明日は明日の風が吹く   ---CD刊行にむけて---
2002年1月


 先日、ギターの新しいCD刊行の打ち合わせのために、関係者が集まったとき、立案者としては、どんな意図で今度のCDを刊行するのかを明らかにしておいてほしいという意見が出た。当方としては、親の立場では「ここまで来ました」ということを、一般の人たち、特に自閉症関係の人たちに報告することが第一義で、それ以外は二義的なものでしかないという旨の返答をした。それで、一応はご理解いただけたようだが、なにしろひとつの言葉に万感をこめるような言い方をしたので、当方の思いが一方通行になっている恐れなしとしないので、もう少し分析的に書いてみる。
 「ここまで来ました」というのは、自閉症という厄介な障害をかかえた息子と長年のつきあいをし、ギタリストと呼ぶのは少しおこがましいにしても、わが家の「自閉症のギタリスト」は、以前と比べてこれだけ成長しましたというのが、もちろん文字どおりの意味である。そして、息子の先生がたはとっくにお気づきのことだし、親が言うのも変な話だが、息子のギターの音色には不思議な魅力がある。そして、この音色は、心の慰藉となるようなものだと思っている。親にとっても慰めであるようなものなら、それをなるだけ多くの人たちに知ってもらうことは、社会的にも十分に意義あることだと考える。
 息子は、全体として見れば、精神年齢はおそらく五歳くらいのものだろう。知能はまだ発達を続けているが、一生幼さからは抜け出すことができないだろう。息子の場合は、比較的よくなったとは言え、自閉症とはそんな障害だからである。しかし、この障害を否定的にのみとらえることは、正確な把握の仕方ではない。子どもは自然に近いとよく言われる。人工的なものを作りだすもとである知能の発達が不十分だからである。しかし、子どもはそれなりにパーフェクトな存在であり、怪しげな知恵をつけた大人よりよほどすぐれた人間である。
 おそらく息子のギターの音色の特色を形作っているのは、子どもであり続けることを強いる障害自体にそなわっている純粋無垢な性質と息子のもっている性格とが合体したものである。専門家であられる先生がたは、専門家であるため、技術的な未熟さが気にかかって仕方がなさそうである。筆者だとて、やはり気にならなくはないが、そういう場合は、素人の強みで短所よりも長所のほうだけ見ていればいいと思っている。
 CDには、クラシックだけでなくポピュラーな曲もかなり入れたいと思っている。なるだけ幅広い層の人たちに受けいれてもらいたいからである。そうなれば、息子が暮らしの糧をいくぶんなりともえられる可能性が増えるかもしれないと考えているのは、言うまでもない。息子は、現在三一歳、今年の八月で三二歳になる。そのぶん親も年をとってしまったということ、これまた言うまでもない。最後に、妻の口癖を書いておく、「ダメモト」である。よく使われる言葉だが、わが家は息子のことに関しては、たいていこれでやってきた。いいと思うことは、ともかくやってみた、「ダメモト」だからである。明日にはなにが起きるか分からないにしても、確実に明日は明日の風が吹く。良い風が吹くと信じること、多分それが生きるということなのである。




   近頃の和生---和生と白いご飯---
2002年8月


 前の文章「明日は明日の風が吹く」を受けて、事後報告を書くべきなのだろうが、一年ほど前から、わが家が、というよりより正確には妻が息子のために悩まされてきて、今なお続いている事がらを、まず書いておきたい。息子は、昔からパンが嫌いである。どうもこれは生来のものらしく、幼稚園とのときから嫌いらしい。食パンは食べない子でも、菓子パンなら食べるというのは良くある例だが、息子は菓子パンもだめで食べない。この系統では、ケーキならたとえばイチゴが上にのっているようなのなら食べることもあるが、イチゴがすっぱいと言って嫌がることもある。かなり偏食のきつい自閉症である。
 食べ物の検査は、まずそのものの「におい」を嗅ぐことからはじまる。このことは昔からしみじみと思い知らされていることで、これまで以上の異変はないものと思っていたが、昨年の六月ごろから、白いご飯がくさいと言い出したのである。これには困った。適当な代用食品がないからである。ご飯といっても、たとえばカレーライスなら食べるし、炊き込みご飯も食べるし、どんぶり物も食べる。白いご飯がターゲットになっているのである。どうも白いご飯の「におい」に抵抗をおぼえるようになったらしい。それにそのしばらく前から、朝ご飯は、焼きおにぎりということになっていて、これも醤油で色つき匂いつきになっているのだが、こちらも臭いといって食べないことがしばしばある。表面だけの色つき匂いつきだから、中のご飯の「におい」がどうしても気になるらしい。といってその同じおにぎりの「におい」を嗅いでみても、臭いと感じる人はまずいないだろう。この事情は白いご飯の場合も、同様である。
 白いご飯を食べなければ、ご飯とおかずの組み合わせのときには、おかずしか食べない。とうぜんカロリ―不足になると思い妻は、フライド・ポテトをご飯がわりにすることにした。そこまでは良かったのだが、三ヶ月で10キロ以上息子の体重が増えてしまった。そのうち血液検査をやることになったら、内蔵に脂肪がたまっているといわれた。それまでは細かったのが太めになったので、外見上は見栄えが良くなりはしたが、内蔵に脂肪がたまるようではいたしかたない。フライド・ポテトは取りやめとなった。
 どうもご飯というのは、長いあいだかかって訓練をつんできていることでもあり、日本人の腹持ちにはやはり最適の食べ物なのだろう。ジャガイモではフライにしてあっても、おなかがすくようだし、息子は宵っ張りだからなおさらだろう。お菓子の量もかなり増えたようなので、こちらも制限せざるをえなくなった。そんなこんなで3キロか4キロは減ったので、まずは一安心ということになったが、これからどういうことになっていくのか、見当がつかない。それに三ヶ月くらいで10キロ以上も増えれば、体の使い方にも多少の不自由が出てくるのか、たぶんそのことも原因の一つとなっているようで、CDを作る計画でいるのに、半年ほど前から家ではほとんど練習しなくなり、これでは時期を延期せざるをえなくなるのでは、とつい最近まで思っていたほどである。そのあたりの事情については、次回の報告に書くつもりである。




   あまり元気じゃないけれど   ---CD刊行へ向けて(2)---
2002年9月下旬


 年内にCDを出すことになったいきさつについては、以前に書いた。しかし、今年の初めにあの文章(「明日は明日の風が吹く」)を書いたときには、まだ全曲がギターのCDになるものだと思っていた。
 ところが、プロデューサーの松井望さん(この方は、和生のピアノの先生であり、作曲の先生であり、かつまた先のCD「イナラカワ」のプロデューサーでもある)は、だいぶ違った展開を考えられるようになっていて、今年の二月の集まりでは、歌と作曲を中心にして考えてみませんかという、提案が出てきた。
 そう言えば、「いのち・なかま・みらい」Part IIのプログラムを考えたときにも、ギターの先生の北口功さんともう一人の共演者押尾コータローさんとの二人で、ずいぶん歌のレパートリーを増やしていたので、一応「自閉症のギタリスト」ということになっているにしては、歌が多すぎるのではと主張し、少し減らしてもらったこともあった。
 考えてみれば、ギターを弾いているときより、歌を歌っているときのほうが、彼は楽しそうですね、と何度か言われたことがあったことも思い出したし、最初の曲らしい曲を仕上げたころから、無機的な感じだったピアノの音も、ずいぶん響きがよくなって、松井さんに言われるまでもなく、こちらも今度はCDに入れられると思ってはいた。そこをさらに一歩先に進めて、歌と作曲までと話が展開するには、やはり教えている人にしか出来ない発想である。作曲は、出来上がっているのは二曲のみだから、少なくともあと一曲は必要である。松井さんはできれば、もう二曲と考えておられたようだが、こればかりはやってみなければわからない。しかし少なくとももう一曲はふやせるので、以上のような提案となったわけである。それと、和生はもう単なる「自閉症のギタリスト」という枠のなかにおさまりきれなくなっていて、むしろ「自閉症のミュージシャン」と言ったほうが、適切だと思うとのことだった。おっしゃる通りである。その線でやりましょうということになった。ところが前回の「和生と白いご飯」に書いたように、白いご飯がたべられなくなって、いろいろ支障が出ている上に、和生にCDを作るとはどういうことかという意識の目覚めが、彼自身にかなりな圧力になっているらしい。それに自閉症にはつらい壁である新しいことにも挑戦せざるをえない立場に置かれ、彼も緊張せざるをえない状態が今年の三月から続いている。「あまり元気じゃないけれど」本人も喜んでやっていることなので、十一月初めの録音のときまでは、家族三人なんとか耐えるよりいたし方がなさそうである。十月の初めになると、仮の録音をやるらしいので、そのプログラムを載せておく。もちろん、この録音のあとで正式なプログラムが決まることになる。

1. アストゥリアス
2. 月 光
3. 禁じられた遊び
4. ジムノペディI
5. ジムノペディII
6. ジムノペディIII
7. 猫のミミ 逃げたり走ったり
8. 寝てるチーコ
9. ねえ、お母さん、あのね
10. いとしのエリー
11. I need to be in Love
12. Happy X’mas-戦争は終わった
13. イマジン
14. ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード
15. スタンド・バイ・ミー
G ソロ
G ソロ
G ソロ
P ソロ
P ソロ
P ソロ
P ソロ (オリジナル)
P ソロ (オリジナル)
Vocal+G (オリジナル)
Vocal+G
Vocal+G+オケ
Vocal+Chorus+オケ
Vocal+P
Vocal+P+オケ
Vocal+ピアノ(Renica)


なお、CDの発売の予定は十一月末。CD発売記念コンサートは、十二月二十四日 (火)の予定です。




   コンサート"words"が終わって
2003年1月1日


 2002年12月24日(火)が終わった後、たぶん正月の松の内くらいまでは、我が家は全員が放心状態だろう。すこし大げさに聞こえるかもしれないが、実際今も放心という状態に近い。
 タイトルはともかく、CDを出そうということになったのは、すでに書いたように一月のことである。最初はメインがギターで、後ピアノの曲が和生の作曲したのも含めて何曲か入るだろうという程度のことしか考えていなかった。ところがギターやピアノ曲も入るが、作曲と歌が中心になることになってしまった。そこらあたりまでは、家族全員が心理的に座り心地が悪くなるなどとは、みじんも考えていなかつた。
 ところが、CDへ向けての練習が始まってみると、息子の状態に変化が生じた。今風の新しいアレンジの曲が入っていたりなどという、息子にとってたくさんの新しいことを練習のためにやらなければならなくなってしまったからである。そのためにエネルギーを吸い取られた彼は、レッスンの時以外は楽器に触ることはもちろん、歌うことも含めて、家での練習ができなくなってしまった。長くて一二ヶ月もすれば慣れるだろうと考えていたが、とんでもない話で、ストレスが、胃のほうにくるようになって、吐き気がひんぱんになったり、元来頭痛持ちなのが、そのほうもひどくなった。それでしょっちゅう病院通いが続くことになる。家での練習が消えたので、十一月初めの録音のことを考慮にいれれば、その日が近づくにつれて特訓が多くなる。
 もちろん特訓が増えれば金銭的な負担も大きくなる上、本人の胃の状態についての心配も増える。家に病人がいれば、家の中が暗くなるというが、そこまでではないにしても、なんとなくいくらか暗雲が垂れこめているという感じはいなめない。とは言っても、前回に書いたように「あまり元気じゃないけれど」本人は、やはりレッスンを受けること自体を拒絶するほどではなく、やはり新しいことへの挑戦が楽しいという面もあるようだった。それがなければ、病気になるだけだったかもしれない。
 しかし、十一月初旬の録音後、さらにコンサートまでの特訓が言われたが、こちらの方は断った。これまでの例で、彼はコンサートの日から逆算して自分で調整ができるからである。
 その後も、ハッピー・クリスマスの歌が入るので、コンサートはクリスマス前後がいいのではという提案が出、それで探してみるとクリスマス・イブの日だけが、不思議と空いていた。だいたい遅くに探して空いていたのは、連休が終わった直後の平日だったからである。道理で、お客さんの申し込みがなかなか伸びず、ずいぶんやきもきさせられた。しかし、かろうじて格好がつくくらいの方々が集まってくださった。ご来場の方々本当にありがとうございました。おかげさまで、コンサートは成功だったといってもまったく不都合なところはないでしょう。
 ご協力をいただいた多くの方たちにお礼を申し上げなければはなりませんが、堺と高槻の18人の女子小中学校生たちに、遅くまで残って「ハッピー・クリスマス」を盛り上げてくださったことに、特に厚くお礼もうしあげます。
 和生は、ともかく一ヶ月ほど音楽から離れ、休養しているのが良さそうです。




   和生三十三歳、 青年時代もそろそろ終わり
2003年7月初旬


 あと一月ほどもすると、息子の和生は三十三歳になる。二十歳のときに最初のCD「イナラカワ」を出した。それも残りが少なくなってきたので、今度は三十歳になったら、新しいのを出そうということは、かなり早くから決めていたが、まわりの先生方になにもあわてる必要はないと言われて、延び延びになっていた。しかしなんとか準備もととのい、昨年末まだ三十二歳のあいだに、「words」を出すことができた。
 今から思うと先生方の心配はたいてい和生の技術面にあったようである。やはりプロとしては、つたない技術のCDは出させたくないという気持ちが強かったのだろう。それはそれでもっともなことなのだが、結果的には出来上がったCDは、われわれ親たちにとっては不満なものだった。確かに技術的には、なるだけきれいに仕上がってはいるが、そんな風に仕上げるために、和生らしい音楽がかなり減殺されてしまっているのは、いただけないという感じがする。知り合いにはたいていそんな前宣伝にもならないようなことを言いながらだいぶ買ってもらったが、おおかたの人からは話に聞いたほど悪くはないという返答が返ってくる。
 たしかに一応はおおせの通りで、和生にしてはきれいにまとまった感じになってはいるが、和生らしさが欠けているという点を指摘してくださる方もいるので、まんざら親サイドの一方的な感想ではなさそうである。ピアノと歌とに比重がかかっているので、ギター演奏のみの前回のCDと安易に比べられない面はあるということは、もちろん承知で言っているのである。
 私個人に関して言えば、それはこういうことである。「イナラカワ」は、出るとすぐに、勤務先の研究室に持っていって、出かけるのは三日のみだが、休憩時間にはたいてい聞いていた。親バカを承知でいうのだが、すぐあきるだろうと思っていたのに、なんとこれがまる二年も続いたのである。息子のCD以外で置いてあるギターのCDは、みんなプロのものだが、速いので一二週間、長くてもせいぜい二ヶ月もすれば飽きてくる。二ヶ月ももつのは、いわゆる世界的に名の知られたギタリストで、やはり独自の魅力が音自体にあるので、長く聞いていられるのだろう。それも、たいていは昔の名人で、近頃の人のは少しは聞いているがよくは知らない。しかし、飽きの来るのが速いのは、どうもこちららしい。
 ところが、息子はこれらのプロの名人たちと比べれは、比較うんぬん以前の技術水準である。だから、テクニックと音の魅力とが重なって聞いていられる状態が続くと言うことにはなっていないわけで、ただ彼の出す音の魅力のみに惹かれて聞きつづけていたということになりそうである。そして、彼の音の魅力は、以前にも言ったことだが、彼の自閉症という障害が彼に強制的に出させている部分と、彼の性格とか気質とかといわれるものとの混合物だということになりそうである。だから、普通の人間と比べれば、一風変わった魅力が音そのものに含まれていて、そのためCDデッキに載せたままの状態が二年も続いたのだと思う。

   今回も同じように、研究室に持っていきはしたが、最初のうちはあまり聞きたいという感じがなかった。しかしやはり何度か聞いていれば、やはり音の魅力は感じられるので、なるだけ聞くように努めたが、努力しても半年で、今はほかのCDに変わっている。やはり、ぬらりくらりと一見だらしなさそうに弾いている感じがないと、つまり彼が彼なりに自由にのんびり弾いている感じでないと、彼の音楽らしくはない、ということになりそうである。ともかく、毎日の練習を聞く機会の一番多い親どもが二人して言っているのだから、まず間違いはないと思う。こないだも、大阪の佐野養護学校で、障害児たちとお母さんたちの前で演奏の機会があったが、後日ビデオを送ってくださった河上祐武先生からの手紙ではでは、「癒された」と言ってくださった親御さんがいて、演奏については、それに尽きると思います、という感想を付け加えてくださっていた。「癒された」の内容には、多分いくらかの相違はあるにせよ、たぶん和生の音楽は一言でいってしまうと、そういう類のものだということになりそうだということにしておいて、間違いはなさそうである。
 それにしても、もう三十三にもなるのに定収入はないに等しい状態が相変わらず続いているのだから、三十になるまでは、いくらか不安な思いのすることもたびだびだったが、いまさら他の仕事を探しても、慣れるのに時間がかかりそうだし、知的障害者の就職にはトラブルがつきものらしいので、三十歳の時点で腹をくくった。なるようにしかならないわけだし、なんとかなっていくはずだと思い決めることにした。それに、音楽でいくばくかの収入を得られる可能性もゼロではない。収入の可能性がゼロではない趣味だと、こちらが考えていれば、暗黙のうちに息子にかけているだろう精神的プレッシャーはほとんどなくなるのでは、と思っている。そうなれば、息子も気楽でいられるだろう。
 しかし、やはり三十歳は誰もが思うように、人生の一つの大事なターニング・ポイントで、それに合わせてCDも出すべきだったと今になれば考える。プロデューサーには、それなりの考えがあっての上でのCD制作も、やはり親サイドに不満が残るようでは、親の励みにはならない。おまけに時間をずらしたために、もうすぐ三十三になるのでは、すぐに三十五の中年という年代に手が届いてしまう。そんなことは計算しなくとも分かることだが、三十歳で出しても不満が残るのだとすれば、早く不満を感じるほうがよかったと思うが、帰らぬことである。親たちも三年前には、今よりだいぶ元気で、まだしも体力が残っていたからである。
 とうとう愚痴になってしまったが、息子は息子なりに、親たちは親たちなりに、できるかぎり良い時間がもてれば、と願いつつ筆を置くことにします。この文章を読んでくださったかたがたも、自らの意志で良い時間を選びとってくださればと願っています。




   とうとう九月
2003年9月1日


 八月が夏休みの人にとってはだれもそうだろうが、八月は時間のたつのが速い。まとまった時間があるのだから、なにかをやろうと思うのだが、まあまだ一月あるしなどと言い訳を言ってのんびり構えていると、もうお盆だなどということになる。筆者の父親が五年前になくなったので、やはり墓参りには行かなくてはなるまいということになるし、来年の七回忌までは父親のいた大阪の寺でやろうと思うから、お寺との顔つなぎで、お盆の法要をやってもらおうとすれば、その大阪のお寺まで出かけなければならない。これで、二日つぶれる。お盆は日本中が休みだから、のんびりした気分になっていいなどと言っていようものなら、もう二十日である。これはまずいと思って、やろうと思う仕事に多少なりとも手をつけたところで、気がつけば九月である。このごろは九月も二十日ごろまで休みだが、九月になれば仕事仕事と実際にやっているかいなかはともかく、感じだけはそういうことになってしまう。なんとなく気ぜわしくなるのである。
 そこへいくと、息子の和生は悠然たるものである。だいたい普段から定職などというものがないのだから、別段早起きしたりしてあわててどこかへ出かけなければならない、などということはほとんどない。夏休みになってもあまり変りがなさそうなものだが、父親は仕事に出かけなくなってしまうし、キャンプなどという普段はない遊び時間があったりするので、よけいなんか本来の面目のようにまことに悠々然然となってしまう。三年ほど前までは、ということは三十になるころまではという意味だが、本当になにもやらずゴロゴロしていた。
 中学までは、毎日のように学校に行っていて、それ夏休みだということになると、あの頃まではキャンプが山とあって、その合間はひたすらゴロゴロしていたので、和生の夏休みといえば、キャンプかゴロゴロかのどちらかに決まっていた。親の方は、彼が留守してくれると四六時中彼のことが頭のどこかに引っかかっていたのが外れるので、これはまことに極楽にでも行った感じになって、どこにも旅行などしなくでも、極楽旅行という金も手間もかからない旅行ができるのだから、これほど有難いことはない。極楽旅行がだいぶ長く続いたので、考えてみれば夏休みに旅行したのはいつだったか、憶えていないほどである。息子が二十五歳で、ゴロゴロ中に最初のCD「イナラカワ」を作ったのだから、今から考えると、そうとうムチャな話だった。
 三十をすぎても、やはり八月はゆったり構えているのが好きだから、ゆったり構えて普段よりもゴロゴロが増えるのに変化はないが、近頃はギターとピアノの練習をするようになった。昨日母親に言ったそうだが、「うんとたいくつにならないと、作曲しない」のだそうである。これも八月末日の話だから、多分やはり彼も心のどこかで、父親と同じようにやはり八月でもなにかやらなければならないのではないか、と思い出した証拠ではないかと思う。ただし、楽譜一ページ分だけで、「続きはまた今度」だそうだから、いつのことだか分からないが、多少なりとも父親と同じような心理状態になっているのなら、ひょっとしてやはり九月になるのだから仕事をしなければ、と思うようになっていて、意外と続きが早いかもしれない。




   食欲の秋、しかしわが家は・・・
2003年10月


 九月になっても暑い日が続いていて往生したが、さすがは十月で、だいぶ秋らしくなってきた。暑さのせいか、あまり体調が良くなく、庭仕事も水やりと草引きくらいでお茶をにごしていたが、まあ、もう少し涼しくなれば、庭の松の木の手入れもしてやらなければならない。毎年手のかかる松の木だけは庭師に任せると言いながら、その時期が来るとなんとなく自分でやらなければという気になってしまう。もうとっくに六十は越しているし、日ごろ運動らしい運動などやっていないので、例えば二三日で仕事をすませてしまえば、今度は二三日寝ていなければならなくなるので、のんびり一月から二月かけてぼつぼつやるしかない。気の長い話である。もちろん三メートルは越しているが、それほどの大木ではない。大木ならはやばやと手入れはあきらめていただろう。
 庭仕事は筆者の仕事だが、妻の仕事である食事づくりは、このところだいぶ打撃を受けている。息子の偏食がひどくなってきたからである。三年数ヶ月前に突如として「白いご飯」はくさいから嫌だといって食べなくなってしまった。「炊きこみご飯」だと食べるので、仕方がないから時々やっていたようだが、それも和生のほうはだいぶ飽きてきているらしい。ほかにも丼ものなどだと一応食べるし、カレーライスだけは相変わらすまず間違いはない。それに、最初のうちは多くは昼飯時のことだったが、「くさい」と言えば、お金を与えてどこかで食べさせるしか手はない。準備していたものの他にすぐに替わりになるようなものはないことが多いからである。それにインスタント食品やレトルト食品は、子供のときの偏食でもう見るのも嫌というほど食べたので、ほんとうに見向きもしない。「チキンラーメン」だけは、どういうわけだか食べるが、これももちろん毎日というわけにはいかない。一番困るのは、前回食べた同じようなものでも、今回は「くさい」ということがしょっちゅうなので、どうにも手の施しようがない。
 おまけに、しばらく以前から、妻の体調もあって週に一回くらいは、夜のおかずを人に作ってもらうことになった。ところが、こちらも裏目になりつつある。長年食べなれた「オフクロの味」とは違っていても、まあおいしければ食べるのだが、味付けにどうしても差があるのが影響しているようで、時には母親の作ったものまで食べない。すると、晩御飯も外食になってしまう。この外食というのは白いご飯抜きのおかずだけの外食か、麺類とかといったものになる。こういう状態が昼御飯だけのときから通算すれば、相当の期間続いているので、外食も嫌がるときが出てくる。外食の食べるものの種類などたかがしれているから当然である。筆者も大学のときは東京にいて、よく外食だったので、そうなりそうなのは読めていたが、読みが当ってしまった。妻は自分の作ったものが、拒絶ばかりされるので、近頃はカンシャクが起こり息子に嫌味を言う。息子もそれを嫌がるから、なるだけ言わないようにしているようだが、つい怒りたくなって当然である。息子の「くさい」には、本当に「くさい」のと、食べたくない口実に「くさい」で逃げているところもあるようだからである。それで、外食ですら嫌がるときも出てきたので放置しておくほかないこともある。そうなれば、食事ぬきということになる。ただそうなると、おなかがすきやすくなるとみえて、夜中になにかオヤツだとかオツマミのようなものを食べているらしい。それと、食事の取れない老人向けの液体の栄養食品のようなものを、医者から出してもらってあるので、それを飲んで置けばまあ栄養失調にはならないということは教えこんである。食事抜きのときには栄養食品、と本人も思っている。だいたいがETみたいな人間だから、宇宙食のようなものの方が似合っているのかもしれない。これから、どうなるのかと思うが、なるようにしかならないことだけは、確かである。はたで見ている筆者にも相当シンドイ話だから、妻にはもっとシンドイだろう。
 わが家の宇宙人は、筆者がこの手の文章を書いているときは、不思議と作曲している。先月、半年ぶりくらいに少しだけ書いた「花火」という曲は一応できあがったようだが、まだ先生との相談づくで、今最後の仕上げの段階らしい。タイトルが決まらないと作曲できないようで、妻があれこれタイトルになりそうな名詞の類をあげたそうだが、なかなかやる気の出そうなタイトルに出会えなかった。八月に、富田林に花火を見に行って、やっと「花火」という曲を作る気になったようである。いつ完成するものやら、さっぱり分からないが、あまり遠くでもなさそうである。




   病気やら音楽会やら・・・
2003年11月初旬


 胃腸科の病院にはもう二十年以上もかかっている。もちろん別に自慢の種になるような話ではない。ただ、四十過ぎに胃潰瘍になり、なかなか治らず三ヶ月間も入院して以来、ずっと胃腸科にはかかりきりで、随分薬は呑んだが、これはある意味で仕方のないことらしい。ストレスに弱い人間は、潰瘍がぶり返すので、仕事をやめるまで、つまり通常なら六十歳くらいまで薬を呑み続けることになるはずだと言われたが、その通りになり六十を過ぎてもまだ当方は定年にはならないので、相変わらず薬を呑み、年に一回は胃カメラをやっている。
 一病息災とかというやつで、このまま行くものかと思っていたが、加齢にともない病気は出てくるというもう一つの原則もわが身に当てはまることになり、一ヶ月ほど前から、別の病気の治療も受けてきた。ところが、こちらの方は少々厄介な病気で、治療もいわゆる荒療治というものになってしまったので、患者としてはつらくて仕方がない。金曜に治療を受けると土日くらいまで、影響が出て「シンドイ」の連発の上、ため息ばかりついていた。しばらく以前に、嫌なことがあったとき、息子にお父さんがため息ばかりつくのは嫌だといわれて、ため息をつかないようにしていたことがあったが、ご当人も結構ため息をついているということを本人自身が自覚してから、あまり言わなくなった。その当時なら、毎日文句を言われ続けることになっていただろう。
 しかし、一ヶ月以上にわたるその治療もとうとう一応終わりとなり、二週間ほどは病院に行かなくてよいので一応やれやれである。ただし、先の検査でまたひっかかるようだと、もう一度つらい目にあうことになるかもしれない。そんなことを考えていたら、息子が妻の指令でだろう、十二月七日のコンサートに使う曲の練習を始めた。それで、後一ヶ月ほどすれば、大阪の「とっておきの芸術祭」に息子が出演することになっていたのを思い出した。おまけに、筆者も演奏中の司会をやらなくてはならないのである。時間は三十分なので、こちらが仮に加療中でも、たいして負担にはなるまい。自閉症についてにわか仕込みの知識しかないアナウンサーなんかだと、トンチンカンもはなはだしいことになってしまうので、こちらから買って出たのである。今年はそれがすまないと年が越せないと思っていたのに、病気でひどい目に会っていたので忘れていた。司会はゆきあたりばったりと決めているから、当日になるまで一切そのことについては考えない。当方の精神衛生法である。その前にこれは三曲ほど弾くだけだが、泉佐野の音楽会にも出ることになっている。
 そうそう、息子の作曲の「花火」も片がつき、調子付いたようで、その後妻系統のおばさんやらおじさんのことを音楽にしているらしい。できばえはいいのだかどうだか、よくは分からない。勢いづいてやっていることは、確かである。




   年の瀬
2003年12月初旬


 柄にもなく「年の瀬」などという文章を書こうとするのは、今年は多少安堵するところがあったからである。去年までの三年間は、稼業の教師業に不可欠の学術論文がまったく書けなかったが、今年は曲がりなりにも半分なりとも書けたからかもしれない。去年までも別段なまけていたわけではない。なんとなく体調が良くなく、いつも疲労しているような感じで、たとえば夏休みで休養が十分に取れているはずなのに、仕事をしようとすると、ある程度の力が必要になるのだが、その力がどうしてもふるいおこせないという状態が三年間続いていたのである。医者に訴えても、血液検査をすませて異状がなければ、後は「気力の問題ですな」ということになってしまう。こちらとしては、別に気力がそがれるようなことがあったわけでもないのに、やはりシンドイのはシンドイのである。だから、わざわざ出かけているのに、これではまったく頼りにならない。
 年のせいかとも思ってみたりしていたが、長すぎるしちょっとひどすぎるので、四月ごろ、十年ほど前に腰痛で世話になった鍼灸院に行ってみた。たしかに、週に一回、二ヵ月半ほど通って、効果があった。それまでの三年間、やっとの思いで夏休みに滑りこんでいたのが、今年は多少なりとも体力の余裕があったからである。だから、なんとか半分ほど、縁のない人からすれば意味不明だろう「デカルトの形而上学」という論文を、九月の半ばまでに予定の半分ほど書き上げた。残りは学校が始まってから、十月の半ばごろまでに書きあげるだけだと思っていた矢先に、先月書いた病気の宣告である。
 間違えると大変なことにもなりかねない病気だったし、治療が荒療治だったので、原稿のほうはやる気もなくなるし、治療の副作用で書く体力も失われて、あえなく頓挫。ともかく半分でも紀要に載せてしまえば、気が変わって一からやりなおしたりすることにならないように、書き上げた分は担当者に渡してしまった。原稿は中途はんぱなことになってしまったが、ともかく三年間の身体の不調の原因がはっきりしたし、残るところは治療の成果があがるかいなかのみである。有難いことに四週間ほど以前に終わった治療の成果は、おおむねは、医者に読み取れたらしく、安心していい、と先週言われた。検査はその日だから、結果がわかっていないにもかかわらずである。こちらも、おおむね、医者の言うことを信用することにして、安心することにした。安心していいだろう、と判断したからである。ただ、まだくつがえる可能性もなきにしもあらず、という条件がくっつくが。
 そして、十二月になったので、論文の原稿も半分は書けたことだし、「命なりけり」ということになり、その結果「年の瀬」といタイトルがつくことになった。こちらとしては、意味が通じるように書いたつもりだが、分からないかたがおられれば、当方の商売のせいで、分かりにくくなっているのだと、ご理解願いたい。
 そうそう息子のことも書いておかなければならない。本来これは彼のホームページで、当方は付け足しなのである。ただ、判で押したような生活をしているので、何か特別なことがなければ書く材料がない。しようことなく、当方のことで穴埋めをしているだけだか、息子もここ一年ほどはやや遠方の鍼灸院に通っている。そこは保険がきくからである。ただし彼は、以前はさほどいやがらなかったのに、近頃は鍼や灸は痛いとか熱いとかで敬遠している。だから、マッサージをしてもらって、残りの時間は自転車こぎの運動をしているらしい。「運動」というのも彼には理解できないことなので、治療の中に組みこんでしまえば、普段はやらないこともやる。
 昨日、大阪の南の和歌山県に近い、熊取町で、コンサートにゲスト出演ということで二曲演奏したが、割合好評だったというのが妻の話である。彼の髪をカットしてくれる若者が値段の高い皮のヴェストやら舞台衣装を貸してくれたのでカッコが良かったそうである。息子の障害のことなど分からなかっただろう子供たちは、そういう点では正直で、それを見て、CDをお母さんにねだって買ってもらい、おまけにサインまで要求されたそうである。十枚以上も売れたそうだから、これはもう皮のヴェストのせいであるに違いない。