『古今集』賀歌(がのうた)
2006年1月上旬


以前のを読み返してからこれを書いているわけではないが、この二年ほどは年末か年始になにかしら有難くないことが起こり、あまりさえない気分で書いていたはずである。しかし今年は、すでに十二月半ばに二ヶ月ちかく悩まされた治療も一応終わったので、いちおうふっきれてはいるのだが、あまりすっきりというわけにも行かない。まだ身体がすっかり回復したわけでもないし、先行きの不安もあるからである。まあ様子を見ながら、ボツボツやっていくしかない。息子の和生も松の内が終わると恒例の「冬まつり」に20分ほど出演するようで昨年から練習を繰り返している。
さて『古今集』の方は、時期が時期だけにどこを読んだものやら困っている。新暦と旧暦のずれがあるので、春のところも具合が悪いし、仕方かないから「賀歌」のところで、なんとかならないかと思っている。
『古今集』を見れば分ることだが、春と秋は上下に分かれているので、冬歌の次にある賀歌は「巻第七」ということになる。賀歌というのは、説明によると「人が一定の年齢(四十、五十、六十、七十など)に達した時に行う祝いに際して、他人が詠んで送る歌である」(「日本古典文学全集」所収、小学館版)
決まりきったことなので数も少ないしあまり優れたものもないようである。めでたいことにちなんで、引用しているだけのことである。

  題知らず   読み人知らず
わが君は千代に八千代に細(さ)ざれ石の巌(いわほ)となりて苔のむすまで

国歌の好き嫌いは別にしてこんなところにルーツがあるとは知らなかった。もともとは中国由来のようだが。この歌の「君」は歌を送る相手を指しているだけで、天皇を指しているわけではない。小さい石が大きい岩になることなどありえないだろうが。

  仁和の御時(おほんとき)、僧正遍照に七十(ななそじ)の賀たまひける時の御歌
かくしつつとにもかくにもながらえて君が八千代にあふよしもがな

光孝天皇(五十五歳=当時では長寿)の「君臣和楽」ということらしい。こうやってめでたい宴を張っているが、自分も永らえて、遍照のさらなる長寿にあやかりたいということのようである。あまり月並みなのばかりでは面白くないので、ちょっと変わったのも引いておく。

  貞保親王(さだやすのみこ)の、后(きさい)の宮の五十(いそぢ)の賀に奉りける御屏風に、桜の花の散るしたに、人の花見たる形かけるをよめる
いたずらに過ぐす月日はおもほえで花見て暮らす春ぞすくなき

なにもせずただ「いたずらに」過ごす日々にはなんの感慨もないが、花見をして楽しく暮らすような日々は、だれにとっても少なく感じられるようである。




   論語読まずの、論語知らず(1)
2006年2月上旬


 「寒い寒い」を連発している間に、一月も終わって二月になり前期入試とやらも終わったし、採点も提出したしで、一応やれやれである。しかし、寒さの影響もあるようで、泌尿器系の治療は終わったが、なんだかすっきりしない。すでに終わったことだが、一月半ばの高槻の高校生主催の「冬祭り」という催しに出た息子は、少し熱があったからかもしれないが、むやみと落ち着いて20分程度(ほとんどが歌だった)の演奏を、気楽にこなしていた。落ち着きぶりという点からすれば、十分プロである。ビデオを撮ったからなおのことよく分かる。
 さて、このコーナーをどうしたものかいろいろ考えていたが、やはりデカルトに戻る気にはなれない。まだ哲学のほうはいちおう営業中で、私的なところに持ちこめるようになるのは、営業停止後しばらくしてからだろう。『論語』については、多分最初は中学生の時にでも読まされたのだろうが当然興味はなかった。その後たしか四十歳のころなんかのキッカケで、読み始めて、やはり東洋のものは「血が騒ぐ」などという怪しげな感想を抱いたが、半分ほども読んだころに、仕事ができてそちらのほうに専念してしまい、そのままになっていた。しかしずっと気にかかってはいたので、今度のぞいてみることにしたのである。『論語』などといえば、特に若い人から「古い」の一言ですまされてしまいそうだが、古典は古くならないからこそ古典なのであり、だからこそ今にいたるまで読みつがれているのである。しかも、ついこないだの江戸時代には、学問の中心となる書物だった。もっとも江戸時代といえば「封建時代」という言葉くらいしか思いつかない人には理解しがたいことかもしれないが。当時は「論語読みの、論語知らず」という慣用句があったが、今は逆なので、上記のタイトルにしたのである。よりどころは、吉川幸次郎注釈の『論語』(上・下 朝日新聞社刊)である。最初の「学而第一」の最初の一句。

 子曰く、学びて時に之(これ)を習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからず乎(や)、朋(とも)有り遠方より来(きた)る、亦た楽しからず乎。人知らずして慍(いか)らず、亦た君子ならず乎。

 この言葉はたいていの人が知っていようが、これを「ワード」というインチキワープロで書こうとすると、どれだけ苦労するかは、やった人でなければ分かるまい。ワードの漢字変換はJIS規格によっているそうだが、これと国語学とはなんの関係もないらしい。戦後教育以前から当然漢字は使われていて、一方的に漢字の数を減らしたのは戦後の「国語審議会」の連中で、当時はもっぱら個人レベルでは手書きだったから、それなら比較的簡単にすむ問題だったが、いずれにしろ漢字制限のため過去の文化との断絶が生じてしまった。現代の若者はほぼ同時代の人間の書いたものしか、理解しえない状態に置かれてしまっているわけである。努力する人は別だが、たいていは努力しないし、努力が嫌いである。
 子とはもちろん孔子のことで、学問の対象は「詩経」とか「書経」などの五経のことだが、いまなら広く解して細部にこだわることもあるまい。好きな書物を「しかるべき時」に(「時に」は、ときどきの意ではないそうである)、取り出して読み返したり、古い映画をビデオなどで見直したりして、自らの理解の度合いを調べてみるのは楽しい。「説」は「悦」と同意とのこと。気心の知れた友達に会うのも、大きな喜びである。しかし、自分の「勉強」が人から認められないこともあろう。そんなことでは腹を立てない、それでこそ「君子」=「紳士」(gentleman)ではないか、というわけである。
 ちなみに、孔子つまり孔先生は、BC552あるいは551から497まで生きた人である。そして、「孔子を中心として残された対話の記録」が『論語』だった。かつては中国や朝鮮半島や日本でもっとも広く読まれた書物が『論語』だったことは、言うまでもない。ヨーロッパのようにむやみとテクニカル・タームを使って、学問を抽象化しない好例を『論語』に見ようと思う。もちろんわれわれにはこちらのほうがなじみが深いが、いずれにも一長一短があるにしても、今や学問の主流はヨーロッパ系であるのは、言うまでもない。その系列に参入するために、明治の学者たちは横文字を二字漢字に変換するためにどれほどの努力を傾注したかについては、どうもあまり知られているとは思えない。若い人たちはあまりにも当然と思いこみすぎて、こうした事情については、なにも知らない。




   『古今集』春歌(はるのうた)
2006年3月上旬


 どうも二月から三月にかけては、後期入試やら会議やらということがけっこうあって、少し気ぜわしい。後期入試は国立大学はだいぶ以前からやっていたようだが、筆者のところなどではここ数年のことである。少子化の影響下で受験機会を増やすのが目的だが、その分忙しくなる。だいたい病気の治療後もあまりかんばしくない状態が続いているのでかなりこたえる。ここのところ暖かいので助かっているが、まだ寒くなりそうだとのことで、困りものである。暖かくなったら、今度はすぐに暑さの心配になるだろうな、と余計なことまで考える。まあ、そう先のことの心配ばかりしていても仕方がないので、春の歌のほうに行くことにする。『古今集』は、夏の歌から始まって、春の歌まで来たので、一応今回で打ち切ろうと思うが、そのうち復活させるかもしれない。

  読人しらず
春日野(かすがの)の飛火(とぶひ)の野守(のもり)いでて見よいまいく日(か)ありて若菜摘みてむ

奈良の春日野は若菜の名所らしい。「飛火の野守」はすこしややこしいが、春日野でのろしを上げる山のふもとにいる番人のことらしい。あと何日くらいで若菜が摘めるようになるだろうということのようだから、要するに「春よ来い、はやく来い」ということである。昨年は筆者は春が来てもあまり何もできなかったが、今年はわが家の庭や鉢植えの手入れはやれそうである。

  「歌たてまつれ」とおほせられし時に、よみてたてまつれる   つらゆき
わがせこが衣(ころも)はるさめ降るごとに野辺(のべ)のみどりぞ色まさりける

「わがせこ」= わが夫という言葉が最初にあるので、女性の立場に立って読んだ歌である。一雨ごとに春は深まり、緑も深まる。「はるさめ」は衣を「張る」と春雨の「はる」の掛詞(掛け言葉)である。

  帰る雁を読める   伊勢
春霞立つを見すてて行く雁は花なき里に住みやならへる

わが家のある高槻には、伊勢にゆかりのある「伊勢寺」という寺がある。歩いてもニ十分程度のところである。それにしても、「帰る雁」など見たのはいつのことだったか。

  梅の花を折りて人におくりける   とものり
君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る

これには説明の要はなさそうである。

  初瀬にまうずるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、ほどへてのちにいたりければ、かの家のあるじ、「かくさだかになむやどりはある」と、言いいだして侍(はべ)りければ、そこにたてりける梅の花を折りてよめる   つらゆき
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

奈良県の長谷寺は初瀬にあるとのことで、初瀬とは長谷寺を指す言葉らしい。しばらくぶりに訪ねてみると、宿を貸してくれていた人は、「まだお宿はちゃんとありますよ」と言ってはくれたものの、かつてなじんだ家(宿)のあった土地(ふるさと)はすっかり荒れ果て変わってしまっている。当時は先の歌にもあるように、花を折ることで確かな花見をしたという感覚をもっていたようである。「ふるさと」も変れば、人の心だって変るかもしれない。しかし「花の香」だけは昔と変わらない。桜より梅をはるかに好んだ平安時代の人びとは、「香」にもはるかに敏感であったようだ。「いさ」と「知らず」は呼応して、「分かったものではない」といった意味になるらしい。この歌は百人一首にも取りあげられているし、紀貫之の代表作ということであるらしい。




   論語読まずの、論語知らず(2)
2006年4月上旬


 またもや検査入院とかと言われて、一週間ほど入院していて四月初めに出てくると、大分寒かったりもしていたのが、すっかり「春」という感じである。わざわざカッコでくくったのは、それほど春が待ち遠しかったからである。泌尿器系の病気の関係からか、ひどい冷え性になってずいぶん悩まされた。妻は相変わらず元気がいいかかと思うと、シンドクなるの繰り返しである。息子のほうは結構元気そうだが、やはり偏食がひどいのが、妻の悩みの種である。せめて、コンサートの声でもかかれば少しはみんな元気になるところだが、どうしたものか近頃はさっぱりである。
 たしか、二月に妻に教えてもらった『国家の品格』(藤原正彦著)がずいぶん売り上げを伸ばしているようで、誰もがこの世の中のことで気がかりな思いをしているのだな、ということが分かる。しかし、「論理より情緒」といわれても、あるいは「経済改革の柱となった市場原理をはじめ、留まることを知らないアメリカ化は、経済を遥かに超えて、社会、文化、国民性にまで深い影響を与えてしまった」とかと言われても、この本を読む気はまったく起こらない。そして日本の「武士道」が改めて問題にされても、いまさらという感じしかしない。 太平洋戦争の時も鬼畜米英であり、「大和魂(やまとだましい)」だったと、昔の子どもは思い出す。精神的には同じ構図である。おまけに新渡戸稲造の『武士道』の新訳がたしか二種類くらい出て、しきりと宣伝したりしているが、出版社にしてからがあまり本が売れないので、「ヤケ」を起こしているとしか思えない。
 もともと明治維新以後、江戸時代以前の過去を放棄しヨーロッパに向かうという、福沢諭吉の言う「脱亜入欧」でやってきて、いまさら武士道でもないだろうと思う。たしか以前にも書いたように「わびしい日本」になっていて、政治の面でもアメリカ一辺倒だけというのはいただけないし、気持ちの上では「武士道」とでも言いたくなるのは分かる。しかし、たしかに歴史は鏡であるにしても、もうとっくに幕藩体制ではなくなっているわけだし、一応豊かな国ということになっているのだから、単純に昔帰りをすればすむというわけのものでもあるまい。そもそもこちらも『国家の品格』という数学者の書いた本を読みもしないで、好き勝手を言うのは多少具合が悪い感じであるのは、いなめない。しかしまったく読む気が起こらないのだから、お許し願いたい。著者も「家族には『敵を作るだけ、普通のエッセイにしておいて』と、たしなめられたが、日本人が自信と誇りを失っている今、日本のすばらしさを熱く伝えたいという思いが勝った」(読売新聞2/8)と言っているのだから、著者の精神衛生に読者はつき合わされているだけかもしれないのに、少しは思考の面で参考になっていると思っているようである。
 著者の心境は、亡くなる前の司馬遼太郎さんが感じていた思いに近いのでは、とこちらは勝手に推測している。司馬さんは鎌倉武士の「名こそ惜しけれ」(名に恥じるようなことはするな)という基本倫理をなんどもなんども反復されていた。そして、後の「武士道」の大きなバックボーンは『論語』より正確には朱子学だった。司馬さんは、第二次大戦後日本は良いように変化したと思いこんでおられたようだが、バブル期以降不況下の日本人のだらしなさを見てこういう面では少しも変化していないのではという強い危惧を抱かれて、『21世紀を生きる君たちに』という、たしか小学生宛の遺書のような教科書用の文章を書かれたが、あそこに書かれていたのは、『論語』にある「忠恕(ちゅうじょ)」という思想が基になっているのだということに入院中に気がついた。『風塵抄』(中央公論社、1991年刊)の「忠恕のみ」という文章を読んだためである。「孔子の弟子の曽子(そうし)(曽参=そうしん)がひとにきかれた。夫子(ふうし)(孔子)の道は、ひとことでいえばどんなことでしょうか。曽子は、答えた」
 「忠恕而巳(のみ)矣」(『論語』の「里仁篇」)
 「忠恕の忠はまごころ・まじめということで」、「恕とは思いやること・ゆるすこと」とのことである。しかし、上記の教科書の文章の正確な記憶があるわけではないが、司馬さんは、こうした事柄を論じる際には、「情」などはいっさい介入させずに、きわめて論理的に合理的に語る人であった。すでに一度ヨーロッパを通過した後の人だからである。




   論語読まずの、論語知らず(3)
2006年5月上旬


 検査入院でも寝転がってばかりいるのは同じだから、やはりただでさえない体力が落ちたまま、回復期間も十分取れないあいだに学校が始まってしまった。新学期というのは疲れるものだが、そういう事情もあり、まったくひどい状態のまま、連休にやっと駆けんだが、あまり回復しないまま二度目の授業再開である。夏休みまでなんとかするしかない。後は検査もあったりするが、できれば休みに入るまでは入院したくないものである。
 さてこの稿もこれで三度目だか、まだ最初の「学而(がくじ)第一」のところに入ったばかりである。タイトルの付け方にはたいして意味はなく、最初の文章「学んで時に之れを習う」の「学而時習之」の最初の二字を取って篇名としているのである。『論語』の各篇の内容が複雑で多岐にわたっているため、篇名を決めるのが難しく、簡単なやり方にしてしまったということらしい。学而第一から筆者の好きな文章をいくつか引く。これでかつての日本人の心の重要な部分を形作った『論語』の内容もおおまかには知ることができるだろう。ただし筆者の嗜好を通してということになる。だから、もちろん『論語』全体を知るには、全体を読むしかない。

   子曰わく、君子は重からざれは則(すなわ)ち威(い)あらず、学べば則ち固(かたくな)ならず。忠信を主とし、己に如(し)からざる者を友とすること無かれ、過(あやまて)ば則(すなわ)ち改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ。(「紳士は、おもおもしくなければ威厳がない。学問をすれば頑固でなくなる。忠実と誠実を、主要な道徳とせよ。自分に劣るものを友とするな。過失を犯したら、躊躇なくあらためよ」)。

 子曰わく、君子は食飽くを求むること無く、居安きを求むること無し。事に敏にして言に慎む。有道(ゆうどう)に就いて正す。学を好むという謂(い)う可(べ)きのみ(「紳士は、食事にあたって満腹を求めず、住居については安楽を求めない。さらにたとえば行動に敏捷であり、言語には慎重であれ。そして、自己だけの判断では誤謬に陥ることを恐れ、道徳ある人々に接近してその批判を求める。そうした行為をなしうる人物は、学問を好むものと判定してよかろう」)。

 上の丸カッコのなかが、一般的な解釈であるらしい。一応の解釈は示しておくが、当然異論もあり、解釈自体がそうとうややこしい。時間の節約のために一般的なものを選択しているだけである。以上は『論語』にはよくありそうな文章で、そういう意味ではあまり面白くないが、いちいちもっともである。

 子貢(しこう)曰わく、貧しくして諂(へつろ)うこと無く、富んで驕(おご)ること無きは、何如(いかん)。子曰わく、可なり。未(い)まだ貧しくして楽しみ、富んで礼を好む者に若(し)かざる也(なり)。子貢曰わく、詩に、切(せっ)するが如く、磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く、磨(ま)するが如しと云うは、其(そ)れ斯(こ)れを之(これ)謂(い)う与(か)。子曰わく、賜(し)や、始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。諸(こ)れに往(おう)を告げて来(らい)を知る者なり(子貢、「貧乏はしているが、卑屈でない、金をもっているが、傲慢ではない、というのは、いかがでしょうか」。孔子、「よろしい、いけなくはない。しかし貧乏でありながら楽しみ、富んでいてしかも礼を好むものには、及ばないであろう」。すると子貢、「『詩経』の詩に、いやが上にも磨きをかける、いう意味の句がありますが、それはこのことを、指すのでしょうか」。孔子「お前こそ、詩の分かる人間といってよい。何となれば、与えられたものから、与えられていないものを、お前はひきだし得たから」)。

 子貢は、宰我(さいが)とならんで、「言語」にすぐれた弟子だったらしい。金儲けもうまく、貧乏だったのが、後に金持ちになったので、この問答があるといわれているらしい。筆者とすれば、「西洋哲学」流にテクニカル・タームに従う論理一辺倒でなく、日常生活から一ランクもニランクも上がったところで会話が行われ、すぐに詩などに広がっていく話の進め方が気持ちがいい。もちろんこんなことになっているのは、伝統の相違からである。気持ちがいい反面、無知なところに入りこんでしまったので、少し心配にもなってきている。体調があまりよくないことも関係がありそうだが。ちなみに、ここで問題になった詩を引用しておく。衛(えい)の国の民謡から取られたものらしい。

彼(か)の淇(き)のかわの奥(くま)を瞻(み)れば
緑の竹の猗猗(いい)としてうつくし
有(げ)にも匪(あざや)けき君子は
切(せっ)するが如く磋(さ)するが如く
琢(たく)するが如く磨(ま)するが如し

もちろん最後は「切磋琢磨」の語源だろう。




   論語読まずの、論語知らず(4)
2006年7月上旬


 先月は二週間ほど入院しなければならなかったし、検査入院と手術とを兼ねていたので、ホームページには書かないほうかいいだろうと思い、休むことにした。しかし、元気さえ出れば書こうとも思っていたが、結局はダメで気力が湧かなかった。退院後夜中によくトイレに行くので、あまり眠れず、睡眠不足ぎみで学校に行くものだから、疲労度はすさまじかった。昨日退院後初めてよく眠れた感じだったので、なんとかしようとしている。しかし、検査の結果がかんばしくなかったので、今月末か来月の初めにはまた病院に戻る。短い検査入院らしいが、それ以後はその結果しだいということらしいので、剣呑なことにならないことを願うのみである。
 さて今回の論語は「為政第二」を見る。

 子曰わく、政(まつりごと)をなすに徳を以ってせば、譬(たと)えば北辰(ほくしん)の、其の所に居て、衆星(しゅうせい)の之(これ)に共(むか)うが如し(北極星は、じっとその場所にいるだけだが、他の多くの星どもは、それを中心として旋回する。道徳による政治の、人々に対する関係も、その如くであって、人々は、あるいは、万事は、それを中心として、円満に進行する)。

 子曰わく、之(こ)れを道(みち)びくに政(まつりごと)を以ってし、之を斉(ととの)うるに刑をもってすれば、民免(まぬが)れて恥じ無し。之を道びくに徳を以ってし、之を斉(ととの)うるに礼を以ってすれば、恥有りて且つ格(いた)る(人民の政治を法律の規制によって行い、規制にはずれる者が出た場合、刑罰で整頓したりしていれば、人民は抜け穴ばかり考え、恥じらいの心を忘れるだろう。先の文章からも明らかなように、さらに優れたやり方は、道徳による政治である。道徳によって人民を導き、礼すなわち文化的な生活の規則で、整頓すれば、恥ずべきことを恥じる心がおこり、かつ格(ただ)しくなるであろう)。

 「為政」だから政治の話で始まっている。孔子が目指すのはいわゆる「徳をもって化す」とされる、古代の聖人たちのごとき皇帝たちの政治で、進歩をもっぱらとする西洋と比較すれば、「昔がえり」を考えているのだから、方向では逆向きになっている。中国の歴史では、表向きの政治は、ほぼすべからく儒教によっている。教えがどれだけ忠実に守られていたかという問題はまた別の話だということだろう。多分ずっとこれだけで済ませているというのは、かなり怪しげなことが行われていたという、かなり東洋的な話になりそうである。そして、こうした素晴らしい政治を行ってくれる君主には「忠」でなければならないし、国を支えている基本単位の家庭の中心にいる父母に対しては「孝」が強調されることになる。

 孟武伯(もうぶはく)、孝を問う、子曰わく、父母は唯(た)だ其の疾(やま)いを之れ憂(うりょ)う(病気以外のことでは御両親に心配をかけないようになさい。病気は不可抗力だからやむをえないとして、それ以外のことでは両親に心配をかけない。そういう風にするのが孝行です。孟武伯は、魯の国の孔子のかつての同僚の子どもらしい。)。

 子游(しゆう)、孝を問う。子曰わく、今の孝なる者は、是をよく養(やしの)うと謂(い)う。犬馬(けんば)に至るまで、皆な能(よ)く養うことあり。敬(けい)せずんば、何を以って別(わか)たん乎(や)(いま普通に孝行といっているものは、物質的な奉仕にすぎない。犬や馬でも、人間に奉仕をする。犬は家の番をし、馬は労働を提供する。それも奉仕ではないか。敬虔の情を伴わない限り、子の親に対する奉仕を、犬や馬の人間に対する奉仕から、どうして区別しうるか。敬虔の情を伴ってこそ、孝行である。なお子游は孔子の有力な弟子のひとりで、「文学には子游と子夏」といわれたらしい)。

 あまりにもうっとうしい親殺しとか子殺しなどの類がいくらでも生じてくる世の中になってしまうと、こういう文章を読んでいても、あまり古めかしいという感じがしない。秩序を説いているわけだから、むしろどこかで、ほっとする。もちろん、親子関係は「色(いろ)難(かた)し」である。色つまり親や子の顔色や態度を見て、意向に沿うように言動を調整することが一番難しい。今なら一方的に子から親へだけと話を限定することもあるまい。それにこれは、親子にかぎらず、人間関係の難所でもある。少し封建道徳的な宣伝をしたので、かたくるしい話から離れた文章も引いておく。

 子曰わく、詩三百、一言を以って之を蔽(おお)えば、曰わく、思い邪(よこしま)無し(『詩経』には三百以上の詩がはいっているそうだが、端数を切捨て三百にしたわけで、もちろんいろいろな内容の詩があるわけだが、「思い邪無し」、つまり「純粋な感情のみ」を表現しているものが、詩なのである)。

 孔子は詩と音楽とをきわめて尊重し、重要視していた。




   論語読まずの、論語知らず(5)
2006年8月上旬


 近頃は大学もセメスター制とかで、春の分は独立して単位を出さなければならない。確か昨年より締め切りが一日早かったので、間に合わせられるつもりで動いていたが、やはり体力がかなり落ちているようで、最後の日には妻の協力をえてやっと終了という始末である。そして、先月末の病院での検査の結果を数日後に聞けば、今後の去就はある程度明確になる。いずれにしろまた入院であることは確実である。

 「為政第二」の続きを見る。

 子曰わく、吾れ回(かい)と言うこと終日(しゅうじつ)、違(たが)わざること愚なるが如(ごと)し。退(しりぞ)きて其の私(わたくし)を省(かえり)みれば、亦(また)以って発するに足れり。回や愚ならず。(「回とは弟子の顔回(がんかい)である。姓が顔、名が回。字(あざな)は子淵(しえん)であるので、顔淵(がんえん)とも呼ばれる。孔子と同じく魯の国の人であり、三十歳の年下であったが、孔子のもっとも愛する弟子であった。且(か)つこの愛弟子(まなでし)は若くして死んだので、彼に対する批評の言葉、また哀惜(あいせき)の言葉は「論語」のなかに、もっともしばしば現れる。ここではいう、わしは顔回と、終日話していても、彼はわしの言葉に、さからわない。ばかみたいに見える。しかし彼が、わしの前を引きさがってのちの、その私的生活、つまり弟子たちと一緒にいるときの言動を、観察すると、人をはっとさせるものが充分にある。かれは、ばかではない」)。

 もちろんここでは近頃のニュースに毎日のように登場する小人(愚か者)どもではなく、君子(立派な人)である顔回が話題なので、こういう言葉を聞くと気持ちがすっきりする。小人とは違って、君子=紳士は自己を律することができる人たちだからである。君子の話題が続く。

 子曰わく、君子は器(うつわ)ならず。(「紳士は技術的ではない。すべて器物というものは、ある用途のためにつくられ、その用途のためにのみ有効である。紳士はそうであってはならない」)。
 子貢(しこう)、君子を問う。子曰わく、先(ま)ず其の言(げん)を行(おこの)うて、而(しこ)う)して後に之に従(したご)う。(「弟子の子貢が君子の資格を問うたのに対し、与えられた孔子の答えは、不言実行ということであった。すなわち、言語としてあらわすべきものを、まず行動としてあらわして、その後に言語が行動を追っかける)。
 子曰わく、君子は周(しゅう)して比せず、小人は比して周せず。(「君子は友情に富むが、仲間ぼめはしない。小人はその反対に仲間ぼめはするが、真の友情はもたない)。
 君子にとっては「徳」つまり今風にいえば「美徳」が重要課題なのだから、どうしても倫理や道徳が正面に出てくる。つまり肝心なのは「不言実行」ということらなるわけだが、もちろん学問がおろそかにされるわけではない。

 子曰わく、学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則(すなわ)ち殆(あやう)し。(「学ぶとは、読書を意味し、思うとは思索を意味する。むやみに読み漁るだけで、思索しなければ、則(すなわち)罔(くら)し、混乱を来たすばかりである。逆にまた、空(くう)な思索をするばかりで、読書をしなければ、則(すなわち)殆(あやう)し、生活は独断に陥り、不安定である」)。

 そして、学問や徳のめざす最終目標は、人民に幸福をもたらすような政治である。だから、次のような問答も出てくるわけである。

 或る人孔子に謂(い)いて曰わく、子奚(な)んぞ政(まつりごと)を為(な)さざる。子曰わく、孝なる乎(かな)惟(こ)れ孝、兄弟(けいてい)に友(ゆう)なり、政(まつりごと)有るに施すと。是れ亦(ま)た、政(まつりごと)を為すなり。奚(な)んぞ其(そ)れ政(まつりごと)を為すことを為さん。(「ある人が孔子に語りかけた。あなたはなぜ政治家にならないのか。政治に対する発言をしながら、なぜ実践活動にはいらないのか。それに対する答えとして、重要な古典である「書経」の言葉を引きつつ、私はげんにこうして家庭の道徳をたかめることに努力している、それも政治なのだ。わざわざ政治家になる必要はない。と大体いったらしい」。「引用された書経は、兄弟に友なるは、有政に施すなり、までとするのが、普通の説」だが、「施於有政の四字の意味は、充分につきとめにくい」ということらしい)。




   論語読まずの、論語知らず(6)
2006年9月初旬


朝夕はだいぶしのぎやすくなって、いくらか秋らしい感じである。しかし、猛暑の中をほとんど出かけることなく過ごしたにもかかわらず、体力は回復しないし、時たまこれではならずと何か身体を動かしたり、散歩でもするとひどく疲れるだけである。ほんとうにゴロゴロしている間に時間がたってしまった。しかし、先月末には検査の結果が分かってどうやら手術を受けなければならないらしい。目下はそのための検査をやっているところである。後は少しは体力をつけることと、何をどうしたものやら、人の意見を聞いたりするしかなさそうである。

論語のほうもこれで6回目だが、時間が来れば目を通すだけだから、いっこうにハカがいかない。今回は「八?(はちいつ)第三」だが、ざっと見たところあまり面白くない。「八?」とは、「八八六十四人の方形の群舞」で、これは天子のための舞(つまり当時は周王朝のための舞)だが、魯の国の実権者が、これをやらせたという批判から始まっている章である。これに類した文章が多いが、当方としては人間の生き方に興味があるので、どうしてもそうした傾向が多少なりとも強いものから引用するしかない。

子曰わく、人にして仁ならずば、礼を如何(いかん)。人にして仁ならずば、楽を如何(「楽という概念は、ひろくしては音楽一般であるが、おおむね礼の儀式を行う際に演奏される音楽を意識するから、大きくくくれば、楽も礼の中に含まれるが、この場合のように、礼と楽とを、二つの概念として併称することもしばしばである。どちらも人間の文化の表現であるが、併称された場合は、礼は人間の秩序、敬意、厳粛さの表現であり、楽は人間の親和の表現であるとされる。さてこの章の意味は、人間の文化の表現として、最も重要な礼と楽、その根底となるものは、仁、すなわち人間の愛情にほかならない。われわれ人間が、もし人間らしい愛情をもたないとすれば、あの大切な礼はどうなる、楽はどうなる。礼も楽も、いずれも見せかけの文化になってしまって、礼が礼としてもつべき人間的な内容、楽が楽としてもつべき人間的な内容はうしなわれ、空虚はものとなってしまうであろう」)。

吉川幸次郎さんの解説は、儒教にそくしているから、内容に少しズレがあるにしろ、われわれが、どんどん非人間化していっていることを如実に示している、毎日の驚きあきれるニュース報道の内容の見事な説明となっている。

子曰わく、周(しゅう)は二代に監(かんが)む、郁郁乎(いくいくこ)として文(ぶん)なる哉(かな)。吾は周に従わん(「二代とは、周に先立つ夏(か)王朝と殷(いん)王朝である。監(かんが)むとは、周王朝の文明は、前二期王朝の文明の姿を観察参考して、つくられたとする宋儒の説がやはりよろしいであろう。かく過去の文明の長短得失を、参考しつつつくられているから、周の文明は郁郁乎(いくいくこ)として文(ぶん)である。郁郁とは盛大な文明の秩序をいう形容詞である。わたしは、周の文明を、よりすぐれてものとして、それに従おう」)。

現代のわれわれには、従うべき文明などあるだろうか。法律さえなかなか守られない世の中である。

儀(ぎ)の封人(ほうじん)、見(ま)みえんことを請(こ)う。曰わく、君子の斯(ここ)に至(いた)るや、吾未(い)まだ嘗(か)つて見るを得ずんばあらざる也。従者、之(これ)を見(ま)みえしむ。出でて曰わく、ニ三子(にさんし)何(なん)ぞ喪(さまよう)ことを患(うれ)えん乎(や)。天下の道無きや久し。天将(まさ)に夫子(ふうし)を以って木鐸と(ぼくたく)と為さんとす(「いつの旅行のときであったか、孔子がこの儀のまち----現在のどこであるかはよくわからない-----を通りすぎたとき、そこの地方官ないしは守備隊長が孔子にあいたいといった。この土地へおいでになった紳士がたに、私はいつもお目にかかることにしています。お目にかからない方はありません。地方の小都市の新聞記者を連想してよいであろう。 
従者、すなわち随行の弟子が、その要求をいれて会見させた。
インタビューをおえて、旅館の門から出て来ると、その男はいった。ニ三子、お弟子の皆さんがた。何ぞ喪(さまよ)うことを患(うれ)えん、いまはこうして故国をはなれてあちこち旅をしていなさるが、いや、ご心配にはおよびませんぞ。天下の道無きや久し、世界が道徳をうしなってから、ずいぶんになります。だれか救済者がでなければならん。あなた方の先生こそ、その救済者だ。天は将(まさ)に夫子を以って木鐸となさんとす、木鐸とは、舌を木でつくり、すずしい音を立てるところの、小さな鈴である。武事には金鐸、すなわち舌も金属の鈴、それを振るい、文事には木鐸を振るう、というように、木鐸は、文化に関する命令を、役人がふれまわるときの、鈴である。天は、あなた方の先生を、ひろく人類の木鐸とされる思し召しらしい)。

例によって、吉川論語に「おんぶだっこ」である。