「おくのほそ道」を読む(3)
2008年1月中旬


 相変わらず体調は良好というところまではゆかず、すぐ疲れるのに、正月は人並みに乱脈な生活になったので、しっぺ返しを受け、目下それから復帰中といったところである。
 「ほそ道」の旅はさらに北上を続け、福島県まできている。

   卯(う)の花をかざしに関(せき)の晴着(はれぎ)哉(かな)   曽良

 「心もとなき日数(ひかず)重なるままに、白河の関にかかりて、旅心(たびごごろ)定まりぬ」。この有名な歌枕のところにまで北上すれば、引き返そうなどとは思わなくなったようである。「都をば霞(かすみ)とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関 能因法師」など良く知られた歌はいくつもある。「古人(こじん)冠(かんむり)をただし、衣装を改(あらため)し事など」もあったようだが、そんな準備もないので、卯の花のさかりだから、それを「かざし」として晴着がわりにし、関を超えることにした。
 こうして関を越えて阿武隈川をわたり、仙台松前街道を進み、須賀川(すかがわ)の宿に等窮(とうきゆう)という知人を訪ね四五日泊めてもらうが、さっそく「白河の関いかにこえつるにや」と問われる。

   風流(ふうりゅう)の初(はじ)めやおくの田植うた

 長旅の疲れもあるし、景色に見とれていたり、古歌をいろいろ思いうかべていて、気にいった句が浮かびませんでした。白河の関を越えて陸奥(みちのく)に入り、ここでの最初の風流が田植うたでした。

 栗という文字(もんじ)は西の木と書(かき)て、西方浄土(さいほうじょうど)に便(たより)ありと、行基(ぎょうぎ)菩薩(ぼさつ)の一生杖にも柱にもこの木を用(もちひ)給(たま)ふとかや。

   世の人の見付(みつけ)ぬ花や軒(のき)の栗

 「この宿の傍(かたはら)に、大きなる栗の木陰(こかげ)をたのみて、世をいとふ僧有(あり)」。西行法師の「山深み岩にしただる水とめむかつがつ落つる橡(とち)拾(ひろ)うほど」という閑寂(かんじゃく)な心境が思い起こされ、上のような句ができた。
 さらに北上、福島に泊まり、翌日「しのぶもぢ摺(ずり)の石」(昔、陸奥国信夫(しのぶ))郡産出の布のもじれ模様の染色摺りの染めに用いたとされる石)を尋ねた。石は半ば土中に埋もれていたが、村の子どもの説明では、旅人らが、畑の麦を取っては試し摺りしたりするので、村人たちが怒って谷に突き落としたので、今のようなことになっている、とのこと。

   早苗(さなへ)とる手もとやむかししのぶ摺り

 道理で早乙女(さおとめ)が早苗をとっている手元は、むかししのぶ摺りをやっていた頃のように、優雅に見える。




   論語読まずの、論語知らず(13)
2008年2月中旬


 前回と同じく、やはり入院まえになると、『論語』について書くことになる、と気づいた。今回は、ちょうど全体の真ん中あたりの「郷党(きょうとう)第十」である。ここでは、これまでのような「抽象的な教訓」が語られるわけではなく、孔子の「礼」についての「実践」が記録されている。

 孔子、郷党に於いて、恂恂(じゅんじゅん)如(じょ)たり。言う能(あた)わざる者に似たり。其(そ)の宋廟(そうびょう)・朝廷にあるや、便々(べんべん)として言い、唯(ひと)えに慎しめり(孔子は当時すでに偉人として認められていたが、郷党すなわち町内の寄り合いに出るとちっともたかぶらず、「恂恂如」としていた。そうして弁舌がまわらぬ者のようにさえ見えた。ところが、宋廟、すなわち君主が先祖の祭りをする霊屋(たまや)で祭祀があるとき、また朝廷、すなわち君主が政務を執行する場所で、重臣として孔子が論議にあずかるときには、「便々として言う」、てきぱきと、ものを言ったが、その反面ひとえに謹厳であり、慎重だった)。

 周知のように、「礼」は儒教にとってきわめて重要な徳目だが、おそらくは重要な部分は多くを宗教的儀礼におうているので、行為自体が面白いというものではなかろう。順法する君子の精神の心構えのようなものが、興味を引くのだろう。

 公門に入(い)るに、鞠躬(きくきゅう)如(じょ)たり、容(い)れられざるが如(ごと)くす、立つに門(もん)に中(ちゅう)せず。行くに閾(しきい)を履(ふ)まず。位(くらい)を過(す) ぐれば、色(いろ)勃如(ぼつじょ)たり、足(あし)躩如(かくじょ)たり。其(そ)の言うこと足らざる者に似たり。斉(し)を摂(かか)げて、堂に升(のぼ)るに、鞠躬(きくきゅう)如(じょ)たり。気(き)を屏(おさ)めて、息せざる者に似たり。出でて一等(いっとう)を降(くだ)れば、顔色(がんしょく)を逞(の)べて、怡怡(いい)如(じょ)たり。階(かい)を没(つ)くせば、趨(はし)り進むこと翼如(よくじょ)たり。其(そ)の位(くらい)に復(かえ)れば、踧踖(しょくせき)如(じょ)たり(公門は宮城の門である。門は何重かあったはずだが、一番外の門を入るときから「鞠躬(きくきゅう)如(じょ)たり」で、この場合は後の「踧踖(しょくせき)如(じょ)たり」と同様の意味らしく、「おそれつつしむ」かたちらしい。まるで大きな門に自分のからだがはいりかねるかのように、敬虔な様子であった。
 「立つに門(もん)に中(ちゅう)せず。行くに閾(しきい)を履(ふ)まず」。門の中央の部分は、貴い場所であって、臣下のいるべき場所ではないから、その延長線上に立つことはなかった。またいまの中国の門がそうであるように、門の下には、相当高い板が、敷居としてあるが、それをまたぎ越すだけで、その上に乗らなかった。なお当時の門は南向きであった。
 「位(くらい)を過(す)ぐれば、色(いろ)勃如(ぼつじょ)たり、足(あし)躩如(かくじょ)たり」。「位(くらい)を過(す)ぐ」とは、門の内がわに、君主がそこへ出御したときには、定まってそこに立つ地点があるが、君主がいないときでも、そこを通りすぎるときは、顔色を勃如(ぼつじょ)と緊張させ,足どりを躩如(かくじょ)とととのえて、敬意を表した。
 「其(そ)の言うこと足らざる者に似たり」。これは一般に宮中にあるときのようすのようだが、その言語は、満足にものいえぬ者のように、寡黙であった。
 「斉(し)を摂(かか)げて、堂に升(のぼ)るに、鞠躬(きくきゅう)如(じょ)たり。気(き)を屏(おさ)めて、息せざる者に似たり」。こんどは宮殿にのぼるときの心得である。宮殿にのぼるのには、階段をのぼらねばならぬが、そのとき裾がよごれないように、袴のまえの裾を、手でからげるのが、「斉(し)を摂(かか)」ぐである。そのときの様子はやはり「鞠躬(きくきゅう)如(じょ)」とおそれつつしみ、息づかいをつめて、息をしないもののようだった。
 「出でて一等(いっとう)を降(くだ)れば、顔色(がんしょく)を逞(の)べて、怡怡(いい)如(じょ)たり。階(かい)を没(つ)くせば、趨(はし)り進むこと翼如(よくじょ)たり)」。宮殿での用事が終わって、宮殿から出るときは、階段を降らねばならないが、最初の一段をおりると、いままでの緊張した顔色をほぐし、「怡怡(いい)如(じょ))と、やすらかな、はれやかな、顔色になった。また大名の御殿の階段は、七段あったというが、その七段目をおりつくして、歩き出すときには、翼如(よくじょ)と、正しい美しい姿勢であった。
 「其(そ)の位(くらい)に復(かえ)れば、踧踖(しょくせき)如(じょ)たり)」。こうして退出の途中、はいるときにも敬意を表した、例の君主のいる地点を通り過ぎるときには、ふたたび「踧踖(しょくせき)如(じょ)」と、敬虔な様子をした)。

 どの国にも礼はあろうが、「礼」「礼」と強調するだけあって、ほんの一部を取り上げても、これくらいややこしい。第一書き写すだけでも今のワープロでは大変である。もう一つ服装のことを取り上げるつもりでいたが、量的にむりである。もちろん、ややこしいのが良いといっているわけではない。日本では、これほど厄介ではなかったろうが、やはり何十年か以前には、日本的「礼」も生きていたことを、上の文章から思い出してほしかっただけである。「礼」とは本来は「心」が身体の形を借りて表現されているものだろう。




   「おくのほそ道」を読む(4)
2008年3月下旬


 茲(ここ)に義経(よしつね)の太刀(たち)・弁慶(べんけい)が笈(おひ)をとどめて什物(じゅうもつ)とす。

   笈(おひ)も太刀(たち)も五月(さつき)にかざれ帋幟(かみのぼり)

 五月(さつき)朔日(ついたち)の事にや。

 どんな書物にしろ、分からないことが出てくるととまどうものだが、特に日本の書物の場合、よけい戸惑いが大きい。日本人だから、日本のことは知っていて当然と、どこかで思っているからだろう。分からないうちは「なんで」と思うが、分かってみるとどうということはない。ここも阿武隈川を越えたあたりで、佐藤庄司(元治)という義経の家来佐藤継信・忠信兄弟の父の名前が出てきたり、ゆかりの地名がでてきたりまでは、まごつくが、討ち死にした両兄弟の妻女が夫に殉じたらしい石碑が残る寺(瑠璃光山吉祥院)の話まで来ると、上の句にすぐ結びつく。五月の節句には、勇者たちの遺品を帋幟(かみのぼり)をかざって祝うのがふさわしい。おりしも五月一日ではないか。

 その夜は飯塚(飯坂?)というところで温泉に入り、宿を借りたが、「あやしき貧家」で、ともし火もない、雨はもってくるし、蚤・蚊にせめられ、持病まで出てくる始末である。やっと夜が明け、馬をかりることにするが、「はるかなる行末(ゆくすえ)をかかへて、かかる病(やまひ)覚束(おぼつか)なしといへど、覊旅(きりょ)辺土(へんど)の行脚(あんぎゃ)、捨身(しゃしん)無常(むじょう)の観念、道路にしなん、是(これ)天(てん)の命(めい)也と、気力聊(いささか)とり直し、道(みち)縦横(じゅうおう)に踏んで伊達(だて)の大木戸をこす」。おシャカさまの教えまでひっぱりださないと、空元気も出ないものらしい。
 どうも梅雨だから、雨は続いているようだし、さらに先に進んで、「藤(とう)の中将(ちゅうじょう)実方(さねかた)」、平安時代の歌人近衛中将藤原実方の「塚」のありかを問えば、「是より遥(はるか)右に見ゆる山際(やまぎは)の里をミのわ・笠嶋(かさじま)と云ひ」、そこに笠嶋道祖神(かさじまどうそじん)の社(やしろ)や、実方の塚での西行の歌で知られる、形見(かたみ)のススキが今も残っているとのことだが(朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄(すすき)形見にぞ見る)、道もわるいし、身体もつかれているので、遠くから眺めやるだけで通りすぎたが、

 みのわ・笠じまも五月雨(さみだれ)の折にふれたりと、

   笠嶋はいずこさ月のぬかり道

 みのわも笠嶋も、梅雨の季節にふさわしい名だが、「ぬかり道」では、気にかかるだけで、とてもたずねて行く元気はない。




   論語読まずの、論語知らず(14)
2008年4月下旬


 吉川幸次郎監修の『論語』(朝日新聞社刊)も下巻(下論)のほうに入ることになったが、最初の「先進十一」は長い上、始めのほうに少し気にかかる部分があるので、少し読んだところで始めることにした。それに来月はまた入院なので、長い部分を少しかたづけておこうというつもりもある。

 子(し)曰(い)わく、先進(せんしん)の礼樂(れいがく)に於(お)けるは、野人(やじん)也。後進(こうしん)の礼樂に於けるは、君子なり。如(も)し之(これ)を用(もち)いば、則(すなわち)吾(わ)れは先進に従(したが)わん(先進すなわち先輩たちの、礼樂、すなわち意訳すれば文化的な生活に対する関係、すなわち文化生活に近接し、享受する態度には、「野人」、田舎者しての素朴な態度があった。一方、後進、すなわちより後輩である人たちの、礼樂に対する態度には、「君子」、紳士としての、それがある。どちらも長所をもつであろうが、「もしこれを用いば」、もしどちらかを選択せよとならば、私は先輩たちの態度に、同調する。つまり文化的な生活こそ人間の価値であり、その実践可能が増大することを祝福しつつも、それによってよい意味での野生が失われることをおもんばかり、それはやはり先輩たちの場合のように保存されねばならぬ、という考えを示す)。

 この文章は「礼樂」を論じたものだが、「先進十一」は、孔子の弟子たちを論評したものが、大部分を占めている。

 季康子(きこうし)問う。弟子(ていし)孰(たれ)か学(がく)を好むとなす。孔子対(こた)えて 曰(い)わく、顔回(がんかい)なる者有り。学を好む。不幸短命にして死せり。今や則(すなわち亡(な)し(季康子は、魯のくにの首相、季孫肥である。孔子が魯の執政の地位を去っ てのち、十余年間諸国を放浪していたのを、ふたたび魯に呼び戻したのは、かれ季康子の意思であったという。しからばこの問答も魯の哀公七年、孔子六十四以後のことである。
季康子が訪ねた、お弟子の学問好きといえるのはだれですか。
孔子はこたえた。顔回というものがおりました。かれこそは学問好きでしたが、不幸にも短命で死にました。今やもはや学問好きのものはおりません)

 孔子には広く見れば、三千人もの弟子がいたといわれるが、その中で最も優れた孔子の愛弟子は顔回であるのは、以前よく似た文章で紹介したとおりである。ここでも、顔回の死は続けてあつかわれている。

 顔淵(がんえん)死す。子曰わく、噫(い)。天、予(われ)を喪(ほろぼせり)、天、予(われを喪(ほろぼせり)。(われわれは、孔子の悲しみを、すぐ耳のそばで聞くごとくである顔淵こそは、孔子のもっともしんらいする弟子であった。かれの死は、たんに顔淵その人の、肉体と精神の喪失であるばかりでなく、孔子自身の喪失であり、破滅であると嘆息されている。あるいは、絶対に必要な協力者を失ったなげきである、と取ることもできる)。

 「天は万物の源泉であり、したがってまた万物の主宰者であり、したがってまた、つねに人間の善意の保護者である、というのが、古代中国人の確信であった。確信は、論理をともなって強調される。すなわち天は、みじんの悪意もない完全な存在であるが、この完全な存在「天」が、地上に生みつけたのが人間である。かく人間は天の連続であるゆえに、天の善意を、それぞれ本来に分有するのであり、また天からあたえられた善意を、人間がおしすすめるとき、天は必ず人間をたすけるというのが、確信の基盤にある論理であった」。人格化された「天」は自然の原理であり、人間の原理でもある。しかし、ここでの顔回の死のように、理想的な善をもとめる人間を、「天」は助けることなく、死へと追いやっている。天の信頼への「動揺」がこの文章にも出ていると見てさしつかえないだろう。「人間の生活は、人間の努力とは無関係な運命のもとにあるという、悲観をみちび」いているのである。吉川さんによれば、次の漢の時代にはいると「動揺は、さらに高ま」る。司馬遷の『史記』を見れば、そのことははっきりするそうである。しかし「天」の支配はゆるぐことはなく続いたようである。ヨーロッパでなら人格神は絶対神であり、自然や人間を創造するという形をとり、そうなれば相当に異なってきて、それぞれが異なった文化や文明をうみだすことになる。話が大きくなりすぎたようだが、成り行き上いたしかたがない。




   「奥のほそみち」を読む(5)
2008年6月下旬


 今度の章は「岩沼宿(いわぬまのしゅく)」というタイトルがついているが、旅順からすれば、前回の笠嶋より南なので、何か意図があって逆転させたらしいが、なぜだかよく分からない。ただここには二木(ふたき)になっている古来からの歌枕「武隈(たけくま)の松」がある。切られて橋杭にされたこともあったらしいが、今は接木でもしたのだろう、また二木になっている。

   たけくまの松みせもうせ遅桜(おそざくら)

 と挙白(きょはく)と云うものの餞別(せんべつ)したりければ、

   桜より松は二木を三月越(みつきご)シ

 出発のとき弟市の挙白が上の句を送ったくれたので、お返しの挨拶が下の芭蕉の句である。やはりお返しという感じである。挙白は、遅桜に、先生が奥州に行かれたら武隈の松を見せてあげておくれといっているのだが、芭蕉のほうは、私を待っていてくれたのは、桜より武隈の松のほうで、この有名な二木の松を三月越しにやっと見ることができた、と答えているのだが、接木が珍しいわけでもなさそうだから、こんなことになっているのは、やはり武隈の松という歌枕のせいだろう。

 次の章では「名取川をわたって仙台に入(いる)」のだが、画工(がこう)加右衛門(かゑもん)という人が、この地の古歌の名所をしらべているので、一日案内してもらうことになる。

 猶(なお)松嶋・塩がまの所(ところ)どころ画(え)にかきて送る。且(かつ)紺(こん)の染緒(そめを)つけたる草鞋(わらじ)二足(にそく)はなむけす。されバこそ風流のしれもの、爰(ここ)に至りて其(その)実(じつ)をあらわす。

   あやめ草足に結(むすば)ん草鞋(わらじ)の緒(を)

 仙台の城下町では、宿を借りて四五日逗留したらしいが、その一日が画工(がこう)加右衛門(かゑもん)の厄介になった日である。絵をもらうし、染緒の草鞋までもらって感激している。端午の節句なので、家々の軒にはあやめ草をさして、邪気を払っている。旅先では仕方がないから、あやめ草のかわりに、餞別(せんべつ)にもらった草鞋の緒を足に結んで、旅中の無事を祈ることにする。

 これ以降の七つの章には、一つも俳句がはいっていない。なんとなくものたりないが、そうなっているのだから、いかんともしがたい。「壺碑(つぼのいしぶみ) 市川村多賀城(いちかわむらたがのじょう)ニ有(あり)」では、歌枕を訪ねることが主目的である旅なのに実際におとづれると、所在が不明、不明瞭になっているものが多い。「壺碑」(もともとは坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が彫ったといわれる)はたしかに存在した。「爰(ここ)に至りてうたがひなき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚(あんぎゃ)の一徳(いっとく)、存命(ぞんめい)の悦(よろこび)、羈旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかり也」(これこそ千年の昔の記念であり。眼前に古人のこころを確かめる思いである。生きながらえた冥利(みょうり)で喜びにたえず、旅の疲れもわすれ、涙がこぼれそうになる)。
 少しおおげさすぎないかという気がしないでもないが、芭蕉の古歌への深い思いいれが言わせた言葉だろう。古い時代に雑念を持つことなく、いかに古歌に純粋な気持ちで接していたかが、ここを見れば分かるような気がする。
 次も歌枕の連立である。

 「それより野田の玉川・沖の石を尋ね、末の松山は寺を造りて、末松山(まつしょうざん)と云(いふ)。松のあひあひ皆墓原(はかはら)にて、はねをかハし枝をつらぬる契(ちぎ)りの末も、終(つい)にはかくのごときと、かなしさも増(まさ)りて、塩がまの浦に入逢(いりあひ)のかねを聞(きく)」。

 最初のふたつの由来は省くが、末の松山は古今の東歌「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」で有名だそうである。末松山の松のあいだが墓になっているのを見て、比翼連理(ひよくれんり)の仲(いつまでも変わるまいとの男女の契り)も、「終にはかくのごとき」との詠嘆につながることになる。
 この章まだ続きもあるが、今回はここらで終了とする。




   論語読まずの、論語知らず(15)
2008年8月中旬


 北京のオリンピックの開会式のセレモニーのとき、チェン・カイコーは、孔子と関係のありそうな場面をたしか二度しつらえていた。文化大革命のときには、批孔批林ということがしきりと言われた。しかし、古典中の古典が読まれなくなるわけがないと思っていたら、案の定だった。
 今回は、「先進第十一」の続篇である。

 季路(きろ)鬼神(きしん)に事(つか)えんことを問う。子曰わく、未(い)まだ人に事(つこ)うる能(あた)わず。焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼(き)に事(つか)えん。敢(あ)えて死を問う。曰わく、未(い)まだ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん(季路とはすなわち子路であり、実名でいえば仲由(ちゅうゆう)、例の果敢な弟子である。たたみの上で死ねそうにないと孔子にいわれたようだが、行動のみならず思考も果敢であり、鬼神、死についての問答があったのだろう。「鬼」とは人間が死んでなる神。天の神が「神」であるが、ここでは、有名な「鬼神を敬して之(これ)を遠ざく」と同じく、漠然と神々を意味する。したがって、人間に対する奉仕さえまだ充分にできないのに、どうして鬼神への奉仕が可能であるか。それより、人間への奉仕をもっと大切なことと考えよ、が孔子の答えである。しかし、季路はふたたび「敢えて死を問う」。孔子は答えた。「未だ生をしらず、焉(いずく)んぞ死を知らん」。われわれの感覚に触れる生前のことさえわからない。どうして死後のことがわかるか。要するに、孔子は、不可知の世界の存在を必ずしも否定しない。しかし不可知の世界よりも、まず可知の世界に向かって努力せよ、というのがその態度であった。)

 今や死後の世界はもちろん、生の世界についてもあまり考えなくなっているようである。かつての生の道の基礎、一般の道徳や宗教的道徳が色あせて見え、無視されがちなったからである。しかし、たとえば孔子の言葉は色あせているだろうか。

 子貢(しこう)問う。師(し)と商(しょう)と何(いず)れか賢(まさ)れる。子曰わく、師や過ぎたり。商や及ばず。曰わく、然(しか)らば則(すなわ)ち師愈(まさ)れる与(か)。子曰わく、過ぎたるは猶(な)お及ばざるがごとし(よく使われる「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」の出典である。子貢が孔子にたずねた。師というのは、弟子の子張の実名であり、商というのは弟子子夏(しか)の実名であるが、この二人は、どちらが、よりすぐれていましょか、と。「賢」の字は、日本語のかしこい、つまり知恵の優秀さという狭い意味ではない。ひろく人格ないしは能力の優秀さをいう言葉であって、すぐれた人物、えらい人物という訳が、おおむねの場合に該当する。
 孔子はこたえた。師や過ぎたり、商やおよばず。孔子のこの答えの背後には、孔子の言葉、「中庸の徳たるや、其(そ)れ至れるかな」がある。人間の行動の基準としては、中庸の名で呼ばれる黄金分割的な一点があり、それを超過するもの、それに到達しないもの、みな最上の価値ではないと言う思想である。過と不及、またそれと中庸の問題は、「論語」のこの条が記録されて以後、儒学の学派の間で、しばしば好んで話題にされた。)

 もちろん筆者には、「中庸」の問題について論じるほどの儒学的知識はない。また、儒学は、西洋の哲学のようにきわめて論理的に言葉を定義し、それにもとづいてきわめて論理的に論じるというやり方は執っていないだろう。そうなれば、たぶん直感というか勘で察するしかないという論法になっているはずである。そのことの良し悪しを言っても習慣の問題だから、あれこれ言うつもりもない。ただ、中国の人間にしても、朝鮮半島の人間にしても、われわれ日本人よりどうもとてつもなく感情の量が豊富で、それがいたるところにあふれているように感じる。オリンピックの応援などという、発散をさせていい場所では余計顕著になるようである。「中庸」が重視されるゆえんである。この点については、分量の関係で、これ以上は言わず、ここまでにしておく。

 最後は「論語」の中で最も長い文章から、一部を取る。子路ほか三人の弟子に囲まれて座談をしていた七十歳くらいの孔子が、「私は君たちより少しだけ年かさだが、そのために私に遠慮する必要はない。もしかりに、普段は認められないとこぼしている君たちが世間から認められたとしたら、どういうことをやりたいか」、と問う。弟子の年齢は、子路ともう一人が六十すぎ、他は四十一と二十八である。最初の一人と最後の二人はほぼ政治に関係のある返答をした。

 点(てん)、爾(なんじ)は如何(いかん)。瑟(しつ)を鼓(ひ)くこと希(まれ)なり、鏗爾(こうじ)と瑟(しつ)を舎(お)いて作(た)つ。対(こた)えて曰わく、三子者(さんししゃ)の撰(せん)に異なり。子曰わく、何(なん)ぞ傷(いた)まん乎(や)。亦(また)各(おの)おの其の志(こころざし)を言う也。曰わく、莫春(ぼしゅん)には春服(しゅんぷく)既(すで)に成り、冠者(かんじゃ)五六人、童子(どうじ)六七人、沂(き)に浴(よく)し、舞雩(ぶう)に風(ふう)し、詠(えい)じて帰らん。夫子(ふうし)喟然(きぜん)として嘆(たん)じて曰わく。吾(わ)れは点(てん)に与(くみ)せん。

 琴を爪弾きながら弟子たちの言葉を聞いていた点(曾晳(そうせき=六十すぎ))は、ことりと琴を置き立ち上がって答えた。三人さんとは異なりますが、晩春には春の着物ができていて、それを着た成人五六人、未成年の童子六七人で、郊外を散策し、魯の首都の南の川、沂(き)で水浴びし、雨ごいの祭りをする土壇、舞雩(ぶう)で風(すず)んで、歌をうたいながら、帰ってきたい、と。孔子曰わく、「吾れは点に与(くみ)せん」。




   『おくのほそ道』を読む(6)
2008年9月中旬


 前回の終わりに述べているように、しばらくは俳句ぬきの紀行文になっていて、もうひとつしまりのない感じである。七つの文章のうち曽良の俳句がひとつあるきりで、芭蕉のはゼロだとなると、紹介もあまり乗り気がしない。おまけに病気の治療の方の展開も思いがけないことになり、どうしたものやらという思案もあるので、よけい調子が出ないが、気分転換もかねて、なんとか乗りきろうと思う。
 松嶋へは、前回最後の壺碑(つぼのいしぶみ)、末の松山などから、塩竃(しおがま)をへて、やっと到着である。

   抑(そもそも)事(こと)ふりにたれど、松嶋は扶桑(ふそう)第一の好風(こうふう)にして、およそ洞庭(とうてい)・西湖(せいこ)を恥(はぢ)ず。東南より海を入れて、江(え)の中(うち)三里、浙江(せっこう)の潮(うしほ)をたゝふ。嶋じまの数を盡(つ)くして、欹(そばだつ)ものは天を指(ゆびさし)、ふすものは波に匍匐(はらばふ)。あるハ二重(ふたへ)にかさなり、三重(みへ)に畳みて、左りにわかれ、右につらなる。負(おへ)ルあり、抱(いだけ)ルあり、児孫(じそん)愛すがごとし。松のみどりこまやかに、枝葉(しよう)汐風(しおかぜ)に吹(ふき)たはめて、屈曲をのずからためたるがごとし。其景色(そのけしき)窈然(えうぜん)として、美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ。千早振(ちはやふる)神の昔、大山ずみのなせるわざにや。造化(ぞうくわ)の天工(てんこう)、いづれの人か筆をふるひ、詞(ことば)を盡(つ)くさむ。(古くから言いふるされていることだが、松島は、この国第一の光景であり、中国の洞庭(とうてい)湖、 西湖(せいこ)に劣るものではない。東南から海が陸に入りこむ形で湾をつくっていて、湾の中は三里四方、中には浙江のように漫々と潮が満ちている。無数の島が点在し、高いものは天を指し、低いものは波の上に腹ばいである。島々はいろんな景観を形作り、子や孫が仲良くしているといった風である。松の緑も濃く、枝ぶりもまるで人口のもののように入り組んでいる。ともかく造化の神のしわざだから、絵に描くことも、言葉の表現もとてもおよぶものではない)。

 中国のことが出てくるが、もちろん芭蕉が行ったわけではなく、書物で知ったことだけで比較しているのである。まだ続きもあるが、芭蕉は、この景色をまえにして、俳句はお手上げで、先に言った曽良の次の句があるだけである。

   松島や靏(つる)に身をかれほととぎす  曽良

 松嶋に来て見ると、上にあるようになんとも壮大な景色である。昔の人は千鳥が鶴の毛ごろもを借りる歌をよんでいるが、あいにく今はほととぎすの季節だから、「鶴に身をか」り、松島の上空を飛翔せよ、ということになったらしい。

 その後禅寺の瑞巌寺(ずいがんじ)をおとずれ、翌日は石巻(いしのまき)という湊(みなと)に出、目当ての平泉までは「二十余里」なので途中二泊。平泉はいうまでもなく、奥州藤原氏の本拠地で、清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)と三代にわたって栄えたが、源義経との因縁から、ついには頼朝に滅ぼされるのはあまりにも有名な話である。もちろん「判官(ほうがん)びいき」、義経大好きの芭蕉らは、主に義経のためにかつての栄華の跡を尋ねるのだが、もちろん栄華は大昔のことだから、「栄耀一睡(えいよういっすい)」で、邯鄲の一睡の夢のように、はかなくなっている。そして、「国破れて山河あり、城(じょう)春にして草青ミたりと、笠打敷く(うちし)きて、時のうつるまでなみだを落とし侍(はべ)りぬ」、ということになる。その時の句。

   夏艸(なつくさ)や兵共(つわものども)が夢の跡(あと)

 これには説明の要はあるまい。日本文学研究者のドナルド・キーンさんは、これが『おくのほそ道』の最高傑作といっておられたのを記憶しているが、その時欧米人なら、そうなるのかなと思った。すべては自然から出て、自然に帰るというのは、キリスト教にはない思想だからである。

   卯花(うのはな)に兼房(,かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな  曽良

 卯の花の季節で、あたりには白い花がさきみだれているが、義経のために最後の奮戦をした白髪の兼房がしきりと思われる。

 中尊寺の、経堂(きょうどう)、と光(ひかり)堂とが開帳していた。経堂には藤原氏の三代の将軍の像があり、光堂には三代の棺をおさめ、弥陀、観音、勢至の像が安置してある。そしてこれらが、朽ち果ててしまはないように光堂には鞘堂(さやどう)がつくられ守られている。

   五月雨(さみだれ)の降残(ふりのこ)してや光(ひかり)堂




   論語読まずの、論語知らず(16)
2008年11月中旬


 先月は息子がかなりひどい状態で、食事はあまり取らず、練習も一切しないで、ゴロゴロしているという不良状態が一週間以上続いた。妻も具合が悪かったし、筆者も月末から疲れやすくなって、家族全体の意気があまりあがらない。気候不順のせいだろう。息子はたいぶ回復したが、親のほうは年のせいもあってなかなかすっきりしない。
 論語のほうも、今回の「顔淵第十二」は、吉川幸次郎さんも書いておられるように、「抽象的な問題について、問いを発し、それに孔子が答えたかたち」になっているのに応じて、「答えもまた、必ずしも即物的では」なく、あまり面白くない。どうも東洋人は、即物的なものから出発し、抽象的・一般的なものにいたるというかたちを取るやり方の方がたけているようである。

 顔淵(がんえん)仁を問う。子曰わく、己(おのれ)に克(か)ちて礼に復(かえ)るを仁と為(な)す。一日(いちじつ)己(おのれ)に克(か)ちて礼に復(かえ)れば、天下仁に帰(き)す。仁を為(な)すは己(おのれ)に由(よ)る。而(しこ)うして人に由(よ)らんや。顔淵曰わく、請(こ)う其(そ)の目(もく)を問う。子曰わく、礼に非(あら)ざれば視(み)ること勿(なか)れ、礼に非(あら)ざれば聴くこと勿(なか)れ。礼に非(あら)ざれば言うこと勿(なか)れ。礼に非(あら)ざれば動くこと勿(なか)れ。顔淵曰わく、回(かい)不敏(ふびん)なりと雖(いえど)も、請(こ)う斯(こ)の語(ご)を事とせん(いうまでもなく、「仁」は孔子の学園において、人間の最も重要な道徳として意識されたものであるが、問い方自体抽象的である。「子曰わく、己に克ちて礼に復るを仁となす」。自分自身の私欲を克服して、人間生活の法則である礼に復帰すること、それが仁である。「礼に復る」の「礼」は、欲望を圧迫し、縮小するための法則ではなくして、欲望を黄金率的なかたちへ拡大する法則である。生活の引き下げではなく、生活を引き上げることである。
 「一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す」。そのことをただ一日だけでも、実践するならば、世界中がその人に、なびきよるであろう。いわゆる「克己復礼(こっきふくれい)」だが、理想的にすぎる言葉のようである。
 愛の実践は、自己自身から出発するものであり、他人の強制によるのではない。
 顔淵はさらに問う。そのためには、どういう項目が必要であるか、お聞かせください、と。
 孔子は、礼の法則にはずれた視覚、聴覚の使用、言語、行動をしないようにと、答えている。
 回すなわち顔淵の返答。私は至らぬ者でありますけれども、ただ今のお言葉を、自分の仕事といたしましょう。)

 ここはまだしもだが、「顔淵十二」は全般に、「教条的」で、すっきりした感じではないが、もう一つ引用しておくことにする。

 子貢(しこう)、政(まつりごと)を問う。子曰わく、食(しょく)を足(た)らし、兵(へい)を足(た)らし、民(たみ)、之(こ)れを信ず。子貢(しこう)曰わく、必ず已(や)むことを得(え)ずして去(さ)らば、斯(こ)の三者(さんしゃ)に於(お)いて、何をか先にせん。曰わく、兵を去らん。子貢(しこう)曰わく、必ず已(や)むことを得(え)ずして去(さ)らば、斯(こ)の二者(にしゃ)に於(お)いて、何をか先にせん。曰わく、食を去らん 。古(いにし)えより皆(み)な死有(あ)り。民(たみ)、信(しん)無(な)くんば、立たず(今度は子貢(しこう)の政治についての質問である。孔子の答え。食糧の充足。軍備の充足。人民が信頼の心をもつこと。
 子貢(しこう)はさらに尋ねた。以上の三つのものが、政治の要諦であるというお説はわかりました。もし、どうしてもやむを得ずして、どれかを捨てねばならぬ場合、その三つの中で、どれが一番さきに捨て去るべきものとなりますか。孔子の答え、その場合は軍備をすてよ。
 子貢(しこう)はさらに問いつめた。のこった二つ食と信のうち「必ず已むことを得ずして去らば、斯(こ)の二者(にしゃ)に於(お)いて、何をか先にせん」。孔子の答え。食糧の充足を捨てよ。やむを得ない場合は、食糧の充足を、意識の後方におくのもやむをえない。  しからば残るものは、「信」のみである、ということが、答えの裏に暗示されている。どんな場合でも信頼感ないしは信義、それだけは捨て去ることができない、とするのであり、その理由に説いていう、「古より皆な死有り」、人間は死によって将来をくくられていることは、人間の最も大きな条件としてむかしから確定したことである。この大きな条件が、一番の前提としてある以上、他の条件は、後退し、犠牲になることであろう。ただ、どうしても後退させることのできない条件、それは「信]である。なんとなれば人民は、信義がなければ存立しない。有限の人生において、最後の人間の条件となるもの、それは信義ないしは信頼である。)

 みごとな言葉である。しかし、ここにのべられているような民は、世界の歴史の中に数えるほどもいなかっただろう。「民、信なくんば立たず」というような政治をした政治家が数えるほどしかいなかったからである。