この一年(2)
2011年1月上旬


 昨年同様、こしかた行く末という意味での、「この一年」である。息子のことから始めると、昨年四月にKAZUO history(これについては既にホームページに報告が出ている) というコンサートをやったが、大きいコンサートはひさしぶりで、300人くらい入るホールがいっぱいになり大成功だった。もちろんこれまでお世話になった方々の協力をあおいでいるから、当然といえば当然だが、やはり成功すればうれしいものである。以後月夜さんの援助にたよりながらいくつか小さいコンサートをやり、年末の12月には「クリスマス・コンサート」で締めくくった。息子はコンサートは何度もやっているからあがったりはしないのだが、この一年相変わらずなやまされたのは、何度も書いている極端な偏食である。
 とにかく外食もできないし、人さまのつくってくださったものは一切たべない。おまけに母親のつくったものでもえり好みをする。「くさい」というのがその理由だが、ほんとに臭いかどうかは判然としない。単なるわがままであることもたびたびあるようである。
 日常生活のことをいうと、以前ほど熱心ではなくなったが、ほぼ毎日ギターとピアノの練習をする。近頃は正月三が日はしなくなったが、明日あたりから始めるのではないかと思う。ほかの時間で目立つことは、最近は週に一回程度朝から晩までケーブルのどこかのテレビを録画しておいて、早送りであっという間に見てしまうことである。日常のことでは、ギターのレッスンとピアノのレッスンとで、行き帰りを入れれば二日のうちの半分くらいは使う。他に歌のレッスンも月に二回あるが、これは家まで来てもらって一時間ずつだから、あまり負担ではなさそうである。そうそう忘れていたが、歌の伴奏のレッスンにも毎週いっているわけだから、結構音楽で時間はつぶれているわけである。他には月一回程度月夜さんが来てくれて、いろんなことをやっている。
 夜は、筆者のベッドに寝てテレビを見ていることもあるが、よくわからないのは、昼間でも夜でも自分のベッドに寝転がって、かなり長い時間別に眠るでもなくぼんやりしていることである。やはりなにかを考えているのだろうが、中身についてはまったくわからない。
今年は、妻が大きなコンサートをやる気はなさそうなので、たぶん小型のものばかりになりそうだが、これから先のことはどうなるかはまったく未定なので、先はまったく読めない。

 妻は、十二月の初めころまではかなり元気ではりきっていたが、そのうちあまり元気がなくなり、終わりごろ押尾さんのコンサートに行ったときに食べた夕食が原因で、一過性のじんましんになってしまった。以来今に至るも、あまりすっきりした状態ではないらしい。みんなから出かけすぎだとかいわれているようである。

 最後は筆者のことだが、これまでの病院の方針転換もあり、新たに行った病院の方針もあったりで、ここしばらくは効果のない東京の病院は当分休むことにした。ちょうど立花隆の『がん 生と死の謎に挑む』(文芸春秋)という刊行されたばかりの本を読み、影響を受けたことも原因のひとつである。ガンの本といえば、たいていは、いかにがんばったかといった類のものが多いのでほとんど読まなかったが、立花隆の刺激で、インターネットの専門的なものも読んでみなければという気になっている。なにしろ、今年は、どうやら曲がり角の年になりそうな感じなので、新しい病院にもがんばってもらいたいが、こればかりは、やってみないと効く効かないは不明なので試してみるよりしかたがない。

 どうも昨年もそうだったが、家族の二人は老人で、おまけに病人までいる始末だから、「一年の計」といっても、なかなか立てられないし、息子も障害者だから、自発的なことはやりにくいので、ぼつぼつ手探りでやっていくしかなさそうである。なお筆者の書いている駄文は、『奥のほそみち』は終わったし、『論語』もあと一回で終わりだから、続きは何にしようかと迷っている。一番困るのは映画で、一本見るにも二時間程度はかかるのに、何本も見ることになってしまって、今回もいまだにいいのが見つからない。今も正月だからということで、黒沢ものを連続してやっているが、こちらとしてはすでに一応全部すませたつもりなので、今度は小津さんにでも行くしかないかと思っているが、何か思いがけない刺激がないと、あまり書く気がおこらないのが、悩ましいところである。
 先行きにかんしては、まことに頼りない「一年の計」である。




   論語読まずの、論語知らず(最終回)
2011年2月上旬


 病気で何回も抜けたこともあるし、おまけに隔月とはいえ、今度の24回目で最終回となる。2006年の2月が一回目だったから、満5年で終わりまでたどりついたわけである。今まで書いていなかったが、高校のたしか二年の時に北大出身の漢文の先生が着任し、この人の授業が面白かったので、『論語』という書物が印象に残った。いつか読みとおそうという思いが、70をすぎてから実現したことになる。
 病気の方は相変わらずで、もうしばらくしたらまた入院だから、それまでに書いてしまうつもりである。最後は「堯曰(ぎょうえつ)第二十」である。
 だが、「上論第十も内容と構成が特殊だった書物が、整理され成立する最後の段階において、二十というきちんとした篇数をそろえるため、雑多に書き加えられたのがこの篇である」というのが、吉川さんの解釈である。三つの部分のうち、特に最初の部分は「どう見てもよく続かぬ箇所があるが」、いつものようにまず最初の部分の冒頭のみ引いておく。

 堯(ぎょう)曰わく、咨(ああ)、爾(なんじ)舜(しゅん)。天の暦数、爾(なんじ)の躬(み)に在り。允(まこと)に其(そ)の中(ちゅう)を執(と)れ。四海(しかい)困窮(こんきゅう)し、天禄(てんろく)永(なが)く終(おわ)らん(古代の聖王つまり完全な道徳者である君主堯(ぎょう)が、同じ 完全な道徳者舜(しゅん)に帝位を譲りわたした時の言葉。堯(ぎょう)はいった。ああなんじ舜(しゅん)よ、これは、愛情をこめた厳粛な呼びかけである。「天の暦数」とは、帝王の交替は、すべて天命によるものであり、交替の序列の表は天に存在する。いまやそうした天の序列が、君の身の上にやってきた。つまり、私があなたに譲位するのは、私の恣意ではなく、天の序列として定まったものである、という 意味になる。「允(まこと)に其(そ)の中(ちゅう)を執(と)れ」以下は、誠実に中庸の道を握って、政治を行え。そうすれば、四方(よも)の海のはてまでも極めつくして、天からあたえられた幸福、「禄(ろく)」が永遠に続くだろう)。

 第一の部分は、堯、舜、禹、武王の王朝の交替に際しての言葉だが、うまく続いていないので、最初の部分のみだけにしておく。
第二部も孔子の思想を図式的に示したものなので、あまり興味を引かない。
第二十で締めくくるために、準備されたような部分である。だからいちいち付き合わずに第三の部分に行く。

 子曰わく、命(めい)を知らざれば、以(も)って君子と為す無き也。礼を知らざれば、以って立つ無き也(なり)。言を知らざれば、以って人を知る無き也(「命」とは使命とも解され、運命とも解される。前者なら人間の活動の原理として、後者なら人間の活動を制約するものとして、ひとしく天から与えられたものである。二者は二にして一、一にして二である。それを知らなければ、君子たる資格はない。そして「礼」をもって、文明の好意の代表とする。人格の確立は、文明の方向と効果とを知らない限り、あり得ない。さらに言語こそは人格の表現である。言語の認識によってこそ、個人も人間の運命も、認識される)

 これが「堯曰(ぎょうえつ)第二十」の最後の言葉である。

 紀元前百年頃、漢の武帝により、儒学は国学とされ、もちろん政治に利用される以上、都合の「いいとこどり」ばかりされただろうが、以後の中国に多大な影響を及ぼす。のみならず朝鮮にも輸入され、日本にも輸入された。日本では、天への敬意とか先祖崇拝などの祭祀的な面は無視され、もっぱら教養として利用され、日本人の思想の重要な面を形成するのに資するところ、まことに大であった。しばらく以前にテレビに出ていた中国人(名前は忘れた)の意見によれば、礼義ただしく、他人にたいして親切な日本人たちの態度を、もし孔子が見れば、一番「仁」が生きているのは、日本人においてだ、言うだろう、とのことである。
 ともかく、明治時代以前の知識人にとって、そして明治以後のしばらくの間、もっとも重要な書物は『論語』だったということは、間違いあるまい。




   あれか、これか
2011年3月中旬


 しばらくは『奥のほそみち』と『論語』でしのいできたが、目下は材料選びで、「あれか、これか」と迷っている。しばらくしたら決めなければならない。病気の方は、いままでの病院はいちおう前回で終了してしまい、放射線治療とかを四日間、別の病院で受けさせられたが、結果は六月末とずいぶん先なので気が抜けてしまった。しかし、この治療は放射線のピン・ポイントなので何の苦痛もないが、毎日出かけて、15分ほどじっとしていなくてはならないので、そのことも影響してか腰が痛くなった。今度の病院の最終日に出かる前にテレビを見ていたら、大地震が始まった。まさかこれほどひどくなるとは思っていなかったが、家にもどると、マグニチュード9とかで、大騒ぎになっている。
 石原慎太郎知事が「天罰」だとか言ったらしくて、非難されていた。時代の風潮からすれば、そんなことでも言いたくなるなと思っていた矢先だが、まさか公職についている人間がそんなことを言うとは思ってもいなかった。これならまるで、明治時代か江戸時代である。テレビをつけると地震関係のことしかやっていないので、腰痛もあり、つい見てしまうが、日本人たちの行動は、結構バランスがとれていて、なかなか頑張っている感じである。
 「あれか、これか」の方は、一つは以前に少しだけとりあげた、デカルトの「情念論」をあまり専門的にならないように扱うつもりである。もう一つは最初「老子」にしようかと思っていたが、少しのぞいてみると神秘的で宗教的な面が強く、筆者の趣味に合わないので、なにか日本のものにでもしようかと思っている。普段よりだいぶ短いが、椅子に座っていると腰痛がひどくなるので、今回はこれくらいにしておく。
 それにしても、地震の影響がいろんな方面に出る一年になるだろうな、と案じている。




   哲学もどき(1) 生と死について(1)
2011年4月下旬


 こないだ立花隆がガンについて書いた本を読んでいたら、ある種のがんを「ガンもどき」と呼んでいる医者がいることを知った。その人の本を読もうと思いながら、体調の不調もありまだ果たせずいる。新しい文章を書くつもりが、なかなかいいタイトルがうかばない。それで上のもどきを拝借して、哲学もどきとすることにした。哲学を正面から論じるというより、斜めから見るような立場でものを言ってみたい、と思ったからである。
 今回はいやでも応でも、テレビでのべつまくなし見させられた東北大震災および福島第一原発について考えてみざるをえない。原発の20キロ圏にいる人で、退去を命ぜられたのに際し、あくまで自宅に踏みとどまるという人が何人かいたようである。もちろんそうなれば、死を覚悟の上のはなしになる。いずれいつかは死ぬのだから、ここで覚悟をきめようというわけである。
 しかしこういう人たちばかりでなく、あれだけの人間が死んだり行方不明になったのだし、身近な人間に亡くなられた人たちも数多くいるのだから、タイトルにある「生と死について」いやでも考えさせられ人たちが無数にいたことだろう。そしてなんとか折り合いをつけて、「生きる」自覚を新たにした人たちが大部分だろう。しかし、はたして「生きる」ことに意味があるのかを疑問に思うひとたちも、大勢出てきたことだろう。
 あれだけの死を前にさせられて、筆者も最初に死について考えたころのことを思い出した。たしか中学の二年生の多分二学期に、なんのきっかけがあったわけでもないのに、突然「人間は死ぬものだ」と気付かされた。もちろんそれ以前から「人間は死ぬものだ」という程度のことは一応知ってはいたが、こんどはそれがまざまざとした実感として感じられた。学校にいるあいだに、そう感じたのである。それは家に戻ってからも続き,その夜はよく眠れなかった。これは当時としては年齢的に早いほうか遅いほうかそんな話はだれともしなかったので、いまだによく分からない。やがて死にさえぎられてしまうなら、はたして自分の人生に意味があるのかという当然の疑問も浮かんできたが。誰に聞いても答えの出てきそうもない疑問だと思ったので、だれかに尋ねることもなかった。そしてばくぜんと、無意味な人生は送りたくないと思っていた。しかし、何をどうしたものやら、さっぱり分からない。そうこうするうちに高校受験も近づいてきたので、しばらくおあずけとなった。
 しかし、どうもそのことがきっかけとなって、高校に進学してもあまり勉強に身が入らない。当時の大阪一の受験校(公立)に入学したので、みんなは真剣に大学受験を目指しているが、こちらは受験勉強なんかしたって意味なしと思っているので、学校の勉強はほっぽりだして、演劇部に所属し、好きな本ばかり読んでいた。ついには二年生の二学期から、学校に行くのもやめてしまったので、とうとう留年してしまうはめになった。担任の教師がなんどもわが家を訪ねてきたが、やはり学校には行く気になれない。しかし、留年覚悟で、家にいて本を読んだり、映画や芝居や音楽会にでかけたりしかしなくなると、外部からの拘束が一切なくなってしまい。反面時間をもてあますようになったりもした。父親からは何度もどこかに勤めるか、学校に行くのかはっきりさせろとせめたてられるので、しかたなく学校に戻ると返事をして、相変わらず同じような生活をつづけていた。つまり登校拒否のハシリのようなものだろう。二学期に入ってしばらくしてからだから、次の学年まではかなりの時間があり、時間は好きに使えるが、どんな風に使ってもいいのだから、しばらくするとすでに書いたように、もてあまし気味になる。しかし学校の勉強はする気が起こらないので、なるだけ趣味を増やしたり、読む本の範囲ひろめたりして時間を埋める。まわりからは白い目で見られるし、軌道からはずれるのも楽ではない。いろいろ勉強にはなったはずだが、当時はそんな意識もあまりなかった。つまりは幼かったということである。
 とうとう新学年になり、二度目の二年生をやることになった。なにしろ周囲にいる人間は知らないのばかりなので、当惑した。先生たちの中にも受験勉強を快く思っていない人もいくらかはいるので、そういう人たちはヒイキにしてくれたが、当方を快く思っていない人のほうが圧倒的に多いので、フダツキあつかいをされたこともある。
 こちらはどう折り合いをつけていたかというと、国立大学に入学できるほど受験勉強はしたくない。そんなことをすれば、他には何もできなくなる。受験勉強以外のこともしたければ、最初から私学をねらうことにすれば、あまり負担にはならない。行き先は慶応のようなブルジョワ学校は嫌いなので、早稲田と決めていた。それと親には金がかかるので迷惑な話だが、一度は東京で暮らしてみたいという願望もあった。学部は小説などが好きだから、文学部で、小林秀雄にかぶれていたから、仏文にしようと最初はおもっていた。
 ところが、当時「中央公論」に哲学者の和辻哲郎が「自叙伝の試み」という文章を連載しているのを読んでいたら、和辻哲郎も文学好きだったが、大学入学の時、好きなものは放っておいてもやるから、ほとんど何も知らない哲学を選んだと書いてあったのを見て、こちらもマネをしてやろうと思った。しかし哲学科を選んだことについては、先の中学の時に「死を見た」経験が、無意識のうちにはたらいていたらしい、ということにその後気づかされることになる。
(続く)




   哲学もどき(2)  生と死について(2)
2011年5月中旬


 入試のほうは無事おわり、早稲田大学第一文学部哲学科西洋哲学専攻に席を置くことになった。当時は専門科目が本式になるのは、三年次からで、一二年次はどうしても語学が中心である。事実ちゃんとやらないと単位がとれないということもあるが、早く仏語で本を読みたいのである。おまけに哲学科にいれば独語も読めなければということもあり、二年次からは独語の勉強もすることになり、語学にひっぱりまわされた。
 哲学のほうはどうかというと、なにも読んでいなかったのだから、分かるはずもなくこちらも悪戦苦闘となった。寝るのが朝の四時だったから、好きな小説のたぐいは夜中から四時まで読む。早い時間帯の授業で出席を取る科目には苦労させられた。哲学は主として「生と死」について語るものだと考えている人は多いだろうが、西洋哲学は20世紀に入るころまでは、その問題は宗教に頼っていたのである。そして事実宗教、キリスト教という一神教の宗教の影響力も強かった。もっともすこしずつに弱まってはくるのだが。
 だからおおっぴらに「生と死」の問題を語るようになるのは、ずっと遅れて第二次世界大戦後である。戦前の旧制高校生は、岩波文庫のカントの『純粋理性批判』(1781)を学生服のポケットに入れておくのが流行だった。戦後に流行したのはフランス哲学で、戦前のベルクソンはいわば例外的で日本は圧倒的にドイツ哲学の影響下にあった。ところが年配の方なら覚えておられようが、戦後世界中でJ.-P.サルトル(1905-1980)らの実存主義的思想が大流行することになる。小説の『嘔吐』(1938)や哲学書『存在と無』(1943)などが争って読まれ、『存在と無』などは、戦前の旧制高校生にとっての『純粋理性批判』のファッション的役割を果たすことになり誰もが争って買い求めた。ただし邦訳は全三巻と大部であり、値段も当時としては結構なものだったから、多分第一巻だけ買っても、読んだってわからないから、後は買わないという人が多かったのではと思う。訳者の故松浪信三郎先生の話だと、訳書を出して以来、毎年100万円くらいの印税収入があったそうである。当時としては相当な額である。この手の本でこんなに売れたのは、これだけだろう。
 この長大な書物の末尾近くに、次のような文章がある。「人生とは、無益な受難である。」「受難」は本来人類の罪を背負ったキリストが、人間に代わって十字架にかけられ罪を償うことを指すが、この文章では、キリスト教的意味はまったくないから、人生とは単に「無益な」無意味な受難だということを示すにとどまる。
 さらに同時に流行した哲学科出身の小説家カミュ(1913-1960)の『シーシュポスの神話』(1942)では、「不条理の哲学」ということが言われる。これも要するに人生とは不条理でばかげた、意味のないものだといったことを指している。小説『異邦人』(1942)の主人公は自分で人を殺しておきながら、その時強い太陽がさしていたので、「太陽のせいだ」という弁明をするが、これとておなじことだろう。要するに筆者が中学生で死をのぞき見て感じた、人生は無意味なのではないかという疑問に呼応していた。確かカミュが引用していたと思うが、古代ギリシャの実在の哲学者が、やはり人生は無意味と知ると、海の沖をどこまでも泳いでいき、力つきたところを死に場所にしたのも、同じ事柄の裏面だろう。ここまでで終わっていれば、良く言われるニヒリズム(虚無主義)ということになり、多くの人間が死に、多くのものが破壊され、人間の価値観までもが破壊された戦後社会にぴったり符合するところがあったので、多くの人たちから迎えいれられたのだろう。
 しかし、彼らの述べたことはそれだけだったのではない。それほど無意味な人生なら生きるに値しないとしても、誰もが自殺を選ぶわけではないし、また死にたいとも思わないだろう。だとすれば、自分の生の意味付けが必要になる。サルトルの場合はまず『実存主義とは何か』(1946)を通じて、さらには決定的な形では『弁証法的理性批判』(1960を通じて、意味づけが行われ、カミュの場合は『反抗的人間』(1952)を通じて行われる。いずれも自分以外の人間の生の幸福を増大させることに、自らの生を用いようとするものである。サルトルの場合はマルクス主義まで行ってしまうが、カミュの場合はマルクス主義には反対であり、「不条理な生」に反抗することにより、不条理性からの脱出を図ろうとするものである。
 西洋哲学史から見れば、ここでは神の視点が消えているだけで、キリスト教なら神の教えに従って、行われてきたことである。
 以上で、死を垣間見た筆者への、解答が与えられたことになるので、一応めでたしとすべきところなのだろうが、なまじ西洋哲学の勉強をしていたので、バイブルも読んだりしていているし、近世くらい(デカルトやカントなど)の哲学者の勉強をしていても、ともかく徹底して神が出てくるので、しばらくたつと、ひょっとしたら神はいるのではないか、あの世はあるのではないかという思いが、どこか心の片隅には残っていた。どだい何かがないということは証明することはできないからである。反対に神の存在証明にはウンザリするほど出会った。
 しかしそのうち宇宙進化論の話を聞かされ、太陽系は五十億年もすれば、太陽の膨張熱で地球くらいまでは溶けてしまうらしいと知った。近頃では二十億年ぐらいかもという話になっているらしい。いずれにしろ天文学的数字なので、あまり実感はないながら、唖然とし続けてはいる。




   哲学もどき(3) 輸入された「哲学」
2011年6月下旬


 ふつうわれわれが「哲学」という言葉を使用するとき、物ごとの最も大事な点のことを考え、政治の哲学だとか経済の哲学だとかいろいろな使い方をしていながら、ほとんどこの哲学という言葉の意味を考えていない。もともと日本語にはなかった言葉だということすら忘れている人もいる。
 実はこの言葉は明治時代に西洋の学問が輸入される時まで、なかった言葉なのである。西洋の学問が輸入された時、日本語で該当する言葉がない時には、漢字という便利な文字があったため、それを利用してほぼ外国語に近い意味の二文字の漢字を組合わせを、あてはめた。二万語くらい造語されたといわれているが(主観、客観、理性、感性他)、といってもその造語がすぐにできあがるわけにもいかず、それまでは東京帝国大学でも、外国人がそれぞれの外国語で講義していたのである。そのあいだにもともと東洋にはなかった西洋の学問を理解し、なんとか日本語で講義できるようにしたのである。あわててやらなければならなかった理由は、まず自然科学の脅威から脱するために、西洋と対等に渡り合えるようにすることが、喫緊の課題だった。下手をすれば、その自然科学の成果のおかげであやうく植民地になりかねなかったからである。
 学問は自然科学だけで独立しているわけではなく、相互にさまざまな関係をもっているわけだから、そうした西洋の学問を学ぶ必要性も生じ、まず上に述べた東京帝国大学が成立した。そうしてあまりわけの分からないものながら、どうやらあらゆる学問の基礎とされる哲学も研究教育されることになった。もともとは英語で言えばphylosophyだが、哲学発祥の地ギリシャの言葉で言えばphilosophia(ピロソピア)であり、これはphilos(ピロス、愛している)とsophia(ソピア、智慧)の合成語で、「愛智」という意味だが、1861年西周が「希哲学」と訳した、智慧と哲と賢とはおなじような意味だから「希賢学」でもいいと言っているが、結局「希」をとり「哲学」という言葉が用いられるようになり、これが定着し現在に至っている。
 そして、西洋哲学は、デカルトやカントあたりまでは、法律他わずかの学問などを除けば、たいていの学問を引き受けていたのだから、ずいぶん守備範囲の広い学問だったが、しだいに各学問が独立していき、20世紀に入る頃にはほとんどの学問が出そろっていたはずである。そうなれば哲学のの基本的な骨組みの部分だけが残されることになる。ただ西洋哲学の特徴は、徹底した厳密性にある。使用する言葉をきちんと定義し、それを厳密な論理で組み立てていくのである。もちろん仮説だが、西洋人たちのうちには、インド北部のアーリア人たちは零の発見などで有名なように、古来数学に強いことで知られているが、その血がはいっていたために、数学のように厳密な学問が尊ばれるようになったのかもしれない。それに、それぞれの哲学者が、それぞれの立場を基礎としているので、哲学といっても、ずいぶん幅の広いものだった。そのことがまた、われわれのような異なる伝統をもつ東洋人には、近寄りがたい原因となっている。
 われわれにとって、明治時代になるまでは、学問といえば孔子孟子であったり、老子荘子であった。西洋とても近世になるまでは、比較的のんびりとしていたのは、東洋と変わりはないが、それ以後自然科学との関係もあり、厳密にならざるをえなかった。もちろん日本でも、鎖国下とはいえ、ひそかに自然科学系の学問などが輸入され勉強されていた。ところが、人間的修養とか政治に関してなどは、依然としてたいていは孔子様で十分で合い変わらずのことが続いていた。
ところが、すでに述べたように明治以降は様相が一変する。一斉に西洋の学問をめざすようになる。しかしが様子が特に変わっていたのは、哲学である。そうした厳密な思考法が欠如しているうえ、広い範囲にわたる学問は、翻訳語では余計わけがわからなくなる。専門にした人は翻訳書が出そろっているわけではないから、原書で読んでいる。だから、わけのわからぬ翻訳語のつきあいをするより、なじみのある孔子様も江戸時代以来のある種の哲学者だから、そこらに頼って生きる方が賢明だろう。だからなんにでも哲学をくっつけることで、肝心な事柄を表現するための言葉としたのだろう。
 といっても、分かりにくいのは西洋人にとっても同じことのようである。ただ彼らにとっては、日常使われている言葉、例えばsubject, object, reason, sesi- bilityなど日常使われている言葉が、ある特定の意味のみを負わされて使われているので、とまどってしまうらしい。ただそのことさえわきまえて勉強すれば、われわれにとってほど困難なことではあるまい。なにしろ理屈っぽいのは彼らのくせだし、学校には、事の正不正は問題とせず、ただ相手を理屈で打ちのめすことが目的の授業さえもあるのだから。
 もっとも、東洋でも孔子様クラスの学者はすくないのだから、西洋の哲学者でももっとも優れた人たちは数えるほどしかいないのもたしかである。筆者は、先ごろたいぶ時間をかけて、始めて「論語」を隅から隅まで読んだが、だいたいにおいて、なんとも分かりやすいなあ、というのが実感だった。それとなにしろ文章がいい。翻訳語ではないからである。読み終えてから、筆者の恩師の故野田又夫先生が、西洋哲学を勉強している者は、東洋のものを読むのは、ある程度年を取ってからの方がいい、と言っておられたのを思いだした。東洋のものはなんと言っても入りこみやすいからである




   万葉集の海(1)
2011年9月上旬


 なにかを書こうと思っていたが、どうもいわゆる夏バテくさい状態になり、なにもできなかった。先月あたりからどうも調子が良くないと思っていて、いつの間にか「いかんともしがたい」状態になり、今もその延長戦上にいる感じである。無理して何かする必要もないのだが、いわゆる貧乏性で何かやっていないとおちつかないので、パソコンの故障もあったり、ついつい何かに手をだしては、「シンドイ、シンドイ」とボヤク始末である。病院に行って腰が痛いというと、ガンが骨に転移したのではと疑われたが、昨日は検査で疑いがはれたのでヤレヤレだが、膵臓が少し悪いからと薬を飲まされることになった。ともかく洋ものについては、書く気がしないので、和風で行こうと決めて、二三あたってみたが、『万葉集』にすることにした。何がどうなるやら見当もつけず、ともかく冒頭の一句を引用してみることにする。(万葉集巻一 雑歌)

泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に天の下(あめのした)治(おさ)めたまひし天皇(てんわう)の代(みよ) 大泊瀬(おほはつせ)稚武(わかたける)天皇

   天皇の御製歌(おほみうた)

籠(こ)もよ み籠(こ)持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡(をか)に 菜摘(つ)ます児(こ) 家(いへ)告(の)らせ 名告(の)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて 我(われ)こそ居(を)れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告(の)らめ 家(いへ)をも名をも

籠(かご)も 良い籠を持ち ふくし(根菜類を掘り取るためのへら)も 良いふくしを持って この岡で 菜を摘(つ)まれる乙女子(おとめご)よ ご身分は 名も明かされよ (そらみつ)この大和(やまと)は ことごとく わたしが君臨している国だ、すみずみまで わたしが治めている国だ わたしの方こそ 告げよう 身分も名前も

 たしかこの歌は、昔筆者らのならった高校の国語の教科書に載っていた。教えてくれた先生は、筆者が大学在学中、鹿児島大学に移られたときいている。どうも『万葉集』の専門家だったらしく、いわゆる万葉仮名も少し教えてくれたので、大学の国文科の友人が万葉仮名のテキストを持っていたので、少し読んでみせると、友人は仰天していた。もちろん一時間程度習っただけだから力量はどうということもないが、おかげでひとつ逸話ができた。
 なお、お手本なしに素人が『万葉集』に手を付けることはできないわけだから、お手本を明かしておくと、小学館判(新版日本古典全集)の『万葉集』小島憲之、木下正俊、東野治之の三者篇、全四巻である。バタ臭いのを取り上げることも一応考えたが、まだ教師稼業が抜け切れていない感じで、ためらいを感じるから、今回はやめにした。おまけに叙情的なものを選びたくて迷ったが、やはり日本の「心のふるさと」『万葉集』がよかろうということになった。そのうちまた心変わりすることもあるかもしれないが。  それにしても天皇がそこらにいる娘に気軽に声をかけるというのは、なんとものどかな話ではないか。

   額田王(ぬかたのおおきみ)の歌

塾田津(にきたつ)に 船乗(ふなの)りせむと、月待てば 潮(しほ)もかなひぬ 今は漕ぎ出(い)でな

塾田津(にきたつ)で 船出しようとして 月の出を待っていると 潮も幸い満ちてきた

 これにはやや長いあとがきがあり、この歌はじつは額田王(ぬかたのおおきみ)の歌ではなく、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめてんのう)の歌であることと言っている書物もあるとのことである。この天皇は昔夫の舒明天皇とここへ来られた時のことを思い出し、歌を読み悲しみの気持を表されたという。これも筆者の教科書にあったものと思われる。
教科書にあったとか、どこかで引用されていたとかと言ったことで記憶されていることの多い万葉の歌を、もう少し綿密に見てみようというわけである。




   万葉集の海(2)
2011年9月下旬


 なんだかスイ臓が少しわるいとかとこないだ言われてから、あまり調子が良くない。スイ臓の治療のために呑んでいる薬のせいで、胃腸の調子までおかしくなっている様子である。月一回しか書けない月が続いているし、万葉集ならまあなんとかなるかと思って始めたが、しんどいのはやはりしんどい。映画の順番だが、相変わらずなかなかいいのに当たらないので、やむなく万葉集である。古いものだが、今日もフランク・キャプラの『オペラ・ハット』をのぞいてみたが、まるで面白くない。万葉集はまず前回の最後の歌よりさかのぼり、最初から二番目の歌を見てみよう。

高市岡本宮(たけちのおかもとのみや)(舒明天皇の皇后)に天の下(あめのした)治めたまひし天皇の代(みよ) 息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇

   天皇、香具山(かぐやま)に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌(おほみうた)

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は かまめ立ち立つ うまし国そ、あきづ島(しま) 大和の国は

大和には 群山があるが 特に頼もしい 天の香具山に 登り立って 国見をすると 広い平野には かまどの煙があちこちから立ち上っている 広い水面には かもめが盛んに飛び立っている ほんとうに良い国だね (あきづ島)この大和の国は

 昔香具山を下から見上げたことはあるが、山の上から見たことはない。天皇が国見をしたころなら、むやみと家が立っていなくてのどかなものだったろう。それでもあちこちのかまどから煙が立ち上っているのを見て、国がしっかり動いているのを知り、安堵したことだろう。今からではとても想像できないほど、良い国、美しい国だとみえたことだろう。

   中大兄(なかのおほえ) 近江宮(おうみのみや)に天(あめ)の下治(おさ)めたまひし天皇 の三山(みつやま)の歌一首

香具山は(かぐやま)は 畝傍(うねび)雄々(おお)しと、耳梨(みみなし)と 相(あひあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし、古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき

   中大兄(なかのおほえ) 近江宮の天皇 の三山の歌一首

香具山は 畝傍山を雄々しく思って 耳梨山と いさかった 神代の昔から こうであるらしい 古(いにしえ)も そうだったからこそ 今の世の人も 妻を 奪い合って争うらしい

   反歌

香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら)

   反歌

香具山と 耳梨山とが いさかいした時 阿菩(あぼ)の大神がわざわざ見に来た 印南野なのだな ここは

 言うまでもないことだが、自然と神々と人の距離の近さ。




   万葉集の海(3)
2011年11月中旬


 11月に入って病院に行くと、入院したらどうかと言われた。とりあえずは貧血でふらふらしているからである。息子のライブのとき遅くまで出かけていたせいらしい。通院で処理できなくもないが、京都までの往復がシンドイし、おまけに左肺には局所にあてられた放射線のせいで、肺炎ができている。細菌のものと違って、熱も出ないし、特別つらいといったこともない。ただ咳が出るのがシンドイと言えばシンドイ。咳のため不眠症になる人もいるらしいが、こちらはそんなにひどくないし、薬もでているので、たいしてつらい思いをしなくてすむ。ただ身体がだるいので、原稿は書く気になれず、今まで伸びた。

   天皇、内大臣藤原朝臣(ふじわらのあそみ)に詔(みことのり)して、春山万花(しゅんざんばんか)の艶(えん)と秋山千葉(しうさんせんえう)の彩(いろ)とを競(きそ)ひ憐れびしめたまふ時に、額田王(ぬかたのおおきみ)、歌を以(もち)て判(ことわる)歌

冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来(き)鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ 入りても取らず 草深(くさぶか)み 取りても見ず 秋山の 木(こ)の葉を見ては 黄葉(もみじ)をば 取りてそしのふ 青きをば、置きてそなげく そこし恨(うら)めし 秋山そ我(あれ)は

   天皇が内大臣藤原朝臣(ぶじわらのあそん)(鎌足)に、春山に咲き乱れるいろいろな花のあでやかさと秋山をいろどるさまざまな木の美しさと、どちらの方に深い趣(おもむき)があるかとお尋ねになった時に、額田王が歌で判定した歌

(冬ごもり)春がやって来ると 鳴いていなかった 鳥も来て鳴きます 咲いていなかった花も咲いていますが 山が茂っているので 入って取りもせず 草が深いので 手に取ってもみませぬ 秋山の 木の葉を見ては 黄色く色づいたのは 手に取って賞(め)でます 青いのは そのままにして嘆きます その点だけが残念です なんといっても秋山が良いとわたしは思います

 春と秋とどちらが好きか、という質問なら今でもするが、春の自然と秋の自然とどちらが好きかというような質問は、今ではあまりしないだろう。おまけに、歌にあるように「山がしげっているので、入ってとりもせず くさが深いので 手に取ってもみませぬ」などという返答をすることはまずないだろう。
森の手入れがおろそかになってはいても、樹木の隙間を通って花を手にすることは、高い所にでもないかぎりありえない。昔繁茂にまかせていた植物の状態は、われわれの想像を絶しているだろう。いわば難儀をしながらでも自然とつきあっていたということは、十分に自然を愛していたということだろう。

   額田王 近江国(おうみのくに)に下る時に作る詩 井戸王(いのへのおほきみ)の即(すなわ)ち和(こた)ふる歌

  味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山 あおによし 奈良の山の山の際(ま)に い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 心なく 雲の 隠(かく)そうべしや 

   額田王が近江国に下った時に作った歌、そして井戸王(いのへのおおきみ)がすぐに唱和した歌

(うまさけ)三輪山を(あおによし)奈良の山の 山の向こうに 隠れるまで 道の曲り角が 幾重(いくえ)にも重なるまで 存分に 見続けて行きたいのに 幾たびも 眺めたい山だのに つれなくも 雲が 隠してよいものか

   反歌

三輪山を 然(しか)も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠そうべしや

三輪山を、そんなにも隠すことか せめて雲だけでも この気持を察してほしい

(「都を近江国に遷(うつ)す時に、三輪山を御覧(みそこなわ)す御歌(みうた)なり」------山上(やまのうえの)憶良(おくら)。注釈前後略)

 それにしても、前記の歌同様、当時の人たちの、われわれにとっては言いようのないほどの自然との交流を感じさせられる。もちろん三輪山だけが恋しいわけではないだろう。なんらかの事情で三輪山の近くに残らなければならなかった人たちへの思いも、三輪山という言葉には含まれていたろう。




   万葉集の海(4)
2011年12月中旬


 今月は珍しく一度も遠方の病院には行かなかった。おまけに近くのも久しぶりに早めに行ってきたので、今年中はもう病院に行かなくていい。やれやれである。

   天皇(てんわう)、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)する時に、額田王(ぬかたのおおきみ)の作る歌

あかねさす 紫草野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖(そで)振る

   天皇(天智)が蒲生野(がもうの)で狩をなさつた時に、額田王が作った歌

(あかねさす)紫野(むらさきの)を行き 標野(しめの)を行っている間も 野守が見ているではありませんか、あなたが袖をお振りになるのを(袖を振るのは、愛の直接的表現らしい。なお、「あなた」は大海人皇子とのことで「野守」はこの地域の番人)

 それにしても相当あからさまな愛情の表現を取り続けているので、あきれかえって、冷やかしている歌だろう。平安時代ならさしづめ恋歌でも送るところだろうが、まだそういう習慣にはなっていないようで、きわめて素朴なことをやっているのである。

   皇太子(こうたいし)の答うる御歌(みうた) 明日の宮(あすかのみや)に天(あめ)の下(した)治め(おさ)めたまひし天皇、おくりなを天武(てんむ)天皇といふ

紫草(むらさき)のにほえる妹(いも)を 憎くあらば 人妻故(ひとづまゆえ)に 我(あれ)恋(こ)ひめやも

   紀に曰く、「天皇の七年丁卯(ていぼう)の夏五月五日、蒲生野(かまふの)に(みかり)す。時に、大皇弟・諸王・内臣または群臣、皆悉(ことごとく)従ふ」といふ。

紫草(むらさき)のように におうあなたを 憎いと思ったら 人妻と知りにがら 恋しく思いましょうか。

   日本書紀に「天智天皇の七年五月五日に、蒲生野で狩りが催された。この時、皇太弟(大海(おおあま)皇子)・諸皇族・内臣(藤原鎌足)および群臣がことごとくお供した」とある。

 たくさんの人間が参加している狩猟の最中にこれ見よがしに、袖を振り続けるというのは、時代が時代とは言え、かなり並みずれていただろうから、冷やかされることにはなったが、本人はおおまじめの様子である。時代が下れば歌でも書いたりしただろうが、後の天武天皇はそんなに「大胆不敵」な人だったのだろうか。答えるには知識がない。

   藤原宮(ふじわらのみや)に天(あめ)の下治(おさ)めたまひし天皇の代(みよ)高天原広野姫(たかのはらひろのひめ)天皇、元年の丁亥(ていがい)、十一年に位(みくらい)を軽太子(かるのひつぎのみこ)に譲り、尊号を太上天皇といふ

   藤原宮の天皇の御代高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)(持統)、十一年に位を軽太子(かるのひつぎのみこ)(文武)に譲り、尊号を太上天皇(天皇譲位後の尊号。大宝令で定着した)という

   天皇の御製歌(おほみうた)

春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣(ころも)干(ほ)したり 天(あめ)の香具山

 別段何かを言うひつようはないと思う。それくらい有名な歌だと思う。ただ季節が今とは反対なのは困るが、ほぼ順番通り来て、前後に適当なのが見つからないので、そのままにしたわけである。本が大きくて重いうえ、やはり漢字さがしに時間をとられる。漢字の多い引用文でなければ、時間は半分もかからないだろう。