万葉集の海(5)
2012年2月上旬


正月が終わると昨年から時々起る血尿がまた出た。今年はどうなるものやらという感じである。月半ばの日の真夜中から翌夕方の七時まで続いたのだから、最長記録である。普通は一日二三時間が三日ほど続けば終わりだが、こんどは終わりそうにないから日曜なのに京都の病院にかけこんだ。昨年は貧血がひどく一週間入院したが、今度は鉄分を含んだ飴をその時以来服用していたので、貧血はわずかで、翌日には退院、その次の日は別の病院で胃カメラを受けた。こちらも異常なしだったが、二月の初めには腸に一個だけあるポリープを取る手術をする。病院行きはほかにもあるので忙しい。

「万葉集巻第一 雑歌」は、今回で五度目だが、「第一」は今回で終了である。あまり心を打つ歌がなくなったということである。

   近江の荒れたる都に過(よぎ)る時に、柿本朝阿臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)が作る歌

玉だすき、畝傍(うねび)の山の 橿原(かしわら)の 聖(ひじり)の御代(みよ)ゆ<或るは云う「宮ゆ」> 生(あ)れましし 神のことごと つがの木の いや継(つ)ぎ継(つ)ぎに 天(あめ)の下 知らしめししを<或るは云ふ「めしけける」> 天(そら)にみつ 大和(やまと)を置きて あおによし 奈良山(ならやま)を越え<或るは云ふ「そらみつ 大和を置き あおによし 奈良山越えて」> いかさまに 思ほせしか<或るは云ふ「思ほしけめか」> 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にはあれど 石走(いわばし)る 近江の国の 楽浪(ささなみ)の 大津(おほつ)の宮に 天の下 知らしめけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿(おおとの)は ここと言へども 春草の 繁(しげ)く生(お)ひたる 霞(かすみ)立ち 春日(はるひ)の霧(き)れる<或るは云ふ「霞立ち 春日か霧(き)れる 夏草か 繁(しげ)くなりぬる」> ももしきの 大宮所(おおみやどころ) 見れば悲しも<或るは云ふ「見ればさぶしも」>

(玉だすき)畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の 聖天子の御代(みよ)から<あるいは「宮を始めとして」> お生まれになった 歴代の天皇が (つがの木の)つぎつぎに そこで天下を 治められたのに<あるいは「治めて来られた」> (天にみつ)大和をよそに (あおによし)奈良山を越え<あるいは「そらみつ 大和を捨て (あおによし)奈良山を越えて」> どのように 思われたものか<あるいは「思われたのだろうか」> (天離る)畿外(きがい)であるのに (石走る)近江の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の都で 天下を お治めになったそうである あの天智天皇の 旧都は ここだと聞くけれど 宮殿は ここだというけれど 春の草が いっぱい生えている 霞が立ち 春の日が霞んでいる<あるいは「霞が立ち 春の日が霞んでいるせいか 夏の草が 茂っているためか」> (ももしきの)この宮跡を 見ると悲しい<あるいは「見ると心が沈んでしまう」>

   反歌

楽浪(ささなみ)の 志賀(しが)の唐崎(からさき) 幸(さき)くあれど 大宮人(おおみやひと)の 船待ちかねつ

(楽浪(ささなみ)の 志賀の唐崎は 昔と変わらずにあるが 昔の大宮人の 船が来るのを待ちかねている)

楽浪の 志賀の<一に云ふ「比良(ひら)の>大わだ 淀むとも 昔の人に また逢(あ)はめやも<一に云ふ「遭はむと思へや」>

(楽浪の 志賀の<また「比良(ひら)の>大わだは このように淀んでいても 昔の人にまた遭えようか<また「逢うだろうとも思えない」>)

 人は去り、人を取り囲んでいた人工物もおなじように消え失せ、そして自然だけが形を変え名がらも残る。その「悲しみ」を歌ったなかで今に残されたもっとも古い形の歌だろう。芭蕉の「夏草や」の句を思い出したが、この歌の背景はずっと大きく都全体であり、時間的背景も太古以来である。悲しみもおのずと増しているだろう。




   大震災と涙
2012年3月中旬


 『万葉集』がしばらく続いたので話題を変えてみる。東日本大震災からまる一年たった今年の3・11は、日曜日だったし、震災以外の番組も少なかったので、震災関係のものを見た人が多かったのではないかと思う。筆者にすれば、震災についてある程度まとまった知識がえられるのではと期待しながら見た。期待は外れなかった、どの角度から撮るにせよ、あれだけ並べれば、見たものに応じてイメージが固まるだろう。たぶん、だれかが、なるだけ視野を広くしてドキュメンタリーを撮っているのではないかと思うが、苦労は大変でも苦労に十分報いられるものができるに違いない。
 テレビを見ているうちに涙を流している人たちが多くうつされているなあという感慨をいだいた。親、子、兄弟などの親せきや友人たちを亡くしたために流された涙の量だけでも、すごいものだろう。なにしろ命を亡くした人だけでも二万人ちかいからである。ほかに自分の住んでいる町などが破壊されたり、原発のために住居をなくしたりしたひとたち、それに失業したひとたちの涙とか、涙がどんな種類の涙にしろ、涙の量は増えるばかりだろう。
 いきなり大きな地震が起こり、ついで津波が押し寄せたわけだが、これに対しては地元の住民にせよ、政府のえらいさんにせよ、いかんともなしがたい。当事者たちは呆然とするだけで、ひたすら涙を流し、周囲の日本人は同情し、なるだけ援助をしてきた。天災については、我々の力はおよばない。もう一つ、我々すべてに共通した人間の条件「死」にかんしても同様である。ただ、東京電力の原発の事故に関しては事情は異なるが、これも起こってしまった結果については、自然災害と同様な始末になっている。
 涙というものは単なる液体であるだけでなく、経験上誰もが知っているように、精神的な浄化作用を持っていて、天災に類する大事件ではない、日常の生活のありふれた事柄に対してなら、涙を流すだけで、なんとか対処できる場合が多いとおもわれる。しかし、単に涙を流しただけで済んでしまうような事柄はむしろまれで、起こった事柄にどう対処するかが問題として残る。そうした意味では、天災の場合も同様で、原因に関しては手の施しようがないが、以後の処理についてはささいな出来事と変りはない。しっかり考えてベストと思われることを着実に実行していく以外に方法はない。現に3・11のテレビで見たように、すでに一年間さまざまな努力が重ねられたが、まだまだ遠く及ばないほど被害は甚大なようである。多くのヴォランティアもまだたまだ必要だし、ましてや当事者たちの努力もはかり知れないほど必要だろう。
 こんな文章を書くことになってしまったのも、筆者にしても人間の避けがたい運命である「死」を日々意識しなければならない「死に至る病」の渦中にいるからだろう。この言葉を一般的なものにした、哲学者のキルケゴールは、「死に至る病は絶望である」と定義しているが、もちろん命があって生きる努力をする前に、理詰めで結論だけあれこれ言うだけでは仕方がないだろう。結局キルケゴールの場合は、キリスト教に「絶望」を吸収させることになるが、キリスト教の方角に行こうとしないものには、これは解決とはならない。
 もっと今やそこらぢゅうに転がっている具体的な「死病」の背後にも、やはりキルケゴールのいう「絶望」があるにしても、自らの仕事とか自らの趣味とか、何らかの「気の紛れるもの」にすがって生きるかを「命のよすが』とするしか方法はないようである。単なる観念的な「絶望」が、自死を生み出す場合も若者にはしばしばあるが、自らの病とか、職がないことその他が中年の世代の「絶望」を生み、上記のような結果をとなっていることは、日本の自殺率の高さからもうかがえよう。
 仕事をしている人の場合は比較的問題がすくないが、仕事を失った人、仕事を終えた人にとって生きる原動力を見つけ出すことは容易ではない。しかし、なにかしらブツブツいいながらでも、残された命を全うする人が大部分なのだが、それにしても震災にあった人たちにはいろいろと苦労が多くて、余計つらいだろうが、やはり一般の人たちと同じように「いかに生きるか」という努力をもとめられていることに変りはあるまい。




   アランの『幸福論』(1)
2012年4月下旬


 去年の11月にNHKの教育テレビをたまたま開いたところ、アランの『幸福論』についてやっていて、たしかどこかの大学の哲学の先生がアランの幸福とはどういうものかといったことを説明していたのだが、この人はアランを専門的に勉強していないらしくて、相当いい加減な説明をしていて、幸福とは人間が求めるもので、求めなければ人間は幸福になれないといった説明をしていた。言葉は「求める」だか「願う」だか「望む」だったかはっきり記憶していないが、用語はともかく「求め」なければ幸福はないというという趣旨の説明だった。別に求めなくてもしばらくの間は人間は幸福であることもできるのだが、幸福である時間を多くしたければ、「求め」なければならないというわけである。「求める」とか「願う」とか「望む」というのはいずれも人間の意志のはたらきだから、ちょっと耳慣れない言い方になるが、幸福になろうとすれば、人間は幸福を「意志」しなければならないわけである。NHKの解説者は「意志」という言葉を使っていなかったと思うが、ある日意志したところで、その意思によって得られる幸福が数日も続けばいいところだろう。そこで幸福であることをなるだけ持続させようとすれば、「幸福になろうとする意志」を「意志」し続けなければならない。一般的に人間が幸福だったり不幸だったり幸福でも不幸でもない状態をくりかえすのをやめて、より多くの幸福を獲得しようとするなら、幸福になろうと意志しつづけねばならない。つまり「意志を意志する」ことが必要になってくる。ここの最後のところが、説明にはなかった。たしか二三十分の番組で、後から調べてみると四回はやったらしいが、一番肝心なところが抜けていたので、後を続けてみる気は起らなかった。それですんでいれば、こんな文章をかいたりもしなかったはずだが、近ごろアランの『幸福論』の翻訳の広告が良く新聞に載っている。ただでさえ不況で元気がないところへ、東北の大震災が起こったりしたものだから、「幸福」を求める人間が増えたのではないかと思うほど何回か広告を目にした。ヒルティやB.ラッセルの同名の本もまだ文庫なりなんなりでのこっているはずなのに、なぜアランなのかといぶかっていたが、どうも上記のNHKの放送がかなり影響しているのではないかと、遅まきながら気がついた。
 筆者は余命が数年とおぼしい業病にかかっている人間で、自分の幸福ですら心もとない点もあるのに、なにも幸福論についてかくこともあるまいと思ったが、上記のような間違いも出てくるのなら、昔取った杵柄をほんの少しでもやってみようかと思い直した。
 実は筆者が大学哲学科に入学したころか、その翌年に白水社から「アラン著作集」(全8巻)が刊行され、すでに述べたことがあるように哲学の本など一冊も読んだことなどなく、一回生のとき教養の哲学を取ってもさっぱり分からず、アランは当時日本ではある程度有名だったので、この著作集を買うことにし、毎日のように読んでいた。アランはなるだけ哲学の専門用語を使わないようにして文章を書く人だが、やはり根っからの哲学者だから、『幸福論』なんかのいわゆるプロポ(語録)と呼ばれる新聞に載せていた短文のたぐいも、どこか哲学に引っ掛かりが出てきて、文学者の書く文章より難解な点がある。それで、卒論を書くときも、古典的なタイプの哲学者は敬遠して、アランの『芸術について』(原題:芸術についての20の講義)というのを選んだのだが、これにも相当苦労させられた。
 『幸福論』もこの著作集の何巻目かににふくまれていて愛読した。実は、筆者の書斎には著作集のうち三巻はあるのだが、残りは父親の家においてきてしまったらしいので、『幸福論』は何巻目だかわからない。ともかくこの本で人間の「生き方」について多くを教えられたということを記憶している。原本はわが家に届いていたが、それだけでは引用文の時などいちいち翻訳しなければならないから面倒なので、本屋まで行って白井健三郎訳(集英社文庫)を買ってきて、その訳文を拝借するつもりだが、何回やるかも、分からない状態だから、心もとない話である。一回で終わってしまうかもしれないと思いながら書きだしたが、前書きが長くなったので、今回は前書きどまりにしておくより仕方がなさそうである。
 アランが一番影響を受けている哲学者は、フランス最大の哲学者、17世紀のデカルトであり、『幸福論』について言えば、『情念論』である。情念という言葉は翻訳語であり、原語はpassionだが、これは一般的には通常のsentiment感情よりも、より強い感情を指し示す言葉であり、アランの『幸福論』は、ごく簡単にいえば、この「情念」とうまく付き合うことが、幸福になるための第一条件だということになる。
 本の中身に入る余裕がなくなったので、今回はここまでにしておく。




   アランの『幸福論』(2)
2012年6月下旬


 この『幸福論』に関しては、先の長くなさそうな人間として、アランの「死」についての見解を見直すつもりでとりあげたのだが、前回は前置きが長くなってしまった。もっと早く最終回を書くつもりが、体調がわるくなり、予定よりずいぶん延びてしまった、治療のため肺に副作用がでていたところへ、家族の風邪がうつったのだが、これがあまりたちの良くないはやり風邪らしく、咳が長引いているうちに呼吸が苦しくなり、ついには酸素吸入器の厄介になるしまつで、もうしばらくは厄介にならざるをえないようである。
 さて『幸福論』の15「死について」は、1953年アラン53歳の時の文章である。1951年83歳でなくなっているから、成熟期の文章だと言えるが、哲学者として本格的な活躍がはじまるのは、この時期以降である。日本の文庫本では三ページ程度の文章は、こんな文章ではじまっている。「政治家の死は、瞑想の機会である」。近頃の日本でなら、著名人が比較的若くて亡くなったら、これに近いことになるだろう。といっても現代の日本とアランの時代のフランスとを比べれば、死亡年齢じたいにしてからが、大変な相違である。アランの時代ならアランは長寿者だが、いまならこの程度の長寿は、長寿のうちには入るまい。しかし、著名人の死に際しては、いまだにだれもが一時的な哲学者になることには変わりはあるまい。
 「だれもが自己というものに、そして死という共通の条件に立ち返る。しかし、この死という思考そのものには対象がない。わたしたちはわたしたち自身を生きたものとしてしか考えられないからである。ここから焦燥が生まれる。この抽象的で、まったく形のない死という脅威を前にしては、わたしたちはどうしていいかわからぬ。優柔不断は最大の害悪だと、デカルトは言った。ところが、わたしたちはこの優柔不断のなかに投げこまれ、しかもなんらなすすべがないのである」。「自己」というものには、誕生と生と死とがふくまれている。これは万人に共通の人間の条件だが、最初の誕生と死とについてはわれわれの思考はおよばない。なぜなら誕生のときには、われわれには思考力がないし、また瞬間的な死についても考えることはできない。いわゆる対象と呼べるものではないからである。たしかに多くの人には死を見るいう経験があるだろう。近親者に亡くなられているからである。その時われわれが見るのは、ある瞬間まで生きて話していた人が、死をさかいとして命を失い、言語という他者との交流手段も失われ、死者は単なる物体に変化してしまう。死者はもはや思い出としてわれわれの記憶に残るだけである。
 われわれは、なんらかの機会があれば死について考えるが、重病にかかったり、不死の病にかかったときには、間違いなくだれもが一様に死について考える。筆者とて病気にかかる以前にも、死についてアランの引用文にあるようなことを考えていたが、病気以後は以前よりはるかに頻繁に頭に浮かぶようにになってしまった。しかし「生きた人間の将来」についてなら、いろんなことが考えられても、われわれにはどうしようもない死という優柔不断のなかに、ひとたび入ってしまうと、優柔不断であることしかできない。「最大の害悪のなかになげこまれ、なすすべがないのである」。
 何も考えられず、知恵をしぼることもできなければ、思考を放棄するにすぎたことはない。何を考えてもいかんともしがたいないわけなら、死については何も考えずに、なりゆきにまかせるよりいたしかたかたがあるまい。
 「人間は死をかんがえるやいなや、死をおそれる。私もたしかにそうだと思う。しかし、なにもなすことなく考えるやいなや、恐ろしくないものがなにか゛あろうか。考えが、たんなるあるかもしれないことのなかに迷いこむやいなや、恐ろしくないものがなにがあろうか。試験のことを考えただけで、腹がいたくなることがある。この腹わたのぴくぴく動くのは、なにか焼きごてで、おびやかされているために起こるのだと、考えないだろうか。いやそうは考えはしない。対象がないために、優柔不断が腹わたに火をつけるのである」。