さえない松の内
2007年1月中旬


 松の内ころまで三ヶ月に近い入院が続きやっと一応解放されたが、まだ病院にもいかなければならないし、だいいち家に戻ると病院と比べて大分寒いので、目下寒さに慣れる訓練をしてから、リハビリをと思っているが、なにしろ体力ゼロになってしまっているので、いろいろ歯がゆい思いばかりである。いつもの文章はまだ書きたくないし、こういうのにしてからが、ごく僅かずつでないと書けない。
 入院前の最初の予定では一ヶ月間のつもりだった。ところがさらに調べると、後始末もしておかないと再発の危険が高まるとのことで、一サイクル一ヶ月かかるコースを二回受ける必要があると診断され、家に戻っていいと言われたときには、翌年になっていたのは、すでに述べたとおりである。
 手術までは、なにしろ10時間以上もかかる大手術になりそうだということで、無事に終わるだろうかという心配もあるし、終わればそれなりにいろいろつらいことも多いので、そういう意味では比較的時間は過ごしやすい。身体の痛みなどが余計なことを考えさせてくれないからである。
 問題はその後である。術後三週間ほど個室に放り込まれていると、医者と看護婦と見舞い客以外の人間との接触はほとんどないから、話し相手はいない、さびしいからテレビはつけてあるが、特に見ているわけではない。もっぱら病室の天井をにらんでいるのである。テレビがわずらわしくなると止めることは止めるが、天井をにらむのに変化はない。
 天井をにらみながら、仕事ももう終わりにしなければとか、これからどうしようかとか、わが人生にどんな意味があったかなどという、とりとめのないことを自然と考えてしまう。それ以外にやることがないのである。50歳になるころまでは、あの世というのはひょっとしたらあるのではないかと、ひやかし半分に考えていた。その方が面白そうな感じだからである。しかし、自然科学から50億年後には太陽が大爆発を起こし地球も溶かしてしまうなどといった話をたてつづけに聞かされるような機会があって以来、抹香くさい話はどこかへいったようである。となると、地球上のあらゆる生物をはじめすべてのものには、「無意味」というレッテルが貼られているということになるだろう。
 そしてその「無意味」に「意味」を与える精神的背景を形作っていたのが、過去の大宗教やそれに類する思想だったわけだろう。「無意味」は耐え難いからである。
 三週間ほど時間が流れ、個室を出て大部屋に戻っても、はかばかしい話し相手がみつからないので、相変わらず同じようなことをまだ考えていた。「親殺し」や「子殺し」や「いじめによる自殺」が連日のように報道され続け、ウンザリさせられ続けているから無理もないのだが。このような一連の事件が語っているのは、生の「無意味さ」に意味を与えてきた過去の宗教的道徳が瓦解した結果であるのは明らかだが、それを裏返せば、みずからの人生に「意味」を与えるのはみずからしかないと考える人が以前より減少しているということになるだろう。
 宗教や道徳や生き方とは本来無関係な、機械文明の産業化による人間の精神生活への悪影響は悪化の一途をたどり、「金」や「出世」に関係のある事にしか興味を抱かない人間を、相当増加させたと見える。しかし、人のことばかり言っているわけにもいかない、悪影響はいたるところに及んでいそうだし、『星の王子様』を書いたサン・テクジュペリにたしか、『人生に意味を』というタイトルの小説があったように、これからの新たな残りの人生を始めるつもりの筆者にとっても、やはりなんらかの「意味」を探し出す必要はあるのである。 もちろんベッドに寝転んで、こんなことばかり考えていたわけではない。その他のことも考えたが、それはここでのテーマではない。それにしても集中力がつかず本を長時間読めない人間にとって、ベッドの上の時間はなんと長いことか。もっと長く入院する人もいくらもいるにしても、少なくともこれまでの筆者の人生にとってもっとも「タイクツ」な時間だった。




   論語読まずの、論語知らず(7)
2007年2月中旬


息子の方は、近所の人から「最近だいぶ太ったね」と言われたそうである。極端な偏食は相変わらずだが、気に入ったものは多量に食べるし、中年太りも出始めているようである。妻はなんやかや不調を言ってはいるが、まずはなんとかなっている。もちろん筆者が一番だらしがなくて、退院後一ヶ月以上になるのに、少し散歩すれば一時間くらい昼寝をしてしまうという、ていたらくである。
今月は数ヶ月ぶりに『論語』に戻るが、ご存知のように、「親殺し」、「子殺し」をはじめ、経済の問題も絡んでいそうだが、いやな話しかマスコミとは縁がなさそうで、思想上だけでも、のどかな話が懐かしくなったようである。しばらく前から予想はできたが、急速にここまで日本人が堕落するとは思わなかった。こんな状態で「美しい日本」を作り出せると思っている人がいるそうだが、頭がどうかしているとしか思えない。
今回は「里仁第四」である。

子曰わく、里(り)は仁を美(よ)しと為(な)す。択(えら)んで仁に処(お)らずば、焉(いずく)んぞ知(ち)なるを得ん(この読み方は、宋の朱子の説による訓点である。他にももちろん説はあるが、一応朱子の読み方で意味を見ると、里とはむらであり、厳密にいえば、二十五軒の家から成る集落であると、「周礼」に見えるが、むらでも仁厚の風俗のあるところは美しい。だから住居を選択する場合にも、よく考えて、そうしたところに住まなければ、聡明な、知性ある人物とはいえない。環境が大切だから、せいぜい環境のよいところに住むがいい、ということであって、まるで分からないことはないけれども、分かりやすい説ともいえない、が吉川解釈である。「自由な引越し」などということは、古代にはあまりなかつたはずだということである)。

現代の映画監督チャン、イーモウの描き出す中国の田舎の風景は一見おだやかだし美しいが、これが大昔の「里」のことになると想像もつかないほど穏やかさに拍車がかかりそうなものだが、いつの時代でも人間がいろんなことをダメにしてしまうものらしい。

子曰わく、富みと貴(とうと)きとは、是(こ)れ人の欲する所(ところ)也。其の道を以って之(こ)れを得ざれは、処(お)らざる也。貧しきと賤(いや)しきとは、是(こ)れ人の悪(にく)む所也。其の道を以って之(これ)を得ざれば、処(お)らざる也。君子は仁を去りて、悪(いずく)にか名を成さん。君子は食を終うる間も、仁に違(たご)うこと無し。造次(ぞうじ)にも必ず是(ここ)に於いてし、てんぱいにも必ず是(ここ)に於いてす(富と貴は、だれでもほしいものである。ただし、しかるべき方法でそれに到達したのでなければ、その地位に安住しない。儒家には元来、地位はその人の徳性と才能とに応じて与えられるとする思想があり、徳性と才能によって富貴を得たとするならば、それは其の道を以ってするものであるが、そうでない場合は、あぐらをかいて居すわらない。逆に、貧と賤は、誰だっていやなものであり、元来の法則としては、徳性と才能のないものが、貧賤であるべきだが、この法則にはずれて、貧賤なるべからざるものが、貧賤を得る場合もある。その場合は、貧賤を忌避しない。要するに紳士の目標は仁、すなわち人間への愛にある。君子は仁を去りて、悪(いず))くにか名を成さんや、である。紳士は、一度飯を食い終わるあいだも、仁から遠ざからない。造次(ぞうじ)、なにか突然なことが起こった場合にも、きっと仁のなかにいるのである。てんぱい、すなわち急につまづいてたおれる、というのは比喩的な意味であろうが、そうした場合にもきっと仁のなかにいる)。

たしかにこれはいわゆる「聖人君子の道」である。そうとうに厳しい。筆者など飯のことに関しても、晩酌などをやっていて、よくハメをはずしたりするから当然失格である。この厳しさは、君子の本来の役割は人民のために良い政治をするという大きな理想からも来ているのだろう。吉川さんは、君子を紳士(gentleman)によく置き換えられるが、フランスのモンテーニュのgentil hommeもこの言葉を語源としたらしい英語のgentlemanにしても、たしかにある程度の身分の高さが関係している場合もあるが、孔子流に言えばやはり仁をもった人という点ではたしかに共通点がある。しかし、すべてのgentlemanの最終目標は、君子と違って必ずしも政治だとはかぎらないし、誰もが政治家を狙える立場にいたわけではない。中国人の場合も、もう一人の大思想家老子----中国人のなかからより自然に生まれてきたらしい思想家-----のことを、孔子について考えるときも考慮に入れておく必要があるのではと以前から考えるだけで、一向に勉強しないものだから、思案も浮かばない。どうも孔子と老子のバランスの上で考えないと中国人はよくわからないのではないか、と思っているのである。国民性というものは、難しいし、よそからとやかく言ってどうなるものでもない、という厄介な点がここにも少し出ているのかもしれない。




   論語読まずの、論語知らず(8)
2007年4月中旬


 筆者の体調は少しずつ改良されつつあるが、元気な頃と比べれば格段に落ちる。まあ自戒するとともに、「日にち薬」とやらに期待するしかない。9月から学校の仕事を再開してはという話もあったが、どうやら雲散霧消したらしい。それならそれで面倒がなくてよいと、目下は自由を楽しんでいる。
 前回(7)の終わりに、君子の方が紳士(gentleman)より、全体的には政治よりではないかと書いたが、今回の「公冶長(こうやちょう)第五」にある吉川幸次郎さんの注では、「君子という言葉は、すぐれた支配者という意味と、すぐれた人物という意味と、分ければ両用の意味を含んでいる」とある。これだけでは必ずしも政治よりということにはならないかもしれないか゛、全体的な意味からすればおおむね「政治より」と考えていいのではないか、それと紳士のほうは身分との関係が大ありだが、中国では「科挙」以降君子は身分とはまったく関係がないあたりが、両者の最大の相違ということになるかもしれない。

 子(し)、公冶長を謂(い)わく、妻(め)あわすべき也。縲絏(.るいせつ)の中(うち)に在りと雖(いえど)も、其の罪に非ざるなり也と。其の子を以(も)って之に妻(め)あわす(公冶長は、弟子のひとりである。「妻(め)あわす」とは、娘を妻としてやること。「縲説の中に在り」とは罪びととして黒い縄でしばられていることであるが、罪人ととなっていた公冶長を、無実の罪だと認めたばかりか、自分の娘のむこにしてよい人間と考えて、娘をやったという)。

 公冶長がどんな嫌疑をうけていたか分からないらしいが、これには恐れ入りました、と言うしかない。孔子は、信じるところは実行する勇猛の人であるが、その前に自らの人間に対する洞察力にすさまじい自信をもっていた人であることも分かる。それにしても、「妻あわす」などと簡単に書いてあるが、今なら親が干渉することだけで、大事件で、とかくの噂があるとなれば、なおさらである。なにしろ大昔の話と心得ていただきたい。

 子曰(い)わく、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん、我れに従(したご)う者は、其れ由(ゆう)なる与(か)。子路(しろ)之れを聞きて喜ぶ。子曰(い)わく、由(ゆう)や勇を好むこと我れに過ぎたり。材(ざい)を取る所無(な)からん(ある日、孔子が、ふといった。私の理想とする道徳は、この世の中に行われそうにもない。いっそのこと、この中国を見捨てて、桴(いかだ)に乗って、東の海に乗り出したく思う。そのとき、俺について来るのは、まあ由(ゆう)、すなわち子路(しろ)だろうかな。子路は弟子のうちもっとも活発な人物である。孔子のこの言葉を聞きつけた子路は、わが意を得たりと、おどりあがって喜んだ。すると孔子はまたたしなめていった。由よ、お前は私以上に勇ましいことが好きだ。だが、いったいどこで、そうした大きないかだを作る材木をとって来るというのかね)。

 孔子にしても「理想と現実との矛盾に苦しみ」、現実から逃避したいと思うこともあったことしばしばのようである。

 子、子貢(しこう)に謂(い)いて曰(い)わく、女(なんじ)と回(かい)やと、いずれか愈(ま)さる。対(こた)えて曰わく、賜(し)や何(な)んぞ敢えて回を望まん。回や一を聞いて以って十を知る。賜(し)や一を聞いて以って二を知る。子曰わく、如(し)かざる也。吾と女(なんじ)と如(し)かざる也(顔回(がんかい)字(あざな)は子淵(しえん)こそは、孔子の最も大事な弟子であった。このくだりはある日の孔子と弟子子貢との、問答である。顔回は孔子より三十歳年下、子貢はさらに一つだけ年下で、競争相手だったのだろう。孔子は子貢にむかっていった。お前と回とは、どちらがすぐれていると思うか。子貢は答えた。「賜(し)や何んぞ敢えて回を望まん」賜とは子貢の名であり、望とは遠方からのぞみ見ることである。つまり私は、とても顔回のあしもとにもよりつけません。何となれば、顔回は、ただ一つのことを聞いただけで、その周囲の十のことを察知しますのに対し、私は一つのことがらから、せいぜい二つのことがらを引き出すに過ぎないからです。孔子はこの答えを喜び「如(し)かざるなり」。お前の言う通り、お前はかれに及ばない。先生であるこのおれもお前とともに顔回におよばない。ここは、「蓋(けだ)し子貢を慰めんと欲した」とする注解もあるそうである)。

 子曰わく、十室の邑(ゆう)にも、必ず忠信、丘(きゅう)のごとき者有らん。丘の学を好むに如(し)かざるなり(「十室の邑」とは戸数数十軒のむらである。そうした小さなむらにも「丘(きゅう)すなわち私と同様に忠実で誠実な人間はきっといるであろう。ただ学問を好むという点では私におよばないであろう。素朴なひたむきな誠実、それだけでは完全な人間ではないのである。学問をすることによって、人間ははじめて人間である。人間の任務は「仁」すなわち愛情の拡充にある。また人間はみなその可能性をもっている。しかしそれは学問の鍛錬によってこそ完成される。愛情は盲目であってはならない)。

 「論語」二十篇のうちこの偏は、古今の人物の評価を集めたものだが、弟子たちについての文章が多くなってしまった。紋切り型でなく、面白かったからである。最後の文章については、欠点のない人間はいない。「真に学を好む者にして、自分の過ちを発見し得ることを暗示するとする」(顧炎武「亭林文集」)という注釈もある。




   論語読まずの、論語知らず(9)
2007年6月上旬


 先月初めに突如虫垂炎になり、またしても入院である。痛い上病院に行けば即入院即手術だったから、最初のうちはあっけにとられている感じだったが、傷口がなかなかふさがらず、退院が遅くなればうんざりするだけである。

 「論語」の方は、今回は「雍也(ようや)第六」である。まず例により冒頭の一句。

 子曰わく、雍や南面(なんめん)せしむ可(べ)し(雍とは、弟子の仲弓(ちゅうきゅう)であり、低い階級から出た弟子であるが、ここは、この弟子を南むきにすわって政治をする地位、つまり大名、または極端なある説では、天子、その地位についてよい人物だと、激賞したのである。その真意が、はかりにくいほど、強烈な言葉である)。

 「論語」からは今回で9度目の引用だが、飽きてきたなと思いながら読んでいると、やはり心うたれる文章に出会う。子どものころには、世間の中にそこはかとなくただよっていて、日本の良質な部分をささえていた雰囲気を醸成していたものだったに違いないと思う。今はほとんどどこにも見かけないらしいものである。

 哀公(あいこう)問う、弟子(ていし)、孰(たれ)か学(がく)を好むと為(な)す。孔子、答えて曰わく、顔回(がんかい)なる者有り、学を好む。怒りを遷(うつ)さず。過ちを弐(ふた)たびせず。不幸、短命にして死せり。今や則(すな)わち亡(な)し。未(いま)だ学を好む者を聞かざる也(哀公は、孔子の仕えた魯の君主のうち、最後の人である。したがってこの問答は、孔子晩年のものである。哀公が問うた。あなたのお弟子の中で、学問好きといえるのは誰ですか。孔子はこたえた。顔回というものがおりました。それが学問好きでした。学問好きの内容としてあげられるのは、「怒りを遷さず、過ちを弐たびせず」であって、うち「怒りを遷さず」については、ある人に対する怒りを、他の人にうつして、八つあたりをしなかった、という説と、怒るべきときに怒り、怒るべき方向をあやまらなかった、という説とがある。何にしても好学の内容としていわれていることは、実践的な行為である。しかしこの好学の弟子は、不幸にも短命で死にました。今はおりません。何にしても、彼の死以後、私は弟子の中で、学問好きといえるものがいることを、耳にいたしません)。

 前回にも出てきた顔回の話である。「論語」の中で一番数多く引かれている弟子である。顔回のことを言うとき、われわれはいつも孔子の深い愛情を感じずにはいられない。

 冉求(ぜんきゅう)曰わく、子(し)の道を説(よろこ)ばざるに非(あら)ず。力(ちから)足(た)らざる也。子曰わく、力足(た)らざる者は、中道(ちゅうどう)にして廃(はい)す。今女(なんじ)は画(かぎ)れり(冉求がいった。私は先生の方法をうれしく思わないではありません。ただ「力足らざるなり」。先生の方法を実行するには、私の力量が不足なのです。孔子はいった、「力足らざる者は、中道にして廃す」。ほんとにお前の力量が不足ならば、とにかくやって見て、途中で挫折して引き返すはずだ。お前の場合はそうではない。君は自分自身で自分の限界をはじめからきめてかかっている)。

 子曰わく、孟之反(もうしはん)、伐(ほこ)らず。奔(はし)って殿(でん)たり。将(まさ)に門に入(い)らんとす。其(そ)の馬に策(むち)うって曰わく、敢(あ)えて後(おく)るるには非(あら)ざる也。馬進まざる也(孟之反とは人名であって、孔子と同時の魯の人。伐(ほこ)るとは、自己の功績を誇ることである。この条は自己の功績をほこらない、謙抑な人物であることを賞賛したのであって、賞賛さるべき事実として述べるのは、魯の国が斉の国と戦争をして負けたとき、奔而殿、奔とは敗れた軍隊が退却したことであるが、そのとき孟之反は勇敢にも、殿、しんがりをつとめた。しかも謙抑なかれは、「将に門に入らんとして」、門とは魯の国都である曲阜(きょくふ)の城門である。敢えて後るるに非ざるなり、わたくしはわざわざあとへさがって、しんがりをつとめようとしたわけではありません。ただ馬が悪くて、早く進まなかっただけです。そういって、馬を策(むち)でたたいて見せた)。

   先の文章は今でもよくいそうな人物のことを取りあげている。後の文章の謙抑とは、東洋的美徳だろう。しかし、これも今なら誇るのが当然の西洋的美徳になってきているようだ。

 子曰わく、之(これ)を知る者は之(これ)を好む者に如(し)かず。之を好む者は之を楽しむ者に如(し)かず(有名な条であり、人人のよく知る条である。そうして人人が、普通に解しているように解してよろしいであろう。すなわち、「知る」とは、そのものあるいはその事柄の存在を知ることであり、この段階では、対象は、全然自己の外にある。「好む」とは、対象に対して特別な感情をいだくことである。対象はまだ自己と一体ではない。「楽しむ」とは、対象が自己と一体となり、自己と完全に融合することである)。




   論語読まずの、論語知らず(10)
2007年7月下旬


 相変わらず入退院を繰りかえしているので、飛ばし飛ばしになってしまう。先月は一応書いたが、今月は順番からすれば「論語」になるので、遅くなったが続きを書く。「述而第七」である。

 子曰わく、述べて作らず。信じて古(いにしえ)を好む。窃(ひそかに)に我が老澎(ろうほう=正しくはサンズイなし)に比す(「述べる」とは、祖述の意である。「作る」とは創作の意である。自分は祖述はするけれども、創作はしない。過去の文明は、多くの人間の知恵の堆積であり、創作は自分一個人の恣意におちいりやすい。しかしかく過去のものを祖述するのは、手がるな古代主義から、そうするのではない。その中のよいものを、よいと信じ、またその中の愛好すべきものを心から愛好する。つまり「信じて古(いにしえ)を好む」のである。それは私だけの態度ではない。私に先んずる人間として、老澎がある)。

 筆者の若い頃までは、まだ新規なものを好む風潮が強かったが、哲学や芸術の世界においては、出るべきものが出尽くした感のある昨今では、古(いにしえ)を好む人が増えているのではないか。もっとも若い人たちは、テレビゲームとやらに取りつかれ、人間関係がずいぶんおろそかになるという、別の側面が出てきて、恐怖を覚えざるをえなくなっていることも、付け加えておかなければならないが。

 子曰わく、徳の脩(おさ)まらざる、学の講(こう)ぜざる、義(ぎ)を聞きて徒(うつ)る能(あた)わざる、不善を改(あらた)むる能(あた)わざる、是(こ)れ吾が憂(うれ)い也(道徳の修養を怠ること、学問の勉強を怠ること、義(ただ)しいことを耳にしながら、そのただしさへわが身をもってゆけないこと、善からぬことと気づきながらあらためられないこと、この四つが私の心配である)。

 君子の孔子にしてこうなのだから、小人になれば心配は山ほどということになりそうなものだが、どうもそういうことではなさそうで、小人のほうがあっけらかんとしているらしい。気にしていたら多すぎて生きていけないからだろう。

 子、喪(も)ある者の側(かたわら)にて食すれば、未(いまだ)嘗(か)つて飽(あ)かざる也。
 子、是(こ)の日に於(お)いて哭(こく)すれば、則(すなわち)歌わず(他家の葬式の手伝いに行ったとき、手伝いとして立ちはたらくためには、食事を取らなければならない、しかし、その食事は、親、つれあい、兄弟、その他近親を喪(うしな)って、悲しみにひたる者のそばで取られる。かつ礼のおきてとして、喪主自身は充分の食事は取ってはいけないのである。そのそばでの食事であるから、腹一ぱい食べたことはなかった。また孔子は他家へ弔問にゆき、弔問者の礼として、声をあげて哭(な)いた日、その日は、家へ帰ってからも歌を歌わなかった。前者は他人との間に、調和を保とうという心情であり、後者は自ずからの感情に不調和をつくるまいという心情である)。

 超高齢化社会とやらになってしまい、ますます歯止めがかからなくなった状態で、子供や配偶者、近親者などが「礼」を尽くしがたくなっているのが実情であるにしても、口はばったいことは言いたくないが、基本的には死者と周囲の人たちへの礼あるいは自らへの礼というものはあってしかるべきだろう。

 子、斉(せい)にありて昭(しょう=正しくはオトヘン)を聞く。三月(さんがつ)、肉の味わいを知らず。曰わく、図(はか)らざりき、楽(がく)を為すことの期(ここ)に至るや(孔子が三十五歳のとき、東方山東省の大国斉にいたころ、古代の舜の時代の管弦楽である昭の音楽を聞いて、そのすばらしさに感動し、三ヶ月間、肉を食っても、肉の味を空虚なものと感じた。そうしていった。「音楽というものの感動が、これほどまでに深いとは予期しなかった」と)。

 こういう孔子の感受性の強さを表す表現に「論語」では、しばしば出会う。

 子は怪力乱神を語らず(孔子の思想が,異常な、超自然的な事柄に対する興味を、他のおおむねの宗教が、示すようには示さず、むしろそれを抑制したことを示す、有名な一条である)。

 もうひとつ感受性の強さをしめす文があったはずだが、なかなか見つからないので上のにしておく。
 但し,wordを更新したためそうなったと思うが、ややこしい漢字は先月よりも出なくなっている。ぶざまだが、悪しからずご了解のほどを。




   『おくのほそ道』を読む(1)
2007年8月下旬


 なんとも暑くていかんともしがたい。あい変わらずごろごろしてはいるが、きちょうめんなはずの息子の和生も、音楽の練習をしない日がしばらく続いた。珍しいこともあるものだと思っていたら、連日猛暑のニュースばかりを聞かされる。これでは体力を消耗するばかりである。
 病院に行くと、もうすぐ入院ですと言われる。そんなに早いはずはないと思っていたら、それはこちらの計算で、向こう様のとはずれていたらしい。『論語』のいつものを書こうにも、読んでいる時間がない。仕方がないから、たまたま読んでいた『おくのほそ道』(1689)(井本農一、久富哲雄編、小学館版)を利用して当座の用に当てることにした。どうなるかは、見当がつかない。
 『おくのほそ道』といえば、松尾芭蕉(1644-1694)が元禄時代に45歳くらいで書いたもので、東北から北陸をめぐっての紀行文だという程度の知識しかない。学生時代に読んだことがあり、昨年ゼミの学生がテーマのひとつに選んだため、部分的に読み、一度は読み直したいと思って読んでいたので、こんなことになった。
 冒頭の一句「月日は百代の過客(くわかく)にして、行(ゆき)かう年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老(おい)をむかふるものは、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人(こじん)も多く旅に死せるあり)」。

   草の戸(と)も住替(すみか)わる代(よ)ぞ雛(ひな)の家

 多分だれもが知っている上記の文章で始まり、この句で第一節は終わっている。上記の文章のように芭蕉もいつのころからか、「そぞろがみの物につきてこころをくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあいて」、「漂白のおもひやまず」、今度も旅にでかけることとなる。いろいろ準備もしなければならないが、住居の始末もして、門人のところに移った際にできたのが、上の句である。世捨て人のような芭蕉とは違い、新しい住人は、雛祭には雛も飾るようなまっとうな住人なのである。

   行春(ゆくはる)や鳥啼(とりなき)魚(うを)の目ハ泪(なみだ)

 三月の末の明け方に出発だが、親しい友人たちは前夜から集まり別れをおしむ。当日は隅田川を舟でおくってくれて、千住まで来て舟を降りる。「前途三千里のおもひに胸ふさがり」、上の句になったわけである。

 紀行文だが、いちいち後をたどるわけにはいかない。原文を引けば注も必要になるし煩雑となるからである。北へ向かってすすんでいるのは確かで、日光まできて、次の有名な句が出てくる。

   あらとうと青葉若葉の日の光

 四月の一日に日光山のいわゆる日光東照宮に詣でた折の句で、江戸時代のことだから、いちおうかしこまっていなければならなかったらしいことは、直前の文章からもわかる。
 書き遅れたが、この旅に同行しているのは、門人の曾良(そら)である。家事のした働きのようなことをしていたらしいが、心配でもあったろうし、一緒に旅をしているのである。「旅立つ暁(あかつき)髪を剃(そ)りて墨染(すみぞめ)にさまをかえ・・・依(よ)って黒髪山の句有。「衣更(ころもがへ)」二字、力有てきこゆ」。句が遅くなったが、

黒髪山(男体山)は霞(かすみ)かかりて、雪いまだ白し
   剃捨(そりすて)て黒髪山に衣更(ころもがへ)   曾良

 衣更えの季節に黒髪山にさしかかったので、旅立ちのこともあわせて思い出しているのである。かなり山を登って、高い滝のところまで来る。「岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏よりミれバ、うらみ(裏見)の滝と申伝(もうしつた)へ侍(はべ)る也」。

   暫時(しばらく)は滝にこもるや夏(げ)の初(はじめ)

 「夏(げ)の初(はじめ)」とは、「仏道修行の夏籠(げごもり)の初め」を指す。

 俳句はもちろんのことだか、紀行文の堅牢さには、舌をまく。




   論語読まずの、論語知らず(11)
2007年9月下旬


 とうとう今月は入院せずにすんだが、家にいるとついつい余計なことまでしてしまうので、ここ数日は疲れがたまったのか、寝てばかりいる。われながらあきれるほどである。あれほど暑くなかったら、少しは散歩でもできたのにと思うと残念である。『論語』の方も少々飽きが来ているが、やはり読めば読むだけのことはある。さすがに古典中の古典である。今回は「泰伯第八」である。例によって所在の確認の意味で最初の文章は引用する。

 子曰わく、泰伯(たいはく)は其(そ)れ至徳(しとく)と謂(い)う可(べ)きのみ。三度(みたび)天下を以(も)って譲る。民(たみ)得(え)て称する無し(古代の賢人泰伯とは、殷王朝治下の諸侯の優れた君主大王(だいおう)の長男だったが、優れた君主に国を譲るため、二度身を引き、大王の孫で周王朝を創業する有能な文王(ぶんのう)が着位できるようにした。そんな謙譲は「民得て称する無し」つまり世のことごとしい評判とはならなかったが、「至徳」というべきなのである。なお三度というのは、「たびたび」の意らしい)。

 曾子(そうじ)曰わく、能(のう)を以(も)って不能(ふのう)に問い、多きを以って寡(とぼ)しきに問い、有れども無きが若(ごと)く、実(み)つれども虚(むな)しきが若(ごと)く、犯(おか)されて校(あらが)わず、昔者(むかし)、吾が友、嘗(か)つて斯(ここ)に従事せり(曾子の亡き友顔回についての文章らしい。才能があっても才能のない者たちの意見も徴するし、自分は豊富なのに、豊富でない人間の意見も聞く。「有れども無きが若く、実つれども虚しきが若く」、いずれも充実した人格であるにもかかわらず、謙虚にもそうでないように行動する。喧嘩をしかけられても、相手にしない。むかしの友人顔回は、そういう行動をとっていた)。

 曾子つまり曾参(そうしん)は、孔子より46才若い弟子だったらしい。顔回はすでに二三度登場している。そしてここでは君子の徳のひとつが問題になっているのは言うまでもない。ただ吉川さんの注解は談話筆記らしくて長くなりがちなので、前回あたりから都合で切り貼りさせてもらっている。

 曾子(そうじ)曰わく、士(し)は以(も)って弘毅(こうき)ならざる可(べ)からず。任(にん)重くして道遠し、仁以って己(おの)れが任と為(な)す。亦(ま)た重からず乎(や)。死して而(しか)して後(のち)已(や)む。亦(ま)た遠からず乎(や)(このくだりは、『論語』全体のなかでももっとも優れたくだりのひとつらしい。「士」とは、この場合ひろく教養ある人間の意であるようだ。「弘」とは、ひろい包容力、「毅」とは、つよい意志。「士」たるものは、それらをもつ責任があり義務がある。なんとなれば、その任務は重く、その人生行路ははるかであるからである。「仁以って己れが任と為す、亦(ま)た重からず乎(や)」。人道の実践と普及を、自己の任務とする。それこそ任務として重大なものではないか。しかもその任務は、いのちある限りは、解消されない。「死して而して已む」。しからば、その行程たるや、はなはだ、はるかではないか)。

 いやはや君子になるのは大変である。西洋なら当時の哲学者か、だいぶ後ならキリスト教の聖者になるようなものだろう。こういうところを見ていると、さしずめ西洋なら時代の近いソクラテスのことを思い出す。そんなことを思い出すなどとは、思ってもいなかった。

 子曰わく、巍巍(ぎぎ)たる乎(かな)、舜(しゅん)、禹(う)の天下を有(ゆう)せるや。而(しこう)して与(あずか)らず(舜とは、堯(ぎょう)、舜(しゅん)の舜であって、おろかな、いやしい農民の子であったが、前任の皇帝である堯から、抜擢されて、その譲位を受け、完全な道徳政治の時代を現出したと、伝えられる皇帝である。また、禹とは、舜の時代の大問題であった洪水を治め、その功績により舜の譲位を受けて皇帝となり、夏王朝の開創者となったと伝えられる英雄である。二人の英雄は、いずれも、世界の王として、世界を保有したが、その保有の仕方は、正正堂堂と、立派であった。そうして「而(しこう)して与(あずから)ず」とは、その立派さの構成に、独裁的には関与せず、多くの賢明な人たちに委任して、その立派さを完成した)。

 あくまで伝説的な英雄的皇帝たちだが、孔子ならずとも、どの国の政治家にもエッセンスを呑ませたいような文章である。ちなみに、この手の文章は『論語』のいたるところに、見える。 




   『おくのほそ道』を読む(2)
2007年10月下旬


  かさねとは八重撫子(やへなでしこ)の名なるべし 曽良(そら)

 ひょんなことで『おくのほそ道』に触れることになったが、前回の続きである。日光方面から、知人がいる、栃木の那須(なす)黒羽(くろばね)まで峠を越えて近道を行こうとするが、雨は降ってくるは、日は暮れてくるはで、農家に泊めてもらう。翌日あいかわらず野中を行くと、放し飼いの馬がいた。「草刈(くさかる)おのこになげきよれば、野夫(やふ)といへどもさすがに情(なさけ)しらぬにはあらず」。「どうしたものか、一緒に行くわけにもいかないし、と言って道が入り組んでいるので、慣れていない人たちには無理だから」と、馬を貸してくれ、「この馬のとどまる所にて馬を返し給(たま)へ」、とのことである。その男の子どもふたりが、馬の後について走ってくる。ひとりは女の子なので、曽良が名前を聞くと、「かさね」だという。鄙(ひな)には珍しい優雅な名前である。それで、曽良は上の句を読んだ(この子は鄙にはまれな「かさね」という名前である。子どもはよく撫子(なでしこ)にたとえられるが、「かさね」の撫子なら、八重の撫子だろう)。「頓(やが)て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付(むすびつ)けて、馬を返しぬ」。

 次と次の黒羽の館代(くわんだい)を訪れたりするくだりは、かなり抹香臭いということもあり、一句ずつを挙げるだけにする。しかし数日間はいたのである。

修験(しゅげん)光明寺(こうみょうじ)と云う有、そこにまねかれて、行者堂(ぎょうじゃどう)を拝す

  夏山に足駄(あしだ)をおがむ首途(かどで)哉(かな)
(遠くに陸奥の夏山が仰ぎ見られるが、その夏山への門出に、私はいま、峰峰を踏破した役(えん)の行者(ぎょうじゃ)にあやかりたいと、行者の高足駄を拝んでいる)

  木啄(きつつき)も庵(いほ)は破らず夏木立(なつこだち)

 この下野国(しもつけのくに)には、芭蕉の禅の師である仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)の庵(いおり)の跡があったので、「とりあえぬ一句柱に残し侍(はべり)し」。芭蕉の心の拠りどころは、仏教、特に禅であったようである。

 その後「殺生石(せっしょうせき)に行(ゆく)」(金毛九尾の狐が化けて近衛(鳥羽とも)帝の妃となり、露見して那須野が原で退治されたが、その霊は殺生石と化したという伝説の「殺生石」であり、現存し今も付近の地中より有毒ガスが発生するらしい)。「館代より馬送らる」が、馬の手綱を取るおのこが、「短冊(たんじゃく)得させよ」と「やさしき事」を望むので、一句。

  野をよこに馬牽(ひ)きむけよ郭公(ほととぎす)
(広い奈須野を馬で進んでいくと、道の横手のほうで、ほととぎすが鳴いている。馬子(まご)よ、そちらに馬を引き向けておくれ)。

 さらに西行ゆかりの柳も見物する(題しらず/道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ(新古今・夏))。「此所(このところ)の郡守」から、「此(この)柳見せばや」と言われていたが、「けふこの柳のかげにこそ立寄(たちより)侍りつれ」

  田一枚(たいちまい)植えて立去る柳かな
(これが西行の柳かと感慨にふけっていると、目の前の田では田植えが進み、一枚分が終わってしまった。それでわれに返り、自分も柳を離れることにした)。

 当時の人たちにとっては、有名な歌や歌集のことなら、お手のものだったろう。




   論語読まずの、論語知らず(12)
2007年12月上旬


 あさって、前から決まっている入院の前にこの原稿を書こうとしているが、昨日散歩したのがたたったのか、体がだるくてしかたがない。行けるところまで行こうという感じになってきている。今回は「子罕(しかん)第九」である。

   子(し)、罕(まれ)に利(り)と命(めい)と仁(じん)とを言う(孔子のめったにしか言わないものが、三つあった。一つは利益。二つには運命。三つには最高の道徳である仁。なぜこの三つをまれにしか語らなかったかといえば、三つともあまりにも重要な問題であるからである。「義(ぎ))=道理」と対立する概念「利」=利益効果についてはほとんど言われていない。「命」については結構出てくるが、「仁」は話題の筆頭と言ってもいいかもしれない。しかし、記者の感じでは、やはりまれと思われていたのだろうとするのが、吉川注である)。

 ずいぶん前から「利」について語ることが当然となり、「命」についても、しばしば語られるが、「仁」についてなどきちんと語れる人は、きわめてまれになってきている。

 達巷(たっこう)の党人(とうじん)曰わく、大いなるかな孔子。博(ひろ)く学びて而(しか)も名を成す所無しと。子之(こ)れを聞き、門弟子(もんていし)に謂(い)いて曰わく、吾(われ)何をか執(と)らん。御(ぎょ)を執らん乎(か)。射(しゃ)を執らん乎(か)。吾御を執らん。 (孔子の謙遜を示すくだりである。達巷とは地名であるが、所在はあきらかではない。党とは五百軒の部落である。達巷というむらの人が孔子をほめて、いった。「大いなる哉孔子」、孔子はなんとも偉大である。ひろく種々の学問をしながら、なんの専門家であるという局限された名声は、おもちにならない。すべてのことに通じ、かつすべてを包容した偉人であられる「博(ひろ)く学びて而も名を成す所無し」。孔子はこの批評を聞くと、内弟子たちに、いった。じゃ私は、何を専門として主張したらいいのかね。馬車の御者であること、それが一番の専門だといおうか。あるいは弓を射ることだといおうか。まあ、馬車の御者であることが、専門だとしよう。ちなみに「周礼」では、礼、樂、射、御、書、数が、六芸(りくげい)と呼ばれる教養である)。

 ここまでは11月下旬に書いて入院、それから12月に退院して続きを書いている。

 大宰(たいさい)、子貢(しこう)に問うて曰わく、夫子(ふうし)は聖者か。何(なん)ぞ其(そ)れ多能なるや。子貢曰わく、固(も)とより天(てん)之(これ)を縦(ほしいまま)にして、蒋(まさ)に聖ならしめんとす。又た多能也。子(し)之(こ)れを聞きて曰わく、大宰(たいさい)は 我(わ)れを知れる乎(か)。吾(わ)れ少(わか)くして賎(いや)し。故(ゆえ)に鄙事(ひじ)に多能なり。君子は多からんや。多からざる也(大宰(たいさい)とは官名で首相のことだが、ここでは呉の首相のことらしい。孔子は69歳、子貢38歳のときの話らしい。会議の後の閑談のときのことでもあろうか。大宰が子貢にたずねた、「夫子は聖者なるか、何ぞ其れ多能なるや」。ここの「聖」の字の意味は全治全能というに近いであろう。「あなたの先生の孔子は、世でうわさするとおり、全能の人なのでしょうね。じつにいろいろな才能を、もっていられる。びっくりするほどたくさんの才能をもっていられる」。子貢は答えた。「そうです。天はその意志として、先生の人格を、充分のばせるだけのばして、聖人の地位に近づけようとしているのです。その上にまた、さまざまな才能をもっていられること、あなたのお説のとおりです」。後日、孔子はそのことを聞くと、いった。「大宰は、私のことを、よく知っていてくれる。私は若いころ貧乏であった。そのために、いろんなつまらないことに才能をもっている。しかし、そうした煩瑣な才能というものは、称揚すべきものではない。紳士は煩瑣であっていいものだろうか。いやいや煩瑣ではなかるべきである」。孔子はみずからを聖者だとはいわない。じぶんは貧乏だから多能だったが、君子は多能であってはならないとは、面白い言い方である)。

 ひとひねりした言葉の面白さである。以上のふたつの文章だけからも、孔子はだれが見ても、ただものとは見えなかったことが分かる。

 子、川の上(ほとり)に在りて曰わく,逝(ゆ)く者(もの)は斯くの如き夫(か)、昼夜(ちゅうや)を舎(す)てず。

 あまりにも有名な一章である。人間が時間の外に出ることは、絶対できない。
 ただ、時間の中にいることこそが進歩の条件だとする解釈もなかったわけではないらしい。だからこそ、進歩があったとする意見である。しかし、進歩も使い方次第である。われわれは、たいへん危険な曲がり角にいる。