黒澤明「 七人の侍」その他(1)

 筆者が中学二年生のとき、ホームルーム担当の先生が、その時間にどういう拍子か黒澤明の『七人の侍』(1954)の話をして、たしかその前日気分が「くさくさ」していたので映画でも見ようと思って『七人の侍』を見たところ、「気分がすっきりした」という話をした。その先生は化学の先生なのに、文学趣味でもあったのだろうが、ホームルームの時間に芥川龍之介の「河童」を読んでくれたりしていたので、数少ない気の利いた先生だった。多分その時黒澤明という名前を覚えた。それでこちらも真似をして、「くさくさ」していたわけではないが、その後の土曜か日曜に映画館へ行って、「七人の侍」を見た。しかし、とてものことだが分かるはずがない。早熟ではないごく普通の中学生だったし、テレビのない時代だし、どだい映画などほとんど見たことがないのである。一つには黒沢の映画の台詞は現場で取るからだろうが聞き取りにくく、特に菊千代役の三船敏郎の台詞はひどいので、ただでさえよく分からないのに、余計分からなくなったのだろう。
 その時印象に残っていたのは、野武士の砦の焼き討ちの場面とか、農民たちの長老の家が村から離れたところにあり、移動しなかったため野武士たちに焼かれ、その家の赤ん坊を菊千代が川伝いに助け出してきた場面などである。あの時の台詞がたしか「俺もこんなだったんだ」というのらしいと分かったのは、かなり後になってからで二三度見てからのことだったと思う。こないだ90年代の小林正樹のインタビューを見ていて三船敏郎の台詞が聞き取りにくいのは、彼の声に問題があり、今なら声から聞き取りにくくしている要素をはずせばずっと聞き取りやすくなるという話があって、なるほどと思ったものである。
 ともかくこれが自発的に、しかもひとりで映画館に行った最初のケースだった。それ以前に母の弟が同居していた時期があり、その叔父さんがときたま映画に連れて行ってくれて、後で分かったことだが、たとえばウィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(1948)、黒澤の『野良犬』(1949)なども見ている。『野良犬』の方は分からなかったが、『自転車泥棒』の方は貧乏人の話で、やっとの思いで父親が手に入れた仕事に使う自転車を盗まれ、それを親子で毎日探し歩くが、見つからないので、ついに父親が他人の自転車を盗むがすぐに捕まってしまうとい単純なストーリーだったので、泣きに泣いて涙が止まらなかったのを覚えている。小学校の低学年で、映画を見慣れていなくても、当時ならたいていの人は貧乏にかかわりのある話なら、誰にも分かっただろう。多くの人が戦後十年余りは貧乏で、飢えていたからである。もちろんストーリー全体を覚えていたわけではないが、人間の単純な悲しみは理解できた。ほかにもみせてもらったはずだか、たいていは娯楽映画で後で見返すこともないので、記憶にない。いい映画はたとえ分からなくても、どこかの場面はしっかりと記憶に残るものらしい。本物の強みだろう。
 その後多分高校の高学年の時と、大学に入ってから、『七人の侍』をいわゆる名画座などで見直す機会があって、「脳天をカチワラレタ」感じで、以来映画といえばまず念頭に浮かぶのはなんといっても『七人の侍』だった。見たことのない人のために簡単にストーリーを紹介しておくと、戦国時代いつも野武士に襲われている山の村の農民たちの長老が、侍を雇うことを思いつく。いくらなんでも百姓に侍を雇えるはずがないと、みんなが言うと。そのじいさまは、「腹をへらした侍をさがせばいい」とのたまう。なにしろ乱世である。それで何人かの百姓が町まで出かけて、苦労して「腹をへらした」親切な侍を、「腹いっぱいメシを食わせる」という嘘のような報酬で七人見つけ出し、多くの野武士を殺すことで、村をまもることに成功するが、侍側にも四人の犠牲者が出るというあまりにも有名な話である。
 たしか、一年後くらいには、アメリカのジョン・スタージェスという二流監督が『荒野の七人』というタイトルのリメイクを作って、これも日本でも大成功だった。ただし、こちらの出来具合はいうまでもない。二流はしょせん二流である(つづく)。

2004年6月中旬

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