この一年
2010年1月下旬


 本来このパートは、主に息子のことを中心に近況報告をするつもりで、書き始めたのだが、一年程度で行き詰まってしまった。つまり、息子の生活があまりにも単調なので、どうしようもなくなり、別のことを書いて、お茶をにごすことになった。しかし、たまには息子のことも書いたほうがいいだろうと思い。この稿を書いている。
 「この一年」というタイトルは、昨年一年のことも指すが、今年の一年についても少しは触れるつもりの「この一年」である。
 以前と一番変化していたのは、昨年の四月ころまでの三年間、息子のためにワンルーム・マンションを借りて、独居の真似事をさせたことである。一日おきくらいにそこへ行っては、ヘルパーさんの作ってくれた食事を食べて帰ってくるか、ヘルパーさんが男性の場合は、食事の後一緒に泊まってもらって翌朝帰ってくる、というプログラムになっていた。たった一人で寝たことがないので、一人では怖くて泊まれなかったからである。相変わらず偏食がひどいので、食事が食べられない場合もよくあったようで、そういう場合はコンビニから何かを買ってくるということになる。ただ弁当のたぐいはだめなので、カップ麺なんかでごまかしていたらしい。
 もちろんヘルパーさんという相手のいることだし、ヘルパーさんにも個性があるわけで、いろいろトンチンカンなことが起こるのは、しょっちゅうだったようである。
 しかし、二年もたてば慣れてきて、一人でも泊まれるようになった。ただし、泊まった翌朝には母親に迎えにきてほしいという注文つきである。泊まれるようになったし、人にもだいぶなれたろうからという理由と、筆者が病気のため仕事をやめ、年金暮らしになったという経済的な事情からも、やめたほうが良かろうということになった。この三年間の半分ちかくは、筆者は病院にいたので、そんなに長くそうした生活があったという実感があまりない。
 転居につれて、ヘルパーさんたちは、わが家に来てくれることになった。妻も体調が良くないし、小生も同様なので、そういう次第になったらしい。最初のうちは土日をのぞく毎日だった。偏食は続いていたが、しばらくたつとひどくなり、とうとう昨年の終わりごろにはまったく食べなくなってしまった。そういうわけで食事のことは、今は妻がやらざるをえない状況になっているが、そのうち変化が生じてくれることを願っている。
 こちらの病気は長年のものだが、ひどくなったのは二年以上も前からだった。
 それがどうやら昨年の六月ころから、ワクチンと病院の薬が同時に効果を発揮し始めて、五ヶ月たったころには一応治癒したらしいということになり、今年の初めにも検査したが、やはり治癒が確認された。
 息子の障害のほうは、それほど劇的な変化はないが、やはり時間の経過につれて改善され、物事の理解が少しずつ進歩を続けているのは、以前から続いていることである。こちらからすれば、相手をするのが楽になるというわけである。
 それと、すでにもう昨年から妻が準備を始めていることだが、ことしの四月四日に少し大がかりなコンサートをやることになる。多くの人たちが協力してくださることになったので、予定よりかなり手のこんだコンサートになりそうである。妻のほうは、体調と相談しながらやっているが、それでもだいぶ顎が出ている感じなので、なんとかうまく調整がついていくようにと祈るばかりである。こちらももう少しすれば協力できるようになるかもしれないが、すべからく体力の問題である。
 小さいコンサートの予定は、いつものようにいくつかあるが、ともかく四月のものをなんとか成功させるのが、当面の目的である。




   論語読まずの、論語知らず(20)
2010年3月下旬


 昨年の十月終わりに治ったはずの病気はぶりかえすし、一月ごろからかなり調子がおかしいとおもっていた目がどうも進行して、手術の必要な白内障だと判明するし、今月は縁起でもない月である。だからなんやかんやで、またもや当分病院通いをしなければならない。もちろん行きたくなんかないが、行かざるをえないのが、辛いところである。
 本稿は本を読まなければならないので、これが困る。複雑な漢字やフリガナがなかなか見えないのである。今回は「季氏(きし)第十六」だが、どうも異本がまぎれこんたようなものらしく、「論語」のなかでもっとも「魅力」のない章というのが、吉川評である。実際読んでみても、引かれる文章が乏しい感じである。通常ならタイトルの「季氏」が出てくる冒頭の文章をえらぶのだが、長すぎるし、面白くないから、今回に限って通例を離れる。

 孔子曰わく、益者三友(えきしゃさんゆう)。損者三友(そんしゃさんゆう)。直(なお)きを友とし、涼(りょう)を友とし、多聞(たぶん)を友とするは、益(えき)なり。便辟(べんぺき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり(「直き」とは、剛直な人物。「涼」とは、誠実な人物。「多聞」とは、博識な人物、それらを友人とするのは利益である。「便辟」、むつかしいこと、いやなことを、避けたがる便宜主義者。「善柔」、人ざわりがよいだけの人物。「便佞」、口さきだけの便宜主義者。これらを友とするは損失である。)。

 この章が異質であると言われるのは、「子曰わく」となっていたところが、「孔子曰わく」となっているところなどにも、見てとれる。

 孔子曰わく、君子に三つの戒(いまし)めあり。少(わか)き時は、血気未(いま)だ定(さだ)まらず。之(こ)れを戒(いまし)むること色(いろ)に在り。其(そ)の壮(さか)んなるに及びてや、血気まさに剛(かた)し。之(こ)れを戒(いまし)むること闘(たたか)いに在り。其(そ)の老(お)ゆるに及びてや、血気既に(すで)に劣(おと)ろう。之(こ)れを戒(いまし)むること得(う)るに在り(「血気」とは、人間の生理の根本は、血液の運行によるエネルギーあると考える言葉。「色」とはもちろん色欲。色欲は血気の発動で、一概に否定すべきではないが、若いときは、生理が不安定なので、血気の過剰による色欲の失敗を戒めとせよ。「壮」とは三十台以後の壮年。血気の状態は絶頂であるから、この時期に警戒すべきなのは「闘」、つまり喧嘩。老人になれば、生理が衰え、能動の部分が少なくなるとともに、受動的な利益をほしがる。警戒すべきは貪欲)。

 誰にも言えそうなことだが、孔子の問題はいつも実行できているかいなかの問題である。

 陳亢(ちんこう)、伯魚(はくぎょ)に問うて曰わく、子(し)も亦(また)異聞(いぶん)有る乎(か)と。対(こた)えて曰わく、未(い)まだし。嘗(かつ)て独(ひと)り立てリ。鯉(り)趨(はし)りて庭を過(す)ぐ。曰わく、詩を学びたる乎(か)と。対(こた)えて曰わく、未(い)まだしと。詩を学ばずば、以って言うこと無しと。鯉退(しりぞ)いて詩を学ぶ。他日(たじつ)また独り立てり。鯉(り)趨(はし)りて庭を過(す)ぐ。曰わく、礼を学びたる乎と。対(こた)えて曰わく、未(い)まだしと。礼を学ばずば、以って立つ無しと。鯉退(しりぞ)いて礼を学ぶ。斯の二つのものを聞けりと。陳亢(ちんこう)退(しりぞ)いて喜んで曰わく。一を問うて三を得たり。詩を聞き、礼を聞き、又た君子の其の子を遠ざくるを聞く也(質問を受けた伯魚(はくぎょ)は、孔子の子である。鯉が実名で伯魚(はくぎょ)は字(あざな)である。質問をした陳亢(ちんこう)のことはよく分かっていない。いずれにせよ、これは孔子没後の問答である。陳亢が伯魚に尋ねた。孔子の実子であるあなたは、何か特別にことをお聞きになりましたか。伯魚の答え。いや、別に。ただ、いつか父が座敷にひとりで立っておりましたとき、私は急ぎ足で中庭を通り過ぎようとしましたら、父は呼び止めて、申しました。詩を勉強したか。いや、まだです、と申しますと、詩を勉強しなければものが言えないぞ、と申しましたので、私は部屋へ帰って詩の勉強をいたしました。また別の日、やはり父が座敷で一人立っている前を通り過ぎますと、礼を勉強したかと言われ、いやまだです、と答えますと、礼の勉強をしないと人格の形成ができないぞ、と言われましたので、引き下がって礼の勉強をいたしました。この二つのことを聞きました。陳亢は家に帰ると喜んでいった。一つの質問で、三つの良い結果を得た。詩とは何であるかを聞き、礼とは何であるかを聞き、さらにまた、君子はわが子を遠ざけることを聞いたと)。

 孟子も、君子と子供との関係について同じようなことを言っていたらしいが、ここが君子の苦しいところで、生活全般にわたって、人間である以上四六時中君子であることはできないのだから、子を「遠ざける」ことになってしまうものらしい。ただし、子供が一人前になっていれば、別の話だろうが。




   『おくのほそ道』を読む(11)
2010年5月下旬


四月四日のkazuo history以後、気が抜けてしまったのか、息子はかなり長いあいだ練習をしなかった。やはり彼なりに神経を使ったり、それなりに練習熱心だった反動だろう。
その間、こちらは四月末には日がえりながら、白内障の手術をすませた。日にちをおいて一個ずつやるのだが、簡単とは言え瞳孔を取り出して、ガラス玉を入れるので、体力的にはシンドイし、一週間ほど通院しなければならなかった。落ち着くまでにはまだ三カ月ほど眼医者通いである。それがすんで一週ほどしてから今度は例の病気の再発のため、十数度目の入院で、今は戻って一週間ほどである。目は見えるようになったが、入院の圧力で体力がなく、なかなか文章は書く気になれなかった。
「ほそ道」のほうは越後だが、親しらず子しらずなどという難所に差し掛かって疲れて早々に寝ようとするが、隣の部屋には、新潟から遊女が伊勢まいりの宿をとっていて、話声がきこえてくる。どうも用心でついてきた男が明日は新潟にもどるらしい。翌日二人の遊女から、後について行かせてほしいと頼まれるが、途中で逗留することが多いので、伊勢参りの人たちについて行けば、「神明(しんめい)の加護、必ずつつがなかるべし」と、断る。

      一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月
   曽良にかたれば、書きとどめ侍(はべ)る。

思いがけない人たちとの同宿だが、こういう偶然はいくつもあるだろう。「萩と月」と言っているところが面白い。
黒部川の四十八が瀬をうろうろ、古歌に名高い担籠(たご)の藤をたずねようとするが、花の季節でもないし、宿がないときいてあきらめ、加賀の国に入る。

      わせの香や分(わけ)入(い)る右は有りソ海

(早稲の香のする田舎道をぬけて倶梨伽羅(くりから)峠についたが、右手に有磯海(ありそうみ)が望見できる)。

卯(う)の花山、倶梨伽羅(くりから)峠を越えて、金沢についたのは七月十五日のことで、大阪から来た商人の何処(かしょ)とも出会えて同宿する。この地に一笑(いっしょう)という俳諧熱心で、世間的にも名の知られた男がいたが、去年の冬に亡くなったとのことである。兄が追善の句会を開いた時の句である。

      塚もうごけ我泣(わがなく)声は秋の風

(力がはいっているから、かなり親しかったようである)。

   ある草庵にいざなはれて
      秋すずし手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)

(風流な草庵に招かれて、残暑も忘れ秋の涼気を覚える。もてなしの瓜やなすをみんなでむいて、いただこう)。

   途中吟(金沢と小松の途中で詠んだ句)
      あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風

(赤々とした夕日はまだ残暑のものだが、風は秋らしくさわやかである)。

   小松(金沢の西南三十キロ)と云所(いふところ)にて
      しほらしき名や小松吹(ふく)萩すすき

(小松とは可憐な名である。名前のとおり可憐な小松が生えていて、その小松を吹く風が、萩やすすきをなびかせて、情趣がある)。

この小松にある太田(ただ)神社に参詣した。実盛(さねもり)の遺品、兜や直垂(ひたたれ)が所蔵されている。義朝(よしとも)から下賜されたといういわくつきの遺品で、木曽の義仲が実盛の死を悲しみ祈願の手紙にそえて、この神社に奉納したという。

      むざむやな甲(かぶと)のしたのきりぎりす

(昔は白髪の実盛が奮戦し、討たれたが、今ではそのことを思い出させるように、きりぎりすが鳴いている)。




   『おくのほそ道』を読む(12)
2010年7月上旬


今度は順番からすれば、映画だが、ケーブルで何本か見たが、つまらないのにしか出会わなかったし、先月の中旬ころ一週間ほど入院したが、今度は使った薬の副作用がきつくて、なにをやるにしても、体がだるくて力が入らない感じだから、しばらく映画はあきらめて、「ほそ道」は後二回くらいで終わりそうなので、まずこちらを片づけることにした。
山中温泉(石川県江沼郡)に行くあいだ、白山(はくさん)を後ろに見ながら歩いて行く。左の山際に観音堂があり、花山(かさん)の法皇(第六十五代花山天皇)が三十三か所の観音堂を巡礼ののち大慈(だいじ)大悲(だいひ)の像を安置し那谷(なた)寺と名づけられたという。そこの岩山には、奇岩がさまざまに重なり、その上に小松が並んで生えているうえに、茅葺の小堂が載っている「殊勝(しゅしょう)の地」である。

      石山の石より白し秋の風

(那谷(なた)寺は白い奇岩の重なる石山だが、吹きすぎる風は石山よりもっと白い感じがする)。

      山中や菊はたおらぬ湯の匂い

(山中温泉の湯に入ると命の延びるような感じで、中国の伝説にあるように、菊を折るにも及ばないようである)。

曽良は腹の病気になり、伊勢の国長嶋に縁者がいるので、一足先にそこへ行くことになった。

      ゆきゆきてたふれ伏すとも萩のはら   曽良

(師と別れて先に旅立つが、病気もあり野たれ死にをすることになろうと、美しい萩の花のさかりのなかだから、行きだおれようが、本望だ)。と書き残して行った。そこで、

      けふよりや書付(かきつけ)消さん笠の露

(悲しくつらいわかれとなったので、笠の裏に書くのが習わしの「同行二人」という文字は笠に置く露で、消えていくのにまかせよう)。

大聖寺(だいしょうじ)という城下町のはずれの全昌寺(ぜんしょうじ)という寺に泊まる。ここはまだ加賀の地だが、前夜曽良もここに泊まったようである。

      終夜(よもすがら)秋風聞くやうらの山   曽良

(ひとり寝になって余計さびしいが、昨夜は裏山を吹く秋風を一晩中聞いていた)。

一夜の隔(へだ)てなのに、千里も離れている気がする。同じように秋風を聞いたが、夜明けには読経の声が聞こえ、食事の合図があり、僧とともに食堂(じきどう)に入る。今日は加賀から越前へむかおうとしていると、若い僧たちが、紙や硯をかかえて、階段の下まで追いかけてきた。

      庭(には)掃(は)きて出(いで)ばや寺に散る柳

(寺を出立しようとすると、ちょうど柳の葉が散り落ちた、せめて落ち葉なりとも掃き清めてから出かけたいものだが)。

加賀と越前との境にある吉崎(よしさき)の入江を舟でわたり、「汐越(しおこし)の松」(数十本あり)を尋ねた。

      終夜(よもすがら)嵐に波をはこばせて
            月をたれたる汐越(しおこし)の松   西行

(一晩中吹く嵐が波をはこんで、松に潮がかかり、濡れた松の枝に月がかかっている)。

この一首で、ここいらの数々の眺めは尽きている。一言も付けくわえるのは「無用」である。
ここは、すっかり西行まかせである。




   『おくのほそ道』を読む(最終回)
2010年8月中旬


どうも相変わらず体調が悪くて、文章がかけない。やっと何とかなりそうなので少し手をつけるが、明日もどうなるかわからない。映画のほうはプログラムは見るが、実際には見る気が起るのがないので、やはり「奥のほそみち」になってしまった。

芭蕉のほうは、最終段階で福井県の松岡まで到着し、古くから因縁のある天龍寺の長老を尋ねている。金沢から北枝(ほくし)という弟子が見送ってくれたが、いよいよお別れなので、次のような句を書く。

      物書きて扇(あふぎ)引きさく名残哉(なごりかな)

(すでに秋で、夏のあいだ使いなれた扇を捨てる時期となった、あなたともお別れだが、離別の形見に「酬和の吟」を扇に書きつけ、二つに裂いてそれぞれに分かつ持ち、名残をおしむことである)。

このあと永平寺を訪ねている。
福井までは三里だとのことなので、古い知り合いの等栽の命は無事かと家を探しだすと、細君の答えでは、元気で友達を訪ねているとのこと。それでそこまで辿りつき、二泊させてもらうが、等栽は名月はつるがの港でと言いだし、一緒に来ることになる。
十四日の夕暮れ、つるがの津に宿泊する。その夜は「月殊(こと)に晴れたり」。「あすの夜もかくあるべきにや」と問うと、「越路のならひ」で、あてにならないとのことであ。酒の後、気比(けひ)明神に夜参りした。この神社は仲哀天皇の御廟である。社頭は神々しく、松の木の間を漏れさす月光で、神前の白砂は一面霜を置いたようだ。
一遍上人の遊行(ゆぎょう)二世の上人が大願を思い立ち、みずから草を刈り、土や石を運んで、水たまりをかわかされ、以来この明神に参拝する人の心配がなくなりました。そしてその例が今に続いているわけです。

      月清し遊行のもてる砂の上

(おりしも十四日の澄んだ月が代々の遊行上人が運ばれた神前の白砂をてらして、神々しい様子である)。

十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず、雨降(ふる)。

      明月や北国日和(ひより)定(さだめ)なき

(今夜は中秋の名月と楽しみにしていたのに、昨夜と打って変わって雨である。たしかに北国の天気は変わりやすいものである)。

翌十六日空も晴れたので西行ゆかりのますおの小貝を拾おうと種(いろ)の浜に舟を走らせた。海上七里はある。いろんな道具を準備してくれる人もいる。しかしたどり着くとみすぼらしい漁師の家があるのみ、寺もみすぼらしい法華宗の寺のみ、そこで茶や酒を飲んだが、夕暮れになりわびしくなるばかり。

      さびしさやすまにかちたる浜の秋

(須磨の秋の寂しさは有名だが、この種の浜の秋の寂しい情趣は須磨以上である)。

      波の間(ま)や子貝にまじる萩の塵

(種の浜のおだやかななぎさにますおの小貝があるが、小貝にまじって海辺の萩の花屑も見られる.)。その日のあらまし等栽に筆をとらせて寺に残す

蕉門の露通(ろつう)も敦賀の港まで迎えに来てくれ、一緒に美濃の国に赴いた。大垣の町に入ると、曽良も伊勢からやってくるし、越人(えつじん=蕉門)も馬で名古屋からとんでくる。みんなで如行(じょこう=蕉門)の家に集まった。そしてまるでよみがえった死人にでも会うように、喜んでくれる。だが長旅の疲れもとれぬうちに九月六日になったので、十日の伊勢の遷宮式を拝もうと、また舟に乗る。

      蛤(はまぐり)のふたみに別行(わかれゆく)秋ぞ

(離れがたい蛤の蓋と身のように、別れがたい別れを名残を惜しみながら終え、私は二見が浦に赴くが、おりから季節も秋の終わりで、別れの寂しさがひとしお身にしみる)

体調の都合で今回の文章には一カ月くらいかかった。手を付けたことが三度ほどあったと思うが、がっくりくるので後が続かない。今回は入院して、たっぷり点滴した力で書いたようなものである。
それにしても「おくのほそみち」たいした文章であり、句集だが、「やっぱりぼんさん流の日本的代表作やな」というのが、率直な筆者の感想である。もちろん悪口ではない。




   論語読まずの、論語知らず(21)
2010年10月上旬


 しばらく前から薬をのまないので、副作用がなく身体はずいぶん楽になった。しかし、以前の足のシビレは少しは楽になったにしても、残っているので、歩けば病気だということを、思い知らされる。おまけにいつひどくなるか分からないので、誠にけんのんである。
 さて、久しぶりの『論語』は、「陽貨第十七」だが、以前にも書いたように、第十一から二十までは、「教条的」、「図式的」なものが多くあまり面白くないが、一応終わりまでたどってみるつもりである。「論語読まずの、論語知らず」だったからである。三十五六から四十くらいまでに、京大の野田先生のもう少し西洋のことが身に着くまで、東洋には入りこまない方がいいという忠告をまもったからだが、実際そんな時間もなかっただろう。だからいい年になってから読んでいる。
 尖閣諸島では、中国はミソをつけた感じだが、おそらく国民性に変化が生じたわけではなく、昔からあんな調子だったのではないかと思う。ただ文化大革命の時、孔子が批判されたことも影響していると思うが、中国の表看板の孔子の影響が衰えたということも、一因ではあるだろう。昔早稲田の先生から聞かされたところでは、孔子は中国の昼であり、中国の夜は老子だとのことである。つまり表向きの政治は孔子に基づいているような顔をしながら、実際の生活は老子によっているという意味である。
 中国にも立派な人がいないわけではなかろうが、親族以外は敵と思っているような人たちだから、内実はなかなか我々には読めないだろうということは、ろくすっぽ中国について知らない筆者のようなものにも見当はつく。
 例により、あまり面白くはないが、この章の冒頭の文章を引いておく。

 陽貨(ようか)、孔子を見んと欲す。孔子見ず。孔子に豚(いのこ)を帰(おく)る。孔子其(そ)の亡(な)きを時として往(ゆ)きて之を拝す。諸(こ)れに塗(みち)に遇(お)う。孔子に謂(い)いて曰わく。来たれ、予(われ)爾(なんじ)と言わん。曰わく、其の宝を懐(いだ)きて其の邦(くに)を迷わす。仁(じん)と謂うべき乎(か)。曰わく、不可(ふか)。事に従(したご)うことを好みて、亟(しば)しば時を失(うしの)う。知と謂うべき乎。曰わく、不可。日月(じつげつ)逝(ゆ)く、歳(とし)、我(わ)れと与(とも)にせず。孔子曰わく、諾(だく)、我(わ)れ将(まさに仕(つか)えんとす(陽貨は、主人季氏をもしのぐ権勢をもち、下剋上の代表のような人物である。この大悪党陽貨がまだ謀反を起さぬ前に、孔子に対しても働きかけようとした際の挿話はである。陽貨は一計を案じ、孔子に、蒸し焼きの子ブタを一匹届けた。重臣からの贈り物があると、必ず重臣の家を訪ね、返礼の謝意を表明しなければならない。陽貨は孔子の留守のときに贈り物をし、いわば返礼を強制したのである。孔子も裏をかき、不在を見計らって、挨拶に行こうとした。ところが皮肉にも、途中でばったり陽貨にあってしまった。陽貨のよびかけ「来たれ、予(われ)爾(なんじ)と言わん」。こちらへいらっしゃい。あなたは宝石のような立派な才能を抱きながら、政治の地位につかず、一国に疑惑をあたえている。そうした態度は仁と言えますか。孔子は答えた。仁とは言えますまい。陽貨はさらにつけくわえる。といって政治に全く無関心なのではなく、仕事をしたがりながら、たびたび時機を失している。それは知といえますか。孔子、いや知とは言えますまい。陽貨。月日はどんどんたって行き、歳の流れはわれわれの希望と同調しない。希望の実現のテンポは遅いのに月日はどんどんたって行きます。孔子。はい、私は役人となりましょう。ただし、提案を聞きいれたようなことを言いながら実行した形跡はどこにもない)。

 この「第十七」には、気に入った文章がないので、続けて悪人から声をかけられたという文章を引用しておく。ちなみに同類の文章がふたつあるが、ふたつとも承諾した話である。その一方を引用しておく。なお前記の文では断わったわけだから、前記の人物は、まったくいかんともしがたい、と孔子は思っていたようである。後の公山の場合は、なんとか手に負えそうと思っていたらしい。

 公山弗擾(こうさんふつじょう)、費(ひ)を以って畔(そむ)く。子(し)、往(ゆ)かんと欲す。子路説(よろこ)ばずして、曰わく、之(ゆ)くこと未(な)ければ已(や)む。何んぞ必ずしも公山氏に之(こ)れ之(ゆ)かん也(や)。子曰わく、夫(そ)れ我れを召(よ)ぶ者は豈(あ)に徒(いたず)らならん哉(や)。如(も)し我れを用うる者有らば、吾れは其れ東周(とうしゅう)を為さん乎(か))(性は公山、名は弗擾という人物も陽貨と同じく季氏の家臣だったが、陽貨と同じく季氏に不満をいだき、陽貨が謀反をおこしたのと同年、孔子50歳のとき、その領地の費という都会を根拠地とし謀反をおこした。そして孔子を招聘した。招聘に応じようとする孔子に不満で、弟子の子路は言う。どこへも行くところがないならば、それまでです。わざわざ公山のところへ行かれることなどありません。先生、あなたはどこへ行っても歓迎されないのなら、じっとしていればいいのです。謀反人公山のところへ行くなどとんでもありません。孔子は言った。そもそも私を招聘するものは、悪人ですら、ただ漠然と、無駄に招聘するだろうか。理由があってのことであり、私への期待をもってのことである。私を使ってくれるものがあれば、東の周のようにやりたい。周の初期の正しい政治と文明を復興させたいのだ)。

 この「第十七」には、筆者よりしばらく下の世代までなら、だれもが知っているような文章がふたつ入っている。ひとつは現代ではヒンシュクを買うような文章なので、もうひとつの方を引用しておく。

 子曰わく、巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すく)なし仁(口がうまくて愛想のいい顔ができるだけの人物には、「仁(徳)」はほとんど見られない)




   論語読まずの、論語知らず(22)
2010年11月中旬


 しばらくほど前ほどひどくないが、やはり寒暖の差がかなりあるので、みんなどことなくあやしくなっているが、わが家の息子も例外ではなく、ちかごろはよく頭が痛くなったりする。病院に行くのが、苦にならないどころか、むしろ好きならしいのが奇妙なところである。ご当人は、寒暖の差に応じて衣類を着脱する要領がよくわからないらしく、いまだに母親の指令に従っている。
 「論語」のほうは終わりちかくなったが、第十一あたりから調子が変わっていることは、何度か述べたつもりだが、十八から二十までは、吉川さんに言わせれば「全書の附録」のようなものだということになるらしい。ともかくここまで来たのだから終わりまで行くことにする。この「微子第十八」には、「子曰わく」で始まる文章はひとつもない。とりあえず冒頭の文。

 微子(びし)は之(こ)れを去り、簣子(きし)は之れが奴(ど)となり、比干(ひかん)は諫(いさ)めて死す。孔子曰く、殷(いん)に三仁(さんじん)有り(「微」は国名であり、「子」は爵位とされているが、微子は、殷の国都で弟の肘が淫乱をほしいままににしているのを諌めたが、聞き入れられず、「之れを去る」つまり地位をすてて亡命した。紂の伯父すじの簣子もやはり諌めたが無駄だったので、狂気を装い、奴隷の格好をしていた。三番目の比干も諫言したが、殺された。孔子は、この三人の忠臣を仁者とした)。

 子路(しろ)、従(した)がいて後(おく)る。丈人(じょうじん)の杖を以(も)って蓧(あじか)を荷(にの)うに遇(お)う。子路問いて曰わく。子(し)夫子(ふうし)を見たる乎(か)。丈人(じょうじん)曰わく。四体(したい)勤(つと)めず、五穀(ごこく)分(わ)かたず。孰(たれ)をか夫子と為す。其(そ)の杖を植(た)てて芸(くさぎ)る。子路拱(きょう)して立つ。子路を止(とど)めて宿(しゅく)せしむ。鶏(にわとり)を殺し黍(しょ)を為(つく)りて之れに食(くら)わしめ、其の二子(にし)を見(まみ)えしむ。明日(みょうにち)子路行きて以って告(つ)ぐ。子曰 わく、隠者(いんじゃ)也(なり)。子路をして反(かえ)って之れを見しむ。至(いた)れば則(すなわち)行(さ)れり。子路曰く、仕(つか)えざるは義無し。長幼の節(せつ)は、廃(はい)す可(べ)からざる也。君臣の義、之れを如何(いかん)ぞ其れ之れを廃せん。其の身を潔(きよ) くせんと欲して、大倫を乱(みだ)る。君子の仕(つこ)うるは、其の義を行(おこ)のう也。道の行われざるは、已(すで)に之を知れり(子路は孔子のお伴をしているうちに、孔子に遅れた。ひとりの老人が、肩にかけた長い杖のさきに、竹かごをぶらさげているのに出会ったので、子路はたずねた。---あなたは先生をみかけましたか。---老人。手足も動かさず、五穀の見分けもつかない男。それがなんで先生か。そういうと、杖を立てかけて、せっせと田の草をむしった。子路は、老人の態度に、尊敬と当惑を感じたのだろう。手を組み合わせたまま立っていた。手を組み合わせるのは敬意の表示である。 老人は子路を引きとめて家に泊め、鶏を殺し、黍(きび)めしを作って食わせ、二人の男の子を引き合わせた。 あくる日子路は老人の家を立ち去り、事の次第を、孔子に告げた。孔子。それは隠遁者であると言い、子路に引き返させ、もう一度訪問させた。家についてみると、外出していて留守だった。 子路は言い残した。 あなたたちは役人として奉仕しない。つまり気ままな隠遁者である。それは人間の道理を失っている。あなたたちは、人間の道理を、部分的には尊重している。すなわち子供のしつけがよく、私に会わせたのは、父子長幼のきまりを、すて得ないとするからだ。だとすると、君臣の道もどうして廃棄できよう。あなたは個人の生活を清潔にしようとして、大きな倫理を乱している。君子が官吏として奉仕するのは、道を行うためである。今世の中が道の行われない世の中であることは、とっくに分かっている。しかし理想を放棄せず、あくまでも理想に従がって生きようとするのが、われわれの態度であるとするのが、言外の意味である)。

 この隠遁者のような人たちは、大昔からどこにもいたらしい。「論語」にも時たま姿を見せる。現代ではどうも隠遁的な人間の数は増えつづけているらしい。特に日本では顕著なように思われる。もちろんわれわれも、孔子が生きたような時代の封建社会には生きられないが、孔子が目指したような理想的な人間や社会の姿は変わるとはいえ、いつまでも掲げ続けなければ生きている意味がなくなるだろう。いずれ地球自体が消滅してしまうとしても、「道」はその時まで生き続けているだろう。
 順番が逆になるが、意味の上での連関で、前掲文より前の文を引く。

 柳下恵(りゅうかけい)、士師(しし)と為りて、三たび黜(しりぞ)けらる。人曰わく、子未(いま)だ(も)以って去るべからざる乎(か)。道を直(なお)くして人に事(つこ)う、いずくに往(ゆ)くとして三たび黜(しりぞ)けられざらん。道を枉(ま)げて人に事(つこ)う、何ぞ必ずしも父母の邦(くに)を去らん(柳下恵(りゅうかけい)は、孔子より百年ほど前の魯の賢人。士師(しし)は司法官のかしらである。柳下恵(りゅうかけい)は、三度その職に任命されたが、三度とも罷免された。ある人が彼に言った。「あなたはまだこの国を見捨てられないのか」。柳下恵(りゅうかけい)は言った。「方法をまっすぐにして人に仕えるかぎり、どこの国に行ったところで同じことで、三度の罷免を免れまい。方法をゆがめて人に仕えれば、罷免にならないであろうが、それもどこの国に行ってもおなじである。だとすれば、父母の国であるこの魯の国を離れる必要がどこにあろうか)。

 隠者めいた態度をとる人間があげる理由は、「こんな国じゃあ」とか、「こんな人間じゃあ」といったことだろう。ところが、柳下恵(りゅうかけい)はそんなことはちっとも言わなかった。努力次第ということが、言いたいのだろう。




   論語読まずの、論語知らず(23)
2010年12月中旬


 とうとう年末で、年を重ねるほどわびしくなってくる時機だが、今年は前回にも書いたが、17日に息子の小さなコンサートがあるので、それを忘年会がわりにして楽しむことにする。さいわい病院同士の関係上しばらく東京行きはやめにしたので、のんびりできる。東京で金がかかりすぎたので、金欠だという事情もある。

 「論語」のほうも、あと二回やれば終わりなので、次回まででおしまいにする。短い東洋風の文章にも多少アキがきているから、ちょうどいい具合である。今回は「子張第十九」である。例により冒頭の文章。

 子張(しちょう)曰わく、士(し)は危(あや)うきを見ては命(めい)を致(いた)す。得(う)るを見ては義(ぎ)を思う。祭(まつ)りには敬(けい)を思う。裳(も)には哀(あい)を思う。其(そ)れ可(か)なるのみ(「危(あや)うきを見ては命(めい)を致(いた)す」とは、国家の危機に際会しては、生命をささげる。また利得に際会すれば、正義を思念して、利得を得てよいかどうかを検討する。先祖や天に対する祭りにあたっては、祭りの一番重要な要素である敬虔を思念し、喪には最も重要な要素である哀を思念する。そうであってこそよろしい)。

 言い遅れたが、この第十九は全部弟子たちの言葉であり、孔子の言葉は含まれていない。五人の弟子たちの言葉が出てくるが、適宜選択するので、五人すべての言葉には触れないだろう。

 子張(しちょう)曰わく、徳を執(と)ること弘(ひろ)からず、道を信ずること篤(あつ)からずば、焉(いずくん)ぞ能(よ)く有りと為し、焉(いずくん)ぞ能(よ)く亡(な)しと為さん(徳を執(と)ること弘(ひろ)からず、道を信ずること篤(あつ)からざる人間は、存在でもなければ、非存在でもない。つまりこの世の中に対し、何の影響力ももたない)。

 つまりいままで何度も言われているように、小人であって、君子ではないということである。

 子夏(しか)曰わく、小道(しょうどう)と雖(いえど)も、必ず観る可(べ)きもの有らん。遠きを致(いた)すには恐(おそ)らくは泥(なず)まん。是(ここ)を以って君子は為(な)さざる也(たとえ微小な学説でも、なんかきっと取り柄はある。しかし、それに沿って、遠くまで行こうとすると、おそらく泥沼に落ちこんだように、抜き差しならないことになる。だから、君子は、そうした意見には従わない)。

 子夏(しか)曰わく、博(ひろ)く学びて篤(あつ)く志(こころざ)し、切(たしか)に問いて近く思う。仁其(そ)の中(うち)に在り(広い対象について学ぶとともに、中心となる意志の方向の密度を高め、切実な問題意識をもって、自己の周辺に近いところから考えていく。そうすれば、仁はおのずとその内に発生する)。

 子夏(しか)曰わく、小人(しょうじん)の過(あやま)ちや、必ず文(かざ)る(つまらない人間は、過ちをおかした場合、きっと装飾的ないいわけをして、ごまかそうとする)。

 曾子(そうじ)曰わく、堂々(どうどう)たるかな張(ちょう)や、与(とも)に並(なら)べて仁を為(な)し難(がた)し(小張(しちょう)に対する曾子の批評、張は体格も堂々としているし、心構えも堂々としていて、あまりにも立派なので、一緒に仁道を行うことはむつかしい)。

 筆者には、上に引用した文章はあたりまえのことを言っているだけだから、注釈の必要なしと思い、引用するだけにとどめた。もちろん立派な言葉であることは間違いない。なお最後の文章は吉川さんが気にいっているようで、別に一文を草しているらしい。ただ、家にある吉川幸次郎さんの本のなかには、その一文は見あたらなかった。