松の内
2004年 松の内


 たいていの人はそうだろうが、一茶の「正月や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という句を覚えて以来、正月になるとこの句を思い出す。そして、年を取るにつれて「めでたくもありめでたくもなし」の「めでたくもなし」の比重が重くなってくるのは、だれにとっても共通の現象だろう。
 筆者は長男だったということもあり、おまけに親の家からそう離れたところに住んでいたわけでもないので、正月を親と一緒に過ごさなかったことはほとんどない。六年前に父がなくなって以後も、母は近くにいる妹の手を借りヘルパーさんたちの手を借りながらも一人暮らしを続けていたが、大晦日は女性たちは忙しくなるからというので、筆者が駆り出されて、大晦日の夕方から元日の昼前までを母と一緒に過ごしてから、自宅に帰るという形の正月を四年やった。一昨年は体調が悪くなりついに休んでしまったが、昨年の五月から、母は上に書いた近くの妹と同居することになったので、親と一緒の正月からやっと何十年ぶりかで解放されたことになる。そういう意味では、いくらかうっとうしさが晴れたので、少しは「めでたい」のが増えたのかもしれないが、そう思うのは、多分今年だけのことだろう。
 それで、「めでたくもなし」ということに一応はなるが、やはり一年の区切りは区切りなのだから、今年は、ということも自ずと考える。後どれだけ時間が残されているか分からないが、これくらいのことはやっておこうということに、どうしてもなる。自然の理というものだろう。

 去年の十二月七日(日)に「ふれあいトゥギャザー・とっておきの芸術祭」でやった、息子のコンサートのことも書いておかなければなるまい。梅田の空中庭園の一階でやるはずだったが、主催者の側の都合で空中庭園自体でやることになってしまった。妻が数日前に打ち合わせに行って分かったのである。当日出演者である息子と、司会をやる父親とは、空中庭園は初めてなので、先輩の妻の後にくっついて十分ばかりも歩いて、やっと到着した。二人ともギターをかかえていたので、その分遠い感じがした。ボーカルのときはフォークギターの方がはえるからというわけで、二台持っていくことになったからである。丸くなっている空中庭園の一部にイスが五六十並べてあって、その前が舞台ということである。別段高くなっているわけでもないから、いかにも臨時の舞台という感じで、到着した時にはすでに先発部隊のハンドベルのグループの人たちが演奏中だった。その人たちの後、予定の二時半より少し遅れて開始、お客は最初のうちは二十人くらいしかいないし、前のほうには知り合いの人たちがいるから、隣組みでやっているような感じで一向に緊張しない。しかし終わりの三時十分ころには、満席だったので責任ははたせたという気持ちである。主催者のエージェントの人が、息子の作詞作曲ということになっている「ねえお母さん、あのね」を聞いているといろんな情景が目に浮かんでくるようでよかったと、ほめてくれた。主催者の事務局長さんも同意見と聞かされ、うれしかった。一週間後に分かったことだが、筆者のゼミの学生たちも三人来てくれていたらしいが、舞台のうしろの方の喫茶店のようなところにいたので気づかなかった。年長者ばかりだから、気後れがしたのだろう。

 以前に、わが家の松の木の手入れを自分でやるということを書いたが、これまた以前に書いた病気のせいで、年末までほとんど手付かずだった。少しずつでないと身体が痛みだすので、少しずつやっていたら、とても年内には終わらないということが分かった、松の内くらいまで終りそうにない。みっともないが仕方がない。無理はしないつもりでも、多少あせりぎみなので、背中あたりが異常をきたすことは必定である。やはり正月は「めでたくもなし」、と言うことになるのだろうか。




   呼びかけ
2004年2月初旬


 このあいだ父の法事で、息子とともに大阪のお寺に出かけた。午後二時からということだが、一応主催者なので、かなり早く着いた。お寺の少し手前の道は公園の右側を走っていて、少し空間のあるところに、ハトが五六羽いた。すると息子が、「ハト、ハト」と呼びかけるので、息子がこういうことをやりだした時のことを思いだした。もう十数年以前のことで、場所はたしか摂津峡公園で、同じように公園の道で起こったので、類推的に思い出したのにちがいない。相手は鳥ではなく猫で、確か一階建ての小屋の屋根にいた。「ネコ、ネコ」と息子が呼びかけると、愛想のいいネコで「ニャアー」と答えたのである。もう一度やると、ネコがもう一度反応した。  以来息子は、猫はもちろんのこと鳥にも声を掛けるようになった。鳥で名前を知っているのは、ハトとスズメくらいだから、知っている鳥は名前で呼ぶが、知らないのは「トリ」と呼びかける。猫の場合は時には反応が返ってくるようだが、鳥なら返事の来そうなのはカラスくらいのものだろう。だが、たまには少しくらいは反応があるから、十数年も続けているにちがいない。だが、犬には声をかけない。犬は嫌いなのである。息子が小学生の時、猫と犬とを飼っていたが、犬ははしゃいで跳びかかってきたりするので、好きではないらしい。おせっかいは嫌いなのである。
 大阪の公園でハトに呼びかけた後、しばらくして法事がすみ、場所が変わって食事になると、珍しいことにビールを飲むという。数ヶ月前までは、毎日近くのコンビニで、チューハイとかたいていは甘い酒を買ってきては一年ほど毎日晩酌をしていたが、理由は分からないが突然「もう飲まない」と言いだしてから、半年にはなるだろう。そこらあたりが、どうもこちらとしては分からない。普通は飲酒が習慣化すれば、なかなかやめられないはずなのに、簡単にやめてしまった。どうも飲酒は、彼にとっては、習慣の問題ではなくて、好き嫌いの問題らしい。だからもう飲むのがいやになれば、突然やめると言うのである。その日は、飲むと言う以上酒自体をやめたわけではなかったようである。缶入りのチューハイ一本なら、二日酔いにはならないが、酒のアルコール度というのが分からないようで、二日酔いにならない程度に飲みたいらしい。二日酔いはコリゴリだが、適度には飲みたいということのようである。その時はしきりに聞くから、あまり考えもせずビールはコップに三倍、日本酒はチョコに三杯と適当に返事をして言っておいた。
 ところが、昨日は息子の属するグループの新年会だった。帰ってくると、法事の時に教えたように酒を飲んだらしい。しかし、彼としてはどうも日本酒の方がすきで、日本酒をもっと飲みたかったらしい。そういえば、たしかにビールは苦い。以前に二三度二日酔いになったのは、日本酒をビールを飲む要領でコップに入れて一気に飲んだからのようなので、あらためて聞かれて、ビール三杯と日本酒コップ一杯で、これは少しずつ飲むようにと注意しておいた。おチョコで飲む場合は、とっくり一本と念を押しておいた。二日酔いは二度とごめんのようだから、これを覚えておけば、大丈夫のはずである。ただしおチョコで、ややこしいことになる可能性はありそうである。その時はまた勉強するだろう。自閉症は一面学習障害的なところもあるので、何にしろ教えこむのは楽ではない。
 上に述べたように、彼にとっては飲酒は習慣の問題ではなくて、単に好き嫌いの問題だとすれば、彼が動物に呼びかけるのも、習慣の問題ではなく、そうすることが好きだからにちがいない。こちらはアルコールのようにてきめんの効果は期待できないにしろ、彼にとってはとたまの動物の反応が貴重なものであり続けているかぎり、彼が歩いている途中に動物たちがいれば、いつも呼びかけるに違いない。もちろん、昔の同級生に出会えば、喜んで「だれだれさん」と声をかけているようだが、こちらは人間なのにはかばかしい返事をしてくれる人は多くないらしい。それなら反応はあまり期待できないにしろ、息子が動物たちに声をかけることにこだわり続けるのも道理だという気がする。動物たちの場合には、たとえ返事がなくとも、それは彼に対する好意のあるなしとは無関係で、息子が呼びかけていることに気づいていないというだけのことにすぎないわけだから。




   いちおう春が来て
2004年3月初旬


 今年は二月の平均気温が例年より二度高かったとテレビで言っていた。しかし、暖かかったり寒かったりの繰り返しだったから、二月にひいた風邪が長引き、治るまで二週間以上もかかってうんざりした。だから、三月になれば比較的暖かで、春だと実感できるようになってもらいたいものだと、切に思う。年を取るに連れて、寒いのが嫌で、まだしも暑いほうがと思う。それに暑いときには夏休みだってあるが、この時期はなんやかやあって会議などの仕事に呼び出されることが多いので、のんびりしていられないということもある。
 暖かければ、植物はそのことを敏感に反映するのだか、今年は暖かかったと言っても、少し様子がちがっていて、まず最初に咲き出すのが、「冬至」という梅のはずなのに、これより遅咲きの梅の方が「冬至」より早く満開である。これらは、早く春を感じたいために鉢植えで育てている梅だが、驚いたのは、いつもは一番遅咲きのはずの「麻耶紅梅」という庭植えの木が、もう五分咲きくらいになっていることである。以前の古い家のときは、庭も人の作ったものだったので、気に入らないところもあったし、家の立て替えでトラブルがあって、庭木に神経を注いでいる余裕がなく、大きい木はかわいそうだが切らざるをえなかった。だから、庭植えの梅がこんなに早く咲くのは新しい家になって植えてので、もう五年で初めてのことである。
 これが、何かのいい予兆であればなあ、と思ったりもするが、その手のことは一切信じないほうなのに都合のよい時だけ都合のいいことを考えている。息子のこともあるからである。彼はまだ若いから、寒暖はそれほど苦にはならないようで、彼ひとりが元気に暮らしていて、親の方は老いに耐えつつも、彼がなるだけ楽に生活できるよう支援している格好だが、いつまで続けられるかが問題である。今年は、1月17日に、午前中は高槻の高校生たちによる「冬祭り」に出演、夕方には兵庫県の宝塚市で、「ひこばえコンサート」(「大震災を考える女たちの会」主催)に出演して、それぞれ30分ほど演奏した。すると、後の演奏会に出席していたこの会の会員らしいFM宝塚のパーソナリティーの人から、声がかかり、2月26日には、このラジオの「芸術紹介コーナー」とかに妻とともに20分ばかり出ることになった。その間の2月18日は、家の近所の「高齢者の昼食会」でやはり30分ほど昔の童謡のような懐かしい曲を演奏。28日には、同じ曲目を91歳まで長生きしたが大分ボケてきている彼のおばあちゃんの誕生祝いのために演奏すればということになり、それも終ったが、こうして並べてみると、結構なんやかやあったわけで、それを良しとして庭の梅が早く咲いてくれたのかもしれないなどと、上に書いたように都合のいいことばかりしか考えない。
 しかし、三月は例年通りの「ライフ・ケア新春交流会」で15分だけ演奏をすれば、後は今のところ予定は入っていない。「麻耶紅梅」の早咲き効果もこれまでかどうかは、今のところは分からないままである。早咲き効果を信じることにして、筆を置くことにする。より正確には、今月のホームページ用ワープロの打ち終わりとする。




   花見頃
2004年4月上旬


 四月に入って春本番になったが、今年は東京の方で一週間ほど早く桜が咲くという何十年ないのではないかという異変である。ここらあたりは、3 、4日あたりが見ごろとのことだが、当方は実は昨日一応花見はすませた。京都の長岡京市にあるかかりつけの歯医者さんに、同僚であり友達である男を、紹介して治療してもらいに行く途中、長岡天神の池のそばの道を通っていくと、桜のトンネルができていて、六分咲きか七分咲きながら、一応楽しめた。関西の人ならたいていご存知だが、ここはいつからだか知らないがツツジの名所ということになっているが、昨日まで桜も楽しめるということは知らなかった。
 息子の仲間のグループの「根っこの会」の花見は二日後の日曜らしい。集合場所はわが家から歩いて十分くらいの芥川ぞいにある、今では公園のようになっている「桜堤」といわれる場所である。一応ここらあたりでは、桜の名所ということになっている「摂津耶馬溪」のある攝津峡などに行けば、土日なら昼間から何十台ものカラオケのマイクの放列で、ウルサイだけだから、あれで花見をしているつもりの連中の気が知れない。遠からず耳が遠くなるだろう。
 そこへいくと、芥川の桜堤なら規模は小さいが、夜でも「摂津峡」ほどマイクの音はすさまじくないだろう。もっともこちらは朝の散歩のときに見物するから、誰かが場所取りをしているのを見るだけで、騒音は避けているので実際はどうだか分からない。ちなみに、この芥川という川は、全国最古の「芥川」で、近くに今ではまことにサエナイ「阿久刀神社」という神社があり、その「アクト」がなまって「アクタ」になったらしいので、日本で一番古い「芥川」らしいのである。たしか紀貫之の「土佐日記」にも、土佐から京へもどる途中芥川までやってくると、もう京はすぐそこだと喜ぶくだりがあったことを今思い出した。
 息子たちの花見も、どうも「花より団子」の口らしいから、集合場所は桜堤でも、どこかにぎやかなところへ繰り出すのではないかと思う。筆者は例によって明日の朝はいつもの桜見物のつもりである。それが終わると新学期だからもうすでに忙しいのが始まっていて、桜見物が終わると一泊二日の「新入生学外オリエンテーション」とやらにも行かなくてはならない。その後はまた授業である、長年やっているから、たいがい飽きがきているが、後数年は忙しい思いをしなければならないようである。
 芥川の桜堤は、多分10年ほど以前に、護岸工事だかなんだか知らないが、コンクリートで固められてしまった。公園風にしてあって少しは石も使ったりしてあるので、ただのコンクリートの壁よりはましだけれど、あれで良くなったと市役所の人たちは考えているのだろうか。市民で良くなったなどと思っている人はほとんどいないだろう。
 ただ、前からあったのかどうかは知らないが、たしか藤原為顕という人の小さな歌碑が川のそばに建てられて、そこには次のような歌が書いてある。これも、記憶に頼って書いているので、正確だかどうかわからない。間違っていたら、ご容赦のほどを。

花もまたちりぬるはてのあくた川
かへらぬ波に春もくれぬる




   和生の作曲
2004年5月初旬


 妻に尋ねてみたら、息子の和生が作曲を始めたのは29歳くらいかららしい(現在33歳、8月には34歳)。ピアノの先生が作曲家でもあったので、多分いろんな試みもあったのだろうが、それまでは和生がのってこなかったのだろう。3年ほど以前に少し用事があって、息子について行って、レッスンが終わってからその先生と話をしたので、作曲のレッスンの様子も理解できた。息子が少し作曲してみても、あまりいい感じでないと、いろいろ言葉で説明して、情景が目に浮かぶような具合にもっていって再度試みさせるというようなやり方だった。その頃でもう十年以上は通っていたので、先生も和生がどんな人間か、それなりの把握があったからできた芸当だろう。そんな風にしてできたのが、新しいCD「words」に入っている「猫のミミ、逃げたり走ったり」、「寝てるチーコ」、「ねえお母さん、あのね」などである。ところが、CDの制作の最終段階で、トラブルがあって嫌気がさしてしまって、もうその先生のところには通わせないことにした。習慣が変化するのを極度に嫌がる障害があるので、息子は通いたがったが、理由は息子にも理解できるほど単純なことだったので、なんとか納得してくれた。
 しばらくピアノのレッスンは休みとなり、そのあいだ新しい先生を探して出すまでには、かなり時間がかかったが、今では新しい女の先生のところで、ピアノのレッスンついでに、作曲の方も見てもらっているが、まだそれほどなじみがないので、多分試行錯誤の最中だろう、と推測する。
 先生が変わったことが影響してか、息子はかなりの間作曲を休んでいたが、息子が楽譜にメモしていたので、昨年の10月9日に再開し10月の13日までのあいだに、「大阪府高槻市立第二中学校の加藤恵子先生」という、これまで誰もこんなタイトルの曲は聴いたことがないと思われる曲を、あっという間に仕上げてしまった。今度は本人以外に注文をつける人間がいないので、速かったのである。ちなみにタイトルに出てくる先生は、中学卒業時の担任の先生だった。この先生が好きだったらしい。
 それ以後一ヶ月に一曲くらいのペースで、その後も作曲が続いている。タイトルを並べていくと、2曲目「石塚芳子おばさん」、3曲目「吉松陽子おばさん」、4曲目「吉松茂四郎さん」、5曲目「北田睦子さん」、とここまでは妻の兄弟や友人の名前である。
 6曲目「富田岩男くん」、7曲目「大塚直樹くん」、と今度は年に一二回行く、セラピーのキャンプで出会った友達の名前が並んでいる。もちろん友達といっても、話ができるわけではないし、ただ顔見知りという程度の人たちだが、いずれも息子の気に入った人たちであることは間違いない。
 これからやるのは、「木村愛ちゃん」というタイトルで、息子が会ったときにはまだ赤ちゃんだったらしいが、今では小学生になっているらしい。もう5,6年以前のことで、この「愛ちゃん」にも、やはりキャンプで出会って、いまだに覚えているのだから、だいたい赤ちゃんの泣き声が嫌いで、姿を見れば逃げたすくせに、この「愛ちゃん」はよほどお気に入りだったとみえる。
 次々に作るから、やはり息子としても工夫をしようとするらしく、昔の採譜をさせられたものやらなんやらかんやらいろいろ引っ張り出しては、参考にしているとは妻の話である。筆者としては、息子がこんなに音楽に熱心に取り組んでいるのを始めて見たわけで、びっくりがいまだに続いている。なにしろ、一日三時間くらいが、三日は続くのである。
 出来あがるとピアノ先生に見てもらい、少しはアドバイスを受けているようで、「強弱をつけていらっしゃい」とか、「変ロ長調に変えて」とかという注文がついたりするらしい。
 妻の体調もあってしばらく会っていなかったギターの先生のところにも、先週楽譜を持っていったところ、やはり驚きであったようで、一度ピアノの先生にも会ってみなければ、ということになったらしい。ともかく、それほど立派なものが出来上がるはずはないのだが、本人も楽しそうにやっていることだから、結構なことだと思っている。

 P.S. 今度は管理人さんがホームページの更改をしてくださって、誠に有難うございます。もうかれこれ10年くらいなにかとお世話になりっぱなしですが、お名前を出すとお嫌なようなので、あえて書きませんが、今後ともよろしくお願い申し上げます。
 なお、和生も今度は自分の作曲した曲の曲名が出るのを、目ざとく見つけて細かい注文をつけるので、もう寝ようと思っていたのに、かなり迷惑でした。これも障害のうちになので、あきらめざるをえません。

 



   浜松からもどってから
2004年6月上旬


 5月5日の「子どもの日」に息子の和生は、浜松でのお祭りに参加するため、妻と朝早く出発して、その日のうちにコンサートをすませ、一泊して翌日の午後の3時には、家に戻っていたらしい。筆者は仕事があったので、同行はしなかった。
 和生はいつものように、特別のことでもないかぎり何も言わないので、妻から聞いた話である。浜松でのコンサートは野外だったので、歌を歌うときには声を張り上げたりするので、人が立ち止まったりするが、ギター演奏になるとどうしても大音量にはならないので、あまり目立たなくて人の注目を引く事は少ないようである。たしか三年前の仙台の「とっておきの芸術祭」に参加したときも、やはり野外で、すでに大阪ではすごく人気者になっていた押尾コータローさんが同行していてくれていたにもかかわらず、二人がかりでもしょせんギターでは、すさまじくないバンドに対してですら対抗できるものではない。それが今回も確認できたので、今後は野外の演奏は避けたほうがいいという教訓にはなった。4月20日過ぎのコンサートは屋内だったので、とても好評だったと主催者から言われた後のことなので、なおのことそう思ったわけである。
 もうすでに6月に入っているので、記憶がはっきりしていないところがあるが、帰宅後妻は病気もちなので2, 3日は多分寝てばかりだったと思うが、その後元気になると、なんやかやで外出が多くなり、疲れては数日ダウンという普段のリズムに戻っていた。リハビリもやったりしているので、以前と比較すればずいぶん元気なったのを喜んでいたが、どうもしばらく前からの梅雨入りだかどうだか分からなくなったころの季節の変わり目に、普段より余計調子が悪くなり、ほとんどダウン状態である。
 こういう時には、和生のひどい偏食も余計こたえるようで、息子への文句も増えているらしい。すでに書いたように白いご飯はまったく食べなくなっている上に、やれ「あれがくさい、これがくさい」では、食事の担当者としてはたまったものでないのは容易に推測がつくし、普段ならあまり小言も出ないですんでいるのだが、疲労感が濃いとどうしてもそれにつれて注文も多くなっているらしい。
 ところが数日前に、NHKの朝の番組で、「味覚障害」というのがあって、味覚自体の変化も、亜鉛不足で起こるし、「風味障害」とか言っていた嗅覚の障害もやはり亜鉛不足で起こるとかいう話をしていた。多分4,5年前に、長年の和生の問題だった口内炎が、耳鼻科に行ったところ、やはり亜鉛不足が原因だということで、しばらく亜鉛を摂取していたら、ウソのように治ったので、ちょうどその後に生じた「クサイ、クサイ」も亜鉛不足である可能性は十分ある、と当方は勝手に考えている。まあひどい偏食があっても、別段命に直接支障をきたすわけではないにしても、毎日食べる食事のことだから、この問題が解決すれば、ここ数年間の家族の悩みは解消することになる。こんなに有難いことはないのだが、まだ検査前なので、勝手な推測にとどまっているが、なんとかこれが現実になってくれたらというのが、切なる願望だが、さてどうなりますやら。
 こちらも学校が始まってそろそろ疲れがたまってくるころだし、いつもよりあれこれ学生数が増えて余計いらざる神経を使わされている。科目にもよるが学生数でクラスの扱いに相当変化が生じ、そこのところの按配の決着にはもう少し時間がかかりそうである。そういうこともあるので、あれこれ厄介なのは困るわけで、妻の気候の変わり目の病気の重度化も切実である。ここしばらくが勝負どころで、早く決着がついてくれて、毎年のことながらなんとか無事に夏休みに駆けこめればというのが、目下の課題である。課題もいっこうにさえなくなっているのも、ほとんど老人化しかかっているせいかもしれない。しかし次回もやっぱり月並みに今度は「アツイ、アツイ」ということになってしまいそうな感じだが、そうならないように努力します。




   八月のような七月
2004年7月上旬


 先月は、どうせ七月になれば暑くなるので、暑さの話はすまいと思っていたのだか、どうもこう暑くでは、少しは「ぼやいて」おかないと、精神衛生上もよくないので、やはり「言ふまいと思へど夏の暑さかな」になってしまう。もう四五年以前からだろうか、むやみと暑くなるのが早くなっていて、みんなが温暖化を言う。それはそのとおりだろうが、今年のようにひどくては、いったいこれから先どうなるのだろうと心配になってくる。
 これまではたいてい七月に入ってしばらくしてから、上着を着なくなっていたのだか、今年は七月に入ったとたんにやめてしまった。七月になったというより、八月になったという感じだったからである。男の場合はハンドバッグなどという便利なものはないので、財布や手帳、それにボールペンなどの筆記具類はカバンにつめこんだりするしかない。小銭入れはズボンのポケットである。しかし、上着を脱いだ当座は調子が狂うので、よほど用心していないと上に書いたようなもののどれか一つをなくしてくやしい思いをする。そういうことがあるので、なるだけ我慢をすることにしているが、我慢にも限界がある。近頃の真夏でも、まだ背広にネクタイを着用しなければならない人も結構いるようで、「つらいでしょうね」と言えば、たいていは「慣れていますから」という答えが返ってくるにしても、内心できたら脱ぎたいと思うのが、当然の生理現象である。湿気の少ないヨーロッパ諸国のマネも次第にすたれていくだろう。
 先月息子の偏食のことを書いて、亜鉛不足で「クサイ、クサイ」だったら、亜鉛を補足すれば、問題は一挙に解決すると期待をこめて書いたが、病院での検査の結果は、「別段不足していない」というものだった。風味障害とかいうにおいの障害は亜鉛不足とは関係がないらしい。息子は鼻の具合がよく悪くなるので、間があいて、診察を受けるとなると何時間も待たされるとかということで、月に一度は耳鼻科に通ってはいるのだか、においに関してはどうにもならないらしい。
 そうこうしているうちに、彼はお母さんの作る料理にすっかりあきてしまったようで、朝飯はぬきで、昼と夜は外食ということになってしまった。先月のなかばころからである。たしかに親は老人の類で、ついそちら向きの料理をこしらえてしまうということもあるにしても、いわゆる「お袋の味」がいやになる時期もあるのだから、いたし方がない。確か昨年もそういう時期があってしばらく外食が続いたが、今年も同じ経過をたどるだろう、とタカをくくっている。しかし、彼の外食の仕方も念がいってきて、まずずいぶん時間をかけて何か一品を選ぶなり、二品を選ぶなりするらしい。ところが問題はその後に生じるわけで、彼の鼻が拒絶するものは、ボツとなる。つまり食べない。その後残った一品が食べられ、それで食欲も満たされるなら、それでおしまいになるが、たいていはそうならないので、後二品くらい追加になることもあるらしい。何度も書いているようにご飯を食べないのだから、簡単には食欲は満足しないのである。
 多分彼と外で食事をした人にしか分からないだろうが、彼の食事選びには想像を絶するほどの時間がかかる。自閉症的なこだわりで、メニュを隅から隅まで見て、分からないのを尋ねて念を押しながら決めるのだから、時間がかかって当然だが。それと、もう一つ問題がある。外食をして残してくるのだから、「くさくて食べられない」などと言おうものなら、「どこがくさい」と怒鳴られるだけがオチである。だから、おなかが一杯で食べられない、と言うように妻は指導している。お金は払っているわけだから、今のところトラブルはないが、その内何か出でくるかもしれない。おまけにバスに乗ってまで、目をつけたところへは行くのだから、時間もかかればお金もかかる。また昔の「金食い虫」が、彼の中で息を吹き返したようである。南無三宝。




   迷走台風 迷走和生
2004年8月上旬


 7月終わりの台風は、別段迷走台風と言うことにはならないようで、高気圧の張り出しが少なかっただけで、その少ない張り出しの高気圧に沿って動いただけのことらしい。そういう説明になっているのだから、そのとおりなのだろうが、こちらとしては、なんだかとんでもない時期にとんでもないところを通るふたつ目の台風がやって来たものだから、感覚的には迷走台風という感じがする。まだ中国や四国地方などでは雨の心配もあるらしい。雨と言えば、これも新潟やら福井やらで大雨になり、とんだ災難だが、いつもながら言うことが古いが、なんだかあれこれ天変地異が続くと、どうもただ事ではすみそうにない感じである。
 いわゆるバブルなるものがはじけてから、人間の品性も卑しくなったようだし、悪い事をする人や自殺をする人も増えた上に、気候でも手を変え品を変えての異変が続いている。おまけに外国のほうでも相変わらずおかしな具合で、イラクのことはどうなるのやらという気がする。アメリカの横暴はまだたまだ続きそうだか、いい加減にしてほしいものである。昔から宗教のほうで言う末世末法ということのようで、「この世の終わり」もそう遠くないような気になってくる。もつとも老人の繰言と言われそうだが。
 筆者は学生諸君の無知さ加減に、「この世の終わり」を感じる。もっとも彼らには、そんなことは「どこ吹く風」だろうが。しかし、こうした現象は、すでに親の世代から起こっている。第二世代目の現象だから余計に深刻に見えてしまう。手の打ちようはあるのだろうか。先日学校の行事のFD(Faculty Development)に参加した際、対抗策として、72歳の教育学専攻の京大名誉教授が一席ぶって、途中の理論の荒さには閉口したがこちら流に簡略化すると、明治時代以来の政治主導官僚主導の教育は結局は失敗で、今最後に残されているのは、親や教師が、日本固有の文化について真剣に考え、言葉だけではなく自らの行動を通して「しつけ」をやること、きちんとした「言葉づかい」を教えることで人間関係を復活させることを教育の基本と考えるべきで、昔ならごく自然にやれたことが今やおろそかにされ、ないがしろにされすぎているという結論で終わった。しかし親の世代でもあやしくなっていることが、そう簡単に取り戻せるのかと疑問もわいたが、まあそこいらからなんとかしようとするより仕方がないのかもしれないとも思う。少子化で、大学も生き残りのため、必死にならなければならなくなっているから、こういうFDなどという訳の分かったような分からないようなことまでやっているというわけである。ここも迷走しているという次第である。
 息子の和生の食事の迷走も、まだおさまりがつかない。たいぶ飽きてきているのでは、という気配はあるのだが、まだやめるというところまでは行っていなくて、もう一ヶ月半くらいにはなるだろう。妻にしてみれば、ただでさえ偏食があるのに、外食ばかりではさらに偏食がひどくなるという心配はあるにしても、一面一番厄介な息子の食事のことを考えなくてすむ、という利点もあるらしい。ともかく息子のことは、文字通り一端言い出したらテコでも動かないので、ほおって置くしかないのである。決めるのは本人任せにしてある。こちらでなんとかできることなら、できるだけのことはするが、どうにもならないのだから、なるようになれと達観するほかない。息子の事に関しては、わが家の親たちは簡単におシャカさまになれるのである。




   小鳥の訪問客
2004年9月上旬


 先月の初めに、月初めの文章を書いていたときには、表題の小鳥の訪問客はわが家に来たばかりで、「ピーピー」鳴いていたか、書いた直後くらいにわが家に現れたのである。近くのコンビニに行った妻が道路わきに巣から落ちたどうもハトではないかと思われる鳥の赤ん坊を連れて帰ってきて、飛べるようになるまで育てると言い出した。道路のそばだからいつ車に轢かれるかわらないし、親鳥も近くにいたらしい様子だったとのことだから、後でもつけてきて、訪ねてくるのではと思っていたが、そんなことはなかった。子どものときにスズメを育てたことがあるという妻が、洗面所と風呂場がくっついているところに置いて、野菜をまぜたご飯粒をねっては一時間おきぐらいに食べさせていた。
 着いたころは手のひらにすっぽり入るていどのほんの赤ん坊で、むやみと「ピーピー」鳴いてばかりいる。おなかがすいていれば口をあけて鳴くので、空腹だということがすぐ分る。それに洗面所に入っていけば、明けっ放しの窓際にいるのがすぐにそばまで飛んでくる。長距離はむりだが、その程度は飛べるのである。四五日いるうちに、近くの釣具屋さんに釣りえさのミミズを売っているということが分り、それを買ってきて食べさせると、やはりご飯粒よりうまいとみえて、こちらの方が食が進むようである。
 あまり狭いところに置いてばかりではかわいそうだということで、二三日したら居間にも時々連れて来たりするようにしていたが、いたるところにのべつまくなし糞をするので、やはりときたまにせざるをえない。一週間ほどもいるあいだにずいぶんなれて、掃除に来てくださる人にも愛想をふりまくのですっかり人気ものになった。
 しかし、なかなかひとり立ちできそうもないし、鳥のほうもすっかりなれてしまって居つくかもしれないので、籠でも買ったらどうだろうという話になっていたとき、思いがけないことになった。鳥が来てから十数日すぎたころ、妻は買い物で、筆者は書斎にこもっている午前中のこと、息子が洗面所に入って出ようとすると、小鳥もいっしょに出ようとしたらしい。あまり居間にはこさせないようにしているので、息子は鳥を外に出すまいとあわててドアを締めたらしい。其の時運悪く、鳥の首がはさまってしまったようで、首の骨が折れてしまって即死してしまったのである。
 筆者はそんなこととは露知らないから、洗面所に鳥がいないので、息子に尋ねたところ、上に述べたことを、つたない言葉でなんとか教えてくれた。つたないながら一所懸命話す様子から、悪意はなかったのに鳥が死んでしまってすまないという感じがきちんと伝わってきた。鳥の姿は見えないはずで、妻がすでにビニールに包んで冷蔵庫に入れていたのである。
とうとうこの訪問客は、帰ることができなくなって、その日の夕方我が家の墓所に葬られることになった。墓所というのは、庭の一隅で、すでに二匹のネコが永眠している場所のとなりである。

  ながらくお騒がせし、一ヶ月半ほど続いた息子の外食は、小鳥がやってくるのと、ほとんど同時に終わることになった。外食自体に飽きてしまって、注文したものが食べられなくなってしまったからである。しかし、どうもまだおかあさんのにもいくらか不満もあるようで、長いあいだ食べることのなかった、インスタントの麺類を食べると言い出したりしだしたので、驚いているところである。まあなんとか落ち着いてほしいが、暑さのせいもあって、胃の調子が落ちているようでもある。




   息子との外出
2004年10月初旬


 息子の和生と二人で外出することはほとんどないが、昨年のたしか五月から、それまで自宅で人手をかりながら一人暮らしをしていたおばあちゃんが、妹の家に同居することになったので、月に一度くらいは、息子と一緒に「おばあちゃん訪問」をする。おばあちゃんは、八十に手が届きかけたところで、意識も失わない程度の軽い脳梗塞が起こったため、海馬をやられてしまったらしく、それ以来今年92歳になるが、ずっと近い記憶はまったくだめである。せっかくかなり時間をかけて出かけても、目の前にいるときはわかっていても、目の前から離れると訪問をしたということ自体が彼女の脳には残らず、消えてしまうのでは、訪問のしがいがない。
 おまけに近頃は高齢が進んだので、痴呆がひどくなり、こちらをこちらと確かに認識しているかどうかも不明になってきているので、まことにたよりないという感じである。まあそれでも親子だし、祖母と孫だから、ときたまにしても訪ねていって顔色というか、元気さ加減を見てくることにしている。
 息子が小さい子供のころには、自閉症の特徴で時間にきわめて厳格で、出発時間が決まっていると一分たりとも遅延を許さなかったが、今はわが家で一番出発時間にルーズなのは彼である。自閉の症状が軽くなったからだろうが、それにしても一緒に出かけるときにはすくなくとも十分くらいサバを読んでおかないと、予定の電車に乗り遅れてしまいかねない。サバを読んでおいても、ずいぶんせかさないと、出発間際になんやかやと思いついては、それを実行するので、ハラハラさせられてばかりである。時間どおりに行かないとヘルパーさんが帰ってしまって、おばあちゃんが一人きりになってしまうかもしれないからである。
 家を出てバスに乗り、次はJRである。息子は、快速にこだわりがある、快速にはトイレのついている車両があるからで、割合トイレの近い彼には、苦い思い出でもあるのか、快速のトイレつきの車両に乗りたがる。しかし、緊急の時には快速でも鈍行でも間に合わせられるようになっているので、まだしもである。乗る前には、並んでいる人たちの中に苦手な小さな子供や赤ん坊がいるかいなかの点検をかならずやり、子供や赤ちゃんと同じ車両には乗ろうとしない。それから、席があいていても親には譲ってくれない。多分譲るということが分らないようである。それから、席があいていても、隣同士にはまず座らない、少し離れたところにいる。隣に座るといろんなことを禁止されたりするので座らないのだろう、というのが同じ自閉症の子供がいるお母さんからこないだ聞かされた解釈である。そこは、おなじ車両も嫌がるらしい。わが家の場合は、近頃は注文をつけることはまずないので、多分子供のときにあれこれ言われたのが、どこかに残っているかして、いやなのだろう。
 梅田の駅で乗り換えて、鈍行でひとつ行けば、後は歩いて5分程度である。彼の場合は、おばあちゃんの訪問より、その後の鍼灸院に行くのが楽しみらしい。おばあちゃん通いの始まる前からそこの近くにある鍼灸院は保険が利くからというので、すでに何度も通って何度も経験済みの場所である。
 おばあちゃんは元気だと、息子と孫が来たことが分るので、ニコニコしてくれるが、後の話はほとんどできない。だいぶ耳も遠くなったので、女性の声の方が分りやすいので、つい通訳をしてもらうことになったりするからである。
 今回はこちらに用事があったので、息子とガイド・ヘルパーさんという組み合わせになったが、催促する者がいないとずいぶん出発までに時間がかかる。予定の電車に乗れたかどうか後で確認はしなかったが、今度は妹がずっといる日だったので遅れても差支えがなかったのである。
 次回は、まただいぶヤキモキしなければならないだろう。




   ただ今CD制作中
2004年11月上旬


 たぶん夏休みのころだったと思うが、ギターの先生の北口功さんから、これまで何年もかけて練習してきた北口さんと和生との二重奏の曲をCDにしてみたらどうだろう、という話があった。だいたいお金の計算までしてくださったので、予算がどの程度かの見当もつくし、あまりかからないようにいろいろ考えてくださっているので、妻と相談の上やってみようかということになった。
 それで、先月の中旬茨城県のつくば市の近くの、といってもバスもないような辺鄙なところにある「ギター文化館」という建物で、録音をすることになった。ここはギターをやっている人ならたいていは知っている場所だが、知らない人のために少し説明をしておくと、畑の真ん中にあって車でないといけないところにある、ギターの演奏専用に作られた日本で唯一の建物で、世界中のギターの名器の展示場でもある。よくギターの演奏会が開かれるし、北口さんも年に数回は演奏会をやっておられるようである。ギター専用の建物なので、ここで演奏をすると反響が自分の耳に心地よく返ってくるので、ギタリストは実に気持ちよく演奏ができるとは、北口さんから聞かされた話である。
 息子の和生は、たしか話がきまった8月ごろから練習を開始し、かなり長いあいだ反復練習を繰り返していた。彼もやはり目的が明確なときには、練習に熱が入る。ばくぜんとした練習とは違ってくる。10月のなかばのたしか水曜日の昼ごろ妻と一緒にでかけ、筆者は仕事があるので留守番せざるをえなかった。その日の夕方練習し、翌日朝の8時から夕方の6時まで録音が行われて、終了した。もちろん途中適度に休憩しながらである。その日には和生の面倒をよく見てくださる美苗さんもかけつけてくれたそうである。近くに住んでおられる北口さんのギターのお弟子さんの大山さんご夫妻が機械をもっておられるので録音してくださることになっていたが、丸一日の付き合いは大変なことだったにちがいない。和生も相当疲労していたけれど、最後までやり遂げた。やはり好きなことだと違う、というのが妻の言である。
 帰宅後たしか一週間たって、レッスンに行った和生が最初の2曲分だけ原版に入る曲を持って帰ってきたので聴いたが、音がよく響いていたので驚いた。さらに一週間後に全6曲分を持ち帰ってきたが、彼がこれまで弾いたり歌ったりした曲では最高の出来ばえだと思った。先生との二重奏だから、彼としても一生懸命だったに違いない。しかし、残念ながらやはり生来のぶきっちょさから来るものなのか、集中力の持続ができないからなのか、いくらかたるんでしまうところかあるのは、いつもの通りである。
 そして、二日前の月曜日にいつもお世話になっている岡田デザインさんへ、北口さん、美苗さんとわが家とが押しかけて、印刷関係の相談である。まだ大まかなことしか決められなかったが、それでもだいたいの方向づけはできた。残るのはどうやって売るかだが、今度は相談に乗ってくださるところがあるので、なんとかしてもらえるかもしれない。わが家ではもうすでに原版のコピーを楽しんでいるが、きちんと出来上がって存分に楽しめるようになるのも、そう遠くではなさそうである。




   二度目の師走
2004年12月上旬


 二度目の師走というのは、もちろんこのホームページが始まって以来の話ではなく、この「折々の記」という管理人さんのおかげでタイトルのついた部分が始まって以来二度目の師走だという意味である。
 だれもが特に年末になると言うのは、時のたつのが速いということだが、そんなことも感じないではないが、教師稼業がだんだん忙しくなって、なかなか冬休みになってくれないし、休みに入れば入ったで、秋からの学生の提出物をなんとか片付けて、一月末頃の採点表の提出日になんとか間に合うよう日取りの計算を始めなければならなくなる。どうもセメスター制というアメリカやヨーロッパ型の一年を半分ずつで計算して単位を出すやり方に変わってから授業日数も増えたようだし、授業にももっと力を入れろなどということになったため、いろいろ気ぜわしいことばかりである。今年の二度目の師走は確かに昨年よりあわただしくなっている。
 かといって、年を取るにつれて時間の経過する速度がスピードアップしているらしいと、やはり感じないわけにはいかない。もっともスピードアップするのなら勝手にスピードアップしろとも思っているが、だんだん年もとってくるし、さてこれからどうなることやらという心配もないこともない。まあ定年まで少しは時間があるので、まだそれほど深刻になっていないということらしい。息子が障害児だから、親元を離れていく気づかいはないので、子供が離れていく寂しさは感じなくていいのだが、いつまでも傍にいてくれるのを良しとするのなら、愚痴を言ってもはじまらないのだが、あまり代わり映えしないのもどうかいな、といった感じである。
 といってまるで何も変化していないわけではなく、息子は相変わらずギターとピアノの先生のところに通っていて、それなりに進歩はしてはいるのだが、相変わらず彼は彼のペースでやっているのを、もう少しなんとかならないものかと感じたりするのも、もうすぐでまた一年が経過することのあせりのようなものかもしれない。
 そう言えば、11月にはなんやかや合わせれば三つもコンサートがあって、息子はやはりこれも仕事のうちだから、仕事があればそれなりに張り切っていた。帳尻があわない感じがするのは、この文章を書いている当人が、出不精やら仕事やらの都合で一向に出かけないからだと、今書きながら思い当たった。現場にいなくて、妻から報告を聞いては、ここの文章を書いているだけだから、やはり現実感にとぼしくなるのは、当然の事態であった。それにそもそも自分で始めたこととは言いながら、定期的に文章を書くのも気ぜわしい時期には少し負担である。休めばよさそうなものだが、半ば習慣化してきたので、休むと気がとがめそうな感じになるのではと思い、いつもながらたいした話題もないのに、繰言を述べている。
 先週まで、来年の二月には出す予定の先生とのギター二重奏のCDのことも、なんやかやいいながら多少いざこざが生じたりもしたが、いつもお世話になっている二瓶社の吉田三郎さんが救世主になってくださり、発売のみならず、発行も引き受けてくださるとのことなので、やれやれである。しかし本屋さんがCDのみを売るわけにはいかない。本屋から出すものは本が中心でCDは付属物という形にしなければならないので、いろいろ知恵をしぼってくださって、先週末には関係者が集まり、一応の方向づけができたので、なんとか予定通りに事は進むだろうと思う。気ぜわしい師走に入って早々大事なことがひとつ片付いたので、まずは「めでたし」ということになりそうである。