一年の計
2009年1月上旬


 こんなタイトルなら、本来、一年の計画をばくぜんとでも語るべきところだろうが、だいたい順番からすれば映画だったはずで、十一月には月末用に主に成瀬巳喜男の古い映画をかなり見ていた。ところが、十一月末の日曜日に、呼吸困難になり、救急病院にとびこんだところ、気胸だとのことで即入院ということになり、入院先を紹介された。それからほぼ一週間して、十二月の初めに肺に入れられていた管も抜かれて、翌々日退院と言われた日の翌朝早く、少し寒いと思っていた矢先、かなり大きなセキをしたところ、胸に激痛が走った。
 レントゲンを撮ったら、肺の外側の壁が破れて、今度は気腫だとのことである。先の気胸は肺の内側の壁が破れて呼吸がうまく行かなくなっていたのだが、今度は外側だから、空気が肺の外にもれ、胸や腕や首や顔に入りこみ、ふくらんでくる、首はひどく太くなるし、顔も三倍くらいは膨れ上がっただろう。気胸のときは、肺の中の空気の循環をよくするために肺に管を入れポンプで空気を外に出していたのだが、今度は膨張の予防のために、空気をせっせと外に出す。詳しいことは省くが、三週間ほど、それをやっている内に、穴もふさがったようで、はれもひいてきて十二月下旬に入ってやっと退院である。難しい病気でもないのだろうが、若い二人の医者が相手だから、だいぶつらい思いをした。麻酔の使い方も詳しくは知らないらしくて、ずいぶん痛い思いをさせられた。これからはこの病院「痛井病院」と呼ぶことにする。ただ一ヶ月近くも入院しているのに、原因は不明である。肺が荒れているとはいわれていたが、なぜ荒れれたのか、理由はわからない。
 おまけに、ベッドから離れることはポンプから離れることなので、トイレ以外はなるだけ離れるなとのご託宣で、ほとんどベッドに張りついた状態だから、体力は落ちるばかりである。特に痛いところや苦しいところがあるわけでもないのに、張りつけはつらいものである。おまけに退院して数日で東京に行かなければならなかったので、やきもきしたが、三日ほど軽い散歩をして気休めをしただけなのに、東京まで一人で日帰りできたのは、今思えば不思議である。
 そんなこんなで、映画のことなどどこかに消えてしまうし、一応やはり年賀状も作ることにしたが、やりだすとプリンターはこわれてしまい、修繕しようにも、まごまこしているだけで一日つぶれ、翌日買ってきて、やっと用を足す始末である。長時間はできないので、正月の最初の数日は、そのために毎日疲れた。やっとそれから解放されたので、仕方なくこの駄文を書いている。
 それに肝心の命にかかわる方の病気も、少しは良くなっているらしいが、まだはっきりした証拠を見ていないので、たよりないかぎりである。大きな手術のあと、すでに二年以上になるが、入院がおおかったので体力がなかなかつかず、これから少しはましになるかと思ったところで、今回の入院だから、気の抜けることかぎりなしである。
 そういうわけで、筆者に関しては、先行き不明なので「一年の計は元旦になし」だが、しばらく腰痛に悩んでいた妻は、なんとか峠は越したようだし、相変わらず偏食のひどい息子も、今のところは異状はなさそうで、彼に関しては少し計画していることもある。
 しばらく時間が経過すれば、先行きも少しは見えてくるはずで、さもなければ、生きている甲斐がなくなってしまう。それにしても困るのは、前から言っているように、筆者の趣味の映画の先行きがちっとも明るくならないことで、これでは、かなり楽しみがそがれることになる。
 筆者の同僚の先輩は、現在八十八歳、もちろんとっくに引退生活だが、健康の上意気軒昂のようで、命あるかぎり、毎日を楽しんで生きたいと賀状に書いておられたが、見たところきちんと実行されているようなので、感心した。高齢者には、ときどきそういうことを言う人がいるが、比較的身近な人からまじめくさって聞かされたのは、初めてなので、立派だなあ、と言うしかない。




   『おくのほそ道』を読む(7)
2009年2月中旬


 どうやら今月は病院の中休みという感じになってしまって、下旬まで時間があるので、ちょっと歯医者にいったり、胃カメラをやったりしておこうと思う。肝心の病気は手付かず、ほかのことをやるのも落ち着かないが、また忙しくなると、他のことはどうしても二の次になるからである。

 芭蕉のほうは、今度で7回目だが、短い文章のはずなのに、俳句はたいてい残さず拾ってきたから時間がかかっているようである。論語と交代ということもある。
 前回は平和泉の中尊寺までだったが、今回はだいぶ南西にさがって月山や羽黒山などの出羽三山のあたりを目指し、出羽の国にはいろうとしている。しかし、途中で日が暮れてしまい、国境の番人のような人の家に泊めてもらう。おまけに風雨が激しく、三日もとどまらねばならない始末である。

   蚤(のみ)虱(しらみ)馬(むま)の尿(ばり)する枕もと

 ひどい宿から出立しようとしていると、宿のあるじが途中おおきな山もあるし、道もはっきりしないので、道案内をたのめばとのことで、頼もしそうな若者が脇差をさし、樫の杖を手に持ち先を行く。危ない目にあうのではと後からついていくと、山は静かで、鳥の声ひとつしない。難渋しながらやっと最上(もがみ)の庄(山形県尾花沢市)にたどりつく。若者いわくなにごとかあこりそうでしたが、「無事につけてしあわせです」。
 雄花沢では、清風(せいふう)という、「富(とめ)るものなれども、心ざしいやし」からざる人物に会い、なにかと世話になる。連句をやったらしく、俳句が四つならんでいる。

   涼しさを我宿(わがやど)にしてねまる也

 この場合の「ねまる」というのは、わが家にいるような気安さでくつろいで座るといった意味らしい。

   這出(はひいで)よかい(ひ)やが下のひきの声(こゑ)

 ひきがえるの声がするが、蚕(かいこ)の飼屋(かいや)の下にいるらしい、そんな暗いわびしいところにいないで、こっちへ出ておいで。

   まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花

 道中に紅粉の花が一面に咲いている。その色合い、形、名前から女性の化粧を連想し、「まゆはき」を連想してしまう。

   蝅飼(こがひ)する人は古代のすがたかな  曽 良

 蚕の世話をしている人たちは、どうも古代の習俗を身に着けているように見える。

 貧しいといえば貧しいが、豊かといえばこれ程豊かな旅はあるまい。日本の自然がまるごと、そこにあるからである。前回は、なかなか俳句が出てこなかったが、その意味では今回は楽だった。しかし、腰痛で、ワープロがつらいので、ここらで切り上げておく。




   論語読まずの、論語知らず(17)
2009年4月上旬


 昨年の11月から12月にかけて、気胸がらみの病気で一ヶ月程度入院したことはすでに書いたが、2月の胃カメラの定期検診では、あやしいところがあると言われ、検査結果はプラスだったので、真っ青になったが、早期発見だったのでカメラで取れ、取り残しなしとのことでほっとしているが、敵は手ごわく、肺の方は悪化しているので、これをなんとかしなければならない。右向いて左を向いたら、入院させられそうなのを、何とかしのいできたのに、こう新手が出てきてはたまらない。だいぶ長引いているので、うんざりだが、辛抱以外に手は無いようで、そのうちうまく行くと思っているより、いたしかたなしのようである。  論語も17回目になるが、前にものべたように、下論はやはり、もうひとつさえない。今回は「子路(しろ)第十三」である。例により冒頭の一句。

 子路(しろ)政(まつりごと)を問う。子曰わく、之に先(さき)んじ、之を労(ねぎろ) う。益(えき)を請(こ)う。曰わく、倦(う)むこと無かれ(子路の問いに対する孔子の答え。なにごとも自分が人民にさきだってやれ。そうして人民をいたわれ。「益を請う」。もう少しお話くださいませんかと、子路はたのんだ。孔子の答え。いや気をおこさないこと。就任のはじめには、意気ごんでやっていても、すぐだれてくるのが、凡人の常である。情熱の静かな持続こそ、政治の要諦である。)。

 数日前テレビで、あまり有名でない政治家だったが、「聖人君子が政治家になるわけがないから」などと言っていたが、六十以上のこの男の脳の中には「論語」の断片すら記憶に残っていないか、あるいは眼中にないのだろう。こういう連中ばかりが「政治」をしているのだから、日本では「なぜオバマのような政治家が出ないのか」と言ったって、自己の利得しか念頭に無いのだから、はじめから無理なのはわかりきったことである。もっともオバマの真の評価はこれからにしても。

 子路(しろ)曰わく、衛(えい)の君(きみ)、子を待ちて、政(まつりごと)を為(な)さば、子、爰(いずれ)をか先にせん。子曰わく、必ずや名を正さん乎(か)。是(こ)れ有る哉(かな)。子の迂(う)なる也(や)。爰(な)んぞ其(そ)れ正(ただ)さん。子曰わく、野(や)なるかな由(ゆう)や。君子は其の知らざる所に於いて、蓋(がい)闕如(けつじょ)たり。名正しからざれば、則(すなわ)ち言(げん)順(したが)わず。言(げん)順(したが)わざれば、則(すなわち)事(こと)成(な)らず。事成らざれば、則(すなわち)礼楽(れいがく)興(おこ)らず。礼楽興らざれば 、則(すなわち)刑罰中(あた)らず。刑罰中(あたら)らざれば、則(ちなわち)民(たみ)手足(しゅそく)を措(お)くところ無し。故(ゆえ)に君子は之(これ)に名ずくれば、必ず言う可(べ)き也。之(これ)を言えば、必ず行(おこの)う可(べ)き也。君子は其(そ)の言(げん)に於(お)いて苟(いや)しくもする所無きのみ(子路、衛の殿様が、先生に期待して、政治の責任者になってくれとたのまれたとしたら、先生は、何をまっさきに、やられますか。
 孔子、きっと名称の整頓から始めるだろう。
 子路、これこの通り、先生は迂遠だ。何の必要があって、名称の整頓などするのですか。
 孔子、無教養だね、君は。紳士は知らないことに対しては、黙っているべきだ。一一の名称が正確でなければ、言語が妥当でなくなる。言語が妥当でなければ、事務は整備しない。事務が整備しなければ、礼楽による文化の生活は、振興されない。礼楽による文化の生活が振興されなければ、刑罰が妥当を失う。刑罰が妥当を失えば、人民は手足のおきどころもなくなる。だから紳士は、名称を立てた場合は、普遍な言語としての使用を、期待する。そうして言語となったものは、必ず実践を期待する。紳士は、その言語に対して、なげやりであるということはない)。

 政治哲学は精緻なものでなくとも、言葉を正確に定義して使う必要がある。もちろん、これは、およそ、学問と名のつく学問に共通の常識である。名詞の定義が精密でなければ、まっとうな議論もできない。ましてや、孔子の倫理的な政治哲学、即座に実行に移すことが課題である哲学なら当然のことである。なお、以上のくだりは、衛の国の政治上の混乱とのかかわりで言われたらしい。

 葉公(しょうこう)政(まつりごと)を問う。子曰わく、近き者は説(よろこ)び、遠き者は来たる(伊藤仁斎の解釈。近距離にいる人間は、為政者のあらさがしを易(やす)いものであるが、実際の恩恵がしみわたっているために悦服(えっぷく)する。また年久しい誠意の堆積が、遠方のものをまねきよせる。要するに政治は「人心を得るをもって本(もと)となす」)。

 もちろん「徳をもって化す」仁者が、政治をおこなっていれば、という条件つきである。




   『おくのほそ道』を読む(8)
2009年5月下旬


 今月は12日からほぼ一ヶ月入院とのことだったので、何も書けないだろうと思っていたが、少し早く退院となったので、なんとかひとつは書けそうである。しかし早くなったのは病院での手当が順調にいったからではない。むしろ後が続けられないほど、こちらが弱ってしまったので、中断のやむなきにいたったのである。だから少し体調の調整をしてから、来週の半ばごろにはまた病院に行き、次の入院を決めなければならないだろう。その前にほかの病院での術後検査もあるし、つくづくいやになる。文明が進歩したとか、科学が進歩したとよく言うがチャンチャラおかしくなる。それでも一般に医者は自分は「エライ」人間なのだと、思っているらしい。普通なら治せない病気がたくさんあるのなら、少しは遠慮してもよさそうなものだが、たいていの人は、そんなことなど考えもしないものらしい。治りそうにない人たちがあれだけたくさん入院しているのを見ていながらあの調子だから、単純な頭脳の人が多いということになるのかも知れない。しかし、そこまで言えば少しかわいそうな気がしないでもない。

 さて、芭蕉のほうは、山形領の円仁が開基(かいき)とされる立石寺(りゅうしゃくじ)を、人にすすめられて7時間もかけて訪ねている。まだ日暮れぬうちに、ふもとで宿を決めてから、高い岩山の仏閣を拝したらしい。

 佳景(かけい)寂莫(じゃくまく)として、こころスミ行くのミ覚(おぼ)ゆ
   閑(しず)かさや岩(いは)にしみ入る蝉の声

 以前から、芭蕉は俳諧なるもので、たんなる当時流行の軽薄な表現を実行しようとしていたのではなく、短歌に連なる文学に俳諧を結びつけたということくらいは、常識として知っていた。しかし、俳句の及ぶ範囲も結構広いし、対象の捕らえ方が禅的だが、どう表現すればいいだろうと思いながら、いろいろまよっていた。ハイデッガーは、芭蕉の句を一部論じて、「存在を捕える」というような言い方をしていたと思うが、まんざらでもないと思う。上の句でも、「閑(しずかさ)」、「岩」、「蝉の声」などという存在が、「しみ入る」という動詞で結びつけられて、それぞれ存在を発揮しているとでもいえば一応の説明にはなるだろうが、これはハイデッガー的解釈であって、芭蕉にはまったく理解できなかったろう。俳句の方法のことなど、考えていないはずはないが、ただなんとなくそこいらに在るもの、そこいらに漂っているものをどうやってうまく結合するのかといったことは、考えてはいただろう。

 最上川を船で下ろうと、大石田というところで待っていると、土地の人が俳諧のことなどいろいろはなしかけてくる。いい指導者がいないなどといわれるので、ついつい「俳諧連句一巻(ひとまき)」巻いてしまう。

   さみだれをあつめて早し最上川

 「ほそみち」のなかでも先の「蝉の声」ともども、もっとも有名な句のひとつだろう。最上川は酒田で日本海に出ているそうで、なんだかおだやかに流れている感じがしていたが、「水みなぎって、舟あやうし」が実感らしい。梅雨もあるから激しく流れて当然である。普段は案外おだやかなのかもしれない。それにしても、ここでとらえられている自然という存在の雄大さは、中途半端なものではない。

 六月三日には月山(がっさん)、湯殿山(ゆどのやま)と合わせて三山といわれる羽黒山(はぐろやま)に登る。図司佐吉(ずしさきち)という人の案内で、別当代(べっとうだい)会覚阿闍利(えかくあじゃり)にお目にかかり、南谷の別院に泊めてもらい手厚いもてなしにあずかる。

 四日、本坊(ほんぼう)にて誹諧興行
   有難や雪をかほ(を)らす南谷

 今も残雪がのこっているのか、暑い盛りに、雪の上を渡ってきたような風が、南谷を吹きすぎてくれるので、ありがたい。




   『論語』読まずの、『論語』知らず(18)
2009年7月上旬


 病気の方は、どうやら少しずつ悪化を続け、治ることはないのでは、と思っていたが、今回初めて治癒の明確な兆しが見られた。これで次回もさらに前進すれば、期待がもてそうだが、近々やる二回目の治療が済んでしばらくしないと結果は分からない。

 『論語』のほうは全二十章のうち、今回は「憲問(けんもん)第十六」である。

 憲(けん)、恥じを問う。子曰く、邦(くに)道あれば穀(こく)す。邦(くに)道無きに穀(こく)するは、恥じ也(なり)(弟子の原憲(げんけん)が恥じを問うた。「恥ずべき行為とは何であるか」、と。孔子の答え。その国家が道徳国家である場合にこそ、官吏として俸禄をもらうがいい。その国家に道徳のない場合にも俸禄をもらうのは、恥じである)。

 日本はもちろん、おおかたの国家の官吏には、「恥じ」を感じてもらいたいものだが、日本などは官吏のほうが、政治家に先立って「恥じ」の元を作っているように見える。彼らも、近年だいぶ「恥じ」をかいたが、まだまだ足りないはずである。

 子曰く、徳あるものは必(かなら)ず言(げん)有り。言(げん)有るものは必(かなら)ずしも徳有らず。仁者は必ず勇有り。勇者はかならずしも仁有らず。

 だいたい分かるから、吉川論語には、この文章の訓詁(くんこ)はない。

 南宮迠(なんきゅうかつ)、孔子に問いて曰く、羿(げい)は射(しゃ)を善(よ)くし、奡(ごう)は舟を盪(うご)かす。倶(とも)に其(そ)の死を得ざるがごとく然(しか)り。禹(う)と稷(しょく)は躬(み)ずから嫁(か)して天下を有(たも)つと。夫子(ふうし)答えず。南宮迠(なんきゅうかつ)出(い)ず。子曰く、君子成る哉(かな)若(か)くのごとき人。徳を尚(とうと)ぶ哉(かな)若(か)くのごとき人(南宮迠(なんきゅうかつ)という人物は孔子が兄の娘の婿とした人物つまり南容らしいが、その人物の問い、古代伝説の羿(げい)は弓の上手で、奡(ごう)は舟いくさなどが巧みな暴力的な英雄として語り伝えられているが、暴力による不道徳のゆえに畳の上では死ねなかったのではないか。それに反し 禹(う)と稷(しょく)は、自ら農業労働に従事することを通じて、平和な天下のあるじとなったのだろう。
 禹(う)は夏王朝の創業者であり、稷(しょく)は、その子孫が周王朝の王となるほどの人物である。
 このように暴力を否定し、道徳と勤労とを賞賛する南宮迠(なんきゅうかつ)の言葉に対し、孔子は何も答えなかった。南宮には、孔子を禹(う)や稷(しょく)になぞらえようとする気持ちがあったので、直接的に返答しなかったらしと言われている。しかし南宮迠(なんきゅうかつ)が退出すると、孔子は言った。彼は君子である、彼は道徳を尊重するひとである、と)。

 Gエイトのサミットは終わったが、紀元前6世紀の孔子の時代と比べて万事が多少進化した程度になったところで、もう地球が危ないとかといった話をせざるをえなくなっている。自然科学系はある程度進歩しているにしても、人間自身や身体のこと、特に脳に関してはほとんど何も分かっていない。脳がすべてのことをきめてきたし、今後のことも決めていくのに。とにかく、金儲けのためなら一所懸命脳を使うが、それは自分と係累だけのためで、他人様のことは「知ったこっちゃない」でやってきて、このていたらくなのなら、もう少し他人様のことも視野に入れようと思わないのだろうか。このあいだ、テレビで、世界で一番幸せな国はコスタリカだと言っていたが、自給率88%の貧乏な農業国家が世界一と言われてもなんとなく納得がゆく、空気も水もきれいだろうし、おまけに軍隊もないらしい。少なくとも「セカセカ」した感じはまったくないだろう。この国と比べれば日本やアメリカはそうとう落ちるのは容易に見当がつくだろう。これを調べたのは、たしか国連関係だったと思うが、名前を忘れてしまった。WHOだったかもしれない。
 ご覧のとおり、孔子の昔から戦争反対をやっていたわけだが、やはり欲の突っ張ったのが多くて、清廉潔白の士はあまり歓迎されなかったようである。ただし、大昔の中国なら、戦争をしてもそれほど悲惨なことにはならなかったにしても、戦争がいやという感情は、今と変わるはずはない。

 子曰く、我れを知る莫(な)き也夫(かな)。子貢(しこう)曰く、何(な)ん為(す)れぞ、其(そ)れ子を知る莫(な)き也(や)。子曰く、天を怨(うら)まず、人を尤(とが)めず、下学(かがく)して上達(じょうたつ)す。我れを知る者は其(そ)れ天か。

 余白が少ないので、解釈をはぶくが、だいたいの意味はつかめるだろう。




   『おくのほそ道』を読む(9)
2009年9月上旬


八月は二回も入院することになり、予定の原稿は書けなかった。最近はやや体調が良くなってきて、月一回は入院して治療に専念することになったのだが、月末近く高熱が出て、入院せざるをえなくなった。別にインフルエンザにかかったわけではなく、治療が効きすぎたという面があったらしい。それにしても後何回入院すればすむのだろう。

芭蕉のほうは、出羽三山(山形県)のうち月山にまで来ているが、六月に万年雪のなか山頂の山小屋に平気で泊まるなどという芸当は、江戸時代ででもないとできまい。夜が明けて湯殿山に下るのだが、山中でのことは、修行者のきまりで、くわしく語ってはならないことになっていたらしい。会覚(えがく)阿闍梨(あじゃり)から三山巡礼の句を短尺に書いてほしいという依頼がある。

   涼しさやほの三か月(みかづき)の羽黒山(はぐろやま)
 (ほのかに三日月の見える羽黒山にいると、いかにも涼しくて気分がいい)。

   雲の峰幾つ(いくつ)崩(くず)れて月の山
 (昼間からいくつの雲の峰ができたり崩れたりして、この夕月の月山になったのか)。

   語られぬ湯殿(ゆどの)にぬらす袂哉(たもとかな)
 (湯殿山の神秘は語ることがゆるされないが、そのためになおそこで受けた感動には袂(たもと)をぬらすものがある)。

   湯殿山銭(ぜに)ふむ道のなみだかな  曽良
 (湯殿山権現に参詣すると、道には賽銭(さいせん)がいっぱい散らばっている。しかし拾おうとする者は誰もいない。銭を踏んで参拝に向かうなどとは、まことに殊勝な感じでおのずと涙があふれてくる)。

 羽黒を去って鶴岡の城下に行き長山重行という武士(蕉門)の家に招かれ連句一巻を巻いた。

   あつみ山吹浦(ふくうら)かけて夕すずみ
 (最上川河口の袖(そで)の浦に船を浮かべての夕すずみには、南の温海山(あつみやま)から北の吹浦にかけての、まことに雄大な景観がはいっている)。

   暑き日を海に入レたり最上川
 (暑い一日を最上川が海に流しこんでくれた。おかげで気持ちの良い夕すずみができる)。

 ここらあたりは句が多くて気分が良く、さすがに芭蕉という思いが強いが、次節も句が多いので、入れるとはみだしてしまうから、分量の関係で、次回に回さざるをえない。




   『論語』読まずの、『論語』知らず(19)
2009年11月上旬


 十月中に書こうと思っていたが、なんだか身体がはっきりしなくて月を越してしまった。いよいよ論語も下論の半ばまで来た。衛霊公(えいれいこう)第十五である。

 衛の霊公、陳(じん)を孔子に問う。孔子応えて曰わく。俎豆(そとう)の事は即(すなわ)ち嘗(かつ)て之(こ)れを聞けり。軍旅(ぐんりょ)の事は、未(いま)だ之れを学ばざる也。明日遂(つい)に行く(「陳(じん)」の字は「陣」の字と同じで、戦争の陣立ての方法である。暗君である衛公の軍事についての質問への答え。「俎豆(そとう)」の「俎」とは、祭りその他の儀式のときに肉をのせるまないた。「豆」はやはり儀式の際に食物を盛るたかつきである。つまり「俎豆(そとう)の事」とは、礼儀に関する事柄を意味し、それなら先輩から聞き知っております。しかし、「軍旅(ぐんりょ)の事)」一万二千五百人の部隊が「軍」であり、五百人の部隊が「旅」であるが、そうした戦争に関する事柄、それは勉強したことがありません。「軍旅(ぐんりょ)の事)」もまんざら知らなかったわけでもあるまい孔子も、衛公の孔子への間の抜けた質問にあきれて、翌日出発してしまった」。

 子曰く、賜(し)や、女(なんじ)は予(われ)を以(も)って多く学びて之(こ)れを識(しる)者と為(な)す与(か)。対(こた)えて曰わく。然(しか)り。非(ひ)なる与(か)。曰わく、非也(ひなり)。予(われ)は一(いつ)以って之れを貫(つらぬく)く(孔子が、賜(し)すなわち子貢にいった。お前は私を、いろいろ学問をして、それをよくおぼえている物識りだと考えるか。子貢はこたえた。そう考えます。ちがいますか。  孔子、ちがう、そうではない。私は、一つのもので自分を統一している。
 洋の東西を問わず、優れた思想家には統一性というものがある。理性的批判に重点がかかっているにしろ、道徳的認識に比重がかかっているにしろ)。

 子曰わく、与(とも)に言う可(べ)くして、之れと言わざれば、人を失(うしの)う。与(とも)に言う可(べ)からずして、之れと言えば、言(ことば)を失(うしの)う。知者は人を失わず、亦(また)言(ことば)を失わず(その人と会話をもってよい人物であるのに、ぶしょう、気おくれなどから、会話をもたないのは、せっかくその人にあいながら、その人を見すごしたことになる。逆にまた、会話をもつ必要のない人物なのに、会話をもつのは、言葉の損失である。知者はどちらのあやまちをも、おかさない。
 あまりやりそうにない感じがしないでもないが、結構おかしている過失なのかもしれない)。

 子曰わく、人、遠き慮(おもんばか)り無ければ、必ず近き憂(うれ)い有り(分かるはずだから、吉川さんの注はない)。

 子曰わく、之(こ)れを如何(いかん、之(こ)れを如何と曰(い)わざるものは、吾れ之(こ)れを如何(いかん)ともする末(な)きのみ(どうしよう、どうしようと、自分自身、苦慮煩悶しないものを、私はどうしてやりようもない)。

 子曰わく、君子(くんし)は諸(こ)れを己(おのれ)に求め、小人(しょうじん)は諸(こ)れを人に求む(自力本願であれ、他力本願であってはならぬ)。

 子貢(しこう)問うて曰わく、一言(いちげん)にして以って身を終わるまで之れを行うべきもの有り乎(や)。子曰わく、其れ恕(じょ)乎(か)。己(おのれ)の欲せざる所を、人に施すこと勿(な)かれ(恕(じょ)とは思いやりである)。

 終わりのほうの文章は、ほとんど注釈の必要のなさそうなものばかりである。この第十五編には、もう引用したいものがないので、ここらで終了する。




   『おくのほそ道』を読む(10)
2009年12月下旬


全体で〔四九〕まであるが、前回で〔三六〕まで終わっているので、かなり進んだことになる。二年前の八月に始めているから、大手術の二ヶ月前で、そのころは文章と句にうっとりしていたから、いまより楽しかった。近頃はだいぶ慣れたのでむやみと感激しなくなった。

これまで江山水陸(こうざんすいりく)の数多くの美景を見てきたが、今度は秋田の象潟(きさがた)である。この当時の松島と並ぶ景勝の地の潟湖に舟を浮かべて能因が住んでいたとされる能因島により幽居の跡を訪ね、島の反対側の神功(じんぐう)皇后御陵(みささぎ)のあるとされる干満珠寺(かんまんじゅじ)の座敷に座ると、あたりの景色が一望できる。入江の様子は松島に似ているが、違いもあり、松島は人が笑っている表情のように明るいところがあるのに反し、象潟は「うらむがごとし、さびしさにかなしびをくはへて」、人の心を憂えさせるようなところがある。名勝となると、句の数も多い。

   象潟(きさがた)や雨に西施(せいし)がねぶの花
 雨の象潟を眺めていると、ねむの花が雨にうたれているようなおもむきで、あの美人の西施が物思いで目を閉じているようにも、見える。

   汐越(しおこし)や鶴はぎぬれて海涼(すず)し
汐越に降りてみると、鶴の足は浅瀬の潮(しお)に濡れ、あたりの海もいかにも涼しそうだ。

   象潟や料理何(なに)くう神祭(かみまつり)  曽良
ちょうどお祭りの時期だが、サキ貝の産地の人たちは、お祭りのご馳走になにを食べるのだろう。

   蜑(あま)の家(や)や戸板(といた)を敷(し)きて夕すずみ 低耳(ていじ)
                             -美濃(みのの)国 商人(あきんど)

漁師たちの簡素な生活。夕べには戸板を敷いての夕涼みである。

      岩上(がんしょう)にみさごの巣を見る
   波こえぬ契(ちぎり)ありてやみさごの巣  曽良
岩の上にみさごの巣が見えるが、雌雄の仲のむつまじい鳥だから、仲をさかれまいと、波も越えない高い岩の上に巣を作ったのだろうか。

酒田での別れの日々をすごしながら、これから行く北陸道のことに思いをめぐらす。、加賀の金沢までは百三十里とのことなので、胸痛む重いがしたりである。鼠(ねず)の関というところを超えると越後の国に入り、そのあと越中の国の一振(いちぶれ)というところに至る。そのあいだの九日間、暑さや雨に悩まされ、「病(やまい)おこりて事をしるさず」。

   文月(ふみづき)や六日(むいか)も常の夜(よ)にハ似ず
七夕がちかずき、前日の六日にもなると、とても普段の夜のようには思えない。

   荒海(あらうみ)や佐渡(さど)によこたふ天河(あまのがわ)
目の前の暗い日本海の荒海には佐渡島があり、その島の上には広く天の川が横たわっている。