映画、 監督か俳優か?

 前回の文章を妻に見せたら、見ていない映画もあるし、よく分からなかった、と言われたので、今回は分かる話にする。それにしても、あまりにも素朴すぎないかと、心もとないが。
 これまで映画の話などしたことのない人と、映画の話をすることになったとき、その人が主に俳優の話をすれば、その人はたいていあまり映画を見ていなくて、映画のことはほとんど知らないと考えてほぼ間違いはない。しかし、ずいぶんたくさん映画を見ているのに、いつまでも俳優とストーリーだけにこだわり続けている人もいないわけではない。そういう人たちは、俳優を通じて映画考え、話題の映画のなかから、出演俳優で見る映画を決めたりする人たちである。この人たちは映画のことをあまり真剣に考えたことがなく、まるで俳優が映画を作ってでもいるかのように考えている。そして、ほとんどの人たちはこの部類に属している。おまけに、近頃のように観客のレベルが下がって、監督もたいした人たちがあまりいなくなっているわけだから、そういう風に考える人たちがいてもそう不思議ではなさそうだが。映画の黄金時代を知っている人たちでも、その部類のほうが多いのだから、これはやはり映画は娯楽と考える風潮が強かったからだ、とでも考えるしかなさそうである。
 優れた監督がいい映画を作る条件の第一に挙げるのは、まず脚本である。だからいい脚本がなければ、いい映画ができないのは間違いなさそうだが、優秀な映画監督はたいてい脚本にも関わりをもっているし、表面上は名前が出ていなくても、相当程度関りを持たざるを得ない。なぜなら、映画を作る人は監督で、脚本家とは当然打ち合わせをして自分の意向を伝えておくわけだし、気に入らない部分がでてくると当然訂正されることになるからである。もちろん、これは一流中の一流の監督の話である。ところが長年作品作りをして、かなりの程度腕達者になっていて、どんな脚本でも適度にこなせるという人もいて、いわゆる職人監督ということになるわけだが、こういう人たちの作った作品はあまり見たくないし、たいていは見ていられないだろう。単なるテクニックの問題になってしまっているからである。ちかごろなら、CGをどれだけうまく使いこなせるかの競争でしかないということになるだろう。つまり、特に観客に伝えたいことなど持ち合わせていない監督のことを言っているのである。どうしても熱意にかけることになりがちである。
 これに反して、優秀な監督たちは、映画という手段を通じて「これだけは言っておきたい」ということをしっかり持っている人たちである。こういう人たちは当然脚本の段階から参加し、みずからの思想を脚本にどう盛り込むかに無関心ではいられない。そして脚本ができあがった時点では、映像のイメージも相当程度できあがっていて、それをイマジネーションから実際の映像に変化させることが、監督という仕事なのである。たしかに俳優がいなければ作品は作品にならず、単なるイメージで終わってしまうのだから、イメージに一番ふさわしい俳優たちを選んで、みずからのイメージを映像化するために利用することになる。俳優は監督のイメージを映像化するために努力し、監督の期待以上の仕事をすることも間々あるだろう。しかしともかく、俳優の仕事は監督のイメージのためにあるのである。しょせんは道具でしかないのだが、観客が直接見るのは俳優の演技だから、素直に見ている人には、俳優のことばかりが頭に残るわけだが、実は残るようにさせたのは監督なのである。その証拠にある俳優の出た映画を挙げようとしても、二三を除けばきわめて困難なはずである。俳優のことが印象に残っているのは、優れた映画を通じてだけだからである。俳優は、数多くの凡作にも出演しているのだが、たいていはそちらの方はどこかに飛んでしまっている。
 いっぽう優秀な監督の全作品を見れば分かることだが、彼にはあるいは彼女には追求しているテーマがあって、そういう点で一貫性がみられるはずである。疑問をお持ちの向きは、誰かの作品の全部ではないまでも、主だったものを見てみられればいい。当方の言わんとすることが、理解してもらえるはずである。

2004年8月中旬

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