終われば、家に帰れるわけだが、治療の片棒をかついでいる親の方は、子どもが家にいるかぎり、必ず相手をさせられる。いわば二十四時間体制である。息子の場合は、中学を卒業した後は、探せばなんとかどこかの学校に入るだけは入れたろうが、ともかく本人にとっては、学校というのは、教師が訳の分からぬことを喋っているのに九年間も耐え続けてきたところで、おまけに「いじめ」まで付随していたところである。学校を続けるかと問うてはみたが、否定の答が返ってくる方が、当然である。本人の意志を尊重し、学校行きはやめにして、在宅ということした。ところが、近くの公立高校にある「障害児問題研究会」というおかしな名前のクラブに、準部員として呼んでもらえることになったので、中学卒業後は午後になると週に二三回は、そこへ出掛けていた。小学校五年生ころから子どもたちが、わが家にばったり寄りつかなくなって以来、ふたたびわが家は溜まり場のようになり、三年間ほどにぎやかな生活をすることになった。「研究会」の仲間たちの内にとび抜けて息子の相手をするのがうまい若者がいて、その青年が息子の音楽の芽を開花させてくれたという、わが家にとっての大事件も生じたりした。もっとも、憩いに似たなごやかな時間を持てたのは、振り返ればあっという間の事でしかなく、その後はみんながそれぞれの道を歩み始め、今では間遠になってしまっている。
子どもに「自閉的傾向がある」と言われてから、すでに20年がたつ。本節の始めにものべたように、この20年間は、苦労の連続のような時間だった。話を筆者のことだけに限定しても(妻の方がはるかに大変なのは言うまでもない)、ともかく子供が小学校を終える頃までは、狭い家にたくさんの子どもたちに押し掛けられて勉強も何もあったものではなかった。なるほど夜までいる子はあまりいなかったが、息子が三歳のころ宵っぱりの筆者もいっしょに寝ろと言って聞かなくなったので、しょうことなしに10時には寝床に入ることにし、以来その習慣はほぼとぎれることなく、今にいたるまで続いている。おまけに金もうんざりするほど使ってくれたので家計だって楽ではなかったはずだが、その方は妻の仕事なのでくわしくは知らない。筆者の小遣いがほとんどなかったことだけは、確かである。息子が家にいるかぎりテレビのチャンネル権を握っていて、当方の要求はいっさい聞き入れてもらえない。学校では「いじめ」の問題も出てくる。おまけに、前述のように「叱れない」のだから、酒でものんでウサを晴らすしかなかった。
しかし、子どもが少しづつ進歩していくにつれて、少しづつ楽になっていったことも、確かである。一番助かったのは、カバくんというボランティアの人がいて、息子が小学校の四年から五年にかけて毎週一回土曜の夜から日曜の午後まで預かってくれたことである。そして、息子の発達につれて、こちらの要求を徐々にではあれ、受入れさせるように仕向けることも、S先生の指示に従って行われるようになっていた。受入れがまだ無理と分かれば、前段階に戻り機会を待つという、行動療法的やり方である。
小学校の五年頃になれば、僅かづつの進歩が蓄積されて、だいぶ楽になったと実感することができた。言葉の方も、その頃には、日常生活に必要な具体的な事柄にかぎっては、通じるようになっていた。そうはいっても、健常児なら三歳程度のことだったろう(もっともかなり難しい言葉も知っている三歳児であるが)。しかし、それまでのことを考えれば、まさしく雲泥の相違なのである。
いろいろな困難が必ず形を変えて現れるという自閉症特有の歩みを伴いながらではあれ、ともかくこれまでなんとか過ごすことができた。現在も言葉の大幅な不自由に加えて、一般の青年たちと同じように、青年期の大問題である「性」に難渋させられている。そもそも自閉症児というのは、何事であれいちいち教えなけれぱならない子どもなのだが、「羞恥心」などという、厄介な問題を教えこめるかいなか、はなはだ疑問である。ひとつの例を一般化して理解することの困難な自閉症児にあっては、この場合も、ひとつひとつ具体的に「これこれ」は「恥ずかしい」ことだと教えこむしかないのだから、厄介だし、それで「羞恥心」なるものが通じているのかどうか、まことに頼りない。それに、考えてみれば、慣習的要素の比重のきわめて重い、「羞恥心」なるものが、説明している側にしたってどれだけ分かっているのか、はなはだ怪しいものなのである。「性」の問題は、まだまだ長びきそうである。どうしていいか正直なところ誰にも分からないだろう。手探りでやっていくしかないのである。
しかし、ただただ辛い思いだけをしてきただけかとなると、そうとも言えない。きわめて徐々にではあれ発達をし続けてくれているというのも、たしかに喜びである。そして少しは職業化しつつあるギターの腕前も大分上がって、三年前にはちゃんとしたプロの資格も取れた。それから、もう五、六年前くらいからだろうか、嘘をつけず、バカがつくほど正直な子どもの相手を毎日のようにしている内に、これはどうも大変「偉い人」のお相手をさせてもらってもらっているのではないかと思うことが、しばしばになってきた。たしかに子どもの相手をすることが楽になってきたので、以前には見えなかったものが見えてきただけのことなのだろうが、こちらが精神的に助けられていると思う機会がたしかに多くなってきた。嘘で固めたような外の世界から、家にもどってくると、「嘘をつくことができない」人間、「生きる」ことが「喜び」以外の何ものでもないと感じているらしい人間がいてくれるということで、息をつくことができる。たしかに息子にとっては、「生きる」ことは普通の人間にとってより、はるかに重労働のはずである。彼が外に出掛けることになんの制限も加えてはいないので(彼も立派な人間なのだから当然の権利である)、とかく目立った行動をする彼が外に出れば、じろじろ見られたり、心ない言葉を投げつけられたりは、日常茶飯事だからである。それに、しばらく前から自分が「健常」者ではなく、「障害」者だということにいくらか気付きだし、これからもますます気付いていくだろうから余計辛くなるだろう。しかし、少なくとも今のところ「生きることは喜びである」という信念は、確かなことだと思っているらしい。おおげさに言えばおシャカさまのような有難い人が、わが家鎮座ましましていると感じる時すらある。もっとも、このおシャカさまは、大変風変わりなおシャカさまなので、しゃべる時にはやたらと同じことを繰り返す癖があるので、なんともそうぞうしいおシャカさまであり(どうも言葉の訓練をなさっておられるらしい)、イライラする時もよくあるので(パニックである)、そういう時には、どこかへ行って欲しいと思うほど厄介なおシャカさまでもある。しかし、おシャカさまなどという貴重な存在は、そうざらにいるわけがない。大切にしなければならないのである。
もっとも、何事かに発達のきざしが見え始めた時には、その発達の芽を摘んでしまわないため細心の注意を払わなければならないのは、言うまでもない。さもないと、退行してしまう恐れがあるからである。しかし、付き合いが長びくにつれて、さっきのおシャカさま的な要素に気を取られることが多くなった。そもそも普通の人間というのは、やたらと不平不満が多い。つまり何かにつけて文句の絶え間がなく、すぐに自分は不幸だなどと言い、人を掴まえては愚痴をこぼす。筆者ももちろんだが、おおかたの人間というのは、そういうものなのだろう。
自分も含めてそういう人間どもの生態を眺めていれば、たいてい嫌になる。嫌になるけれども、人間というのはどうもそういうものらしいから、みんな仕方なく付き合っているようである。そういう人間どもと比べてみれば、どう見たって自閉症児であるわが息子は、やはりおシャカさまか、寒山か拾得である。そもそも、言葉がきわめて不自由であるというのは、どんなにか辛かろうと思う。自分の感じ考えていることを、思いどおりに口に出せなければ、たいていの人間なら、耐えがたくて頭か体のどこかがおかしくなるだろうし、はなはだしい人なら、死んでしまうだろう。それに、「嘘をつけない」ということだって、大変な負担だろう。おおかたの人間どおしの関係は、なんらかの形の嘘が間にはさまっているから、うまく行っているのである。嘘が緩衝的効果を発揮しているから、人間関係は成立している。その証拠に嘘をついたって、たいていはバレてしまう夫婦なるものの間では、喧嘩の絶え間がない。開き直って、夫婦喧嘩は趣味だなどと言っている人までいる始末である。だから、嘘をつく能力がないというのも、大変辛いことにちがいない。「能力がないから、もう慣れっこになっているんだろう」などと言う人は、試してみればいい。一日だってもたないだろう。
わが家のおシャカさまは、言葉が不自由でも嘘がつけなくても(他にだって出来ないことなら、いくらでもある)、「生きることは喜び」とあくまで信じているらしい。この手の話は、このおシャカさま相手には不可能なので、当方で推測しているだけだが、どうもそういうことであるらしい。あんまりアッケラカンとしているので、こちらは考えこまざるをえなくなる。
この先どうなるかは分からないが、まだしばらくは、少なくとも当方が元気でいる間は、おシャカさまはおシャカさまであり続けるだろう。もちろん時々は騒々しかったり、時々はパニックに陥る厄介者でもある「おシャカさま」であるには違いないが。

VIII

いささか美化しすぎた書き方になったが、キリスト教圏には昔からそうした考え方があるし、筆者が知らないだけのことで、日本にもあったかもしれない。そして、ある意味では脳が進化しすぎた結果、不幸にはなってしまっているいわゆる健常者なるものが、障害者を「美化」することによって、自己を振り返るきっかけとしていたと言ってもいいだろう。しかし、一般的には、社会の「厄介者」扱いにする考え方と同様に、これは、やはり障害者を「特別視」しているということに、変わりはない。
だいぶ以前から考えていることだが、筆者の専門分野である哲学においても、いまだかつて、障害者が哲学的思索の対象となったことはない。例えば、近いところではフランスの哲学者メルロ=ポンティーは、『行動の構造』や『知覚の現象学』において、人間の体を根底に据え、物理化学的な体の働きが、すでに意識の働きを、部分的に先取りしていると述べているが、これは、あくまで普通の人間のことを念頭において言っているだけのことで、障害者のことはまったく念頭にないのである。たしかに体にのみ障害があるだけで、頭脳の方は正常に機能している人たちについてなら、こうした哲学も意味を持ちうるだろう。だか、脳にどんな形にせよ障害のある人達(いわゆる精神障害者たちにしたって、脳に障害が起こっている事は間違いなさそうである。現代医学がまだ少ししか解明できずにいるだけである)は、哲学の分野から徹底的に除外されている。あらゆる学問の基礎学とされていながら、哲学はいわば障害者たち抜きで哲学をやって来たことになる。障害者も人間の内に入っているはずなのに、現実には、そうなっていない。もっとも、これは大変おかしな事だと思いはしても、さてどう考えていったものかとなると、だれもが首を傾げざるをえまい。人間そのものを対象とする他の学問にしたって、事情は大同小異だろう。
後発の学問である社会福祉の分野だけは、だいぶ事情が違うようだが、この分野にしても障害者たちに真の市民権を与えようと考えるようになったのは、日本の一般的レベルでは、十年ほど以前からのことだろう。つまり十年間に渡った国際障害者年をきっかけにしきりと強調されるようになった、「ノーマライゼイション」という言葉とともにだろう(注 21 ) 。つまり、そもそも学問的レベルの事というより、現場の福祉関係者のあいだで、障害者をいつまでも「特別視」しているのは、あまりにも非人道的ではないかとする反省から始まったようである。障害者は、何も特別な場所や特別な人のところに生まれてくる特別な人間ではなく、普通の場所に普通の人に普通に生まれてくる、どこかに故障のある人間だというだけのことであって、「人間」として「特別視」される言われはなんらないはずである。そこで、障害者を施設等に押しこめておく方が「アブノーマル」であり、障害者たちが社会のどこにでもいられるようになり、健常者たち同様に活動できるようになることこそ「ノーマル」であるとするのが、「ノーマライゼイション」の理念なのである。( 注 22 ) 。
なぜ「人間」について考えるもろもろ学問より、現場で障害者と接している福祉関係者からノーマライゼイションの声が上がったのだろう。筆者の考えでは、障害者と接触する機会がおおく、また接触せざるをえなかった福祉関係者たちは、障害者もまた「人間」であるという事を「発見」しやすい立場にいたからだろうと思う。なるほど、「障害者は人間でない」と考えている人などいないだろうが、どれだけの人達がこの言葉を実感として感じているかとなると、大きな疑問を抱かざるをえない。実感を伴わない言葉だけを繰り返しているだけでは、何も見えてはこないし、障害者たちが「差別」の中に放置されたままになっている事実が、明確な意識となって現れてくる事もないのである。
人間というものは、一生を終えるまでの間に、随分と人の手を煩わさなければならない動物のようである。一生の始まりには多くの人手がかかるのは、万人共通の事柄だか、終わりの時にも人手がかかる場合が多いようである。近頃のように寿命が延び超高齢社会に入りこんでいくことになると、ますます人生の終わりの問題が深刻である事がはっきりしてくるので、たとえば「尊厳死」とか quality of life などといった事がしきりと言われるようになったが、要は高齢者になり、「障害者」になるような事があっても、「人間らしく」生き、「人間らしく」死にたいという事だろう。人生の途中から障害に苦しむ人、生まれてから死の時まで障害に苦しむ人、最後の時だけ障害に苦しむ人(最後といったって、長ければ何十年になる場合もあろう)と、さまざまな人生模様があるにしても、だれだって「障害」のために辛い思いをしたり、自らの尊厳を傷つけられたくないとい思いは、共通のものだろう。今頃になって騒ぎだすのもおかしな話だが、「障害者問題」が誰にとっても他人事でなくなるのは、そう遠くの事ではないと思われる。

以上は、自閉症児の息子が、暗黙の内に、筆者に書くようにと促した事柄の一端である 。
(但。主たるデータである子どもの思い出については、多くを妻の記憶に負うている。)



1 朝日新聞連載の河合隼雄氏のコラム『おはなし、おはなし』(1993年7月18日)では、「自己の内部への閉じこもり」を言い表すのに「内閉的」という言葉が使われていた。これが河合氏のアイディアかどうかは不明だが、名案であり、今後こうした言葉が一般化すれば、自閉症関係者もあまりイライラしなくてすむだろう。
2 Leo Kanner, Autistic disterbances of affect contact, Nerv.Child 2, 1943.
3 Hans Asperger, Die“ Autistichen Psychopaten " im Kindesalter, Archiv der Psychiatrie und Nervenkrankheiten 117, 1944.
4 1975 年には、カナーは早々と、情緒障害説を撤回する。cf. A. et F.Brauner, PUF, 1978( A.ブローネ、F.ブローネ共著、布施佳宏訳 『自閉症児と生きる』、p.181, 紀伊國屋書店、1987 ).
5 American Psychiatric Association(1987), Diagnostic and Statistical Manual of Mental Dis- order, 3rd rev. edn( DSM- III- R ), ( Washington DC: American Psychiatric Association).
6 Uta Frith, Autism: Explaining the Enigma, Basil Blackwell, 1989. (富田真紀他訳、『自閉症の謎を解き明かす』、東京書籍、1991.)
7 A. Brauner et F. Brauner, L'expression psycotique chez l'enfant, PUF, 1978 ( A. ブローネ、F.ブローネ共著、布施佳宏他訳、『自閉症児の表現』、二瓶社 、1993).
8 『新版精神医学辞典』、p.455,弘文堂、1993.
9 自閉的視線の極端な場合を挙げておく。「いくにんかの母親たちの話によれば、視線は〈子供が、あなたなど見ずに、あなた越しに、あなたの背後を見ているとでもいうように〉相手を通り抜けてしまうのである。この城壁でも通り抜けてしまいそうな視線は、母親にとっては、ぞっとするほど耐え難いものなのである。この活動していない視線は、まっすぐあなたの方を見たり、はっきりとある方向を向いていたとしても、ベテランの女教師がいつかいみじくも言ったように、自分の前にいる象すら目に入らないほどのものなのである( 『自閉症児と生きる』、p.136 )
10 そのため、親のシツケが甘すぎるとか、きつすぎるなどという怪しげな理論が横行し、「戸塚ヨットスクール」のようなものまで現れ、死者まで出ることになった。どこに行っても目に見えるほどの効果もなく、藁にもすがりたい気持のかなり数の親たちが、あの「スクール」に子どもたちを送りこんでいたはずである。今となってみれば、結果は悲劇的であったろうとしか、思えないが。
11 15歳を過ぎた頃からは、おおむね不安のみを表す表現となったようである。
12 自傷行為の例を挙げておこう。「比較的軽い場合、子供たちは、自分自身を爪でひっかいたり、唇を噛んだり、前腕や腿や耳をつねったり、たえず爪を噛んだり、あるいはまた衣服の一部もしくは全部を−−−時には引き裂きながら−−−脱いだりする。重症の場合には、自分自身の髪を引き抜いたり、壁や家具に頭をぶつけたり、体のあらゆる部分をはげしく打ったりする子供たちを、われわれは見出すことになる。 このような行為は、ほんとうに危険である。どんな包帯も巻かせてはもらえないので、噛み傷が化膿するおそれが強くなるし、傷もまたしょっちゅう口を開くし、頭の打ちつけは、ひどい外傷になる。子供が家具やラジエーターにの角に頭をぶつけるときには、特にそうだ」。(A.ブローネ他、前掲書、p.114)。
13 筆者の記憶している親にとってもっとも痛ましい例は、夜中になると大声で泣きわめく近所迷惑の子の事である。どうしてもなだめられない親は、夜中から朝の二時三時まで子どもを乗せて眠くなるまで高速道路を走り回っていたとのことである。今なら一応公的ホームヘルパーの援助をあおぐなどといったことにでもなろうが( 当時はなかった) 、公的ヘルパーの数は絶対数がまったくの不足だし、夜中の勤務など今のところない。行政を当てにする人は、いつまで待たされるか分からないという覚悟だけはしておくべきである。
14 梅津耕作著、『自閉児の行動療法』、有斐閣、1975。
15 高木俊一郎編、『自閉症児の行動療法』、piv、岩崎学術出版、1990。
16 前掲書、p.v。
17 『自閉症児の表現』、p.70-71 、1993
18 自閉症児が「こだわり」を持つ事柄は多い。レコードのことを書いたが、レコードがシリーズになっていれば、全部を購入しなければおさまらない。一枚割れたらすぐさま補足することを要求される。シリーズものは何にしろ同様である。さらには、部屋の中の品物の配置もうかつには変更できない。すこしでも変更が加えられたままになっていれば、パニック状態になってしまう。
19 Uta Frith, op.cit, p.187.
20 『自閉症児と生きる』、p354、 p.367。
21 国際障害者年の標語は、障害者の社会への「完全参加と平等」であった。
22 ヴォルヘンスベルガー、『ノーマリゼイション』、中園康夫他訳、学苑社、1982。

京都外国語大学研究論叢 XLUより


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